本編後の王光っぽい小話「おい、光雲! いい加減、部屋から出てきたらどうだ」
柔らかな日差しが降り注ぐ穏やかな日だった。緩やかな波に揺られて、王子たちを乗せた船は、彼らの本拠地である南蛮、ポルトガルへと舳先を向けていた。
王子は、数時間前から一向に出てこない相棒へと声をかける。が、まるで鉄にでもなったかの如く、その扉は誰をも迎え入れる様子はなかった。
まるで彼の心情を表しているかのようなそれに、はあ、と深くため息をつく。
「光雲、今日はまだ何も口に入れていないだろう。ほら、お前の好きなカステラを持ってきたんだ。一緒に食べないか」
正直、天邪鬼なところのある光雲がこんなもので釣れるとは到底思えない。それでも、彼が朝起きてからまだ食事をしていないことはかなり心配なので、あれそれと声をかけてみる。
が、やはりと言うべきか、王子のほんの少しの期待を裏切るように、しいんと重苦しい静けさが返ってくるのみだ。
「(まあ、無理もないか)」
あの、目の前が真っ暗になり、息すらもできなくなるような衝撃を思い出す。その深い絶望は、今、自身の手を震わせてしまうほどに、生々しくも王子の身体にまとわりついて一向に離れてくれない。
――王子と光雲が、自分たちの大切な後輩を手にかけようとしたあの日から、まだほんの数日しか経っていないのだ。
仕方のないことだと理解している。忍びの道を進むと決めた時点で、己の大切な人と敵対する可能性があることなど、……その命に手をかけることなど、それこそ分かりきっていたことだった。
そんな自分でさえもこうなのだから、かつて周りのみなを傷つけることを恐れ、海を渡ることに希望を見出した光雲なら尚更だろう。
固く閉ざされた扉を見つめる。これは当分王子を迎え入れてくれないだろうと踵を返そうとしたところで、ふと妙な違和感を抱いてドアの取っ手に手をかける。念のためと軽く回してみたら、かちゃりと高い音が鳴った。……どうやら、鍵がかかっていないようである。
「光雲、入るぞ」
ごくりと喉を鳴らしながらも、部屋の主に声をかける。相変わらず返事が返ってくることはなかったが、それに構わず扉を押してみた。
室内は、カーテンを閉め切っているせいか、暗く陰鬱とした空気が漂っている。扉を押した時の軽さに反して、全く他人を迎え入れようとしないその様相に、気づけば苦笑が漏れていた。
さてここの主はどこだろうと視線を巡らせると、ベッドの上にはこんもりとした山が。シーツやら服やらで作られたその真ん中には、隠すつもりもないのだろう光雲の気配が残っている。
「光雲、今日はせっかくいい天気なんだ。少しは太陽を取り込んだ方がいいぞ」
一向に返事が返ってこないのをいいことに、王子は窓側に歩を進め、シャッとカーテンを開けてみる。西に傾き始めた日差しが飛び込んできて、そのあまりの眩しさについ目を細めてしまうほどだ。
「……開けていいなんて言ってない」
「そう言うなよ。ほら、お前が好きなカステラを持ってきたぞ。一緒に食べよう」
むすりとした、不機嫌さを隠さない光雲の声が耳に届く。が、王子はそれに取り合うつもりはない。
ドアの鍵を開けていたのは光雲なのだ。ならば、王子が部屋に入ろうとすることなど、それこそ分かりきったことだろう。
光雲のそばに寄ろうとベッドに腰をかける。ドスリ、と自身の体重に合わせて沈むスプリングに、真白い山も少しだけ揺れていた。
「ちょっと」
「とにかく、何か食べないと体に悪いぞ。まあ、光雲が食べないなら俺が有り難くもらうがな」
光雲に構わず、皿に乗せていたカステラを口に含むと、食欲をそそるふわりとした甘い香りが王子を包み込む。やはり味覚のいい彼が好むだけあって、つい舌鼓を打ってしまうほどだった。
「……あげるなんて一言も言ってない」
堪えきれなくなったのだろう。のそりと音がしそうなほどにゆっくりと光雲の腕が伸びてきた。軽く振り向きながら彼の手にカステラを乗せれば、口をへの字に曲げながらも、もそもそと頬張る光雲の姿が。
