あ◯ろくんにフラれたいドアベルと共に店内に入ると「いらっしゃいませ」と涼やかな声に招かれる。
この声を聴くために一日の仕事を頑張ったと言っても過言ではない。
一度ならず、彼の「いらっしゃいませ」をこっそり録音して会社で嫌なことがあった時に聞けるようにしようかと思ったが俺の小汚いスマホから彼の声がしたところで意味がないと、結局は思い留まった。
安室くんの声は、ここ、ポアロで聞くからいいのだ。
「今日もいつものでいいですか?」
「あ、はい」
俯いて眼鏡を指で上げながら答える俺に安室くんは気分を害する様子はなく「かしこまりました」と明るく返してくれる。
彼のそんな誰にでも平等な優しさに内臓が軽くなったような気がした。
命が助かっているという表現は決して大袈裟な表現ではない。
彼が纏う清らかなオーラを少しでも近くで浴びたくてカウンター席に座ったくせに、俺は鞄から取り出した文庫本を開く。
耳だけで安室くんを楽しんでいるのだ、と誰に聞かせるでもない言い訳とともに。
コーヒーを淹れるためにお湯を沸かす音、レタスを千切る音。
それからしばらくしてから、常に研がれたナイフでサンドイッチを切る音がした。
ここのナイフはいつも切れ味がいい。殺されるならあれがいいな。殺したいと思われるほど強い縁を持ってやいないのに、物騒なことを夢想する。
そんな俺の前にポアロオリジナルコーヒーとハムサンドが届く。
軽く会釈をすると安室くんは「いつもありがとうございます」と言った。
こちらこそ、と言おうとしたところで、俺の後ろに座っていた男が「ごちそうさん」と言って席を立った。
このビルの二階に事務所を構えている探偵だ。
安室くんの師匠らしいと女性店員が他の客に話していた。
今日も安室くんのハムサンドは美味かった。これでまた来週も頑張れる。きっと、多分。
人生の長さに比例しない己の存在意義を噛みしめながらコーヒーを飲んでいると安室くんがバックヤードに入った。「お先に失礼します」「お疲れ様です、安室さん」と会話していたから、今日はここで上がりなのだろう。
俺は彼の最後の男(客)になれたのか……。
「やあ」
「わっ」
いつの間にか黒いニット帽に黒い服を着た長身の男が俺の横に腰を下ろしていた。
「赤井さん」
彼とはここで知り合った。カウンター席のテーブルに文庫本を忘れていきそうになったのを教えてくれたのがきっかけで、顔を合わせば話すようになった。お互い本好きで、特にミステリーが好きなことがわかって意気投合した。
「今日は会えたのか?」
彼は俺が安室くんのファンであることを知っている唯一の人物でもある。
「へへ、はい……今日も最高でした」
「ホオ……」
「俺のこと常連だって思ってくれみたいで、いつもありがとうございますって、へへへ……」
「よかったじゃないか」
赤井さんは分類の仕方によっては強面と言える顔つきだが、実のところとても優しく、俺のたどたどしい話にも全肯定してくれる。
「安室さんの声ってどうしてあんなに癒されるんでしょうね」
「さあ……いい声なのは間違いないな」
「そうですよね!!女性にモテるんだろうな……」
「女性だけとは限らないんじゃないか?君のような初心な青年を虜にしているんだから」
「た、確かに……」
「ふっ、今、彼の恋人になることを想像しただろう?」
「ま、まさか!!」
「ホオ?付き合うことを想像したこともないと?」
「ないですよ……フラれたいなって思ったことはありますけど」
「ん?」
「あれ?伝わりません?」
安室くんにばっさりフラれて、やけ酒飲む。そしてベッドに突っ伏して、干からびるほど涙を流せたら。俺は幸せだと思うが、赤井さんには「わからんな」と言われてしまった。
「まあ、もうフラれてるようなものですけどね。あんなに素敵なひとだから恋人の五人や十人いても驚きませんよ、ハハ」
