休暇任務「──やっぱり、これは実質休暇みたいなものね」
デーゲンブレヒャーは運転席でハンドルを握りながら、暖かな陽射しをたっぷりと浴び穏やかにそよぐ草原を眺めた。誰かが植えたわけではない雑草の花があちこちに咲いている。
この地域の気候は非常に暖かく、デーゲンブレヒャーは上着とネクタイを外し橙色のシャツのボタンを数個開け、普段よりもラフな格好をしていた。
人の気配が少なく、開発の手も入っていない心地よい田舎。ロドスのバンは未舗装の道を小刻みに揺れながら進んでいく。
「何となく思っていたのよ、ドクターから話を聞いた時にね。この景色を見て確信したわ」
「──私もだ。ほぼ休暇のような任務を与えて、我々を休ませようとしているのだろう、ドクターは」
助手席に座ったエンシオディスは眩しい日差しに目を細めたあと、わずかに微笑んだ。
「別に、休みが必要とは思っていないのだけど。これでも任務なのだから、さっさと終わらせましょう。本来この程度の任務なら私一人でも十分よ」
存在感の薄い辺鄙な田舎の村および近辺の集落の鉱石病の感染状況の調査、それが今回二人に課された任務であった。
鉱石病の深刻な蔓延の防止のための調査であり、この結果に基づいてロドスは先手で鉱石病対策を行う予定だ。重要度は高いが難易度は非常に低い、そして戦闘はほぼ皆無と想定される。
「調査対象である村人にロドスを警戒させないため、戦闘の気配を感じさせない関係性を演じてほしいとの要請もあった。そのためには一人ではなく複数人の方が都合が良いと判断したのだろう」
「なら、持つ武器は減らして、見えにくいよう隠した方がいいわね」
デーゲンブレヒャーは普段着ている軍服の上着を脱ぎ、バンの後ろに積んだ荷物にしまっている。その近くには武器も置かれている。
戦闘の気配と圧を与える装備は一通り外した。見えにくいところに装備した短剣が今回の任務では主要な武器であるが、使われることはないと想定している。
「私も今回の任務では軽装を心がけよう。簡単なアーツユニットは持つが、そう大層なものではない」
エンシオディスもまたラフな格好をしていた。威厳のあるファー付きの外套は仕舞われ、普段と同じ白いシャツを着たシンプルな服装だ。
「なんだか、今のあなたを見ていると違和感を感じるわ。いつも大仰な格好をしているでしょう。シャツだけの姿は見慣れないわね」
デーゲンブレヒャーはちらりと助手席に目をやり言った。
「私も多少落ち着かない。このような軽装で活動することはまずなかった」
落ち着かない、そう言いつつもエンシオディスはわずかに口角を上げる。この状況を楽しんでいるようだ。
「問題は関係性ね。あなたは研究者で、私はその助手──これでいいでしょう。演じる、といっても普段とほぼ変わらない関係性だけれど」
淡々と喋りながら運転を続ける、デーゲンブレヒャーは永遠と草原だらけの同じ景色を眺めていて、退屈さを感じ始めていた。長く伸びた一本道の終わりは未だ見えない。
そんな気だるさのある空気が、エンシオディスの一言でぶち壊された。
「──夫婦。関係性はこれでいく。他は認めない」
デーゲンブレヒャーは一瞬急ブレーキを掛けそうになったものの、持ちこたえる。
「正気なの?」
どのような表情をしたらいいか分からず、結局いつも通りの淡々とした表情をしながら、とりあえず相手の思考が正常かを確認する。
エンシオディスは草原の景色を眺めながら、表情を変えずに淡々と返した。
「デーゲンブレヒャー、今からお前は私の妻だ」
デーゲンブレヒャーはため息をついた。このように断言をするときのエンシオディスの考えを変えさせることはほぼ不可能であると、短くない付き合いの中で経験していた。
「妻らしい演技なんて分からないのだけど」
「普段通りで問題ない。関係性を問われた時にのみ、そう答えてくれ」
この男は一体何を考えているのか、デーゲンブレヒャーは今までもそう感じたことは多々あれど、今は殊更そう感じた。
しかし、ロドスやカランド貿易内で妻として振る舞えと言われれば断固として断っているが、今は辺鄙な田舎村にいる。再度訪れるかも分からないここでなら演じるくらい良いだろう。そうデーゲンブレヒャーは判断した。
