【飯PネイP】煙るバーカウンターにて/12ラストワード テーブル席にウイスキーを出すピッコロを、カウンターの中から見ていた。一気に入った注文があれで片付くから、暫くは落ち着くだろう。
コリンズグラスに、切ったばかりのライムとスペアミントを入れる。バースプーンで軽く潰すと、やや窄まったグラスの口から、涼やかな香りがここまで上がってくる。
ライムは、通常のレシピよりも少し多く入れる。それがピッコロの好みだと、分かっているからだ。砂糖は入れない。氷を入れ炭酸水を注ぎ、手早く混ぜる。ちょうどカウンターへ戻ってきたピッコロに差し出すと、両手で受け取って笑った。
「ありがとう、ネイル。足りないものはないか?」
「今はない。何かあれば声をかけるよ」
頷いて、カウンター客の前へ戻っていく。読んだ本の内容について、尋ねているらしい。それを受けた彼は身を乗り出すように研究を語り、ピッコロも微笑みながら聞いている。
店に誘ってずいぶん経つが、ピッコロがあんなに肩の力を抜いて、楽しそうに話す客は初めてだ。カウンターの彼に限らず、多くの人と打ち解けるのは、いいことであるはずだろう。理性ではそう分かっていた……何年も前から。
植物園の温室は、極彩色の花々と無数の蝶で現実感がなかった。はじめて人に洗いざらい話して、少し考えが整理できたようにも思える。遅かれ早かれ、決断しなくてはならないと……。
「シャルトリューズを……ネイル……」
名を呼ばれはっとして、磨いていたグラスから顔を上げると、ピッコロが困惑したようにこちらを見ている。リキュールの瓶は、私のすぐ目の前にあった。ピッコロの手元にあるのは、マラスキーノ、ジン、ライム……更にシャルトリューズならば、カクテルはラストワードだろう。
「具合でも悪いか……?」
「いや……なんでもないよ、失礼した」
瓶を渡し微笑んだが、ピッコロは気遣わしげな表情のままだ。いつも注文が入れば、たとえ別の客の相手をしていても、手元にある瓶は渡していたのだから、訝しんで当然だ。
ピッコロが不安そうにしているので、カウンターの彼まで心配げにこちらを見ている。二人に笑いかけ、別のグラスを手に取る。思索に耽るのは営業が済んでからにしなくては……。今までは自然とそうできていたのに、親しげに話す二人の様子を見て、心が乱れてしまった。理性では、共倒れにならないための道が見えていても、感情がまだ完全ではなかった。
クローバーのように澄んだ色のカクテルが、ピッコロの持つシェイカーから静かに注がれる。
「ラストワード……最後の乾杯、遺言、別れの言葉、寂しい名前のカクテルだな」
「でも、また明日とか、また来週とかも、その日のラストワードじゃないですか?」
カウンターの向こうからの言葉に、グラスを差し出し身を乗り出したピッコロが手を止める。かすかに微笑む気配がしたが、ここからでは表情までは見えなかった。
「……そうか、また会う約束の言葉も、ラストワードだな」
明るく話す二人の言葉を、聞くともなしに聞いていた。感傷的な名前を付けられたカクテルが、いつも以上に美しく見えた。
三時を過ぎ、漸く最後の客も退店した。扉にCLOSEDの看板を下げる。照明を落とし、カウンターのスポットライトだけを残した。
「テーブルは片付いたぞ」
「ならばカウンターを片付けたら終わりか。散らかっているな……平日の割に、妙に忙しかった」
洗い物をし、瓶やグラスを棚へ戻す。戻すそばからピッコロがクロスでカウンターを拭き、ライムやレモンを数え、減っているリキュールがないか確かめる。二人がかりで片付ければ、思ったほどの時間は要しなかった。
カウンターの端には、デンデの選んだ橙の洋菊が飾られている。秋の小花が何種類も添えられて、広々とした野山を想起させた。
「疲れただろう。ちょっと座って何か飲まないか」
「ああ、でも水でいい。ヴァージンモヒートを作ると、また洗い物が出るだろう?」
一瞬、言葉が出かけたが、踏みとどまってミネラルウォーターを注ぐ。このくらいは良いだろうと、瓶のレモンジュースをほんの少し入れる。未練がましい行いに、自分でも辟易した。
水でいい、と言われ、落胆に似た気持が生じていた。初めはただ「ピッコロはこれが好きだから」と作っていたはずのものが、「ピッコロのために何かすること」そのものが目的になっていた。いつの間に、こんな風に変わってしまったのだろう。
店の角のソファ席に掛けたピッコロに、グラスを渡す。向かいの椅子に座るのは遠く、隣に座るのは憚られて、結局、直角に向かうようにソファへ腰を下ろした。
「遅くなったから、今日は水煙草もできないな。炭を熾こすのがもう少し簡単ならな……」
「デンデが一人で準備できるようになると、客が多い日でも出しやすくなる。楽しみだ」
