臆病者と愚か者 遠くから雀の鳴き声が聞こえた。瞼を閉じていても感じられる眩さに、耐え切れないというように谷村は目を開いた。朝だ。遮光カーテンの隙間から漏れ出る光が、雄弁にそう伝えてくる。
隣で、谷村の腕にしがみつくように眠っている男には目もくれず、緩慢に寝そべったままもう片方の腕を伸ばして、ベッドサイドに置いていた携帯をつかむ。無機質な液晶には木曜日、六時十三分と表示されていた。
「……可燃ゴミか」
ぼんやりとした脳のまま、呟いた。ふと隣に目を向けると、秋山は変わらず眠ったままだった。谷村の掠れた声如きでは、この寝汚い男が起きるわけがないのだ。谷村も、もとより期待していない。
谷村の仕事は休日が不定であり、そもそも少ない。そのため平日であっても谷村が休暇であれば、多少無理をしてでも予定を合わせ、体を重ねることが多かった。今回も同様で、昨夜水曜日は互いに仕事で疲れた体で酒を飲み、その浮かれた頭のまま秋山邸に向かって、なだれ込むように唇に噛み付いた。
話が少し逸れた。そうして、行為で疲れているせいもあるだろうが原来面倒くさがりである秋山は、翌朝際限なく眠り、ゴミ出し朝食出勤準備、あらゆるものを投げ出すのである。谷村は休日であっても、平日であるため出勤をしなくてはならないというのに。そのため、秋山を起こし、覚醒するまでにあれこれと世話をしてやるのが行為をした翌朝の谷村のモーニングルーティンになっていて、秋山の地域のゴミ収集日なんて、当然もうすっかり頭に入ってしまっている。曜日を見れば無意識に連想できるほどに。
とはいえ、今朝はまだ起こすには早い。先にゴミを出して、朝食の準備でもしてやろう。せっかく早く起きたのだから少し凝ったものを。そう考えて、すうすうと穏やかな息を立てている秋山を眺めながら、体を起こす。しがみつかれている方の腕を、そっと引き抜く。当然、秋山は眠ったままだ。カラになったその場所を、大切そうに抱きしめているその姿がなんだかおかしくて、谷村は思わず乾いた笑いを漏らした。
無精髭を生やして、うっすらと口を開いて、眉を下げただらしない寝顔の男。それが数時間前は自分の下で快感に悶えて、体をくねらせて、喘いでいたのだと思うと不思議な気分だ。愛おしい、というのか、恋しいというのか、なんというか、よくわからない感覚になる。
行為中は気持ちが良いし、この人がもっとほしいという感情でいっぱいになる。現にこうして何度も体を重ねる程度には秋山を好意的に思っているわけだが、秋山の告白から始まったこの関係が、谷村は自分の中でうまく受け入れられていなかった。
秋山は、自分のことが好きらしい。自分に抱かれるほどには。けれど、自分は? 自分は秋山が好きなのだろうか。事後は毎回こんな疑問が浮かぶ。その度に、「まあ好きなのだろうな」とどこか他人事に答えを出して、なあなあのまま終わらせるのだが。
そんな谷村の曖昧な様子を秋山も察しているだろうに、ピロートーク(というには互いにタバコに縋っているが)中穏やかに笑うのだ。踏み込まない。求めない。与えられるものを大切そうに抱きしめる。それだけの態度が、谷村の心をどうしようもなくざわつかせる。どうして手を伸ばさないのか。そう聞きたくても、彼が持つ苦しい過去が、彼をそうさせたことが何も言われずともわかるから、言葉にできないままだった。
だから、彼がほしいのならば自分から行動しなくてはならない。それもわかっているのに、本当に彼を求めていいのだろうか。そんな迷いが、この曖昧な関係を長引かせている。
数ヶ月前、彼の部屋に初めて訪れた時のやり取りを思い出す。谷村が手を入れている今より何倍も乱雑に物が落ちている部屋にとても驚いた。彼のオフィスのデスク周りから、秋山が整理整頓ができないたちであることはわかっていたのだが、その想像をはるかに超える有様は、いかに秋山の優秀な秘書が努力してフロアを綺麗に保っているかを浮かび上がらせた。
宅飲みの予定を変更して、掃除をすると告げると、秋山はぶつくさと文句を言いながらも従ってくれた。その最中、大量の空のペットボトルを洗っていると、古雑誌を縛りながら秋山が声をあげたのだ。
「いやぁ助かるなあ。また何週間かしたら掃除しに来てよ」
なんともお気楽。そんな様子の秋山に少し腹を立てながら返事をする。
「嫌です。ゴキブリとか出かねない部屋来たくないので」
「ええ〜? そんなこと言わないでよ」
ピシャリと言い切れば、いかにも残念そうに食い下がってくる。
その過剰なリアクションが妙に引っかかった。思わず口を開いた。
「まあ……逆にアンタが人並みの掃除と料理の習慣ができたら、毎日でも来てやりますよ」
なんとなく照れくさくて、顔を背けてそう呟く。しかし、秋山からの返事はなかった。いかにも浮かれた言葉が返ってきそうなのに、と怪訝に思って顔を向けると、慌てたように「じゃあ頑張っちゃおうかな」と作り笑いを浮かべた。その顔が、今でも忘れられないでいる。
少し回想に耽りすぎた。ハッとして再び携帯に目を向けると、六時三十八分と表示されて、少し慌ててベッドから降りようとした。もう少しで秋山を起こし始めなければいけない時間になってしまう。
その瞬間だった。秋山が谷村の腕を引いたのだ。谷村は少しつんのめった。
「秋山さん?」
「…………」
声をかけても、いかにも寝起きというようなぼんやりとした目で谷村を見つめるだけでなにも話さない。
「どうしたんですか」
けれど、なぜだか声をかけ続けなくてはいけない気がして。小さく首を傾げて問いかける。
すると、秋山の瞳が迷うようにさまよって。ためらうように口を数度開閉して。数秒の無言のうち、口を開いた。
「もう少しだけ、いてよ。ダメ?」
おどけたような表情。小さく笑って、あくまでも冗談というように。あの時の作り笑いと重なって見えた。
なにを求めているのか、なにを怖がっているのか。谷村には痛いくらいにわかっていた。だから。
「……ダメです。ゴミ、出しに行かなきゃなので」
拒否の言葉を伝える。だって彼が本当に欲しがっているのは、行ってしまわないことではなく、戻ってくる確証だ。ずっと、ここにいるのに。そんな言葉も浮かんだが、それを伝えるには、まだ勇気が出なかった。それが無性に悔しいと思う。
「……そっか。じゃあ仕方ないね」
秋山はそうへらりと笑った。瞳に寂しさが浮かんでいるのが、見ていられなくて、口を開く。
「……だから、十分だけです」
そう言うのが、今の精一杯だった。
谷村がゴミ袋を持って、秋山家のドアを開いたのは七時三分のことだった。