見知らぬ男女の関係性としてわかりやすい上、先手で演じてやればそれ以上詮索されることもない。
「それにしても妻、ね。もう十年以上もボディーガードとして置いている人間をそういう風に扱えるの?私はあなたのこと夫と思えるか分からないわ。まあ、それなりに演ってみるけど」
「………」
デーゲンブレヒャーは拍子抜けした、あれほど強気の態度であったのに、その妙な無言は何かと。
「何?本当は私のこと妻だなんて思えないんじゃないの?」
「いや、そのことに関しては全く問題はない。計画は既にある」
「計画?……まあ、あなたの考えがよく分からないなんていつものことだし、いつものように従うけれど」
車内は静かになった。暖かさのある柔らかい風が半分開けられている車窓から入り込み、そしてまた外へと流れ出ていく。
この風を感じながらの読書はさぞ心地いいだろう、デーゲンブレヒャーはバンを停め、後ろの荷物から本を取り出したい欲に駆られたがあいにく今は任務中だ。
──休暇じみた締りのない空気感はどうも慣れない、そんなことを考えていたところで、エンシオディスが不意に言葉を発した。
「私を夫と思うことはそんなに難しいことなのか?」
その質問と先程の妙な無言からデーゲンブレヒャーは何となく、エンシオディスが懸念していることを察した。
──なぜ、エンシオディスにとって自分のことを夫と思ってもらうことはそんなに重要なことなのか。
しかし、その疑問を追及する気はデーゲンブレヒャーには無かった。エンシオディスの思惑が何にせよ自分がすべき任務において重要なことではない。
エンシオディスとはもう十年以上の付き合いがあるが、昔から彼自身のことについて深入りはしてこなかった、そしてこれからもそうするつもりだ。
「別に、夫婦というものがよく分からないだけよ、両親もいなかったから」
「そうか」
エンシオディスは相変わらず語らない。頭の中では相当なことを考えているだろうに、それが言葉として発されることはほとんどない。そのような振る舞いにとうに慣れているデーゲンブレヒャーは深追いはせず、再び運転に集中した。
会話は終了し、車内は静寂に包まれた。
永遠に続くかと思われた草原の一本道の先に、素朴な建物の屋根が見え始めた。
「──ということで、しばらく泊まれる所があるといいのだけれど」
デーゲンブレヒャーたちは村人から聞いた建物に向かったのちにフェリーンの村長と対面し、ここに来た理由の説明をしていた。人の良さそうな村長は今は誰も住んでいない空き家を使ってもいい、と快く提案した。
「ありがとう、とても助かるわ。何か人手が必要なことがあったら遠慮なく言ってちょうだい、体力には自信があるから」
村長は朗らかに笑いながら、お客さんを働かせる訳にはいかない、そう伝えてきたが、デーゲンブレヒャーは遠慮はいらないと再度念を押して言った。
今回の任務の目的通り、村人たちにロドスを警戒させず好意的に思ってもらうためには、この村になるべく貢献する必要がある。
村長から提案された空き家へと向かう。そこはしばらくの間誰も家主がいなかったからか、庭は雑草が生え散らかし、室内は埃っぽかった。
村長は片付けるまで待っていてほしい、と言っていたものの、自分たちでやるので大丈夫だと伝えていた。
バンを庭に停め直し、荷物を室内へと運んでいた時だった。好奇心旺盛な村人が、ちょうど庭にいたエンシオディスに声をかけてきた。
「村長が言ってたお客さんか?こんな何もねえ村によく来たな!さっき家ん中入ってったのはあんたの奥さんなのか?どえれえべっぴんさんだな!」
健康的に日焼けしたリーベリの青年はハキハキとした口調で話した。
「ああ、そうだ」
エンシオディスは始め、少し呆気にとられていたものの、微笑みを作りながら答えた。
ロドスではエンシオディスに対してもそのような態度を取る者が少ないとはいえいたが、イェラグにおいてはまず有り得ないことだった。エンシオディスはこの穏やかな村にイェラグの雰囲気を見出していたからこそ、青年の態度に一瞬だけ違和感をおぼえた。
「……」
