【飯P】すみれ色の熱 陽の暮れかけた実家の庭に、まだ熱の残る風が吹いていた。お父さんは、既に家の中へ戻っている。
来るべき戦いに備えてのことだとは分かっていても、三人での修業は楽しい。大好きなこの人と、長く過ごせることも……ただ、今日は途中から、ピッコロさんの口数が減っていたのが気になって、僕はその横顔を無遠慮に見上げていた。
「……なんだ?」
「ピッコロさん、どこか傷めました? ずいぶん静かだし」
「いや……」
そっけなく答えながらも、口元をほんの一瞬、押さえる仕草を見逃さなかった。
「噛んじゃった?」
図星だったのか、わずかに目をそらす。言葉を継がないのが、肯定の証のようだった。
「ちょっと、そこの椅子で待っててください」
僕は台所へ駆け込んで、棚の奥からはちみつの瓶を取り出した。もうすぐ夕飯だと、お母さんの声が追いかけてくる。
庭へ駆け出すと、ピッコロさんは僕が指し示した庭椅子に、所在なく腰掛けていた。
「口の中の傷、放っておくと口内炎になります。はちみつ塗るといいって、お母さんが」
「……少し舌を噛んだだけだ」
「舌? 尚更はやく対処した方がいいですよ。赤ちゃんみたいな喋り方になっちゃいますよ」
途端にピッコロさんは嫌な顔をして、ほんの少しだけ口を開けた。はちみつの瓶を片手に、もう一方の手で顎をそっと支える。鋭い視線に射抜かれて心臓が跳ねたけれど、なんとか自分を鼓舞する。
――すみれ色だ。
沈みかけた陽の光が照らす庭で、口の中は、血の色そのままの濃い紫だった。尖った白い歯は獣の牙を思わせるのに、狂暴性よりも、妙な神性を感じさせた。
「……きれい」
無意識に零れた声は、自分のものとは思えないほど震えていた。すみれ色の粘膜の中で、舌の端に色の濃くなった傷がある。きっとここだ。打ち合う間に、噛んでしまったのだろう。
「やっぱり怪我してます。じっとして。もっと口開けて」
戸惑うような空気がじれったくて、顎を上向かせていた片手で口をこじ開ける。大した抵抗はなく、喉の奥へ通じる暗闇があらわになる。
指先にはちみつを掬って、そろそろと口の奥へ差し入れた。温かさと湿り気……指の背に触れた頬の内側の、思いの外のやわらかさ。言葉を奪われた状態で、まなざしだけが僕に投げ掛けられる。
「すぐ終わりますから」
「……っ」
「我慢して、そんなに痛くないはず……」
指先が進むにつれ苦しげになる呼吸と、生理的な反応で唾液に満ちる口内。僕を見つめる両の瞳は、息苦しさに潤んでいる。舌の側面を辿る指先が、どうしようもなく熱くなり、引き伸ばすはちみつを蕩かす。
傷口に触れた時、ピッコロさんの身体が強張り、両手が縋るように僕の肩へ置かれた。呼吸を邪魔されているのはピッコロさんだけのはずなのに、僕もひどく鼓動が早くなり、息が乱れているのがどちらなのか、分からなくなる。
突然ぐっと押されて強引に引き離され、同時に指も口の中から離れた。
「ごめんなさい! 痛かったですか?」
「……もういい、十分だ」
弾かれるように後ろへ下がった拍子に、尻餅をつきそうになった。焦って踏み出した僕は、ピッコロさんの膝に手をついてしまう。
「あ……ごめんなさい」
「いや、おれが悪かった……」
驚いて顔を上げると、ピッコロさんはそっぽを向いたまま、かすかに耳の端を染めていた。
「お前に非はない。おれが……混乱しただけだ、その、はじめてだったから。口の中に触れられるのは。お前は悪くない」
あまりに素直で、いとけない言葉に、何だか力が抜けてしまう。つい今しがたまで、僕こそ妙な胸の高鳴りに息も止まりそうだったのに。口の中の不思議な色合い、生々しい温かさ、潤んだ瞳、普段見せないほど乱れた息遣い……触れた時の反応も、ただの痛みや息苦しさの発露にしては、あまりにも……。
落ち着きを取り戻した瞳が一瞬だけこちらをとらえ、すぐに逸らされる。
途端に、忘れていた庭木の揺れる音も、暮れかけた空の濃い橙も、僕の中に戻ってくる。
逸らされた視線の残り火と、触れた舌の熱だけが、夕焼けよりも色濃く、胸に残っていた。