どうぞ毒まで平らげて「よ、4代目……? そのお怪我は、いったい……」
これが、桐生がその日いちにちで最も多くかけられた言葉だった。
すれ違いざまだったり、書類を届けに来たときだったり、声をかけられるタイミングは様々であったが、強面の男たちは皆一様にか細い声で桐生の様子を伺ってくる。いつもなら、野太い声で叫ばれる「ご苦労様です」がいちばんよく耳にする言葉なのにな、と少し愉快に思う。
「ああ、なんでもないんだ。ちょっとな」
聞かれるたびに桐生はそう答えて、適当にやり過ごす。シャツやジャケットで隠れて見えないだろうと高をくくっていたのだが、失敗だったようだ。なにせ自分で見る機会もないし、鏡でも確認しづらい部分なのだ。それでもガーゼくらいは貼っておくべきだっただろうかと、今朝の自分の行動を反省すると同時に、うなじに手をやってみる。指で触れると、かなりくっきりと歯形がついていることがわかった。
──随分、強い力で噛まれたものだな。
昨夜、あの男は桐生の上に我が物顔で飛び乗って、身動きの取れないからだを無理矢理に押さえ込んで、一思いにがぶりとやったに違いない。覚えていないはずの痛みがなぜか蘇ってきて、桐生はひとり口角を上げる。ひりついて熱を持ち始めたそこに満足げに息を吐いて、手元に目を落として仕事を再開した。
───
「おい、桐生!」
扉が乱暴に開けられた音と、自分の名を呼ぶ声を耳にして、桐生は顔を上げた。許可も無しにこの部屋に踏み入るなど、そんな無礼なことができる立場の人間はごく僅かだ。ノックの音もしなかったことから考えると、急を要する事件か何かだろうか。ずかずかと桐生のもとへ駆け寄ってきた錦山を、思わず立ち上がって出迎える。
「錦。どうしたんだ、何かあったのか」
「何かあったのか、じゃねえよ! お前、その噛み跡はどういうことなんだ」
「噛み跡……ああ、これか」
どこかで抗争が勃発したとか、刺客が現れたとか、そういう報告を予想していた桐生にとって、その疑問は些か拍子抜けするようなものだった。途端に気が抜けて、座り心地の良い椅子に腰を下ろす。しかし、錦山は桐生の胸ぐらを掴んできそうな勢いで詰め寄り、目に角を立てて捲し立ててきた。
「お前、それ、どうしたんだよ。まさか……どこの馬の骨ともわからねえ奴と番っちまったとか、言わねえよな? 相手は誰だ? からだは平気か? ああ、こんなことになるなら俺がもっと早いうちに噛んでおけば……」
「錦、落ち着け。俺は大丈夫だ。大したことじゃない」
「何言ってんだ! オメガのお前が急に噛み跡こさえてきたんだ、これで落ち着いていられるかっての……」
錦山は盛大にため息をつき、額に手をやって俯いた。しかしそれも一瞬のことで、すぐに顔を上げ、不安げに桐生を見つめて語りかけてくる。
「……どっかのアルファに無理やり襲われたとかじゃ、ないんだな?」
「ああ」
「そっか……そうだよな。お前ならヒート中でも返り討ちにするだろうし……いやでも、それじゃあ誰が……」
何やらぶつぶつと独り言を呟いている錦山を横目に、桐生は灰皿を取り出し、タバコに火をつけた。4代目に就任したはいいが、正直に言って務めは性に合わないことばかりで何をしていても窮屈だ。一服でもしないとやってられない。白い煙を悠々と吐き出した桐生を見て、錦山は呆れたように眉をひそめた。
「お前、なんでそんなに余裕そうなんだよ。もう下っ端あたりなんか、4代目が実はオメガなんじゃないかって下世話な噂で持ちきりだぜ」
「え? そんなに広まってるのか」
「朝から隠しもせず、噛み跡見せびらかして歩いてたらしいじゃねえか。おかげで俺の耳にもすぐ入ってきて、今こうして確認しにきたわけだ」
「いや、別に見せびらかしてたわけじゃ……」
桐生としてはそんなにおおごとにするつもりもなかったのだが、知らないところでそこそこの騒ぎになっているようだ。自分は背が低い方でもないし、誰かに見下されるようなこともあまりないから、ばれないだろうと思っていたのだが。どうやら桐生は、自覚している以上に組員から注目されているらしかった。
