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    mupopotamus

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    mupopotamus

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    初めてのクッキング「恵が家で俺の帰りを待っててくれるって思うだけで、頑張って仕事しようって思えるし毎日幸せなんだよ。だから、無理して家のことをする必要なんてないし、恵のしたいようにしてくれれば俺はそれでいいから」

     同棲したばかりの頃、慣れない家事に悪戦苦闘する俺を見兼ねてか、恭弥さんは優しい言葉で俺を包み込んでくれた。
     そのことがすごく嬉しいからこそ、俺も出来る限りのことを恭弥さんにしたかった。

    『恵が料理?したいなら別に止めないけど……包丁は子供用のプラスチックのやつにしとけよ。IHだからって火傷しないとは限らないからな。熱くなってるフライパンには触るなよ。それから───』
    「ありがとう愛。心配してくれるのは嬉しいけど、俺だってもう大人なんだし、そんなに過保護にならなくても大丈夫だよ」

     電話越しにも、愛が心配でハラハラしているのが伝わってくる。つい笑ってしまえば、ムッとしたような声が返ってきた。

    『過保護とかじゃなくて、現にスキレットの取手で火傷したことあるじゃん』
    「母さんの誕生日にパンケーキ作った時のこと?あの時はまだ子供だったし、一回失敗してちゃんと学んでるから大丈夫だよ」
    『だとしても心配なんだよ。つーか、羽山さんだって無理に料理しろって言ってこないんだろ?あの人高級取りなんだし、デリバリーするとか出来合いのもん買って来てもらうとかでいいんじゃん?』
    「それはそうだけど……」

     確かに、いい歳してまともに料理をしたこともない俺が作るご飯より、デパ地下のお惣菜やデリバリーを頼んだ方が美味しくて満足度も高いはずだ。
     恭弥さんは美味しいお店を沢山知ってるし、恭弥さんの手料理もプロ顔負けのレベルで、俺なんかの手料理じゃ喜んでくれないかもしれない。

    「言われてみたら確かに、単なる自己満足だったのかも……」

     ズーンと沈んだ俺の声に、電話口の向こうから『何事も挑戦だよ』と優しく諭す声が小さく聞こえた。

    『悪い。心配だっただけで、恵のことイヤな気持ちにするつもりで言ったんじゃないから』
    「うん、分かってるよ。愛はいつも俺のことを思ってくれてるもんね」
    『……どんだけ不味い飯作っても、羽山さんなら宇宙一美味しいって涙流しながら喜んで食ってくれるよ』
    「ふふ、俺もそう思う。愛、心配してくれてありがとう。上手くいかないかもしれないけど、少しずつでも、恭弥さんの為にできることを増やしていきたいんだ。だから愛も、俺の挑戦を見守ってくれると心強いなって」
    『ん、分かった。でも無理はすんなよ。なんかあったらすぐ連絡しろ』
    「うん、分かった。あ、田中さんにもお礼伝えておいてね」
    『聞こえてたのかよ』
    「ふふ、幸せそうで何よりです」

     しっかり者の愛が、相変わらず田中さんの前では年相応になれていることが伺えて、自然と笑みがこぼれる。
     愛にも無理はしないように念を押してから通話を切ると、改めて現状を頭の中で整理した。

    「やっぱり俺、全然ダメダメだな」

     ───一緒に暮らし始めてから一ヶ月も経つのに、俺は恭弥さんにまだ手料理の一つも振る舞ったことがない。
     それどころか、掃除は基本ロボット掃除機にお任せしていて、洗濯も一度洗剤を入れすぎて大惨事になってからは怖くて触れていない。俺がする家事といえば、ゴミ捨ての日に家のゴミを集めることと、恭弥さんと一緒に洗濯物を干すこと、それからお風呂掃除くらいだ。