そう言いながら胸がぎゅっと苦しくなるのだから、我ながら恥ずかしい。
俺が彼と釣り合うわけもないのに……。
「ひとりだけだよ」
「え?何か言いました?」
「いいや?それより、最近読んだ本の中でオススメはないか?旅先で読む本を探してるんだ」
「ああ、いくつかありますよ!」
俺は鞄からスマホを取り出して、読書記録を付けているアプリを起動した。
「旅先で本を読むのっていいですよね。どちらに行くんですか?」
「近場の温泉だよ」
正直ちょっと意外だった。
赤井さんは緑色の瞳といい、長い手足といい、海外の血を濃く感じる。安室くんと同じように。
だからてっきり海外旅行にいくのかと思ったのだ。そんな俺の驚きに気付いたようで赤井さんは肩をすくめた。
「俺の恋人は仕事が忙しくてね。俺としては遠い国に連れ去って独り占めしたいところなんだがな」
「ほえ……」
ハンサムな彼にここまで言わせる恋人さんはきっと、とんでもない美人なのだろう。
「これはあれだな、君の国の言葉で言うところの糠に釘だ」
「暖簾に腕押しって表現もありますよ」
そう言って俺の恋人はくすくすと笑った。
彼のファンであるあの青年に見せてやりたいぐらい可愛いが、生憎俺はそこまで心は広くない。
青年の安室くんへの恋慕は病的といってもいいほど密やかで、あの手のタイプは強く牽制するよりもたまに話を聞いてガスを抜いてやるほうがいいと判断したが、わざと関係を匂わせても彼と俺の関係に微塵も気付かない様子には驚かされた。
「それにしても、君にフラれたいという感情には面食らったよ」
好いた相手には同じように気持ちを返してほしいものじゃないのか、と俺が尋ねると零は困ったように笑った。
「僕はわからなくないですけどね」
「ホオ?」
「あなたに告白した時の僕も同じ気持ちがだったので……」
俺と零が付き合うきっかけになったのは彼の告白だった。顔を真っ赤にして俺に「好きだ」と言ってきたことを思い出すとまだ頬が緩む。それに気づいた零が普段の半分の力でハンドルを握る俺の腕を叩いた。
「妬けるな」
「え?」
「君に関することで、青年に理解できて俺に理解できないことがあるとはな」
「まあ……そうとも言えるのかな……?」
「ものは試しだ。俺をフッてみてくれよ」
「ええ?嫌ですよ」
最初は拒んだ安室くんだったが、温泉旅館に到着するまであと1時間ほどあるのだからと言うと、渋々了承してくれた。
「君が好きだ」
「……ごめんなさい、あなたとはお付き合いできません」
ホオ……これはなかなか……。
「ニヤニヤするな!」
「ダメなのか?」
「あなたは僕にフラれて嬉しいんですか?」
う~ん。実際にそんなことがあったらもちろん笑いごとではないが、彼が予約してくれた温泉旅館に向かっている途中だと思うとどうも表情が緩む。
「すまん、君が可愛くて、つい」
「はあ!?可愛い僕にフラれたんだからショックを受けるでしょう!?」
「はははっ」
「お前なんか……嫌いだ……」
「ふっ、すまん、ダメだ、何を言われても俺は君が愛おしいよ」
「くそ……赤井の…ばか!!赤井なんか……赤井なんか……っ!だいっっっきらい!!!」
「はは、馬鹿なんて初めて言われたな。君が言うと可愛いだけだが」
「なっ!!」
そこから先はただの暴言だったが、一生懸命になって俺を傷つけようとする彼は可愛いかった。
悪いな、青年。彼は俺にぞっこんらしい。
「はあ……」
旅館に到着すると零は特大のため息を吐いた。
「無駄に疲れました」
「悪かった。荷物は全て俺が運ぶよ」
「そうしてください……あ」
「どうした?」
「えっと、わかってると思うけど、さっきのは全部嘘だから……好きですよ?」
「……ぐっ」
最後の一撃で俺は心臓が捻じれた気がした。
「君はすごいな……」
「は、早く温泉に行きましょうよ!!わ、こら、こんなところでキスするなぁっ」