「とにかく、お前がアルファじゃないってこと、知ってるのは本当にごく一部なんだからな。用心しろよ。そのうち身の程知らずの馬鹿が嗅ぎつけてお前を襲っちまう、なんてこともあり得るんだ」
「……それは面倒だな」
「だろ? ったくお前は……まあでも、その噛み跡を付けた奴と番になったんなら、フェロモンの心配は無くなるか。なあ、お前のそれ、本当に、ただの傷ってわけじゃないんだよな?」
「ああ、これは正真正銘、アルファに噛まれてできた傷だ」
「……そうか」
桐生の言葉に、錦山は神妙な顔をして頷いた。どこか腑に落ちないような声色ではあったが、納得はしたらしい。それでもまだ何か言いたそうにその場にとどまっていたから、桐生は不思議に思って話の続きを促した。
「錦、どうしたんだ? まだ何かあるなら……」
「……いや、聞くか迷ったんだけどよ……」
「ん?」
「今まで番をつくる素振りなんか、少しもなかったじゃねえか。いったいどういう風の吹き回しだ? 昨日の夜、何があったんだよ」
「ああ、実は……」
錦山に尋ねられ、昨夜のことを思い返す。務めを終えて、執務室から出たところで声をかけられた。そこから相手に誘われるがまま飲みに行ったのが、事の発端だ。
「昨日、誘われて、飲みに行ったんだ」
「……ん?」
「情けねぇ愚痴みたいな話も、親身になって聞いてくれるもんだから、思わず俺も酒が進んでな。勢いで言っちまったんだ。噛んでほしいって。──で、起きたらこれだ」
これ、と言いながら、桐生は自分の首元を指し示した。その言動に錦山は目を丸くして桐生を見つめ、何かを言おうとして口を開いてはまた閉ざす、という行動を数回繰り返した。しばらく待っていると、やっとのことで震える声を絞り出し、信じられない、というような態度を全面に押し出して桐生に問いただしてくる。
「お、お前から言ったのか? 噛んでほしいって? ……それ、どういうことかわかってるのか? 番になれって迫ってるようなもんだぜ」
「まあ、そういうことになるな」
「マジかよ……」
錦山は頭を抱えて、桐生が仕事をしていた机にぐったりと倒れ込んだ。追いやられた書類が灰皿を床に落としかけて、桐生は慌てて手を伸ばしてそれを食い止めた。おい、と文句を言いかけたが、桐生が言葉を発する前に、錦山が無気力な声を上げた。
「誰なんだ」
「え?」
「相手、誰なんだよ。俺も知ってる奴なのか? お前の首というか、うなじというか、貞操を狙ってる奴なんかたくさんいるから……ああだめだ、心当たりが多すぎる。お前ほんと、俺の身にもなれよ、マジで」
「錦……」
自分の身を案じてくれている兄弟に胸を打たれつつ、桐生は番になった男のことを思い浮かべた。隠し立てするつもりなんてなかったが、勿体ぶるような感じになってしまったなと思いつつ、口を開く。と、そのとき同時に、扉の重厚さを窺わせる、くぐもったノックの音が室内に響いた。桐生の返事を待たずに部屋に踏み入った男を見て、ちょうどいいなと思う。目線だけで自分の隣に来るように示せば、男はおとなしく従った。第三者の気配に錦山がやっと身を起こす。男を見て、何の用だと喧嘩腰になりそうな錦山を制して、桐生は隣に立ったその人物を紹介した。
「ほら、こいつが俺の番だ」
────
弟分として可愛がってきた男が、自分の所属する組織のトップになったのは、そう昔のことではない。
東城会4代目会長としての桐生一馬を、真島は大した驚きもなく迎え入れた。組は違えど、それなりに面倒を見てきた相手だ。桐生がカタギになっていたときも何かと顔を合わせる機会は多く、兄貴分として力を取り戻す手伝いのようなこともしてやった。もともと一般人の枠には到底収まりきらないような男だ。数多の伝説がついて回る男が上に立つことに、真島は何も異論はない。むしろ、そんな規格外の男に付き従えることを、愉快にすら思っていた。
ただ、どうも桐生は一時の感情に流されやすい節がある。情に厚いといえば聞こえはいいが、その真心はいつか彼自身の足を掬いかねない。人を信じすぎるのも大概にしろだとか、そんな説教めいた警告をするつもりなんて無かった。少しでも彼の支えになればと思っただけだった。──本当に、それだけだったのだ。あの男がオメガだったなんて、自分はまったく知らなかったのだから。