    「一緒に住んで良かったって思ってもらえるように、頑張らなきゃ」

     ぱちん、と頰を叩いて気合いを入れる。
     まずは料理から始めるとして、何を作ろうかな。

    「恭弥さんは洋食のイメージだけど……うーん、イタリアンとかフレンチとかは初心者向きじゃない気がするし……」

     レシピサイトを漁りながら、初心者でも失敗しにくいメニューをピックアップしていく。

    「あ、これとかいいかも」

     目に留まったのは『初心者でも簡単!失敗知らずのペペロンチーノ』の文言だっだ。

    「材料も少ないし、茹でて味付けするだけなら失敗のしようがないもんね」

     レシピをしっかり読み込んで、俺は意気揚々とキッチンへ向かった。

     ***

    「恵、ただいま」

     玄関から聞こえてきた声にハッとして時計を見れば、いつも恭弥さんが帰ってくる時間から30分も過ぎていた。

    「ごめんね、会議が長引いちゃって。……恵?」

     いつもなら一目散にお出迎えする俺が現れないのを不思議に思ったのか、恭弥さんが小走りにリビングの扉を開けた。
     いつも穏やかな恭弥さんにしては珍しく、焦ったような、少し怒ったような表情に、慌ててキッチンから顔を出した。

    「ご、ごめんなさい!ちょっとボーッとしちゃってて……」
    「良かった。既読もつかないし、何かあったんじゃないかって心配だったんだ」

     ホッとしたように息を吐く恭弥さんに、もう一度「ごめんなさい」と頭を下げた。

    「ううん。俺の方こそ、大袈裟に反応しちゃってごめんね。恵が無事ならそれが何よりだから。ただいま、恵」

     ぎゅっと抱きしめながら優しく髪を梳かれて、どこまでも俺を気遣ってくれる恭弥さんに申し訳なさが募る。

    「おかえりなさい、恭弥さん」
    「ただいま。そういえば恵、すごく可愛い格好してるね。エプロン、似合ってるよ」
    「あ、えと、これはそのっ、ちょっと着てみようかなって思って。とっ、特に深い意味はないんです!」

     恭弥さんの言葉にハッとして、慌てて背中のリボンを解いた。ワタワタと慌ただしくエプロンを脱ぐ俺に、「似合ってるのに、脱いじゃうの?」と恭弥さんは少し残念そうだ。
     恭弥さんが着るとビシッと決まる無地のエプロンも、俺だと着られている感が強い。キマッてない、というのを可愛いと評してくれる恭弥さんの優しさが嬉しいけど、今はそのことにも罪悪感を刺激された。

    「……あの、恭弥さん」
    「うん?」
    「……えっと、その」
    「やっぱりどこか具合が悪い?」
    「あ、いえっ……あのっ、今日、どこかにお夕飯食べに行きませんか?」
    「勿論、恵が行きたいなら外食で問題ないけど……外で食べたいなんて、恵から言うのは珍しいね」

     恭弥さんの言う通り、俺の方から外食に誘うのは初めてのことだった。
     自分の意思があまりないというのも勿論あるけど、デート代は全て恭弥さんが出してくれるから、申し訳なくて自分から言い出す気には微塵もならなかった。だけど、今日ばかりはどうしても外食したかった。
     それくらい、キッチンの奥に潜む"アレ"を恭弥さんに知られたくないのだ。

    「いきなりごめんなさい。偶には、外食もいいかなって」
    「そっか。ごめんね、俺が家に帰ってから作ったら食べる時間も遅くなっちゃうし、外で食べた方が美味しいもんね。あ、この間テレビでやってたお店覚えてる?オーナーさんが知り合いだって話したところ。あそこなら今からでも予約取れるかもしれないから、聞いてみるね」

     申し訳なさそうにスマホを取り出した恭弥さんに、「ち、違うんです!」と全力で首を横に振った。

    「あっ、ちが……っ、そうじゃないんです!恭弥さんが作ってくれるご飯は本当にびっくりするくらい美味しくてオシャレでっ、いっつもすごく楽しみにしてます!外食がいいって言ったのはそういうことじゃなくてっ、その……っ」
    「恵……大丈夫、どんなことでも受け止めるから、恵のペースでゆっくり話して」

