『嵐珠ちゃんは許してくれない』ピアノの鍵盤を前にして、私はただ黙って座っていた。
譜面の上には、途中まで書きかけた音符がいくつか並んでいる。でも、どうしても次の一音が思いつかない。どれだけ手を動かしても、心に響くメロディにならない。
─────才能がないんじゃないか。
そんな考えが頭をよぎる。
もともと普通科にいた私が音楽科に転科したのは、みんなの夢を応援するうちに「音楽」というものに惹かれたからだった。
ピアノは昼休みに遊び半分で弾く程度だったけれど、本格的に学び始めたのは最近のこと。最初のうちは授業についていくのが精一杯で、それでも必死に食らいついてきた。
でも─────
「やっぱり、才能がある人には敵わないのかな……」
ポツリと呟いた言葉は、空気に溶けて消えていく。
私の周りには、すごい人たちがたくさんいる。同好会のみんなはもちろん、音楽科には小さい頃から楽器を習い、コンクールで入賞経験のあるような生徒も大勢いる。そんな人たちと同じ土俵に立とうなんて、最初から無理だったのかもしれない。
「はぁ……」
ため息をついて額を手で覆ったそのとき
「"私なんか"って、侑。アナタ、それ本気で言ってるの?」
凛とした声が、私の背後から響いた。
振り返ると、嵐珠ちゃんが腕を組んで私を見下ろしていた。まっすぐな藍鼠色のが、冷たい光を帯びている。
「嵐珠ちゃん……」
「過ぎた謙遜はただの嫌味よ。いい? 侑」
彼女は前に歩み寄る。そして、ピアノの前に座っている私の目線まで腰をかがめた。間近で見ると、その表情は想像以上に真剣だった。
「アナタはランジュが認めた人よ」
嵐珠ちゃんが、私を認めてる?
思わず息をのんだ。
「そもそも、才能がないなら、ここまで来られるはずがないでしょ。音楽科に転科して、必死に授業についていこうとして、努力して……アナタはちゃんと前に進んでいる。でも、そんな自分のことをアナタは認めようとしない。違う?」
「……」
私は言葉を失った。
確かに、私は今まで必死にやってきた。それでも、みんなみたいに華やかな実績があるわけじゃないし、天才的なセンスがあるわけでもない。だから、"私なんか"って思ってしまう。でも、嵐珠ちゃんからすれば、それは違うのかもしれない。
「自信を持てとは言わない。でも、いつまでも腑抜けたままでいたら、ランジュが許さないから」
私の肩に、そっと嵐珠ちゃんの手が置かれる。
「侑、アナタがどれだけ悩んでも、迷っても、ランジュはアナタが前に進める人だって信じてる。その覚悟がないなら、音楽なんてやめたら?」
その言葉に、胸が痛んだ。
嵐珠ちゃんはいつも私に厳しいことを言う。でも、それは彼女が本気で私を見てくれているから。
適当に励ましたり、慰めたりするのではなく、私自身が逃げないように、わざと突き放してくれる。
「……うん」
肩の力が抜けて、自然と笑みが溢れた。
「嵐珠ちゃんには、敵わないな」
「当然よ」
彼女は自信満々に頷いた。でも、その目には確かな温かさがあった。
─────私は、前に進まなくちゃいけない。
彼女が認めてくれた私自身を、私が一番、認められるように。