気晴らしにでもなればと酒を進めて、悩みともつかない桐生の話を親身に聞いた。この男の上に立つ者としてのカリスマは申し分ないが、それが天性のものであるからか、理論に弱いところがある。頭で考えるという行為を飛び越して、実践に踏み切ってしまうのだ。それは確かに美点ではあるが、同時に致命的な欠点にもなり得る。会長とまではいかなくても、真島だってひとつの組をまとめあげているのだ。少しくらいなら助言もできる。桐生の兄貴分として、やりたいことをやっただけだった。
「……桐生ちゃん、飲み過ぎや」
「……ああ……」
「はあ。あかんわ、4代目がこないなってもうて。下の奴らに示しがつかんやろ」
「……うるせえ」
桐生はかなり深酒をしたようで、まっすぐに歩けないほど酩酊していた。肩を貸しつつコンクリートの道を進んでいく。あんまりにもふらついているものだから、自販機で水を買って与えようとすると、いらないと意地を張った。こうなったときの桐生は頑固だ。自然に酔いが覚めてくれるのを待つしかないが、それもどれぐらいかかるかわからない。このまま置いて帰る、という選択肢が思い浮かばなかったわけではないが、さすがに泥酔状態の東城会トップを道端に放置するわけにもいかなかった。タクシーでも拾って、車内に押し込めてしまおうかと考えていたところで、桐生が緩慢な動作で腕を上げる。どうやら何かを指差しているようだった。
「ん? どないしたんや、桐生ちゃん」
「……少し、休んでいきたい。兄さん、悪いがそこに入ってくれ」
「わーったわーった。休憩な、休憩……って、おい、お前、ここは……!」
桐生が指し示すままに進もうとしたところで、真島ははっとして大声を上げた。今自分たちが入ろうとしていたのは、ショートタイムだの宿泊だの書かれた看板があるホテルだ。慌てて桐生を見やるが、当の本人は力尽きたようにぐったりと真島にもたれかかるだけだ。ここまで遠慮なく体重を預けられていることに、微かな苛立ちと妙なむずがゆさを覚えて、真島はため息をついた。仕方ない。ベッドにしばらく寝かせておけば、そのうち酒も抜けるだろう。脱力した桐生をもう一度担ぎ直して、男2人で派手な外観の建物に足を踏み入れた。
適当な部屋を選び終わったところで、肩にのしかかっていた体重が少し軽くなる。回復してきたのかと思い声をかけるが、まともな返事は返ってこなかった。その代わり、気だるげに顔を上げてぼんやりとした目で真島を見つめてくる。焦点が合っていないわけではない。いつも通りに険のある目つきは、それでもなにか、確かな意思を抱いてこちらを窺っている気がした。
「起きてんなら自分で歩けや。ほら」
「…………」
「……はあ、もうええ。エレベーター来るで」
気まずくなって目を逸らして、狭いエレベーターに2人で乗り込む。変な気分だった。自分は場の雰囲気に安易に流されるような性格ではないはずなのに。こんなこと、後から笑い話として昇華してしまえばいいだけなのに。お気に入りの弟分、ただ、それだけの男なのに。「そういうことをする場所」に桐生と2人でいるという紛れもない事実がどうしてか、真島の思考をどんどん鈍らせていっている気がした。
桐生の熱い吐息が首すじにかかる。背筋がぞわぞわとして落ち着かないのに、無遠慮な重さを跳ね除けることもできない。自分も丸くなったなと思う。これが桐生以外の人間だったなら、距離を詰められた時点で即座に血の海に沈めていただろう。そこまで思い至って、違う、と慌てて腑抜けた考えを打ち消す。違うのだ、桐生だからじゃない。この男は4代目なのだ。トップの護衛をするなんて当たり前のことだ。自分が今やっていることだって、仕事の一環だと思えば良い。どうかするとおかしな方向へ傾いていきそうな思考を懸命に正していく。しかし、そんな真島の脳内に渦巻く混沌を吹き飛ばすように、にいさん、と脳の底に響くような甘ったるい声が、耳元で囁いた。
「っ……なんや」
「噛んでくれないか」
「……ん?」
「兄さんに、噛んでほしいんだ。ここを」
「ここって……はあ!?」
自分の間が抜けた声と、エレベーターが到着したことを知らせる音が、同時に響く。視界の端で、ゆっくりと扉が開いた。