     中々上手く切り出せずにいる俺を優しく見つめながら、大きな手のひらで震える俺の手を握ってくれた。
     俺の言葉を待っていてくれる恭弥さんに、これ以上不誠実な態度は良くない。
     もうここまで来たら、覚悟を決めるしかないんだ。

    「きょ……っ、恭弥さんのために、夕ご飯を作ったんです!でもっ、その、簡単なレシピなのに、すごく失敗しちゃってっ、サプライズにしたかったから食材も勝手に使っちゃってっ、だからっ、あの……っ、俺、恭弥さんに喜んで欲しくて、でも全然上手くいかなくて……っ」
    「そっか。ありがとう、俺の為に頑張ってくれたんだね。すごく、すごく嬉しいよ」

     言葉の通り優しく微笑んで、ぎゅうっと全身で抱き締めてくれた。
     優しく背中を撫でながら、俺が落ち着くまで待ってくれる恭弥さんの優しさに胸がいっぱいになる。

    「恭弥さん、俺、何やっても失敗してばかりで、いつも迷惑かけてごめんなさい」
    「そんなこと、一度も思ったことないよ。いつも一生懸命で頑張り屋さんな恵が大好きなんだから、迷惑だなんて思うわけないよ」
    「っ、俺、恭弥さんに何もお返しできてないって思って……だから、せめてご飯だけでもって思ったけど、全然上手くいかなくてっ」
    「貰ってばっかりなのは俺の方だよ。今だって、俺の為にって頑張ってくれた恵の気持ちを知れて、すごくすごく嬉しいんだよ。いつも誰かのことを一番に考えていて、そういう恵の側にいると、俺ももっといい人間になろうって思える。それだけでもう、貰い過ぎなくらい、恵に大切なものを貰ってるんだよ」

     恭弥さんは、俺のことを過大評価し過ぎていると思う。
     俺は恭弥さんが思うほどできた人間じゃない。だけど、ダメなところばっかりの俺を好きだと言ってくれる恭弥さんのためにも、少しは前向きな自分になりたいと思った。

    「あの、不味かったら、俺が責任持って全部食べます。なので……一口だけでも、食べてくれたら、嬉しい、です」

     言えた。ちゃんと、自分の素直な気持ちを伝えられた。
     外食して無かったことにしたいっていう気持ちも本当だ。でもそれ以上に、たった一口でもいいから、恭弥さんに食べてほしいっていう気持ちもあった。
     そんな俺の気持ちを見透かしていたみたいに、恭弥さんは優しく微笑んでくれた。

    「恵が作ってくれたものを、俺が残すわけないでしょ。恵が頂戴って言っても、全部独り占めしちゃうかも」

     冗談めかして俺を和ませてくれようとする恭弥さんに、胸がいっぱいになる。

    「ありがとうございます、恭弥さん」
    「こちらこそ。俺の為に頑張ってくれてありがとう」

     絆創膏を貼った指先にキスをされて、恭弥さんにはやっぱり全部お見通しなんだなと、こそばゆい気持ちになった。

     ***

    「すごい、これ全部恵が作ったの?」

     テーブルの上に並んだ料理を前に、恭弥さんは感激したように瞳を輝かせた。

    「一応、レシピ通りに作ったつもりなんですけど……」

     ペペロンチーノにオニオンスープにシーザーサラダ。どれも初心者向けの簡単なレシピをチョイスしたものの、手際が悪いせいで酷い物が出来上がってしまった。

    「……不味かったら俺が責任持って食べるので、無理しないでください」
    「恵ってば意地悪だね」
    「え?」
    「恵のために頑張ってお仕事して腹ペコで帰って来た旦那さんから、せっかくの晩御飯を取り上げるんでしょ?」
    「あっ、いえ、そんなつもりじゃないんです!お腹いっぱい食べてください!」

     慌てて訂正すれば、「ごめん、冗談だよ」と恭弥さんが悪戯っぽく笑った。
     いつも余裕があってスマートな恭弥さんが時折見せてくれるお茶目な一面。俺だけに見せてくれる姿が嬉しくて、つられて俺も笑っていた。