荷物を運び終えちょうど庭へと出てきていたデーゲンブレヒャーはしばし絶句したあと、何事もないかのように切り出した。
「これからお世話になるわ。デーゲンブレヒャーよ」
“奥さん”に関しては肯定も否定もせず──”そういう計画”だからだ。
「ほー、珍しい名前だなあ」
青年が不思議そうに呟くのと同時に、遠くから怒鳴るような声が聞こえてきた。
「やっべ!あ、おれ畑仕事サボってんだ今。じゃあ戻るわ!何もねえけどこの村楽しんでけよな!」
にかりと笑った青年は大きく手を振りながら去っていった。
「──朗らかな青年だ。この村のおだやかな雰囲気もだが、テラにしては珍しい平和的な村のようだ。どことなくイェラグにも似ている」
微笑みながら話すエンシオディスに対して、デーゲンブレヒャーは複雑そうな表情をしていた。
「こちらから言わずとも、見ただけで妻だと思われるなんてね。初めての経験だったわ」
「何か不満でもあるのか?」
「不満……というものでもないけれど。単純に違和感があっただけよ」
「違和感、か……まあいい。私たちを知らない他者の目には夫婦に映る──朗報だ」
デーゲンブレヒャーの訝しげな視線を気にもせず、エンシオディスは肩に手を当て、軽く引き寄せた。
「……何のつもり?」
「振り払わないのか」
「お望みならそうするわ」
眉根を下げ、寂しげな表情をしたエンシオディスを見て、デーゲンブレヒャーは調子が狂うのを感じた。
「これも夫婦ごっこの一環なの?それなりに付き合いがあるけれど、あなたが演技好きとは知らなかったわ。けれど、村の人が誰もいないところでまで演技する必要はないでしょう」
「どこで誰が見ているかわからない──そんな言い訳で今は納得してくれないか──いや、今だけでなく、この任務中は常に」
「はあ、そう」
デーゲンブレヒャーはもうこの男のなすがままに従おうと決意した。追及も反抗も面倒、ただただ面倒だと感じた。
小さな家の、小さなテーブル上で、小さな会議は始まった。ドクターから提供された資料一式を並べ、今後の計画を立てる。
「村長の話しによると、この村の付近にはいくつか集落程度の小さな村があるようね。すべきことは、村の人に生活状況を聞いて、鉱石病に類する事象がどれほどあるのか確かめること──そして、ついでにロドスの支部を設立できそうな土地の調査」
デーゲンブレヒャーは地図を指さしながら説明する。
「大体この辺りね、集落が点在しているらしいわ。距離も近いからそこまで時間はかからなそうね。今日も少し活動して、早めにすべきことを終わらせましょう」
「ドクターから提供された期間は二週間ある、そこまで急ぐ必要はない」
諭すように話したエンシオディスは、コーヒーを一口飲んだ。
「二週間は長すぎるのよ、早く終わらせる分には問題ないわ」
デーゲンブレヒャーは、やたらと期間が長くろくに戦闘訓練の出来ないであろう任務で体がなまることを懸念していた。
──そして、この奇妙な夫婦ごっこをなるべく早く終わらせたい、とも。
「折角のドクターの計らいだ、今はそれに甘んじるべき時だろう。ただの休暇を与えれば、私たちはカランド貿易の仕事をする──それでは休暇にならないと見越してこのように任務として与えたのだと予想している」
「休暇、ね……私はまともに訓練が出来ない状況で体が鈍るのを危惧しているの」
「お前の言う鈍ると世間一般的な鈍るには相当な開きがあるだろう。大した問題ではない」
「私はあなたを守る剣なのよ。あなたを死なせないためのね」
エンシオディスはしばし沈黙した。
デーゲンブレヒャーのこの言葉が示す事実は、エンシオディスにとって最も大事なことであると同時に悩みの種でもあった。
エンシオディスがデーゲンブレヒャーを傍に置く最大の理由であり、それによって二人の関係性は他の形を得にくくなっている。人知れず、エンシオディスは自身の望みとの理想の落とし所を長らく探し求めていた。
「お前は道具ではない。それに、今は私の妻なのだから」
「はあ……分かったわ。なら、あなたが二週間分の計画を立ててちょうだい。私はそれに従う」
満足げに頷いたエンシオディスに対して、デーゲンブレヒャーは呆れたようにため息をついた。