「……桐生ちゃんの冗談も、つまらんもんやな。俺に噛んでほしいとか、正気か?」
エレベーターを降り、脱力しきった桐生を部屋に運んで、間接照明があからさまな部屋のベッドに寝かせる。この一連の動作を、真島は思考停止した頭でなんとかやってのけた。自分もベッドに腰掛けるとどっと疲れが襲ってきて、ため息混じりの独り言が口からまろびでる。
そもそも、噛んでほしいって、何やねん。
ここ、と桐生が手をやった場所は首の後ろだった。そこを噛んだらいったいどうなるというのか。アルファにそんなことをしたって、ただ血が流れて、そのうち塞がるだけだ。真島は桐生の性別を信じて疑っていなかった。はっきり聞いたわけではないが、4代目を務めるような男がオメガやベータなわけがない。たくさんのはみ出し者をひとつにまとめ上げられるあのカリスマが、アルファ性特有のものではないなら何だというのだ。
それに桐生がオメガだったなら、今頃東城会は血で血を洗うような争いが絶えない、無秩序な組織になっていただろう。あらゆる立場の人間がなりふり構わず桐生を襲って、仁義や侠気なんかあったもんじゃない。この男の生まれついての魅力と、オメガの特性が合わさったら、まさに人間兵器のような恐ろしいファムファタールになり得てしまうに違いない。と、そこまで一気に想像して、自分がすでに言い訳できないほど桐生へ惚れ込んでいることに気づいて少し笑った。もしかしたら、今の東城会もそんなに変わらないのかもしれない。真島のように、気高い龍を自分だけのものにしようと、取り憑かれたように追いかけている男たちばかりなのだから。
真島がかすかに漏らした息に反応したのか、桐生が濁点をふんだんにつけた低い唸り声をあげる。どうやら完全に寝入っているわけではないらしい。慌てて平静を装い、兄貴分のツラを取り繕って声をかける。
「桐生ちゃん、こないなるまで飲むなんて珍しいやんか。起こしてやるから、眠たいなら寝ててええで」
「……すまない、兄さん」
「ええって。お礼はそのうち喧嘩で返してもらうわ」
「兄さん」
「……なんや、さっきから」
「あんた、アルファなんだろ。俺のこと、番にしてくれ」
寝ぼけているのかなんなのか、普段より幾分か細い声で桐生はまた、真島におかしな頼み事をした。そもそも本当にオメガなら、アルファである真島との食事にのこのこついていった挙句、自分からホテルに誘うような真似はしないだろう。それくらい、一般的なオメガはアルファのことを警戒している。なにしろこっちはただうなじをひと噛みするだけで、無理やりにでも番を成立させることができる強制力を持っているのだから。それだというのに、この男の行動は、真島に自分から首を差し出しているようなものだ。恋仲でもないのに、番として自分を縛ってくれだなんて、そんなことをするオメガがどこにいる?
桐生はベッドに寝そべったまま、ただこちらを見つめていた。深い赤を纏った胸元が、呼吸に合わせて上下している。豊満な肉体が、真島に食べられるのを待っている。
……もし、仮に。この男がオメガだったとしたなら、それはどんなに都合の良いことだろうか。無意識に唾をごくりと飲み込んだ。真島は桐生の肉体を見たことがあるし、知っている。一歩間違えれば殺し合いに発展してしまうような激しい喧嘩で、何度もあのからだを刃物で切り裂いて、拳を打ち込んだ。龍を背負った背中が地に伏せても、その度に舌打ちをして立ち上がる姿がたまらなかった。そんな男と番になれたら。生涯自分のものにできるというのなら。それは、どうしたって抗えない、魅力的な捧げ物だ。
さっきの男の「噛んでくれ」だなんて短い言葉にあてられてしまったのか、自分の吐息がどこか熱を帯びている気がする。桐生の濡れた瞳を、歯を食いしばって見つめ返すと、頭がくらくらしてきた。酒で上気した頬がすこし動いて、とろけた笑みが真島を射抜く。違う。流されるな。この男は、ただの弟分で──。
「……くそっ!」
かたく握りしめた拳で、真島は思い切り自分の顔を殴った。痺れるような刺激が頬を、耳を、唇を刺して、びりびりと脳の底から衝撃が走ってくる。そんな痛みを無視して、真島の突然の行動に驚き、目を丸くしている桐生を睨みつけた。
