光雲がちょっとだけ妬いちゃう話「なあ、光雲。何かあったのか?」
「……別に何も?」
そろりと伺うような瞳で王子が問いかけてくる。その声音にはありありとした戸惑いが滲んでいた。
まあ、それに返す自分の声も、明らかに“何かありました”と言わんばかりのものなのだから、彼の困惑も当然のことだろう。
王子はついさっき長期忍務から帰ってきたのだから、それとなく彼を労えばいい。頭ではそう理解しているというのに、それでも今の光雲は、どうしても王子に笑みを返すことはできなかった。
「とりあえず、忍務終わりなんだからお湯でも浴びてきたら?」
「え? あ、ああ。……それじゃあちょっと行ってくるぞ」
何か言いたげに、それでも頑な光雲の様子を見て諦めたのか、一度息をついた彼はさっと風呂場へと向かっていった。
パタン、と自室の扉が閉じる。王子の足音が遠くなっていくのを確認してから、光雲は身体の力が抜けたようにベッドに倒れ込んだ。
「(“何かあった”に決まってるじゃないか)」
王子の馬鹿、阿呆などと彼に聞こえないのをいいことに思いつく限りの罵声を浴びせる。
まあ、恐らく彼がここにいたとしても、全く思い当たることのないだろうそれらの言葉に、さぞ目を丸くすることだろうが。
――王子が、潜入調査として酒場に入り浸っていたのはここ数週間のことだった。
基本的に、潜入調査は光雲が担うことが多い。光雲の人好きのする笑顔や卒のない会話術は、誰からも情報を得るのが早かったためだ。対して王子は根が素直なせいか、どうも感情がそのまま表情に出やすい。いかんせん、嘘と本音を織り交ぜながら標的から必要なものを抜き取るというこの忍務が、王子はあまり上手くはなかったのだ。
であるので、まあ得意な方が潜入忍務に入ることが多いという、それだけのことだった。
が、プロである以上、そうも言っていられないこともある。今回の標的は最近妙にきな臭い動きをしているとある組織員の女性だった。いつもその女性が入り浸っている酒場の店員に扮し、標的から情報を得ようと考えたのだが、それには一つ大きな問題が。
なんでも、その女性は黒髪の大層な男前に目がないらしい。どうしてそんなピンポイントな好みをしているのだと呆気に取られたものだが、これ以上なくピッタリな者がいるのであれば仕方ない。こう言うのも少々不服なものだが、王子はかなり見目が整っていて、いわゆる“男前”と評されるような、そんな男なのだ。
正直、王子に甘い言葉でもかけられるような会話術があれば、すぐに忍務も終わるのではないかと、一瞬だけそんな予感が過ったものである。
まあそんなこんなで、今回に限り、王子に白羽の矢が立ったのだった。
素直過ぎるきらいのある相棒が上手くやれるか、光雲の不安とは裏腹に、多少の危うさはあれども王子はきちんと情報を持ち帰ることに成功した。つまり、忍務完了と相成ったのである。
ここまでの流れを見ると、光雲が不機嫌になる要素など一つもないのではと感じるだろうが、当然、光雲側にも言い分がある。
「(王子のやつ、本当に気づいてなかったわけ?)」
あの、王子に染みついたべったりとした甘い香りを思い出す。そもそも忍である以上、基本的に自分たちは香りを纏わない。だと言うのに、まるで自分の所有物だと言わんばかりに悪趣味な香りが漂っていたのは、十中八九あの標的の女が原因だろう。
大層王子を気に入ったのであろう女の顔が目に浮かぶ。何かあった時の備えとして、近場で待機していた光雲もほぼ毎日目にしていたことだが、あの女はことあるごとに王子へすり寄っていたのだ。
べたべたと彼の肌に手を這わせ、まるで口づけでもするかのように顔を近づける。あの、ねっとりとした色を含んだ瞳が、苦笑いを浮かべる王子に向けられていたのを、光雲は嫌という程見せつけられていた。
「(王子も、あんな女なんて適当にあしらえばいいのに)」
――お前の恋人は僕だろう。
