黒雨 ピリリリ、ピリリリ。
雨粒が地面を叩きつける割り込んで、普段よりも音量を上げたアラームが十五時を知らせた。最低限の健康のためにもこいつには必ず従えと敦豪にもらった時計の頭を叩き、小休止に入る。
「ん……ふう」
両腕を真上に伸ばして深呼吸をし、息を吐きながら左右に倒れる。ずり落ちたサスペンダーを直しがてら肩で無限大を描くと、悩ましげともとれる声が口をついて出た。憎きはずの豪雨に助けられて事なきを得る。
まだ止まないかとデスク脇の窓を見やると、己の線の細さが目についた。相手は自分自身であるため遠慮なしに睨みつけてやる。こんと乾咳をして寒がるふりをしながら、俺はサイズがいくつも上の上着を羽織った。
「お寒いのでしたら、暖房をつけましょうか」
隣のデスクから隆景がすかさず声をかけてくる。顔を向けたときには既に腰を上げていて、さすがの気遣いぶりと言えよう。
「いや。平気だ」
「ではせめて、温かいお飲み物をお持ちします」
俺のデスクから空になったコーヒーカップを回収して流れるような動作で入り口まで退き、一礼して執務室を出ていく。彼の信仰心を無下には出来ないため泰然と眺めているが、その無駄のない美しい所作には毎度惚れ惚れとさせられている。
ただ今日だけは、凛とした隆景の態度にほんの少し不満があった。
――コウ様。もしよろしければ、次の連休に花を観に行きませんか。
隆景がはにかみながらそう言ったのは、一ヶ月も前のことだった。
観光パンフレットを広げて、俺とお揃いの色をした指先が示したのは、色とりどりの花が一面に咲き誇っている写真だった。春を前にしたこの季節に花盛りを迎えるということにまず心惹かれた。都心の傍らにありアクセスも悪くなさそうだとも知った。何より、隆景が俺のために一生懸命に選んでくれたという事実が背中を強く押したのだった。数々の決め手に俺は即決した。微かに震える唇から、隆景の期待と不安が伝わってきてこちらの胸も震えるほどだったのをよく覚えている。
ところで、一ヶ月『も』という月日が示しているのは、延期に延期が重なったということではない。ハンデッド人口拡大戦略に勤しむ俺たちにとって次の連休とは週単位先で輝いているものであるから、それ自体は何も変わったことではない。
一日千秋とはよく言ったものだ。全てはその言葉に尽きる。
初めて隆景のほうからデートの誘いを受けて、俺は楽しみにしていたのだ。花の種類やそれに纏わる言葉を調べたり、普段は見ない関東地方の天気予報をそれとなくチェックしたりと、神の仮面の裏で浮かれて過ごしていた。
ああ。この暴風雨が恨めしい。三月の嵐が寒い季節に咲き誇る花に負けず劣らず珍しいことは知っている。わざわざこんな日に主張しなくても良いものを。
飛行機が飛ばないと分かり空港からとんぼ帰りする道中、隆景はひとつも顔色を変えなかった。デートが中止になったとあれば、神の側近として控えることを優先する。彼はそういう生真面目な男だ。だから好きになった。余りに余った時間で横顔を眺めて、清廉な美しさと洒落たピアスの奏でるある種の不協和音に心を射抜かれ、ますます気持ちを募らせもした。
それでもなお恋人が悔しがる顔を期待していたのは、俺ばかりが落胆しているようで、悲しくて、寂しかったからだ。
「はあ……」
デスクに身を倒して蹲る。ため息をついたら、幸せと一緒に隆景からの信仰までもが逃げていく気がして慌てて吸い戻した。
こんこんこん、と扉が鳴る。隆景だ。三者三様に違いがあるので俺の返事はいつも早い。ちなみに信乃はこんこん、敦豪は「入るぞ」かごんごんだ。
「どうぞ」
「お待たせ致しました」
お盆には先ほどのコーヒーカップとは異なるものが乗っていた。とすれば緑茶か、紅茶か。
隆景は俺が飲みたいと思ったものをいつも絶妙なタイミングと判断で提供してくれる。長い足でゆっくりと近づいてくる間に鼻を利かせて予想するのが密かな楽しみであったが、今日は濡れたアスファルトの匂いが邪魔をしてくる。ついにはことん、と目の前に置かれるまで、いや、置かれてなお、淹れられた液体の判断が出来なかった。