「……お前なあ、さっきから妙なことばっか言うてるけど。桐生ちゃんオメガやないやろ。アルファがアルファのこと噛んだって番にはなれん。寝ぼけるのも大概にせえよ、俺のことおちょくって、そんなに楽しいんか」
叱る様な口調で問い詰めれば、桐生は大きく開いた目を一転して、どこか反抗的に思い切り細めた。心外だ、とでも言うように、ムッとした表情で口を尖らせる。
「違う。俺は本当にオメガだ」
「はあ? ほんなら、ヒートとかもあったっちゅうんか。そんな様子まったく見せへんかったのに?」
「薬で抑えてただけだ。俺だけじゃあすぐにばれちまってたかもしれねえが……親っさんが腕の良い医者を紹介してくれたし、ヒート周期のときは錦や柏木さんも協力してくれた。周りに悟られないように、いろいろと取り計らってくれたんだ」
そこまで言われて、真島は桐生の周囲に侍る過保護な男たちのことを思い出した。あんな奴らが側近についていたなら、確かに隠しおおすことも不可能ではないだろう。じゃあ、この男は本当にオメガなのか。桐生がくだらない嘘をつくような性格ではないことを、真島はよく知っている。でも、だからって、こんな規格外のオメガがいるだなんて。未だ信じられないような気持ちで頭を抱えていると、桐生が静かな声で言葉を紡ぎはじめる。
「……前から、思ってたんだ。ヒートが来るたびにあんたのことが頭に浮かんで、欲しくて欲しくて、たまらなかった。今日、隣で過ごして確信したんだ。番になるなら兄さんがいいって。だから、なあ。俺のこの首、好きにしてくれ」
それは深く心臓に突き刺さるような、あまりにも狙い澄まされた殺し文句だった。真島は確かに持ち直したはずだった自分の意思が、根元から思い切りぐらつくのを感じた。噛みたい。番にしたい。いやでもこいつ、酔ってるし。けど、桐生ちゃんのほうから言うてきたわけで。細切れの思考が散り散りになってうまくまとまらない。普段脳内では登場の余地もない感情の天秤が、ずっとゆらゆら揺れている。
「……ほんまにええんか」
「ああ」
「……いや、よくないわ。お前が素面のときにもっかい言うてみ。感情に流されやすいんは、お前の悪い癖や」
「なんだと?」
やっとの思いでそう口にすると、桐生は剣呑な目つきを真島に向けた。酔っているとは思えない、まっすぐな視線だった。桐生は酒が入っても普段と表情は変わらないし、呂律だってしっかりしている。ただ、行動や態度には露骨に現れるようで、ふらついた脚でもつれるようにこちらに近づき、真島をベッドに勢いよく押し倒した。酔っている、ということは、理性が働いていない、ということだ。あまりに遠慮のないその行動に、技をかけられたときのようなうめき声が飛び出ていく。
「うぐっ!」
「……にいさん、なんで、だめなんだ。おれが、酔ってるからか」
「ちょ、重い、重いて。お前俺より体重あるやろ、自分のこと何キロや思てんねん」
「うるせえ」
全体重を思い切りのしかけてくる桐生は、自分がどれだけ大きくなったのかもわからないまま甘えてくる動物のようだった。たちの悪いことに、動物というより猛獣と言ってしまった方が正しそうな質量なのだが。とんでもない大きさの龍に押しつぶされる自分を脳内に思い浮かべつつ、なだめるように硬い髪を撫でた。
「……あのなあ、こういうのって、順序があるやろ」
「順序……?」
「せや。いきなり全部すっ飛ばして番になれとか、いくら俺がええ男やからって急すぎるわ。悪いことは言わん。酔いが覚めてから考え直してみればええ」
今すぐにでも好き勝手してしまいそうな指を必死に制御しながら、真島は口を動かした。こうやってなんらかの動作を伴っていないと、ろくでもない欲望に支配されてしまいそうだ。桐生から見た自分が、兄貴分としての表情をうまく貼り付けられているのか、自信が無い。