──結局初日は大して行動せず、荷物の整理と借りた家の片付け、村の人の農作物の運搬を手伝った程度で行動を終了した。夜は村長が歓迎会と評して二人を宴会に誘ったため、村の事情の把握も兼ねて参加していた。
「まさか、あんなに質問攻めに合うとはね」
夜、家に帰ったデーゲンブレヒャーは武器の手入れをしながら疲れきったように呟く。
既にフェリーンとキャプリニーの異種族夫婦の噂は村中の人が把握しており、注目の的だった。どこから来たのか、馴れ初めはどうだったのか、どれくらいの付き合いがあるのか──等非常に様々な質問をひっきりなしに投げかけられていた。都度、事実も交えながら何とか偽装した。後半は人々の関心がイェラグに移ったのが幸いだった。
エンシオディスは、デーゲンブレヒャーが武器の刃を研ぐのを眺めながら話した。
「警戒や敵視をされていないのは良い状況だ。おかげで多少情報を入手できた」
「まあ、そうね」
たわいない会話のさなか、いくつか村についての話しにもなり、二人は 『村の生活用水の湖のひとつが、少し前の嵐で倒木などが積み重なりせき止められてしまっている』という話を聞いていた。ここで何らかの対処を施せば、ロドスの印象は良いものとなるだろう。
「それにしても、演じる上で仕方のないものは話してもいいけれど、あまり突飛な嘘はつかないでね、後々面倒になるから」
「ああ、もちろん考慮している」
そんなエンシオディスの言葉を、デーゲンブレヒャーは疑わしく思った。
『子供はいるのか』との質問に「いつかは欲しいものだ」と答えていたのを、デーゲンブレヒャーは逃さず聞いていた。おおよそ夫婦を演じる上での建前であろうが、確実に有り得ないことをああもさらっと話してしまうのは如何なものか。
「まあ、あなたのことだから色々と策はあるのでしょうけど。じゃあ、そろそろ私は休むわね」
丁寧に手入れされた武器を鞘に収め、デーゲンブレヒャーは二階へ続く階段を上ろうとした。
「おやすみ、デーゲンブレヒャー」
当たり前な、今までもしてきた日常のことかのごとく自然な口調でエンシオディスは声をかける。その珍しい振る舞いに拍子抜けしたデーゲンブレヒャーは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……おやすみなさい、エンシオディス。じゃあまた明日」
デーゲンブレヒャーはわずかに微笑んだあと、階段へと進んだ。
「……」
一人リビングに残されたエンシオディスは軽く目を瞑りながら今しがた起きたことを反芻していた。先程の寝る前の挨拶にはデーゲンブレヒャーを試す意図もあった。滅多に交わすことのない挨拶にどう対応するのか。
──応えはきちんとした返事、そのうえ彼女は微笑みさえした。
お互い同じ家にいて、寝る前に挨拶を交わす日が来るとは。
まるで本当の家族かのように。
「この関係が、これからも続くといいのだが」
去り際の微笑みを思い出しながら、エンシオディスは夫婦関係がかりそめのものでしかない事実に、胸を締めるような切なさをおぼえた。
デーゲンブレヒャーは暗い階段を手持ちのランタンで照らしながら上っていた──思えば、お互い同じ家にいて、こうして寝る前に挨拶を交わすようなことは今までになかった、そんなことを思いながら階段を一段ずつ進む。
自室につく、狭いその部屋にはシンプルなベッドが一台と簡素なミニテーブルが一つ。
ミニテーブルにランタンを置き、電気を消した。室内は窓から入り込む月明かりにだけ照らされている。テーブルの近くの床に武器も置いておく。
デーゲンブレヒャーは髪をほどきながらベッドへと向かう。長い金髪が動きに合わせてふわりとなびいた。
「……」
ベッドに腰かけ、デーゲンブレヒャーは深呼吸をした。
──今日は色々と妙なことが起こりすぎた。
そして奇妙な契約はこれからしばらくの間続く。
色々と出来事を反芻し始めた脳を意図的に切り替える。明日は早くから行動する予定がある。
横になったデーゲンブレヒャーは、このベッドは一人でも狭い、そんなことを考えながら眠りについた。
「……まだ暗い時間ね。丁度いいわ」
デーゲンブレヒャーは部屋の窓を開け、ひんやりとした空気を取り込む。