「カモミールのハーブティーです」
「花のハーブ……」
カップを持ち水面をくるくると揺らすと、ほうじ茶のような色の奥から深みのある色味が浮かび上がってきた。花弁を用いて作られたそれと判る、苦さの中にほのかな甘みも感じられる香りが心地よい。
「今日コウ様にお見せするはずだったポピーとは異なりますが……せめて味覚と嗅覚からだけでも花を楽しんでいただければと」
縁に口を添えると、隆景がやけに熱い眼差しでじっと見つめてくる。おそらく無意識だろうこの行動からも、やはり俺のことを好いてくれているのだろうと実感できる。が、へそを曲げた今の俺にはこれたけでは足りない。隆景が神に向ける敬意と恋人に注ぐ愛情の境目が分からない俺になってしまうのが怖いと思ったからだ。
舌に優しい温度でハーブティーが喉に落ちていく。香りに反してかなり苦い部類に入るのだろうが、蜂蜜を混ぜてくれたのか美味しく飲めた。
「効能がとても良いお茶なんです。お身体に合うようでしたら今後もご用意しますのでお申し付けください」
隆景の説明を一通り聞き、ほうと息をついてティーカップをソーサーに戻す。その頃には、不思議と気持ちが落ち着いていた。体温とはまた違う、心の奥とでも表現すべきだろうところからほかほかと温まってくる。
喉奥から鼻に抜ける苦くも甘い香りに絆され、拗ねた口調ながらも素直に吐露できた。
「私はね、自宅デートのつもりで隆景を招いたんだよ」
「じ、自宅デート」
「なのにお前ときたら、帰宅の途についたときからずっとノートパソコンで仕事ばかり。俺のことなんて見向きもしない」
だから俺も甘い空気を味わうのは諦めて、本来まだ手をつける必要のない来週のスピーチ原稿に向き合っていた。
俺たちの関係が始まってからまだ日が浅い。俺のほうからスイッチを切り替えてみせないと、隆景は上手に気持ちを傾けられないのだ。分かっている俺のほうから行動で示すべきだった。それをしなかったのは、俺の底意地の悪さと侘しさによるものだ。
「纏めているその資料もすぐに使うものではないだろう? なのにどうして」
「それは……」
隆景の目が泳いだ。スーツの縫い目に添えられた指先がゆらゆら踊り、ゆっくり持ち上がって、心臓のあるところを押さえた。
「次の休みを一秒でも早くもぎ取りたかったから、です」
唾がごくりと喉を落ちた。
見惚れるくらいにきりりとしていて、遠く感じるくらいに毅然としていて、つい先刻まで誇らしげに茶の効能を語っていたその人が。
顔を赤くして、俯いて、語尾を萎ませて。
随分と可愛いことを言うじゃないか。
「……隆景」
「は、い」
「おいで。やっぱりデートにしよう」
俺がデスクを立ちソファに深く沈んで両腕を広げると、隆景はふらふらと幾歩かを進めてからハッと思いとどまった。
「だ……めです、信乃がいます」
「おや。隆景は離れた部屋を気にするようなことをご所望だったかな?」
口元に手を添えてくすくす笑うと、隆景は面白いくらいにカッと赤くなった。髪型が崩れるくらいに激しく首を振って、わなわな震える口元で違うと言ってみせるけれど、彼の頭に何が過ったのかは明白だった。
「さすがにそこまで大胆なことをするつもりはないが……大丈夫だよ。ほら、おいで」
誘惑に負けてとことことやってきた隆景を抱き締めて唇を啄み、喉の奥から切ない声を引き出してやる。背中に回した腕に俺と対等の力をぐっと込め、中断する気はとうに失われただろう甘い声で隆景は問うた。
「どうして、大丈夫なんですか」
「ああ、それはな」
厚く重なった雲が風に押し流されて、忙しなく模様を変えながら執務室に翳りを落とした。
「今ここでお前とこうしているのは全部、この空のせいだからだよ」
――どうせ降り止まないのなら、長く続けばいい。
隆景は俺に似た少し悪い顔をして、俺の舌を探した。