この「 」を。***
義子が獄中で自ら命を絶ち、火葬されたと知らされた時、世界が真っ白に醜く歪んだ。
私があの子に、あの子の人生に介入しなければ。こうはならなかったはずだ。
私が引き取らなければ。
私が夜空の美しさを教えなければ。
私が元教え子と引き合わせなければ。
あの審問官の言う通りだ。私は自分の前科を忘れたいために、保身のために神学に転向し、頭の良い哀れな貧民を引き取り、善い人間を演じ、取り繕い生きてきたのだ。
そしてまだ、この期に及んで、あれは本当に罪と謂れるようなものなのか? と頭の片隅では疑問に感じながら、我が身大事さに世間の目を恐れて言葉を飲み込んでいる。
あの子は偉大だった。
あの子には無限大の可能性があった。
あの子の瞳には揺るぎない知性が宿っていた。
だから、燃えカスに残った式の計算修正をした時、かつての自分の思いを乗せてしまったのだ。愚かにも。
ただし、もう終わったことだ。私の行いは全て裏目に出、有能な元教え子と聡明な義子は消え去り、私はこれから後悔に苛まれながら生きるだろう。だがきっと、あの子が深い絶望の中で自死を選んだことよりも辛い事象は無い。
私は、あの子の遺品を整理していた。偲ぶ資格も無いと思えて、手元に残しておくことは出来なかった。
あの子がこの家に来たばかりの頃に贈った本が出てきた。字を習い始めたばかりの、初心者向けに描かれた易しい本だ。それも天文の…あの子はよく晴れた夜、月を見るのが好きだった。
とはいっても、お日さまとかお月さまとかお星さまとか、簡単な単語と説明が描かれているような本だが…それが本棚の、神学や幾何学の本と同じ列に入っていたのだ。今や大学に合格するようなあの子が、最近になってまたこれを? と疑問に思いながらページをめくっていると……中から、メモ書きのような小さな紙が一枚出てきた。
〇
ポトツキさん。
僕は、仕事帰りのあなたを見かけるたびに取り入り、何とか気に入られ、ここの家の子になりました。
この家に来てからの素晴らしい日々に、僕は多大な感謝をしています。
思い付くまま筆を走らせたような散文の後、短い詩が綴ってあった。
しかしその詩は、なんとも稚拙な出来だった。何より誤字が多い。内容も冗長で、知っている単語を無理やり繋げたような、韻を踏むためにこじつけたような単語が並び、まるで……世間一般の、かつ学校へ通える裕福な12歳の書いた初めての詩。そう言ってみると何の違和感もない。
つまり、そこが最大の違和感であった。
昔、私達の間で暗号の手紙を書くのが流行ったことがあった。あの子が字を習いたての頃、一行の中に何か所か綴りミスがあった。私はそれを指摘しながら、ミスをした文字を抜き出してみせ、ひとつの単語を作った。偶然にも、それは月を表す単語になった。まるで、二人の間だけに通じる暗号文のようだった。
それが面白かったのだろう、あの子はわざと綴りをミスした文章を紙の端切れにメモ書きし、私に渡してくるようになった。……家にある本を片っ端から読破し、めきめきと学問を吸収していくようになってからは、そのような遊びはしなくなっていた。
私は、あの時のように綴りのミスがある部分を探し、その文字を繋ぎ合わせていった。
「山」「観測」「オリオン」「中心」そして、もう一つの単語は……。
以前、私は元教え子に、絶好の観測が出来る場所を教えたことがあった。
まだ、「あの説」が教会の御意思に背くなんて思いもしなかった頃だ。
そこは星の観測にもってこいの高台だった。
〇
手紙だけを握りしめてその場所に着くころには、夕暮れ時になっていた。
そして、中心が凹んだ山を挟むように向かい合わせになった岩に、印が彫られているのを見つけた。
苦しみも悲しみもずっと頭を支配しているが、それ以上に何かを為さなければ、という思いがこの重たい体を引きずっていた。
何があるのかも分からない。ただ、暗号の最後に出てきた単語に、あの子が私に伝えたかったものを確かめるために、見つけるために、私は山を登る。
………「秘密」を。
かくして、私は石箱を見つけた。子どもの力でこの石箱を用意するのは難しいだろうから、これは元教え子が用意したものだろう。
これさえなければ、あるいは……と、己のことは一旦棚に上げ、苦々しい思いでその蓋を開く。
そこには、二人の生きた証があった。
元教え子の手紙の内容は…彼は自身が諦められないまでも、あの子に決着をつけさせ、終わりにしようとしていたのが伺えた。
それでも私は、最後まであの子を巻き込んだことが許せず、震える指でその手紙を破り捨てた。
もう一つは、あの子の手紙だった。署名は無いが筆跡を見て間違いないと確信した。
私には、それを破り捨てることがどうしても出来なかった。
『この星空の秘密を捧げる。尚これにより利益が生じた場合……』
もしこの秘密が受け入れられる世であったなら、どれほど良かっただろうか。
知的探求心が、教会の教えに沿ったものであれば……いや、どうしてあの仮説が教会の教えに完全に背くという解釈になったのかは未だに……否、仮定に仮定を重ねてもどうしようもない。
この石箱が、手紙が、ここに書かれている私の名前が、いつか誰かに見つかったなら……私はきっと今度こそ火刑に処されるだろう。
…だが、この「秘密」を…息子を、もう一度火にかけることは、私にはどうしても出来なかったのだ。
ならいっそ、この石箱の内容をどこかに持ち出し、誰かに託すことも出来るのかもしれない。
だが、二度も下手を打ち失敗した私には、そんな気力も無かった。
ただ、この…息子の証をこのままにしておく…
息子が本棚に残した、こんな私に最大限配慮された小さなメモ書きだけを握りしめ、愚かな私は、嗚咽とともに山を下りたのだった。
<了>
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2025.1.12 @kedamaaax100(Bluesky)