現パロ文仙+綾/とっとと別れちゃえばいいのに別に特別な感情があったわけじゃない、と思う。
とはいえ相手はかつて沢山お世話になった立花先輩である。遠い昔の記憶の中、幼い頃から可愛がってくれていた二つ年上の先輩の顔を思い浮かべ、喜八郎はううーんと猫のようにひとつ伸びをした。
生まれる前の記憶があると気がついたのはいつの頃だっただろう。もしかしたらツンと勝ち気な黒目と目があった時、そこではじめて甦ったのかもしれない。街中で彼と偶然再会できたことは、人生の中でも一二を争うほどのラッキーだったと言えよう。
とまあ悠長に回想をしている場合でもないのだが。
「今日のお夕飯なんだろう」
ピンポーン。
喜八郎はぐうと鳴る自身の腹をツンとつついてから、目の前にあるインターホンを押した。
「ご飯くださーい」
「ごめんください、だろう。いらっしゃい、ずいぶん早かったじゃないか」
がちゃりと早々に扉が大きく開き、ゆるく髪を束ねた仙蔵が顔を出す。下を見れば裸足で玄関に出てきていた。
「おなかすきました~」
「はいはい、お上がり。手を洗っておいで」
スリッパのひとつも出ない家に上がり込み、知った顔で洗面所へ真っ直ぐ向かう。後ろから着いてきた仙蔵が「今日はハンバーグだぞ。やったな」などと小声で耳打ちしてきたが、喜八郎はうがいをしていたので返事ができなかった。手を拭きリビングへ移動すれば見知った顔がもう一つ、台所でせっせと食事の準備をしてくれている。
いいにおい。
「シェフ、お邪魔しまーす」
「おー」
喜八郎が声をかけると、ちらりとフライパンから目を離した料理人がにっと口の端を上げ返事をする。
かつて地獄の会計委員長とやっかまれていた潮江文次郎と、その恋人である立花仙蔵の愛の巣に潜り込むのは、かれこれ今日で七回目だ。
まさか二人が恋仲であったなど昔では考えられなかったが、聞けば前世からそうであったというのだから喜八郎は大層驚き「おやまあ」と三回ほど繰り返してしまったことを覚えている。
現世で仙蔵と再会した時、既に二人は同棲生活を開始していた。大学を卒業し、そのまま一緒に住む決意をしたらしい。仙蔵の左薬指に嵌まっているリングと目が合う度に、なんとも言えない気恥ずかしい感覚が喜八郎を襲う。
「喜八郎も来年から社会人か。もうすぐ内定式だな。他の新卒と顔合わせはしたのか?」
「オンラインで何度か」
「可愛い子いたか?」
「あ~いますよ。でも立花先輩の方が綺麗かな」
「うまいな!」
この先輩が顔に似合わず豪快に笑うのだと知ったのはつい最近のことだ。喜八郎は顔をぐにぐにと揉まれながら、ガハガハ笑う仙蔵の顔をじっとりと観察した。丸くなったのは、きっとこの人だけじゃない。背後から「おい持ってけー!」と文次郎の声が聞こえ、ゆったりと立ち上がった仙蔵がキッチンへと消えていく。
「綾部、俺の飯そんなに気に入ったのか?」
そう文次郎が楽しそうに聞けば、ローテーブルに広がる料理を目前に誰よりも早く箸をつけた喜八郎は少しだけ悩んだ素振りを見せ口を開いた。
「いや最近大掃除したばっかりなんで、キッチン汚したくないんですよね」
ごちん。脳天に衝撃を感じ、喜八郎は思わず仙蔵の方へ倒れ込む。まさか今世でも欠かさず鍛錬をしているとでも言うのか。
「しおえせんぱいがなぐった」
「よしよし」
「お前の後輩どうなってんだよ!」
「かわいいだろう、かわいいだろう」
まったく!とフンフン怒っている文次郎を横目に、仙蔵は楽しそうに喜八郎の頭をぞんざいに撫でる。
こんな風にたまにお邪魔するようになった目的は、立花先輩に会うためだ。再会できた時「ようやく会えた」と少しだけ泣いたことは、仙蔵しか知らない。いつからこの記憶があるのかは覚えていない、けれどずっと会いたかったのだけは確かだった。決して恋をしていたわけじゃない、けれどこの凜々しく美しい先輩のことが「好き」だったのだ。
「もうちょっと優しく撫でてください」
上体を起こしそう言うと、「お前が悪いのだろう」と仙蔵が呆れ顔で喜八郎を見た。
「あのよ…ち、近くないか?」
でた。
おずおずと右手を挙げる文次郎に対し、喜八郎は思わず目を細める。睨んだわけではない、笑いを堪えるためだ。
喜八郎が仙蔵にすり寄ると、必ずこうして意見してくるのだ。あの潮江文次郎が、こんな些細なことで嫉妬をするなんて。喜八郎はこの瞬間、謎の優越感に浸るとともに、仙蔵から離れなくてはならないさびしさでつまらない気持ちになる。
「ほんとケチですよね、潮江先輩」
「ほんっとお前って生意気だよな!」
かつての文次郎であればそんなこと言わなかったであろう。命が危ぶまれることのない現世で、これこそが人生を謳歌している証拠であった。
いよいよ口喧嘩になると察した仙蔵が「喜八郎ビール飲むか?」と立ち上がれば、すかさず「コーラ」と飛んでくる。ばか、コーラなどない。茶でいいな?と聞けば、はーいと聞き分けのいい返事がかえってきた。
「でもお前って変なところ気ぃ利くよな」
俺だって拳いてーわ、と文次郎はぼやきながら声をひそめて喜八郎に言う。
「なんのことです」
「だってお前、絶対に俺がいる時に来るだろ」
正面から真っ直ぐ見つめられ、喜八郎は目をそらすタイミングを見失っていた。なんだ、全部わかっていたのか。
「俺が心の狭い恋人だとわかっていて、仙蔵と二人きりにならないように見計らって来てんだろ?」
なんだこの人、恥ずかしくないのだろうか。
たしかにからかってやろうとか、優位に立ちたいだなんて気持ちは喜八郎に一切なかった。だけれど、大好きな先輩を取り上げられたような気がして悔しかったのだ。立花先輩の薬指で輝く指輪を見る度に、仲良しな姉の結婚式に参列しているような気分になっていたのだ。嬉しいような、さびしいような、よくわからないけれど。
「別に。潮江先輩に見せつけてるだけですよ」
つーんと喜八郎が横を向けば、文次郎は「かわいくねえの」と笑いながら食事を再開した。仙蔵は冷蔵庫の隣で二人を見守っていたが、横を向いた喜八郎と目が合ったタイミングで動き出すことにした。
「喜八郎、コーラあったよ」
お前のためだけに買っておいたんだけどね。待ちくたびれて溶け出した氷が、グラスの中でカランと音を立てた。