    「せっかく温め直してくれたんだし、冷めないうちにいただこうかな」
    「あ、はいっ!ど、どうぞ、お召し上がりください」
    「ふふ、いただきます」

     お上品に手を合わせた恭弥さんが、一番の問題作とも呼ぶべきペペロンチーノを口に運んだ。
     アルデンテとは程遠いやわやわの麺に、焦げついたニンニクとベーコン。鷹の目が見当たらずに応急処置で加えた七味唐辛子。トドメとばかりに塩と間違えて砂糖を入れてしまい、辛いのか甘いのかしょっぱいのかよく分からない味になってしまった。

    「っ……」

     ゆっくり咀嚼して飲み込むまでを固唾を飲んで見守っていれば、恭弥さんがパッと顔を上げた。

    「美味しい」
    「え?」
    「すごく美味しいよ。今まで食べたペペロンチーノの中で一番美味しいかも」
    「ほ、本当ですか?無理してないですか……?」
    「うん、勿論。恵も食べてみて」
    「は、はい」

     もしかして、時間が経って奇跡的に味が整ったとか……?
     普段料理をしないからよく分からないけど、時間を置くと美味しくなったりするのかな。

    「ふふ、アーン」
    「あ、あーん」

     一口分をフォークに刺して差し出され、緊張しながら口を開く。

    「ん……っ、ま、まずい、です!」
    「そんなことないよ。俺、パスタは柔らかめの方が好きだし、味も塩気と辛味だけじゃなく色々な風味が感じられて、ペペロンチーノとは思えないくらい奥深い味がするよ」

     そんなわけない。ペペロンチーノとは思えないくらい変な味のするやわやわの不味いスパゲッティだ。

    「恭弥さん、無理しないでくださいっ。こんなの誰が食べても不味いっていうに決まってます。恭弥さんが俺を悲しませないようにって気を遣ってくれるのはすごく嬉しいです。でも、俺に気を遣って無理してほしくないです」
    「そんなことないよ。本当に、本心から美味しいと思ってるよ」
    「……でもっ」
    「俺にとっては、恵が俺のために作ってくれたっていう事実が何より大切なんだよ。ほんのちょっぴり失敗しちゃったかもしれないけど、恵が頑張ってくれたんだって思うと、それだけで世界一美味しか感じるんだよ」
    「恭弥さん……」

     嘘を言っているようには見えない。きっと本心からそう言ってくれてるんだろう。
     その気持ちが嬉しいからこそ、やっぱり恭弥さんにはちゃんとしたご飯を食べてほしかった。

    「あの、トースターでパンを焼くくらいなら俺でもできると思うんです。このペペロンチーノを食べるくらいなら、パンにジャムを塗って食べる方がよっぽど美味しいと思うので、パン焼きましょうか」
    「恵……じゃあ、一つお願いがあるんだけどいいかな」
    「はい、勿論です!」
    「恵がアーンってして俺に食べさせて」
    「へ!?」
    「恵が作ってくれたご飯を恵が食べさせてくれたら、相乗効果でもっと美味しいと思うんだ。ダメ?」
    「ダメじゃないですっ。でも、本当にいいんですか……?」
    「恵が嫌じゃないなら是非」

