【ネイP】誘惑の夢魔 夢の中の景色はでたらめだ。さっきまで、凍った湖の上を二人でそろそろと歩いていたのに、気付いたら観覧車の中に座っている。ゴンドラの窓からは、遠くまで広がる夜景が見えた。白く寒々しい湖など、影も形もない。
「こんなものに乗るのは、はじめてだ」
「そうだろうな。さっきの湖もそうだが……異国の夢に渡った時に、見たものだ」
窓から見下ろす夜景は賑やかにきらめいて、あの中に人の暮らしがないとは俄には信じられなかった。
「気に入ったか?」
「氷もよかったが、これもいい」
ネイルはいつも、「気に入りそうだから」とピッコロの夢を書き換える。しかし、ピッコロは覚えていた。夢の書き換えは、普段は誘惑のために行うと言っていたことを。
「……夢魔って、どうやって初対面の奴を誘惑するんだ?」
「なんだ、藪から棒に」
「知らない奴にそう簡単に欲なんて抱くか? いくら夢を書き換えられるからといって……」
「書き換えは補助だ。渡った先が悪夢だったら書き換えるが、普通の夢ならそのままで問題ない」
事もなげにネイルは言ってのける。考えてみれば、ネイルはいつの間にかピッコロの夢に住み着いており、ピッコロ自身は明確な『誘惑』はされたことはない。
「見たことがないから、想像できない。どうやるんだ?」
「……お前からは奪わないんだから、やる必要がない」
ネイルが肩を竦める。
「おれに誘惑なんて通じると思ってるのか。やってみろよ」
あまりにも当然のように口にされた挑発に、ネイルは一瞬まばたきをした。次の瞬間、堪えきれずに声に出して笑う。
「経験も知識もろくにないくせに、自信だけはある」
「お前が夢魔で、今から誘惑を実演すると分かっていて、惑わされるわけがない。どんな風にするのか、見せてみろ」
向かい合わせに座っていたネイルが、ゆっくりと立ち上がった。
「そんなに言うなら、少しだけ……」
ゴンドラの狭さは、容易に距離を詰めさせてしまう。身構えると、ネイルの瞳が撓む。
「目を逸らすな。私の声も、仕草も全て……お前を欲に沈めるためにある」
ピッコロの座面に片膝をつき、ネイルが囁いた。ごく穏やかに、低く、ピッコロの耳にだけ届くほどの静けさで。否応なしに安心感が引き出され、警戒が少しずつ解けていく。
耳元へ近付いた唇が、しかし触れはせず、吐息だけが掠める。噛まれたり食まれたりするより、よほど背筋が粟立つ。
「言葉は基本だ。今夜はお前の側にいたい、なんて……安っぽいことを言ってもいいし、言わなくてもいい。ただ、声の温度は、必ず伝える」
やってみせろ、等と煽っておいて、ピッコロは早くも息を呑んでいる。鼓動を抑えんがため深く息をつくも、身体はまったく言うことを聞かない。
身体を寄せられ、どこにも触れられていないのに体温が伝わってくるようだ。身を引きたくとも、座面にはネイルの片膝があり、そうでなくとも、ゴンドラの中はあまりにも狭い。
ネイルの指先が、ピッコロの顎をそっと持ち上げる。冷たい指は、この上なくやわらかく触れているのに、確かな主導権を告げていた。
「じっと見つめるだけで、相手は自分が見られていると意識する……逃げ場を作らないように、しかし脅さない……」
言葉の通り、ネイルの瞳は揺るがずにピッコロを捉えている。決して威圧的ではないのに、視線の先にいる自分を否応なく意識してしまう不思議。ただ、ここにいる、見ていると、まなざしで告げられるだけで。
「……降参しても、良いんだぞ」
「なにを……なんともない、このくらい……」
言った自分でも感じるほど、あまりに明らかな、強がりだった。ネイルは答えず、目だけで笑っている。それが悔しくて、ピッコロはますます意地になる。
ネイルの片手がピッコロの背凭れに突かれ、ゴンドラがかすかに揺れた。艶然たる微笑が、目を逸らさずにそっと近付く。……なのに口付けは与えられず、触れるか触れないかで止まり、かすかに吐息だけが混じり合う。
「……欲しいか?」
ネイルの囁きに、ピッコロは答えられない。これを受け入れては、負けたことになるではないか。断って、遮って、突っ撥ねたかった。なのに、覆い被さるようなネイルの身体を、抱き寄せたいのもまた、本心だった。
声を出そうとして、手をぐっと握ってしまう。すぐにこの手を開いて、ネイルを押し退けるだけ……それで、勝ちだ。
「ピッコロ……私は欲しい、お前さえ、許すならば」
静かに告げられて、ネイルを押し遣るつもりだった手は、逆にその胸に縋るように夢魔を引き寄せていた。
唇が重なる。しかし深くはなく、ただ触れるだけの口付け。
背凭れにあったネイルの手が、いつの間にか背中に当てられている。抱き寄せるとも言えないほどのかすかな力は、それでも、離さないという意志を示している。気付けば全身が閉じ込められており、逃げることが出来ない。もっとも、逃げようという気など、とうになくなっていたが……。
ゴンドラが頂点を過ぎ、下りはじめると同時に、ネイルは身体を起こした。
「素直だな、お前は……つい、やりすぎそうになってしまう」
子供にするように頭を撫でて、ネイルは元のように向き合って掛ける。深く息を吐いて、漸く人心地ついたピッコロに、静かに笑いかけた。
「このくらいの軽い接触なら、命を取るも取らないも、好きにできる。お前を削るようなことはしていないから、安心しろ」
「……心配してない、そんなこと」
「なんだ、誘惑されていないと言いたいのか?」
ネイルは軽やかに笑って、窓の外に目を遣る。ピッコロもそれに倣って、月夜の海原のように瞬く夜景を見つめた。
――心配など、していない。命を取られたって、構わないのだから。
あのような『誘惑』を、ネイルは別の誰かの夢へ渡って、その夢の主へ施しているのだ。それも、今の誘惑が「軽い」ということなら、交わるためには、もっと……。
ただ糧を得るための行為で、そこに情は、ないのだろう。けれどそれでも、ピッコロの心の底には、蟠るものがある。喉の奥に鉛が詰まるような、得体の知れない息苦しさだ。
やがて、観覧車は一周の短い旅を終え、ふと気付けば、二人は夢の家のソファに並んで掛けていた。暖炉の炭が穏やかに熾き、部屋を暖めている。
立ち上がりかけたネイルを、ピッコロは咄嗟に引き止めた。
「水はいらないか?」
「いい……もう少し、座っていてくれ」
ネイルは何かを感じたのか、ピッコロを抱き寄せ、やわらかく背中を撫でる。その手のひらの熱は、官能を呼び起こすものではない。それでも離れがたく、ピッコロにとっては、十分に誘惑と呼べるものだった。