【飯PネイP】煙るバーカウンターにて/ダージリンクーラー 月曜の夜、定休日の『Veil』で、僕らは水煙草を囲んでいた。今日は、ピッコロさんの部屋にあった鉢植えをデンデの温室の側へ植え替えた、そのお祝いだ。扉の小窓には、「貸切」と手書きで貼り出してある。いつもより明るくした照明に、賑やかなラジオ放送。営業中とは全く違う雰囲気だったが、居心地は良い。普段は飲まないネイルさんも、僕に付き合って飲んでくれている。もともと特別強いわけでもない僕は、二杯目を終える頃には、ほろ酔いのあたたかい気分だった。
トレイを持ったネイルさんが、カウンターから戻ってくる。
「ダージリンクーラーと……ピッコロとデンデは普通のアイスティー、少し甘くしてあるから」
ネイルさんがテーブルの端に置いたグラスを、デンデがそれぞれの席に回してくれる。開け放った窓からは、初夏の心地よい夜風が吹き込み、繁華街の喧騒がかすかに聞こえた。
デンデもネイルさんも再び席に着き、順に水煙草を回す。今日はデンデの選んだ、ライチとジャスミンだ。華やかでエキゾチックな香りが、お祝いの気分を盛り上げてくれる。
ラジオでは、ゲストのタレントが「夏の失敗談」のテーマで、熱中症になりかけた経験を茶化しながら話している。
「熱中症か……室内でも、結構多いらしいですね」
「僕、今からの時期は温室のお世話がちょっと憂鬱です」
確かにそうだ、と笑ったピッコロさんに、ネイルさんが気遣わしげな目を向ける。
「お前、家でちゃんと水分とってるか? エアコンは?」
「喉が渇けば飲むし、暑ければ使う」
「渇く前に飲め、渇いてからでは遅い」
炭を調整していたピッコロさんが、ほんの少し嫌な顔をする。僕はそのやり取りを微笑ましく見ていたが、飲んでいたアイスティーのグラスをテーブルに置いたデンデが、二人を見比べて口を開いた。
「前から思ってましたけど、ネイルさん、ピッコロさんのこと心配しすぎじゃないですか? 子供でもあるまいし」
「まったくだ。ネイルはお小言が過ぎる」
ここぞとばかりに、ピッコロさんがネイルさんを睨みつける。二人に詰めよられて珍しく怯んだ様子のネイルさんが、無言で自分のグラスからカクテルを飲む。
ところが、今度はピッコロさんの方へ、デンデが向き直った。
「でもね、ネイルさんが心配するのも分かるんですよ。ピッコロさんは生活が雑すぎです。疲れてる時、風邪気味の時は無理せず早く休む! 分かりますよね?」
「……分かる」
味方と思っていたデンデから突然矛先を向けられて、ピッコロさんは言い返すこともできず渋々と頷いた。デンデの勢いと、「ほら見ろ」という顔をしているネイルさん。水煙草を渡すと、ピッコロさんが悔しそうに下唇を噛んだまま、吸い口を取り付けた。
「ピッコロさんも、デンデには弱いんですね」
グラスを持ち上げながら思わず笑ってしまうと、デンデは僕の方をきっと見据えた。
「悟飯さんは、ピッコロさんを見すぎです!」
「えっ……僕、そんなに見てる?」
「最初から思ってましたよ! いつネイルさんに出禁にされるか、ヒヤヒヤしてた僕の気持が分かりますか」
反射的にネイルさんの方を見たが、いつもの優しいマスターの風情で、本心は全く読み取れない……この人の、いざという時のポーカーフェイスは本物だ。それにしても、指摘されるほど見てしまっていたとは……我が事ながら気付かなかった。
一通り僕らを叱責したデンデは、満足したように深く頷いた。デンデも、色々と思っていることがあるのだ。言葉が多く出るのは、今日の席がそれほどリラックスした、良い雰囲気だということだろう。
とはいえ恥ずかしい指摘をされた僕は、ダージリンクーラーに助けを求めた。前にも作ってもらったことのあるカクテルだ。少し甘い紅茶のリキュールに、レモンジュースの風味……既に酔っていてよかった。でなければ、デンデの指摘でたちまち赤面したのが、すぐにみんなに分かってしまっただろう。
「ネイルさん、このレモンティー、美味しいです。僕あまりお砂糖は入れないけど、甘い紅茶もいいですね」
いつもの調子に戻ったデンデにほっとしたのか、ネイルさんは軽く頷いて、深く吸った煙を細く吐いた。
「……でも、ネイルさん。僕の『修行僧ブレンド』に、蜂蜜を四杯も入れるのはやめてください。気付いてないと思ってるでしょうけど、見てますよ、僕」
またも厳しい口調になったデンデに、全員が注目した。グラスを両手で弄びながら、笑顔ではあるが目の光は鋭い。修行僧ブレンド……ものすごく渋そうだ……しかし……。
「蜂蜜を四杯……? 入れすぎじゃないか?」
「ですよね ネイルさん、大人のイメージなのに、意外と甘党……?」
デンデは声をたてて笑って、空になっていた僕の小皿にチョコレートとレーズンを入れてくれる。
