【飯P空P】りんごの庭と鳴けぬ鳥/07.かわせみ 「お前があの狭ッ苦しい家に飽いて、また旅に出ちまわねぇように、りんごくらい植えてやらぁ」
……あんなことを言っていたのに、その狭ッ苦しい家に、今ではおれしかいない。四年前、心の臓を病み死出の旅路へ踏み出したのは、あいつの方だった。
ここへ来てから、もう七年と少しになる。
二ヵ月前に訪ねてきた悟飯のことと、りんごの樹の経過を見に来てくれる、悟空の親友の庭師が話していたことが気になり、ここ数日ずっと上の空で庭ばかり眺めていた。
――市の反対側の神社に、新しく神職さんが入ったそうだ。俺は見てないが、たいそうな美丈夫で、あんたと似たような柳色の膚だって聞いたけどな……訪ねてみたらどうだ?
同郷の誰かかも、しれなかった。なのにおれは、神社を訪ねるのを戸惑っていた。ここへ辿り着くまで、あんなに同族を求めて、あてなく旅をしていたのに。
集落を嵐が襲ってから、いったい何年経つのだろう? 十四年か、十五年か……成り行きとはいえ、おれがこの地に腰を落ち着けたように、その誰かも既に新しい生き方をしているのかもしれない。失った故郷と過去に折り合いをつけているとしたら、もともと親と旅に出ていて嵐に向き合ってもいないおれが訪ねることで、嫌な気分になるのではないだろうか。
逆に、その誰かが未だ同族や、故郷を求めていたらどうだろう。共に旅に出て同族を探そうと言われては、伴侶と呼べる相手を喪って何年も経つ今、もはや断る理由がない。
断る理由を探している自分も、嫌だった。いったい何に未練があって、この地に留まりたいのか、考えたくなかった。
りんごには、ぽつぽつと白い花がつきはじめていた。無事に梅雨を抜ければ、きっと実が生ることだろう。
門扉の開く音がした。また、悟飯が顔を見せに来てくれたのだろうか……待ちかねていた己が心から目を逸らし、しかし反射的に門扉へ視線を向けて、言葉を失った。
紋のない、明るいかわせみ色の袴……柳色の膚……。
「やはりお前だったか、ピッコロ」
ネイルは破顔して、真っ直ぐに庭を突っ切って来る。確かな足取りと、自信に満ちて、けれど慈しみをたたえた懐かしいまなざし。思わず縁から立ち上がると、目の前まで来たネイルが肩を押して座るよう促す。
おれが掛けたのを見届けてから、自分も隣に座る自然な仕草は、まるで昨日別れたばかりのようだ。
ネイルは、兄弟のように育った幼馴染みだった。おれと違い卒なく、人当たりもよく、多少口うるさくはあったが親しく過ごしていたため、一番行方が気がかりな相手だった。
「ネイル……お前の名前の墓がなかったから、きっとどこかで無事にしていると思っていた」
「無事だとも。お前は元気にしていたか? お父上は?」
「旅の途中で死んだ。それで、集落へ一度戻ってあの様子を見たんだ」
そうか、とネイルが呟く。烈しい感情の動きを感じさせない声音は、過去の出来事を既に乗り越えたのだと確信させた。
「驚いただろう。お前たちが出発した年の夏だったよ。他にも生き残った者はいるが、みな散り散りだ。私も転々としていて、先月ここに流れ着いた。お前の話は参拝者から聞いて、訪ねて良いものかずいぶん迷ったが……」
「おれもだ。神社に同族らしき者がいると聞いて……しかし、訪ねたものか迷っていた」
「一人で暮らしているそうだな。どうしてここに?」
昔からネイルには、何もかも素直に話すことが出来た。何かと口出ししたり、諫めたりしてくる過保護なネイルに反発心もあるのに、いつも最後は正直に白状してしまう。誤魔化しのきかない相手だと、分かっているからかもしれない。
放浪の最中に家主に拾われ、腰を落ち着ける決意もせぬままずるずると、一年近くもの間その息子と三人で暮らしていたこと。息子は、あるとき書生として出て行き、今は同じ研究者のもとで自分の研究をしていること。いつしか家主とは特別に親しくなったが、数年前に亡くなったこと……とうに大人になっている、息子の無事が、いつも気掛かりであること……。
春先の空は冬のそれよりずっと明るく、けれど夏に比べると白っぽく褪せている。しじみ蝶が頼りなく横切り、すぐに生け垣の向こうへ去った。
ネイルは一見すると眠っているかのように瞼を伏せ、長いことおれの話を聞いていた。ろくに相槌すら打たないのに、どうしてこうも人の話を引き出すのだろうか。何事も受け入れてもらえると思わせるような、不思議な雰囲気が、ネイルにはある。
「おれだけ嵐を逃れてしまって、そのうえ旅まで止めてしまった」
ネイルは目を上げる。冴えてするどいのに、決してこちらを威圧することはない。
二月にはさざんかの下に身を隠し笹鳴をしていたうぐいすが、今は伸びやかに声を響かせている。
「ネイル、転々としていたと言っただろう? 同族を探しているのか?」
「私は元々、皆から大体の行き先を聞いていたからな。十五年旅して、生き残りがどこに落ち着いたかは、ずいぶん分かったよ。手紙のやりとりなどある者もいる」
「そうか……おれと違い、十五年もの間……」
それに比べて、ほんの八年の放浪で気力が萎えてしまうとは、なんと情けなく、また誠意のないことだろうか。何も言えずにいると、ネイルはおれの肩に手を回し、励ますように引き寄せた。
「旅の末に大事な相手に出会えたのなら、それが潮だったんだ。それに、出先から戻って突然集落がなくなっていたお前と、南へ行くだとか、海へ行くだとか聞いていた私では事情が違う。私も旅を中断して足を休めたことはいくらでもある」
「ネイル……」
「お前がここに留まってくれたから、こうして会えた……集落の誰もが、大切な仲間であるお前が幸せであれば、それ以上のことはないと思っている。もちろん私が、誰よりもそうだ、分かるだろう?」
暗澹としていたおれを和ませようとしたのだろう、最後は冗談めかして笑った。遠い昔、同じことを言ってくれた男がいた……ネイルは何も、知らないはずだ。肩に回された腕に縋り、泣き出したいような気分だった。
「……今度、神社を訪ねる。お前の職場と、仕事振りを見に」
待っている、とネイルが微笑む。白とかわせみ色の対比が春に相応しい袴姿も、よく似合っていた。何でも器用にこなす、人当たりの良いネイルなら、神社でもきっと重宝されていることだろう。
「しかし、この家に一人とは寂しいな。その息子殿は、どこで働いているんだ?」
「確か……梢谷とか、言っていたかな」
「梢谷? 大して遠くないじゃないか、その気になればここから通えるぞ」
ここから通える……? あまり家から出ないから、未だ町名を覚えきれていない我が身を悔いた。
では、何故わざわざ多忙となる書生などして、家を出て行ったのだろう。悟飯に直接会って、確かめたかった。ここはおれの家ではなく、悟飯の生まれ育った家なのに……。
うぐいすの声は晴れやかで、春が深まっていることを知らせている。黙り込んだおれに何か感じたのか、ネイルは何も尋ねず、ただ長いこと隣に座っていてくれた。