王子が苦手分野であるにも関わらず、かなりの努力の上でこの忍務をこなしてきたことは重々承知している。今回に関しては、王子に非がないことだって、痛いほど分かっている。つまり、この沸々と腹の中で澱むような苛立ちは、ただの光雲の嫉妬であり、八つ当たりにほかならないのだ。
それでも、どうにも消化しきれないこの靄を飲み干せるほど、光雲は大人にはなり切れない。それも、他ならない、たった一人の恋人に対しては尚更だった。
などとあれこれ思考に耽っていた光雲の耳に、ぺたぺたとした足音が届いた。どうやら、王子が戻ってきたらしい。相変わらず、烏の行水とばかりに風呂に入るのが早い男である。
「光雲、戻ったぞ」
「……王子、またそんな濡れたままにして。きちんと髪は乾かせって言ってるだろ」
ぽたぽたと彼の癖のある黒髪から雫が垂れている。血の巡りがよくなったからか、頬をほんのりと朱色に染めていた彼が、気まずげに目線を逸らした。
「ほら、あれだ! 俺の髪はすぐに乾くから!」
「そんなこと言って、この前風邪引きかけたのはどこの誰だったっけ」
じとりと光雲が下から軽く睨みつければ、分が悪いと判断したのか、下手くそな口笛を吹く始末である。全く、そんなもので誤魔化せていると思っているならば、本当にどうしようもない男だ。
「はあ、仕方ないな。ほら王子、こっちに来たら? 偶には僕が髪を乾かしてあげる」
「え……、え!? 本当か!」
ポンポンとベッドの上を叩きながら彼を呼べば、大層驚きながらも喜びを隠しきれない恋人の姿が。光雲だって、さっきのは態度が悪かったと少しだけ反省しているのだ。
頑張った王子へのご褒美も兼ねて、ガサツなところのある彼の髪を乾かしてあげるくらいわけない。が、光雲の提案に想定していたのよりも嬉しそうな王子の様子を見ると、もう少し彼に優しくしてもいいのかも、なんて思ってしまうものだった。……絶対に調子に乗るので、王子本人に言うつもりはないが。
「ちょっと王子、もう少し髪の手入れしたら? こんなにガサガサで枝毛までつくって」
「いや、まあそうなんだが……。俺のは光雲ほど綺麗じゃないしな。正直、邪魔だから切りたいぐらいだ」
「それはダメ。切っちゃったら絶交するよ」
「ぜっ!? 分かった、もう切るなんて言わないから!」
光雲に身をゆだねるかのように、リラックスして髪を預けていた王子だったが、こちらの絶交という言葉に、慌てて姿勢を正して前言を撤回してきた。別に、光雲のは言葉の綾みたいなものなのだが、自分に無頓着なところのある彼には、これぐらい強く言わないと髪の扱いを適当にする可能性があるのだ。
これも彼に言うつもりは全くないが、南蛮に来てから少しずつ伸び始めている王子の髪が、光雲は存外嫌いではないのである。学園の頃と違っていつも背中まで垂れている癖のある彼の黒髪が、動きに合わせてゆらゆら揺れるのは、光雲の大層なお気に入りだ。
彼のこの混じりけのない黒髪を好んでいる点については、あの気に食わない女と同意見そうなことが、無性に光雲を苛立たせたのは言うまでもないことだった。
思い出したら、また沸々と苛立ちが湧いてくるのだから、どうやら自分は考えている以上に彼に触れられたのが嫌だったらしい。随分と狭心なことだと苦笑いが浮かんでしまう。
「……光雲?」
「ん~」
無言で髪の毛の水分を取り除いている光雲の様子を気にしてか、王子がこちらを伺いたそうにそわそわし始めた。
あまり動くと光雲が乾かしづらくなることをようく分かっているようで、こちらを気にしつつも頭を動かさないよう耐えている姿がなんとも可愛らしい。
そんな彼を見ていたら、少しだけ悪戯心が顔を出し始めてしまうものだ。にこり、と口角に笑みが自然と浮かぶ。
「……っ!」
「ふふ」
これはいい機会だ。彼が動けないのをいいことに、好きにしてしまおう。
乾き始めてふわふわしてきた髪の間を縫うように、彼の首元に唇を寄せてみた。そのまま撫でるように吐息を吹きかければ、耐えきれなくなったのか、ひっと王子から息を飲み込む音が聞こえてくる。
「こ、光雲! あまりからかうなっ」
「人聞きの悪い。別にからかってなんかないよ。王子が気にしすぎなだけじゃない?」
「~~!」