まだ朝日が頭の先さえ見せない時間帯に、デーゲンブレヒャーは起床した。昨晩この部屋に来た時とは逆の行動をしながら支度をする。髪の毛を結び、テーブルに置いたランタンを手に取り灯りをつける。武器を持ち静かにドアを開け、出た。
「……」
何となく思い至り、隣の部屋のドアを一切音をたてないようそっと開ける。灯していたランタンを消す。
自身の部屋と同じような内装、窓際に置かれたベッドではエンシオディスが規則正しく寝息をたてている。
もし起きていたなら連れていこうかとも思っていたが、デーゲンブレヒャーはそっとしておくことに決めた。
少し乱れている掛け毛布をちゃんと肩まで掛け直す。端正な顔立ちで、色白だからかその寝顔は人形のようにも思えた。
デーゲンブレヒャーはエンシオディスの寝顔を以前も見たことがあった。エンシオディスが休んでいる間、周囲を見張っていた経験が幾度かあるからだ。しかし、こうしてじっくりと見た機会は無かったような気がしている。
──だから何かある、というものでもないのだが。
そっと部屋から出る、静かにドアを閉めた。階段を降り、リビングの小さなテーブルに地図を出す。村人から聞いた生活用水の水源である湖のおおよその位置を把握する、この家からそう遠くない場所にあるようだ。
デーゲンブレヒャーは武器の様子を確かめ、装備を整えた、ロドスでオペレーターとして活動する時と同じものだ。軍服のジャケットを羽織れば意識が引き締まるのを感じる。やはり任務といえばこれだと感じながら、家から出る。この威圧感のある姿を村の人に見られないよう、真っ暗な道を進んでいく。
時折ランタンで地図を照らしながら場所を把握する。
「これは、結構な嵐が来たようね」
村の人は嵐が来たのは少し前のことだと言っていたが、森の中は未だ荒れ果てていた。細くはない木々が折れてしまったものがあちこちに倒れ足場を悪くしている。
そのうえ朝方のまだ暗い時間帯、生活用水を引いているという森の中は非常に暗く、問題の場所へと辿り着くのには時間を要した。
とはいえ、邪魔な倒木はデーゲンブレヒャーが軽く武器を振るうだけで木っ端微塵になるのだから大したことではない。それら破壊した木々を丁寧に一箇所に集め、他者が森の中に来たときに進みやすいようにと気遣っての行為が時間を消費していた。
ようやく問題の湖へと辿り着く。暗いゆえに全貌がよく分からないが、確かに多くの倒木があるように思えた。
どう対処するか──とりあえず目の前のひときわ大きい倒木を処理しようと武器を構えた瞬間だった。
「──!」
まばゆい閃光。アーツによるものだと瞬時に把握したデーゲンブレヒャーはすぐさま間合いをとった。
「──驚かせたか」
「エンシオディス?ああ、確かにこの光はあなたのアーツね。着いてきていたの?」
「何かを壊すような音がした上、道があったからな、ここまで迷わずスムーズに来ることが出来た」
朝方は冷え込むからか、普段通りのファー付きの外套を羽織ったエンシオディスがちらちらと白い光を舞わせるアーツユニットを手に現れた。
「あの時、起こしてくれて構わなかったのだが」
「あの時……あなたに毛布を掛けた時?起きていたとは思わなかったわ。それなら喋るなりしてくれれば良かったのに」
「お前が寝ている私に対してどういう行動をするのか、気になっていたのだ」
「そう、別に何もしないわよ」
何かと自分自身を試すような行動をとるエンシオディスに対して、同じように何か試してみようかと何気なくデーゲンブレヒャーは思った。
エンシオディスはわずかに微笑んでいるかのような、柔らかい表情で言った。
「毛布を掛けてくれただろう。お前のそういった気遣いが私は好きだ」
「それはどうも。珍しく饒舌ね。ところで、私の計画はあなたに見抜かれていたの?」
「昨晩の村人の会話と、お前が武器の手入れをしていたことから予想していた」
エンシオディスは杖状のアーツユニットを掲げ、光のアーツを使用した。光が目立ちすぎないよう、器用に湖周辺のみをささやかに照らしている。それにより湖の水路をせき止める倒木の位置が明確になった。
