最果てにいたあなたへ雪が積もった、と誰かが叫んだ。
その日は朝からずっと雨だった。
昨日まで暖かった気温が突然芯から凍るような寒さへと変わり、空も地面もすっかり薄暗い灰色に覆われていた。
「……予習してくるようにと言ったが、……」
昼食をとった後の火器の授業ほどつらいものはない。漏れでるあくびを噛み殺し、きり丸は黒板の向こうを見つめた。濡れたまぶたをぱちぱちと瞬かせ、鼻をすする。
朗々と響く土井の声も、今のきり丸にとっては子守唄に等しい。落ち着いた耳に心地いい声を聞きながら、うつらうつらとしているうちに影が射す。乱太郎に小声で「きりちゃん」と呼ばれ、反射的にきり丸が顔を上げた。
「おはよう。きり丸」
「……えへへ」
休みの間、土井家で交わされるものとはトーンの違う挨拶に背筋が伸びる。向けられたチョークに愛想笑いで誤魔化すと、土井はちらりときり丸の懐に視線をやった。きり丸が咄嗟に利き手で隠そうとするも、土井はふむと唸っただけで踵をかえす。そのまま何事も無かったかのように授業を続けた。
バレただろうか。
じくじくと痛みの残る脇腹をさする。小言を言われるのは避けたいが、禁則事項を破っているのはきり丸であるため何を言おうと分が悪い。
昨晚は本当に散々だった。
にんたまの友をめくりながら、きり丸はへらへらと笑う赤ら顔を思い返す。
昨日はいつものように、監視の目をかいくぐって、いくつかのバイトをこなした。そこまでは良い。支払いも気前よく、まだ子供だからとイロをつけてもらったほどだ。
問題は一番最後に依頼された、酔っ払いの引き取りだ。夜半まで飲んだくれていた男を回収しようとふらつく体に手を伸ばした際、あろうことかそいつはきり丸を盗人と勘違いし、大声を上げて池に放り投げたのだ。おかげで一張羅は泥まみれになるし、今朝から鼻水がしんベヱと張り合えるほど出ている。
冬場の酔っ払いの引き取りなんてもう二度とやるもんか。いや、賃金二割増ならやらんこともないな。
懲りずにそんなことを考えながら、重たいまぶたを何とかしようと擦るが、眠気は増す一方だった。紙をめくる音と穏やかな声に誘われ、深い闇に意識が引きずり込まれる。やがてきり丸の重たい体がぐったり落ちるのと同時に、は組の襖が乱暴に開かれた。
太陽の位置もわからないほど曇った空を見上げ、きり丸は途方に暮れていた。縁下に身を寄せ、はて自分は何をしていたのかぼんやり考える。その間に綿埃のような雪が、音もなく、次から次へときり丸の顔の上に降り注いだ。
くしゃみをひとつし、そうだ、ここに逃げるようにやってきたのだと思い出す。あてもなく歩いていた途中で見つけた廃寺に身を寄せて三日。雪が止む気配はまったくない。芯から冷える寒さにむしろの端を握りしめるも、かじかんだ指先の感触はとっくのとうにわからなくなっていた。拭う気力などあるはずがない。
このまま雪の中に埋もれてしまうのだろうか。
それも悪くないかもしれない。
白い息を吐き、きり丸は目を閉じた。
何もかも覆い隠す雪の下に横たわっている己の姿を想像すると、不思議と心が凪ぐ。
燃えた故郷と家族の最期。それから生き残ってしまった意味について。涙はとうに枯れてしまい、理不尽に憤る気力も残っていなかった。取り留めもなく考えては消える思考は、やがて「疲れた」という単純な結論を出す。
奇妙なほど静まりかえった静寂で、きり丸は疲弊しきった体の力を抜いた。
「……もう、いいか」
「良くはないだろう」
へ、と間抜けな声が漏れる。
声の主を探す前に、ぐいと脇の下を持ち上げられる感覚がした。次いで暖かい感触が胸元に広がる。
「いつまでそこで眠っているつもりだ?」
いい加減に目を覚ましなさい、と諭す声にきり丸は目を覚ました。
勢いよく上体を反らすと、バランスを崩すからやめなさいと叱る声。見慣れた頭巾の黒とそこからはみ出る手入れのされていない髪が、視界いっぱいに広がった。
「……どい、せんせ?」
「ん?起きたか」
「なんで。おんぶ……」
脳内の半分がまだぬかるみから抜け出せていないせいか、言葉が上手く出なかった。
ありえない状況に、もしかしたら自分はまだ夢の中にいるのかもしれないとすら思う。
「ずっと居眠りしていたせいで、皆に置いていかれてしまったんだよ」
からからと笑って、土井がきり丸を背負い直す。
「夜中に抜け出してちょっと頑張りすぎたせいだな」
「……どこまで知ってるんですか」
「ぜんぶ知ってるよ」
予想の範疇だった。いつものように茶化す気力もなく黙っていると、少し経って土井が口を開いた。
「きり丸。バイトをするなとは言わない。そんな権利、わたしにはないからね」
だけど、と言葉が続く。きり丸から土井の表情はうかがえない。
「次の休暇、家で出来るバイトをしてくれないか。一緒に手伝うよ」
提案と呼ぶには弱々しい声で土井が言った。
規則正しく上下する背中に身を任せ、きり丸は返事に悩んだ。赤の他人にそこまでお節介を焼かれる筋合いはない。それでも、気にかける言葉をかけてくれる大人がいることのありがたさが身に染みたのは確かだ。綯い交ぜの感情に乱されたっぷり悩んだ後、やっとのことで、「考えておきます」と答えを絞った。
「ところで、雨、止んだんですね」
「それどころか雪に変わったぞ。おかげで学園長の突然の思いつきがまた始まったがな」
ほらと外を見るよう促される。
そこには、はしゃぎながら雪玉を投げ合う一年は組の面々がいた。学園長と山田伝蔵がかまくらを作る手を止め、子供たちに何かを叫んでいる。と、次の瞬間、誰かの投げた玉が彼の顔にぶつかる。
「早くみんなのところへ行こう」
背負っていたきり丸を優しく降ろし、土井が微笑んだ。
真っ白な世界に、友と師と彼の選びとった日常が重なる。
「土井先生」
「うん?」
「雪ってすごく眩しいんすね」
そう言ったきり丸の声が少し弾んでいたことに気がついたのは、土井だけだった。