     恭弥さんは俺の扱い方をよく分かっている。
     イヤです、なんて勿論言えるわけもなく、恭弥さんのご要望通りペペロンチーノをアーンして食べさせることになった。

    「ど、どうぞ」

     恭弥さんの膝に乗せられて、密着した体制でペペロンチーノを口元に運ぶ。

    「ん……美味しいよ、恵」
    「は、はい……」

     本当に美味しいと思ってくれてるのか、俺の反応を楽しんでるのか……どっちとも取れる笑顔で微笑む恭弥さんにドキドキしながら、せっせと恭弥さんの口に料理を運んだ。

    「ご馳走様でした」
    「お、おそまつさまでした」

     宣言通り、恭弥さんは顔色一つ崩すことなく俺の手料理を完食してくれた。

    「ありがとう、恵。すごく美味しかったし、嬉しかったよ」
    「は、はい」

     やっぱり恭弥さんは優しいから、俺に気を遣って無理をしているんじゃないかと思ってしまう。

    「……そんなに不安そうな顔しないで。俺は本当に恵が作ってくれたご飯が美味しいと思ったんだよ」

     俺の胸中を見透かしたように、恭弥さんがそっと手を握ってくれる。俺を見つめる恭弥さんの眼差しは真っ直ぐで、これ以上疑うのは逆に失礼な気がした。

    「……俺、頑張ります!」
    「うん?」
    「恭弥さんに食べてほしいって胸を張って言えるような料理が作れるように、頑張りますね!」
    「ふふ、ありがとう。恵が嫌じゃなければ、お弁当とかも作ってくれたら嬉しいな」
    「お、お弁当、ですか」
    「うん。愛妻弁当とか、やっぱり憧れるし」

     ペペロンチーノすらまともに作れない俺にお弁当……。自信は一ミリもないけど、恭弥さんが望むなら出来る限り頑張りたいという気持ちはあった。

    「時間かかっちゃうと思うので、明日から早起きします!」
    「ふふ、じゃあ二人で早寝早起きしようか」
    「……はい」

     恭弥さんは俺のことを優しいって言ってくれるけど、恭弥さんの方がもっとずっと優しいと思う。
     毎日毎日、好きと幸せが積もっていく。この気持ちを、ほんの少しでも恭弥さんに返したい。

    「あの、恭弥さん」
    「うん?」
    「……俺、頑張りますね」

     いつだって、言葉足らずな俺の意図を汲み取ってくれたように、優しく微笑んでくれる。

    「うん、楽しみにしてるね」

     声を弾ませてくしゃりと笑う。少しだけ幼いその笑顔に、愛おしいな、と優しい気持ちがまた降り積もった。


    ──おまけのモブ視点──

     上司としては勿論、一人の男としても尊敬してやまない人がいる。

    「あれ、羽山さん今日は弁当持参ですか?」

     俺の、というより、若手社員や女性社員の憧れの的である羽山恭弥さん。今年の4月から配属されたプロジェクトのマネージャーであり、心底から尊敬している人生の先輩。
     なんとかお近づきになろうと、昼休憩が被った時には必ずランチにお誘いしている。今日も今日とて、羽山さんとランチをご一緒するつもりでいたのだが、羽山さんの手にはシックな紺色のランチバッグが携えられていた。

    「愛妻弁当、作ってもらったんだ」
    「えっ、マジっすか。羽山さん、結婚してたんすね」
    「正確には内縁の妻なんだけどね」

     そう言って笑った羽山さんの顔には、隠しきれない喜色が浮かんでいる。今まで見たことのないその笑顔に、思わず見惚れてしまった。

    「はえ〜。指輪してるのは女性避けだって思ってました」
    「避けるほどモテないよ」
    「いやいやっ、この前だって受付の麻田さんに食事誘われてましたよね?ミスなんとかの、アレですよ、女優の深瀬すずに似てる感じの子ですよ」
    「どうだろう。人の顔と名前を覚えるの苦手なんだ」

     そんなわけはない。クライアントとの接し方を見るに、人の顔と名前は勿論、趣味や経歴まで細かく覚えてコミュニケーションに活かせるような人だ。
     覚えられないんじゃなくて、覚える気がないんだろうな。

    「羽山さん、よっぽど奥さんのこと大好きなんですね」
    「うん、まあ、俺が惚れ込んで一緒にいてもらってるようなものだから」
    「うっわ、今の顔。女性社員が見たら卒倒してましたよ!」
    「そんな酷い顔してた?」
    「ちーがいますって!女の子が見たらメロメロになっちゃう顔してたってことです!羽山さんってマジで芸能人にいそうっていうか、なんならそこらの俳優より全然カッコいいっすよね」
    「越田くん、持ち上げ過ぎも良くないよ」
    「いやいや、本当に。ていうか、羽山さんにこんだけベタ惚れされてる奥さんってどんだけの美人なんですか?」