「じゃあ、悟飯さんにもう一つ教えます。ネイルさんね、この街へ出てきてすぐの頃、『コンビニに物が多すぎて何も買わず出てきた』って言ってたんですよ。かわいいですよねぇ。もう買えるようになりました?」
「買える……しかし、セルフレジは今も嫌いだ」
ネイルさんが苦々しく言い捨てるのを、ピッコロさんが呆れたように見遣った。デンデは二人より先にこの街に来ていたそうだから……都会暮らしの点では、先輩なのだ。僕は元々このあたりの出身だが、デンデが急に頼もしく思えてくる。
「お前、セルフレジくらいで……情けない」
「使えないわけではない。嫌いというだけだ」
「情けないなんて言いますけどね、ピッコロさん」
再び、デンデがピッコロさんの方を向く。水煙草を静かに吸って、ゆっくりと吐き出す。何を言われるのか身構えているピッコロさんをじっと見て、デンデは吸い口を外した水煙草を僕へ差し出してくれる。
「先週お客さんに怪談聞いてから、キッチンへ行くたびに僕に『手伝ってくれ』って……ライム二個取ってくるだけで、何を手伝うんです? 幽霊なんかいませんから!」
「いや、ラジオでもイナガワってやつが話してた……幽霊はいる!」
「いません! そんなことより、洗濯物を分けて洗ってください! 白いシャツがたまに、まだらピンクとか色落ち緑になってるじゃないですか!」
「……分ける? ぜんぶ洗濯機に入れては駄目なのか?」
吸い口を取り付けながら吹き出した僕を、ピッコロさんが睨みつけた。ネイルさんも、静かに笑っている。ピッコロさんは洗濯表示など気にしたことがないと、あまりにも容易に想像できた。店が薄暗いために、デンデ以外は誰も気付かなかったのかもしれない。
「悟飯さんも、笑ってますけどね、幽霊じゃなくて客引きに捕まってましたよね? 学生さんにもおすすめの店だよ! って……僕が追い払いましたけど!」
吸い口を外して、ピッコロさんに渡そうとした僕に、再びデンデの狙いが定まった。
「お前、学生じゃないだろう」
「悟飯さん、すぐ断らなかったんですか?」
「いえ、熱心に勧めてくれてるのに、悪い気がして……」
ピッコロさんとネイルさんが、顔を見合わせて苦笑する。デンデはグラスに残っていたアイスティーを飲み干し、尚も厳しい口調で僕を叱った。
「スパッと断らないとぼったくられますよ! なんで田舎出身の僕にこんなこと言われてるんですか……」
「うん……次は頑張って断るよ」
デンデはソファに深く座り直して、突然ふにゃっと笑顔になった。
「そういえば、水曜に悟飯さんを見かけましたよ。本屋さんで」
「えっ……そう……うん。デンデ、グラスが空だよ、何か飲まないの?」
本屋、と聞いた途端、僕は全身から汗が吹き出るのを感じた。なんの本を買ったのかまで見られていたら、そしてそれをここで言われたりしたら……。
「ふふ、『年上の恋人と甘い雰囲気になる方法』! 素直が一番ですよぉ、あはは!」
僕はすぐさま頭を抱えて机に突っ伏した。ひどい。なんて残酷なことをするんだ。こんなに恥ずかしい気持になったのは、徹夜続きでハイになっている時に……自分が変身ヒーローだったらという空想で最高にカッコいいポーズをとっていて……それを同僚に見られた時……いや、あの時よりはるかに恥ずかしい。消えてなくなりたいとは、このことだ。
……何だか、今日のデンデはおかしい……誰もが、次に何か言われるのは自分ではないかと怯える、そんな空気が漂いはじめていた。
僕も少しだけ顔を上げ、おそるおそるデンデを盗み見た、その時だった。ソファに凭れていたデンデが、電池が切れたように寝息を立てはじめたのは。
「……デンデ? 大丈夫?」
体調不良かと案じて、僕は助け起こそうとする。そしてふと、気付いた。デンデの前にあるグラスを持ち上げ、底に少しだけ残ったものを飲んでみる。
「お酒ですよ、これ……ダージリンクーラー。僕のが普通のアイスティー……デンデが配ってくれた時に、入れ替わったんだ」
「ああ……道理で……」
僕ら三人は顔を見合わせ、なんとも言えない気まずさに沈黙した。やがて、それなりの時間になってもいたため、デンデをソファに寝かせ、静かに片付けをはじめる。ラジオは、学生向けの深夜の番組にかわっていた。
「デンデは私が連れて帰る……また後日、改めて」
「はい、楽しかったです! また来ますね」
「悟飯、客引きに引っ掛かるなよ」
「ピッコロさんも、幽霊に気を付けて」
「……」
ビルの前で手を振って別れて、僕は歩き出す。夏の澄んだ夜空が、なんとも清らかで涼やかだ。今日はひどい目にも遭ったけれど、デンデは全員をよく見て、いつも心配してくれている。だからこそ、いるだけで場を和ませるのだろう。
しかしそれはそれとして、二度とこんな目には遭いたくない……。サンドブラストの模様の入った、一目で分かるデンデ専用のグラスでもプレゼントしようかと……真剣に考えていた。