アルファとオメガの関係は単純だ。雄と雌、弱肉強食、支配する側と、される側。対となる存在であるはずなのに、二つの性の間には奇妙な上下関係が定まっている。そんなふうにどうしようもない本能があるのをわかっているからこそ、真島は冷静でいたかった。胸の内に生まれつつある下劣な衝動を、桐生にぶつけてしまうことを躊躇していた。この高潔な男を、己の征服欲で染めてしまっていいものか。恋や愛よりもっと根源的なところにある、さかりのついた獣のようなみっともない熱ですらも、この男は受け止められるというのか。煮えたぎる執着が脳内を蝕んでいく。真島の意思がぐらついた瞬間を見計らったように、かたちのよいくちびるが、ゆっくり空気を震わせる。艶のある声が、真島の耳元でささやかに響いた。
「にいさん。俺は今、あんたが欲しいんだ。……それだけじゃ、だめなのか」
視界に入る白いシーツが、食卓に広げられたテーブルクロスのように見えた。自分たった1人のために整えられたシチュエーション。うまそうな肉を皿に乗せられて、左右にはナイフとフォーク。そこに「召し上がれ」の言葉まで添えられていたなら。
真島ができることはただひとつだけだ。あとはもう、その肉を喜んで口に運ぶしか、ない。
「お前っ、! 覚えとけよ……!」
「……っ!」
鈍く働く脳がやっと桐生の言葉を正しく理解した瞬間、からだが勝手に動いて形勢を逆転させた。全体重をかけて行動を封じ込むと、桐生は密かに息を詰めて、期待か恐怖か、その肉体を震わせる。真島の意識が向いたのは今から喰らわんとするその肉のあたたかさだけで、気がつくと己の犬歯が男のうなじに深く食い込んでいた。ぶつりと繊維の裂ける音がした瞬間、脳がありえないくらいの満足感で埋め尽くされていく。自分が理性で生きる人間ではなく、本能で生きる獣なのだと突きつけられた気分だ。目の前の生き物を、自分のものにすることだけしか考えられない。口に鉄の味が溢れて、けれどそれは不快なものではなく、確かな勝利の味だった。
やった。やってしまった。ついに自分はこの男を番にしてしまったのだ。奥歯のあたりからじわりと唾液がにじんできて、喉を鳴らして飲み込む。露骨に響いたその音を耳にしたのか、目の前の雌は思わずといった様子で熱っぽい息を吐く。舌で噛み跡を舐めると、あつい、といううわごとが聴こえてきた。ただ、そんなことを言いながらもそのからだは自分の下から抜け出そうともしないのだから、真島はたまらない気持ちになった。ああ、この男は、自分の雌になることを、心から受け入れているのだ!
「……なあ」
「ん……な、んだ」
「もう、離してやれへんけど、ええんやな。そっちから飛び込んできたんやからな。アルファとオメガが番になるっちゅうことが、どういうことかわかっとるんやろうな、お前」
「……? ああ、わかってる。そうじゃなきゃ、あんたにこんなことを頼んだりしない」
そう言って桐生は鷹揚に頷いて、悠々と笑顔を見せた。その余裕たっぷりの表情を見て、真島は首を傾げる。この男は今、力でねじ伏せられたも同然なのだ。文字通り雌雄を決して、桐生の男としての矜持は潰えたに等しい。それは今までその漢気を崇められてきた桐生にとっては屈辱になるのではないかと、真島は思っていたのだが。
当の本人はそんなことは全く気にしていないとでも言うように、強く噛まれたことによって生じた凹凸を指先でなぞる。そして何かを愛でるように目を細めて、満足したように呟いた。
「兄さんも、本当にいいんだな。これでもうあんたは、俺のものだ」
挑発するような口調で告げられた言葉に、反射的に言い返そうとしてふと気づく。この関係は、本当に自分が優位に立っているものなのだろうか。オメガだというのにとんでもない身体能力を発揮するこの男を好き勝手できたのは、そうするよう本人が仕向けたからだ。うなじを噛むだなんて行為も、桐生が自分から首を差し出していなければ到底不可能だっただろう。先の行為は、桐生が自ら望んで、真島を番に値する男だと認めたうえでのものだった。自分が握っていたことを確信していた手綱は、本当は桐生の側にあったのだ。
うなじを噛まれたオメガは、今後一切番のアルファ以外との性行為は困難になる。オメガにしてみれば、番になるということは即ち生涯を縛られるようなものだ。そんな中で、引く手数多の4代目は真島を選んだ。その優越感に目がくらんで、自分はとんでもない思い違いをしていたのではないだろうか。さっと目が覚めて、男の真意を聞こうと、意を決して言葉を発する。なあ、お前、一体どういうつもりで。だが、真島はすぐに口をつぐんで押し黙った。返事が期待できないことに気づいたからだ。