     深瀬すず似の受付嬢を袖にしても靡かなかった、あの羽山恭弥を射止めた美女はどんな人なのか。想像するだけで、期待に胸が膨らんでしまう。

    「みんなには内緒だよ」

     そう言って一度口を閉じた羽山さんは、どこか熱っぽい瞳をして遠くを見つめた。こんな顔の羽山さんは見た事がない。
     人を好きになるってこういうことか、と思わされるような顔をしていた。

    「アラスカンマラミュートって知ってる?」
    「はい?」

     耳慣れない単語に素で聞き返してしまった。
     失礼な俺の反応に気分を害した風もなく、「これなんだけど」とスマホの画面を見せてくれた。

    「でっかい犬ですね」

     羽山さんが見せてくれた画面には、デッカくてもふもふの犬が映し出されていた。

    「成犬になるとすごく大きいけど、幼犬の頃は小さくてコロコロしてるんだ。手足が短くてね、段差に躓くと自力で起き上がれなかったりして……ほら、こんな感じで」

     そう言って見せてくれた動画では、確かに段差に躓いた子犬がワタワタとその場でもがいていた。

    「可愛いですね」
    「うん。俺の好きな子も、こういう感じの子なんだ」
    「え……こんな感じでデッカくてモサモサってことですか?」

     一瞬、頭の中に女版ハ○リッドが浮かんだ。
     怪訝な顔をした俺に、「見た目の話じゃないよ」と羽山さんが苦笑した。

    「いつも一生懸命なんだけど、おっちょこちょいでよく落ち込んでるんだ。最初は危なっかしい子だなぁと思ってただけなんだけど、その内に庇護欲がくすぐられるようになって、気付いたら目で追うようになってた。そうしたら、色々気づくことがあってね。不器用だけど、すごく優しくていい子なんだなって。人に見えないところで頑張れるところが、純粋で一途で綺麗だなと思って」
    「羽山さん、めちゃくちゃ奥さんのこと好きなんすね」
    「うん、好き。大好き」

     うおー、そのセリフ他の子が聞いたら卒倒しちゃうやつだ。男の俺ですらドキッとしたもん。
     なんて、俺が新たな扉を開きかけているとも知らず、羽山さんはスマホをしまいながら「ごめん、お先にいただくね」と弁当箱を広げ始めた。

    「いいっすね〜。愛妻弁当なんて憧れちゃう、な……」

     尻すぼみになったのは許してほしい。
     何せ、羽山さんが広げた弁当は些か、いや、かなり奇抜だったのだ。

    「ふふ、卵焼き作ろうとしてスクランブルエッグになっちゃったらしいんだ」
    「……その茶色いの、卵だったんですね」

     ぐちゃぐちゃの茶色い謎の物体。に見えていたそれは、どうやら卵焼きの残骸らしい。
     俺だったら思わず躊躇してしまいそうなくらいアレな見た目だけど、羽山さんは嬉々として卵焼きを頬張った。ジャリ、と殻が擦り潰れるような音が聞こえたのは、きっと気のせいじゃない。

    「うん、甘くて美味しい」
    「へ、へぇ」

     その後も、タコさんにしようとしてボロボロになってしまった黒焦げのウィンナーや、ダークマターかと思うほど真っ黒になった唐揚げ、謎のドレッシングがかかったしなしなのサラダ、と最早わざと不味く作っているんじゃないかと勘ぐってしまうほど、全ての料理が散々な出来栄えだった。

    「羽山さん、奥さんと喧嘩してるとかではないですよね?」
    「勿論。今朝も笑顔で見送ってくれたよ」

     嬉しそうに「いってらっしゃいのチューもしてくれたし」と語る羽山さんの手には、ご飯の上に海苔やカニカマで顔を描いた不気味な弁当箱が鎮座している。
     芸能人も顔負けの美形である羽山さんを模して作ったらしいキャラ弁もどきは、保育園児が作ってもまだマシなんじゃないかという出来栄えだ。

    「羽山さんの奥さん……めちゃくちゃ個性的な彼女さんですね」
    「うん。俺にはもったいないくらい、可愛い人だよ」

     そう言って微笑んだ顔は、やっぱり今まで見たことがないくらいに幸せそうだった。
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    recommended works