どうやら本当に籠城の心づもりだったらしい。寝巻きとまでは言わないがかなりラフな格好をしている。だというのに無言でちまちまと食す姿は、なんだかリスみたいで微笑ましいものだった。
「なに」
「いや、なんでもない」
表情に出ていたようで、不愉快そうにこちらを見つめてくる光雲にまた口角が緩みそうになったがどうにか堪える。
全く馬鹿にしているつもりはないが、これで“ちょっと可愛な”などと考えていることがバレたら、当分は口を聞いてくれなくなるのが火をみるより明らかだ。せっかく顔を出してくれたのだから、会話ができなくなってしまうのは避けたいものである。
二人の間に静けさが流れる。むしゃむしゃと光雲がカステラを食す音と、波が船体にぶつかる音が聞こえるだけで、二人の間に会話はなかった。
王子としては、光雲の様子が見れて、彼が何かを口にしている姿が見れればそれでよかったので、任務完了といったところだった。つまり、無理に彼から何かを聞きだすつもりは毛頭ないのだ。
この相棒は、必要になったら話してくれるだろうし、何より、王子は光雲との間に流れるこの静謐な空気感が嫌いではなかったのである。
ごくり、彼の喉が嚥下したのに気づき、後片付けを始める。カステラは綺麗さっぱりなくなっていた。
さて、一度部屋を出るかと立ち上がりかけたところで、それを止める声が響いた。
「……ねえ、王子は後悔してる?」
どこか弱々しい声音だった。まるで迷子の子どものようなそれは、いつも悠然としている彼とは随分かけ離れた印象を与える。
つい、ぱちくりと瞬きをしてしまう。そうして一度瞼を下ろしたあと、光雲の不安そうなそれとは反対に、王子は迷うことなく口を開いた。
「そんなわけないだろう。お前と一緒さ」
そろりと光雲が顔を上げる。その表情には、どこか安心したようで、それでいてまるで仕方のないものを見るような、表現しがたい想いが隠されているようだった。
「……そっか」
ぽすりと座り直した王子は、光雲が何も言わないのをいいことに、すぐそばにあった彼の手に自身のそれを重ね合わせる。じんわりとした温度が王子に伝わってきて、確かに生を感じさせるそれに、何かが胸に込み上げるようだった。
「本当に、強くなっていたな」
あの、自分をまっすぐに見つめる留三郎の瞳を思い出す。深い絶望を覗かせながらも、それでも拳を叩きつけてきた彼を。
ほんの少し前までは、まだまだだ、なんて思いながら指導をしていたというのに、まさかここまで強くなっていたとは。留三郎の繰り出す一撃一撃の重さは、こちらの腕に痺れを出させるほどだった。
「伊作だって、すごく強くなってたんだよ」
そうだ、留三郎に限らず、伊作も、ほかの皆だって、本当に見違えるほどに強くなっていた。彼らが積み上げてきた日々を誇らしく思うと同時に、苦いものが胸をよぎる。
――それでも、まだ自分たちには届かない。
彼らがどれほど強くなっていたとしても、王子も、光雲も、間違いなくその命を奪うことができた。
自然と、光雲と重ねていた指先に震えが走る。あと一歩、閣下の声が遅ければ、自分たちはその命を刈り取ったのだ。……誰よりも憧れの目を向け、心から自分たちを信頼してくれていた、大切な後輩たちの命を。
後悔はしていない。彼らをどれほど大事に思っていても、任務とあれば刃を向ける。その覚悟を持たずにこの道を選んだ訳ではない。
そして、光雲だって、それは同じなのだ。
「僕はね」
ぽつりと消え失せそうなほどに小さな声が王子の耳に届く。沈み始めた夕日が、光雲の淡い茶髪を真っ赤に染め上げた。
「僕は、もしこれが伊作じゃなくて、お前だったとしても。……同じことをしたよ」
俯いたことで、さらりと流れた光雲の髪が隠してしまって、その表情を窺い知ることはできそうにもなかった。
どくどくと耳元で鳴り響く鼓動が嫌に煩わしい。彼を照らす赤い夕焼けがまるで血のようで、なおさら落ち着かなくなってしまった。
光雲は、伊作の姿に自分を重ね合わせたのだろうか。血に倒れ伏す姿を。――今、己が幻視したように。あの、生々しい感触が、王子の指を震わせる。