「せっかく店を『Veil』と名付けたのに、煙に覆われるのは心得のあるお客様がいる時と、暇な時、そして閉店後だけだ」
ピッコロはグラスを置き、虚を衝かれたような顔をする。
「そうか。『Veil』とは、水煙草の煙のことだったのか……お前に、何か覆い隠したいことがあるのだとばかり」
「……それも、間違いではないよ」
テーブルへグラスを置く。ミントもライムも入れないグラスの水は、どこまでも澄んでいた。
店内にはなんの音もしない。ざわつく心を誤魔化す音楽も、水煙草の気泡が弾け、物事を覆い隠してくれる煙を生み出す音も。
ふと顔を上げると、先にこちらを見ていたピッコロと目が合う。潤みながらもくっきりと際立つ、深山の泉のような瞳……この瞳はずっと、とても長いこと、私にだけ向けられていた。こうして薄暗い店内で、二人で水煙草を共有してきたソファで向き合っていると、わずかな可能性を見出だしたくなる。もしかすると、まだやり直せるのではないかと……。
いつもそうしてきたように、静かにソファへ片膝をつく。ピッコロの表情に不安が滲んだ。自らを案ずる不安ではなく、私を気遣うが故の不安だ。
片手で頬に触れると、やわらかく冷たい……なのに、触れているこちらが熱に浮かされるようだ。指先を這わせるように輪郭を辿り、顎をそっと持ち上げる。幾度も幾度も繰り返した行為なのに、今夜はどうしようもないほど、空気が違った。ピッコロの呼吸が、戸惑いに浅くなる。まなざしが絡み、互いに思っていることがあるのは明らかなのに、どちらも、言葉にすることができなかった。
ほんの少しの距離、これまで躊躇することなどなかった距離が、どうしても埋められない……。けれど、ピッコロが口を開こうとすると、言葉を紡がせたくない一心で、堰を切るように身体が動いた。
ごく軽く合わさっただけで、唇は驚くほど熱く、その熱が全身を痺れさせる。ゆっくりと深く重ねれば、吐息と共にかすかな声が溢れた。触れた舌は半ば強ばり、いつもよりずっと緊張しているのが伝わってくる。応えようとする唇も震えており、迷っているのは自分だけではないと分かると、却って官能は冷え、愛しさだけが脳髄を麻痺させた。
なのに、口付けの間、ピッコロの腕がいつものように背中へ回されることはなかった。
ただ密やかに、熱い指だけがこちらの手へ触れる。私の指を、指先だけが躊躇いがちにとらえる。次第に拒めぬほどに絡み、やがてしっかりと握られる。
背中へ縋るのではなく、指先だけで、ピッコロは私を繋ぎ止めていた。分かっているのだろう……背中へ縋ってしまえば、また同じことを繰り返すと。かといって、簡単に切り替えて突き放すこともできない。私たちは、何もかも、同じだった。
深い口付けの後も離れがたく、わずかに唇の触れ合う距離で、互いに言葉を探していた。切ったばかりのライムの香りではなく、レモンの香りがすることに、胸を締めつけられる思いだった。
それでも、たとえレモンの苦味が口腔に満ちようとも、ずっとこうしていたかった。
だからこそ、私から身体を起こす。
指先で胸元に触れ、目で促すと、手を掴んでいた指がそっと離れ、体温だけが残った。この熱を失っても生きていけるのか……今の私には、分からなかった。
口を開きかけたピッコロを制して、二つのグラスを持ち上げる。私のグラスの水はまだ半分近く残り、ぬるくなってしまっていた。
「遅くなったな。ずいぶん散らかっていたが……お陰で片付いた」
「いや……」
「……ありがとう」
ぬるくなっている水をそれでも飲み干し、立ち上がった。なにを口にしても、今の気持を正確に伝えることは出来ない気がした。けれど、どうしても、最後に言葉をかけたかった。
「行こうか」
ビルの前で、軽く手を振って見送る。東の空に広がる薄い雲は、ほの明るく照らされて美しかった。テナントサインは既に消灯し、『Veil』の文字も沈んでいる。
店を開いた時に覆い隠したかったものは、故郷への未練と、それに伴う苦しみだった。今覆い隠したいのは、純粋な愛情から始まったはずだったのに、いつしか執着や依存の色を濃くしてしまった己が心だ。
けれど、隠すだけではいつか立ちゆかなくなると、もう分かっていた。ピッコロが彼にアルマニャックを贈った夜……あの時はどうしても言えなかったが、言わなくてはならないことがある。
漸くのことで、『Veil』のサインを眺めるのをやめて歩き始める。
明け方の繁華街は、夜の喧騒が嘘のようなうら寂しさだ。車止めの上に誰かが捨て置いた空瓶が光り、花束からこぼれ落ちた花が道の端に咲いている。消灯されていないネオンは、なんとも力なく色褪せて見えた。
背中にほんの少しだけ、寒さを感じる。
きっと、冬が近いからだろう。
冬の朝陽の中を歩く清々しさを思い出せば、寒さは何とか、やり過ごせそうだった。