口では到底こちらに勝てっこないのだ。光雲の口ぶりに何も言い返せないのか、ピクリと身体を震わせながら、それでも拳を握りしめている。その耳元は、風呂上りだというのも差し引いても隠しようがないほどに真っ赤に染まっていた。
……少し、からかい過ぎたのかもしれない。それでも、こうして、王子が自分に対してだけ素直な反応を示すことがなんともくすぐったくて、ついあれこれしてしまうのも許してほしいものである。
くるくると彼の癖毛を指に絡めながら、すう、とゆっくり息を吸い込む。あの、王子には到底似合わない甘ったるい香りなどではなく、うっすらとした石鹸の香りが鼻を掠めた。
いつもの、光雲が何よりも好んでいる、王子の香りだ。そこで、ようやっと全身を穏やかな安堵が包み込んでいく。
「……だ~! 光雲! もう十分髪は乾いただろう」
「う~ん。まあ、確かに乾いたかな」
さすがにこそばゆさに我慢がならなくなったらしい。もう勘弁してくれと言わんばかりに王子が勢いよく振り向いた。羞恥からか、耳と言わずに顔中を真っ赤にして、妙にうるんだ瞳が懇願するように光雲を見つめてくる。
ごくり、と自然と光雲の喉が鳴る。全く、勘弁してほしいのはこちらの方だ。なんだか堪え切れなくなって、光雲は王子の胸元に飛び込んだ。そのまま、王子の背中に腕を回してぎゅうと抱きしめる。
「……っ!? 光雲?」
「ね、王子。いいでしょ?」
戸惑った様子の王子を放っておいて、そのまま、彼の腰から背中にかけて指を這わす。つう、とゆっくり撫でていけば、びくりと大きく彼の身体が跳ねた。
ぺろり、といつの間にか乾いていた唇を舐める。ずうっと我慢していたのだ。忍務だからと飲み込んではいたが、恋人が無駄にべたべたとよその女に触れられて、いい気がするはずがない。
こうして互いの温度を感じられるのだってかなり久々なのだから、光雲だって思う存分、彼を堪能したいのである。
「これからか!?」
「うん。王子だって、寂しかったんじゃない?」
彼の反論を封じるように、ゆっくり、一つずつボタンを外す。夜着のゆるんだ胸元から、彼の鍛えられた胸筋につつと指を這わし、そこへと唇を寄せてみた。そのまま軽く吸い付いてやれば、彼の唇から熱い吐息が零れ始める。
ちらり、と彼を見上げる。顔を真っ赤にした王子は、それでもどうにか堪えるようにぎゅうと瞳を閉じていた。
中々に頑固なものである。なんだかんだで光雲に甘い彼が、ここで踏みとどまれるわけがないというのに。
「……っ光雲」
「ふふ、なあに」
口や指で彼の欲を煽れば、降参と言わんばかりに、懇願をはらんだ切羽詰まった声が上から降ってきた。その声音は空気を揺るがすように少しだけ震えている。
抵抗力が緩んだのを察して、そのまま王子をベッドに押し倒せば、腕で顔を覆いながらもそろりとこちらを見上げてくる彼の姿が視界いっぱいに広がった。
その瞳に映る、隠しきれない欲の色が、光雲は何よりも好きだった。この熱に浮かされた瞳だけは、世界中どこを探したって、自分にしか向けられることなどないのだ。
たった一つの、光雲だけの一等大切な宝ものだ。
「……言っておくが、俺だって我慢してたんだからな」
拗ねたように唇を尖らせる彼につい笑みが広がってしまう。そうだ。光雲が苛立ちを抱いたように、王子だって光雲以外の者に触れられて、いい気がするはずがないのだ。忍務だから仕方ないと、どうにか耐えていただけで。
彼にここまで深く触れられるのは、たった一人、己だけなのだ。それほど、ほかの者とは一線を画すぐらいに、彼に許容されていることなど光雲が一番よく知っている。
「うん。……うん、そうだよね。……ねえ、王子」
――もういいでしょ?
光雲の言葉に、ゆっくりと腕を目元から離した王子が、こちらに向かって手を伸ばしてきた。首元に回されるその手のひらが、彼の欲をそのまま表したかのように、どうしようもなく熱かった。
ふっと燭台の灯りを消し去る。しん、と静まった暗闇の中で、窓から差し込む月明かりだけが、包み込むように二人を淡く照らし出していた。