「お前のことだ、村人に武器の使用を見られないよう早朝のまだ暗い、大半の村人が寝ているであろう時間帯に行動すると予想していた。ならば私のアーツがある方が都合がいいだろう」
「ええ、その通りよ」
言い終わるがいなや、デーゲンブレヒャーは速やかに移動し、次から次へと倒木を木っ端微塵にし始めた。せき止めていた湖周辺の”壁”は脆く崩れさり、溜まっていた水が水路へと解放されていく。
「──こんなものかしらね。はあ、多少はトレーニングになるかと思っていたのだけれど、全く大したことなかったわね。ほとんど運ぶ作業だったわ」
「全く動かさないよりは足しになるだろう」
「まあね。今崩したのも、すぐに片付けるわ。アーツを使うのは疲れるでしょう」
喋りながらも、デーゲンブレヒャーは一箇所に次々と細切れの木々を投げ込んでいく。そこにはある程度大きなものも含まれていたが、軽々と投げられていた。
エンシオディスは手伝おうかとも思ったが、その軽快な仕事ぶりを見ているのは気持ちよく、また下手に手を出さず彼女のやり方に任せた方が早いと結論を出した。
「終わったわ。これで水路は使えるようになるはずよ。村に降りて確認してくるわ」
手で体についた泥や木の葉、小枝などを払いながらデーゲンブレヒャーはエンシオディスの横に立った。
「こう暗い環境だと、あなたのアーツがとても綺麗に見えるわね」
ちらちらと瞬く雪のような白い光を眺めながら、感嘆したようにデーゲンブレヒャーは言った。
「気に入って貰えたようで何よりだ」
エンシオディスは歩み寄り、デーゲンブレヒャーの肩を抱いて引き寄せた。
「汚れるわよ」
「そんなことよりも、今はこうしている方が重要だ」
エンシオディスは杖をさっと振り、湖を照らしていた光を消した、もう一度杖を振れば、小さな雪のような光がデーゲンブレヒャーの近くに舞った。
「こんなアーツの使い方もできるのね」
デーゲンブレヒャーはその光のひとつを手のひらに乗せ、眺めた。
「ロドスでの作戦中も、あなたの光のアーツがあると隠れていた敵も見えるようになって助かる時があるわ」
「そうか。お前はたとえ相手が隠れていようとも遮蔽物ごと破壊すると思っていたのだが」
「まあね、けれどもたまに妙なのがいるのよ、アーツを使っているのかもしれないわ。アーツって便利よね、私にはよく分からないけれど」
「お前がアーツまでも使えるようになったら、それこそ誰も手に負えなくなるだろう」
デーゲンブレヒャーは静かに笑った。差し込み始めた朝日に照らされた微笑みを、エンシオディスは見つめていた。
「そろそろ明るくなるわね、早めに村の水路を確認しておかないと。この姿を見られる訳にはいかないわ」
肩に回された手にそっと触れる、中々その腕を離そうとしないエンシオディスに視線で訴えた。
エンシオディスは名残惜しそうな表情をしたのちに、デーゲンブレヒャーを解放した。さっと距離をとったデーゲンブレヒャーは数歩進んだあと振り返った。
「別に二人も要らないけれど、一緒に来たいのなら、どうぞ」
「そうさせてもらおう」
たとえデーゲンブレヒャーが提案せずとも、この男はちゃっかり着いていくのだろうが。何となくずっと主導権を奪われているような、エンシオディスに丸め込まれているような感覚があったデーゲンブレヒャーは先手で提案することで、それを少しでも取り返そうと試みた。
朝日が射し込む清涼な森の中を、二人並んで歩く。朝を告げる獣の鳴き声が聞こえ始め、歩くスピードを速めた。そろそろ朝の早い村人は起きてくる頃だろう。
村の用水路につく頃には、辺りはだいぶ明るくなっていた。
村に来たばかりのころは乾ききっていて、枯葉が積もるだけであった用水路には今は清らかな森の水が豊富に流れている。デーゲンブレヒャーは手袋を外し、水面に触れた、きんと冷たい水の感覚が伝わってくる。
「用水路は復活したようね。これで仕事は終わりよ」
デーゲンブレヒャーは満足気に頷いたエンシオディスをちらりと見た。
「とりあえず私は家に戻って着替えるわ。その後は計画した通り、この村の調査を始めましょう」
「ああ、異論はない」
二人は森を歩いた時のように、誰もいない村の小道を再び並んで歩き始めた。