【飯P】卵を割らねば 枝葉の向こうに見える空は、傾いた陽で少しずつ色を変じてきていた。
「ずいぶん静かだったな、今日は」
並んで歩く師弟を、やわらかい風が追い越していった。夜が近付くと、春先とはいえかすかに冷たさを感じる。昼の名残が徐々に陰りを見せる中、足音が静寂を塗り替えていく。
悟飯は答えられず、かわりにため息を逃がした。胸の裡にはたくさんの思いが渦巻いているのに、どれも言葉にはなってくれない。抱えている気持を伝えたいが、どのような表現ならば的確なのか、正しく伝わるのか、分からなかった。
「考え事か?」
穏やかな問いかけが、逆に悟飯をかき乱す。優しげな声音が今は、心を波立てるものとなっていた。
「……はい、ちょっと」
言葉を詰まらせるこの気持を、少し前までは、尊敬と畏怖であると感じていた。ところが気付けばそれは苦しく、時に手に負えないほどの恋情にすり変わっていた。はっきりとそれを認識した途端、ただ側にいることすら辛くなった。
かといって、十年近くも師弟としての距離感を保ってきたのだ。今さら別の関係を持ちたいと切り出して、今の関係が壊れてしまうことは恐ろしい。少年の他愛ない悩みではあったが、まだ年若い悟飯には重大な問題だった。
「ピッコロさんはいつも、物事に挑むのに後込んだりしませんよね……」
「なんの話だ?」
敵の子である自分を鍛えたこともそうだろう。将来驚異になるやもとは、思わなかったのだろうか。はじめて会う同族との同化や、先代神との融合などは尚更だ。何かが大きく変わってしまうことが、恐ろしくなかったのだろうか。
「僕は挑むことが、変えることが怖いから……ピッコロさんは、怖がらずに同化や融合だってやり遂げて、すごいなって」
俯いた悟飯の言葉に、暫くのあいだ返事はなかった。横顔に視線を感じたが、悟飯は顔を上げることができない。草を踏み分ける二人分の足音が、冬とは違う湿り気を帯びていた。
「……デンデが読んでいた地球の本にな」
木漏れ日はずいぶん薄れている。暗くなり始めた照葉樹林に、一輪草がひときわ白く咲いていた。
「卵を割らねば料理は作れない、とあった」
悟飯は思わず顔を上げる。まなざしがぶつかると、ピッコロはあくまで落ち着いた調子で続けた。
「お前はよく勉強しているから、この慣用句も知っているだろう? おれはただ、恐ろしくとも割らねばならなかっただけのことだ」
「ピッコロさんも……怖かったの?」
「同化も、融合も、恐怖心はあった」
あっさりと言ってのけ、ピッコロは目線を前方へ戻した。木立と草原の境目から、斜めに陽が射し込んできている。
「……怖くても、変えてきたんですね」
「だから今がある。お前が何を恐れているのかは分からんが……本当に変えたいと、変えることが必要だと感じたら、いずれ割るしかなくなる」
静かに頷いて、悟飯は言葉の意味を反芻する。自分はいったい、何を恐れているのだろうか。拒絶されて傷つくことか? これまでの関係が変わってしまうことか? けれどその恐れと、ずっとこのままの距離を取り続けること、本当に辛いのはどちらなのか……。
悟飯はそっと手を伸ばし、ピッコロの指先をとらえた。出会った頃は、まだ自分の手が小さすぎて、指を握るのが精一杯だったことを思い出す。けれど今は、手のひらをしっかりと重ねて、握りこむこともできる。
振り払われるかもしれないと思ったが、ピッコロは掴まれた手をちらと見遣っただけだった。意を決した悟飯が静かに指先を絡めると、されるがままになっていた手は、握り返すようにほんの少し指を曲げた。
木立が途切れると、草原の端に沈んでいく夕陽が見えた。割られた卵のように濃い山吹色の、重たげな夕陽だった。