狭い空間に静寂が2、3秒訪れる。そのすぐ後に、桐生のすこやかな寝息と、真島の大きなため息が重なった。
────
そんなこんなで、真島と桐生は一対の番になった。理性だけの関係じゃなくて、本能でも繋がりを抱くようになった。もう他人の入り込む余地なんかどこにもなくて、あの4代目の首には真島がつけた傷が生涯残り続けるのだ。結ばれたと思ったのも束の間、桐生は夢の世界に旅立ってしまったわけだが。
翌日の東城会本部、広い執務室。こいつが俺の番だ、という男の言葉に、真島はひとつ頷き返してため息を吐いた。
「……番、になったはええけどな。どうせお前、昨日のことろくに覚えてへんのやろ。煽りまくって噛ませておいて、飽きたらポイて。どれだけ揺すっても起きひんし。気持ちよさそぉに寝とるお前に手出さんかったこと、褒めてほしいくらいや」
「む。そ、そうか……、悪かったな」
「き、桐生、お前、まさか、こいつと……!?」
わなわなと震えている錦山を尻目に、真島は呆れたように鼻を鳴らした。錦山や風間、柏木など桐生を昔から知っている側からしてみれば、さぞかし自分はおもしろくない存在だろう。何でこいつが、とでも言いたげな視線が刺さって、胸がすくような思いで口角を上げる。桐生は自身を取り巻くこの険悪な雰囲気に気づいていないのか、錦山の言葉に、まあそういうことだ、と頷いた。
「今すぐにとはいかないが、そのうち親っさんや柏木さんにも挨拶に行こうと思っている」
「そ……そうかよ……」
「え、そうなん?」
あの2人は渡世上以外の意味でも、桐生の親のような存在だ。当の本人は挨拶や報告のつもりかもしれないが、真島にとっては殴り込みも同然の心構えで行かないといけないだろう。暴力沙汰になることを覚悟している間に、錦山は呆然としつつも部屋を出ていった。その様子を横目で見やってから、桐生がこちらに向き直る。
「と、いうことだ。今後ともよろしく頼む」
目の前の男は相変わらず横柄な態度で、少しの照れも見せずに真島を見据えた。なるほどこれが4代目の貫禄か。オメガだとかアルファだとか、そんなことがどうでもよくなるほどの説得力を放つ桐生の存在感を受け止めて、真島は理解する。こちらが見下ろしているはずなのに、どうしてか傅いて膝をついてしまいたくなるような、妙な気分だ。落ち着かないまま視線を動かすと、シャツと首の隙間から、ちらと赤い血の色が見えた。昨夜刻まれたばかりの、番の証。下ごしらえは済んだとでも言いたげな桐生の姿態に我慢できず、結局真島は誘惑に負けた。あのときうなじを噛んだ瞬間から、たしかに桐生は真島ただひとりのものになった。それでも、なぜかどうしても落ち着かない。皿の上に置かれたその肉は、甘美なことには間違いなかったが、本当にこの身に易々と収まるようなものだったのか。食べてしまったが最後、この男に内側から侵食されてしまうんじゃないかという不安が拭えない。
そんな真島の様子を見て、桐生が薄く笑った。そして唐突に手を伸ばして真島の黒いネクタイをぐい、と力強く引き寄せる。あっと思った瞬間には桐生の揃ったまつ毛が間近にあって、少しだけ体温を分かち合った後に、ちゅ、と小さなリップ音を立てて唇が離れた。
「──俺から逃れられると思うなよ、兄さん」
得意げな表情を浮かべた、座ったままの桐生を見つめる。自分が支配する側だなんてとんだ思い違いだ。全ての主導権は桐生が握っている。昨夜枷を掛けたのは自分のはずなのに、捕まったのは己の方だったことに気がついた。
「……望むところや、お前がうんざりするほど、可愛がったるわ」
とんでもない男を手に入れてしまったものだと、今更ながらに冷や汗が出る。背筋がびりびりと痺れる心地がして、弾かれたように指が動く。桐生の熱を帯びた瞳がふいに細まった。
ここまで来たなら、毒だろうが何だろうが、もうその身を余すことなく味わってやるのみだ。生意気にこちらを見上げるそのツラを捕まえて、誘うように微笑む唇にがぶりと噛みついた。