「半夏生」 加々知の部屋に久しぶりに戻ってきた時の最初の印象は、暖かい、だった。
暖房をつけっ放して出かけたから、というわけではないだろう。この部屋を留守にして一日近く経っていると彼は言った。
僕の部屋のエアコンはついたり消えたりしていた。それは桃タロー君がしていたことだ。基本的に彼が部屋に来た時につけて、彼がいなくなった後しばらくして、気持ち悪いと僕が消す。地獄(仮)の真冬にエアコンをつけずに過ごすのは危険なことだと知っていたが、部屋にこもる空気の温さが今の僕には耐えられなかった。
だから、エアコンをしばらく消していた部屋の寒さというのは身を以て知っている。それだのに、加々知の部屋は暖かい。
加々知は、部屋に入るまでずっと僕の手をぎゅうと強く握ったままで歩き続けた。心配だったのだろうか。また僕が彼の前からいなくなることが。
少し前を歩く彼のコートの裾についた赤い血が何を意味するのか、想像はできていたが問わなかった。僕が、もっと早く決断できていたら。そんな気持ちが胸を占めて彼に何も言えなかった。自分が殺し屋であるという型から出ることができなかったせいで、依頼を反故にして逆に依頼者を殺すという判断が下せなかった。加々知を殺さなければ、僕の未来はないものだと信じきっていた。実際には、殺そうが殺すまいが、僕の殺し屋としての人生は彼に恋をした時点で終わっていたのに。
人を殺した後にそのまま僕のところに来たのだろうか。
それに嫌悪したりはしない。が、人殺しの後にさっぱりしたくならないのかな、と少し心配にはなった。汚れているのはコートの裾くらいのものだから、返り血はそこまでではなかったのだろう。だから気にならないのかもしれない。でも僕を迎えに来るためにそういう「気持ち悪さ」を我慢していたなら申し訳ないな。
僕自身、殺しをした後は特に入念に手を洗う。手が汚れることは全くないのに。なんとなく掌にどろりとした血液の感触が生まれ気持ち悪くなってしまうのだ。ましてや返り血や今の彼のように服の裾にでも血がつこうものなら、嫌悪が勝って早くシャワーを浴びて身体を綺麗にしたくなる。どんな殺しの内容でもそんな感覚なのだけれど、加々知は無理をしていないだろうか? 大丈夫なんだろうか?
そんなことを考えること自体が狂っているのだと知るのは、もっとずっと後……僕が、加々知の部屋に引っ越して何年も経って、念願の漢方薬局を開いた後のことだった。加々知から言われたのではなく、小さな漢方の薬局と併設のカフェ(生薬を煎じたお茶などが飲める薬膳カフェ)に店員として雇った桃タロー君と話していてわかった。
まだまだオープンしたての店では客が少なく、花屋の配達に出かけた加々知を見送った後、ふたりでカフェのテーブルに座ってメニューを書き直しながら話している時に、突然その話になったのだ。
「人殺しをしたからさっぱりしたくないかな、なんていう気遣いは普通はしないもんですよ。そういう発想自体、普通はないんです。いくら地獄(仮)が人殺しが常習化している街と言っても、一般の人間はそう人殺しはしないもんですから」
桃タロー君は苦笑いを浮かべてそう言った。意外な言葉に目を瞠り、随分と普通の感覚になったと思い込んでいた自分の一般とのズレを久しぶりに感じてしまった瞬間だった。
それはさておき。
加々知が人を殺してしまったことへの申し訳なさが胸に広がって覆い尽くすよりも前に、加々知の部屋に僕らは着いて、彼はコートを脱いで洗濯機にぽいと投げ込んでしまったので、僕の思考はそこで止まった。
加々知に風呂に入ろうと言われたせいだ。
「え あ、そ、そっか。加々知くん、入ってきて」
身綺麗にしたいだろうと勧めたが、彼は一度離した僕の手首をまた掴み「白澤さんも一緒に」と告げる。
「い、一緒に」
加々知と暮らしていた半月、一緒に風呂に入ったことは一度もない。そういう関係になった後も、さすがにそれはしなかったのに、何故。動揺して視線が泳ぐが加々知は御構い無しだ。僕の着ていたコートを脱がしにかかっている。
恥ずかしい、さすがにそれは恥ずかしい。
慌てて止めようとしたのだが、僕が入らなければ加々知も風呂に入らないと言われてしまうとどうにもならない。冷えていることもあるし、何より人殺しの後にそのままでいるのは気分が悪いに違い無い。
結局は、ぽわぽわと顔が火照るのを感じながらも素直に彼と風呂に入った。
彼が、気持ち悪さを洗い流したくて風呂に入ったのではなく、僕の身体がすっかり冷えていることを心配しているのだというのには、風呂に入ってすぐに気づいた。
「風邪、ひかないでくださいよ」と気遣わしげに呟きながら彼はシャワーを僕にばかり当てるのだ。
「いいから、加々知くんこそシャワー浴びてよ」
やはり二人で入るのは無理があったのでは。頭からお湯を被りながらそんなことを考えた。
加々知が僕の髪を洗ってくれるので、お返しに僕も彼の髪を洗ってあげる。僕の髪よりも少し硬いそれに濡れている時に触ったのは初めてのことだった。照れ臭さと、二度と触れられないと思っていた人の「初めて触れる場所」に触れられたことが嬉しくて、くすくすと笑った。
ボディソープで彼の身体を洗ってあげると「くすぐったいです」とどことなく拗ねた声で抵抗される。そう言えば、彼とセックスする時も基本的に僕が責められることが多くて加々知の弱い場所など知る余裕がなかった。
ぬるつく掌を鎖骨から肩、脇、腰骨までゆっくり下ろして身体のラインを確かめる。脇から腰骨のあたりに掌を這わせた時が一番加々知の眉間の皺が深くなったので、このあたりは弱いらしい。
面白い。それに可愛い。加々知でもくすぐったい場所なんてあるんだな、と新鮮な気持ちになった。
「このあたりの筋肉、いいって言われたことない?」
首を振る加々知は不機嫌そうだ。
「ふぅん。女の子で好きな子意外にいるけど」
貴方は言われたことがあるのか、という質問をされる間、僕の指は彼の腰骨から下腹部へのラインをそろりと撫でていた。
「僕はあんまり筋肉つかない身体してるからなぁ。……まあそれでも一、二回くらいはあるよ」
ふふふ、と笑う僕のそこを彼の掌が同じように這う。不機嫌そうな表情で。仕返しという手つきなのがありありと伝わってきて、歳下っぽくて可愛いなとまた思った。加々知といる時、こんなに彼を可愛いと思うことはあっただろうか。僕の心の変化が、そんな風に感じさせているのだろうか。