「貴方が帰るその日まで、」「起きて、ほおずき」
肩を揺さぶられて条件反射のように手が出た。ローキックでなかった分威力は弱かった……と思う。もう随分と……それこそ何百年と私を揺さぶり起こす者などいなかったものだから、昔のようについ惰眠を邪魔された怒りをそのまま相手にぶつけてしまった。
はっとして我に返った時には相手は「うぐぅ……」と顔を押さえてその場で蹲って呻いている。さーっと血の気が引いていくのがわかった。
白澤が、私を桃源郷に迷い込んだ「ほおずき」という鬼だと思い込んで数日が経っていた。
相変わらず彼の夢は覚めないようで、毎日食事を作ってくれ洗濯や他の家事も率先してこなしてくれる。昨日など、畑を耕して生薬をまた作ってなんてことまで言い出され、あまりの変貌ぶりに言葉を失うほどだった。それが、彼の前に突然現れた「私」のもたらした効果だと言われれば幸せなのかもしれないが、実際には、方向性を変えただけで彼は相変わらずこの世界に背を向けたままなのだった。
「す、すみません、白澤さん!」
「お、お前……」
はたと気づいた。この暴力で彼が私を私と認知したりしないだろうか、と。
今までとは違い、私を「私にそっくりな鬼」として認識している今ならば、と。浅はかな願望に過ぎないことだ。
白澤は涙目になってこちらを見上げ恨みがましい声でこう言った。
「お前はあいつによく似てるけど、そういうところは似なくてもいいんだってば」
「…………すみません」
「本当に、そんな暴力どこで覚えてきたの。鬼の子はみんなそうなの?」
謝る私に気を取り直した様子でその場から立ち上がり、彼はぱんぱんと膝を叩く。大した暴力も振るわれていないような様子で「めっ」と言われるにあたり、自分の考えはやはり彼には遠く及ばないと理解した。そもそもこれは私を私として認識していないのだから、いくら暴力を振るわれようとそんなことで私を今更「鬼灯」だなんて思うわけがなかったのだ。
「寝起きが、悪いのでつい」
言い訳を口にすると、彼は私の頭を撫でて「本当にもう」と苦笑いを浮かべる。既に許しているらしい。
「もう、本当に……。朝ごはん、できてるよ。顔を洗っておいで」
「はい……」
この間まで私がしていたのだが、今の率先して白澤が家事をする。これまでは彼自身が食べる必要も寝る必要もなかったから、家事をする理由がなかったんだろう。
私の世話をしなければ、と思ってくれているようだった。
大切にされているのを節々で感じる。嬉しくないわけではない。ずっと、彼の目には映らなかったのだ、私は。それが「他の誰か」であろうと認知され、笑いかけ、愛そうとしてくれる。その愛情が神の慈愛であろうとも、嬉しくないわけがないのだ。
ただ、それを感じるたびに心の片側がぐずぐずに錆びていくだけで。
「明日はちゃんと早起きするので、朝食の準備は交代でしましょう」
食卓について言えば「子供はいっぱい寝なきゃあダメだよ」などと言われてしまった。
「白澤さんには、私が幾つに見えてるんですか」
ため息混じりの質問に、彼は静かに笑った。
「お前が僕と同じだけの背丈がある男の子なのはわかっているよ。でも、僕から見ればお前くらいの鬼の子はみんな子供だ」
「……子供、ですか」
「そうそう。可愛い子鬼」
くふふ、と目を細めて笑う。私を見つめる眼差しは、確かに幼い子を見守るものだった。
「いつか成長したら、私を認めてくれますか?」
その質問は、なんとも愚かしい問いかけだった。
「認めて? ふふっ、お前、面白いことを言うね。僕はちゃんとほおずきのことを認めてるよ?」
「…………そう、ですね」
私が貴方に恋をしていると知ったら、彼はこの関係を拒絶してしまうだろうか。穏やかな時間は、性の匂いがしない今だからこそ成り立っているのかもしれない。彼にとっては未だ「鬼灯」だけが恋をした相手であり、私は見知らぬ「子鬼」でしかない。二人きりの世界で、守るべき子供が突然自分に性欲を向ければ、混乱どころか嫌悪してしまう可能性すら否定できない。
そうしたら、彼はまたひとりぼっちになってしまうに違いない。
それだけは絶対に避けたいと思い、私は自分の気持ちに蓋をする。
今は、このひとが穏やかに過ごせることが何よりも大切な願いだった。