底のない恐れを呑み込むようにぎゅうと光雲の手を握りしめる。そうして、それを振り切るように目をつぶった。
どうやら、自分は大きな勘違いをしていたようだ。てっきり、光雲は伊作を手にかけそうになったことに苦しんでいるのだと、そればかり考えていた。
でも、それだけではなかったのだ。
そこまで思考が巡ったことで、王子は全身の空気が抜け出ていくのを感じた。そうして、ゆっくりと目を開き彼を見つめる。その口元には、自然と笑みが象られていた。
「……王子?」
そんな王子の様子に気づいたのか、光雲が怪訝そうに眉根を寄せる。
「なんだ、そんなことを考えていたのか」
苛立つように鋭い瞳が王子を睨みつけた。そんな彼の様子を見て、少し自分の言い方が悪かったと内省する。決して、彼の不安を軽々しく捉えた訳ではないのだ。
「いや、悪い。ただ、やっぱりお前は優しいやつだと思ってな」
「……僕、優しいと思われることなんて何も言ってないけど」
彼の言葉に、やはり自然と笑みが浮かぶのを抑えられなかった。
お前が優しくないというのなら、きっとこの世のだれも“優しい”などとは形容できないだろうに。
光雲は、きっといつかその日がきた時、刃を向けることを躊躇わない。これ程までに、後輩だけでなく、王子の命を奪うことまでも恐れているというのに、だ。
その恐れを甘さだと、未熟だと指を刺されることもあるだろう。だとしても、光雲は“それ”を捨て去ることもできないのだ。
そんな彼を、ただ愛おしく思ってしまうのも、仕様のないというやつだろう。
「もし、お前に刀を向けられたとしても、俺は簡単に負けたりなんてしないさ」
――だから、そう心配するな。
王子の言葉に、光雲は丸い瞳をさらに大きく開いていく。そうして、力を出し切るように息を吐いた後、呆れを隠しもせずに王子の背中をどついてきた。
泣き出すのを堪えるように一度口を引き結んだ彼は、それでもその口元には、確かに穏やかな笑みが象られている。
「僕にそんなに勝ててないくせに、生意気」
「うっ。……ここぞという時に俺が負けないことはお前だってよく知っているだろ!」
光雲に刃を向ける可能性など、それこそ学園時代から考えなかったことはない。それは、きっと彼だって同じことだろう。
それでも、そんな王子に海を渡る可能性を差し出したのは光雲だ。大切な誰かを傷つけることを、仕方のないことだと諦めるしかなかった王子に、別の道を示してくれた。
あの時の、目の前がチカチカと輝いて、視界が真っ直ぐに拓けていくような、晴れやかな衝動を忘れられない。
忍者として生きていく以上、この先だってお互いの命を奪う可能性がない、なんてことはありえない。その恐れが消えることなんて、この先きっとないのだ。
それでも、王子は迷うことなく光雲に笑みを向けることができる。彼が隣にいる限り、まだ立っていけると信じられる。
「馬鹿だなあ、お前は」
「そうか? まあ、俺たちには幸運がついてるからな。だから、大丈夫さ」
「……ほんと、お前らしいよ、王子」
ぽすんと音を立てながら、光雲が頭を預けてくる。そのままきゅうと腕を掴んでくる彼に、背中に回した腕でぽんぽんと触れてみた。
どこか幼い子どもを宥めるような王子のそれに、少しだけ不満そうに口を曲げていたが、それでも何も言われないので、このまま好きにさせてもらおう。
プロとしては随分甘ったれたことだと、自分でも呆れてしまうものだ。それでも、王子はこの腕の中の愛おしい彼が苦しむことだけは、きっとどう足掻いたってできやしないのだ。
王子にそんなある種の傲慢さを与えたのは光雲の責任でもあるので、どうか諦めてもらおう。
きっと、もう自分には、彼と共に生きる道を捨てることなど考えられない。ならば、最期まで足掻き続けるだけだ。
とくとくと穏やかに奏でる心音に耳を傾けながら、ついと窓の外に視線を向ける。
遥か遠くに広がる海に沈みゆく夕日が反射して、その顔を橙色へと変えてみせていた。
王子は、ただ隣にある温もりを逃さないように、ぎゅうと腕に力を込めるのだった。
それに応えるように強く返されることが、王子は、ただ愛おしかった。