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    三咲(m593)

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    三咲(m593)

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    アレ&クロメイン他もちょこっと。アレスさんの視点で灼熱剣士まで。

    ##オレカバトル

    ジアマント 「あんたも熱心なもんだな」とクロムは少し笑って見せた。室内灯の火はすでに、周囲の闇しかはらっていない。本を広げているのは、自分が最後になっていたようだ。
     差し入れだ、と持ち上がったトレイに、アレスは歓喜の声を上げた。香ばしく焼けたパンがまとう、温かいスープの香草の匂い。一息吸い込めば、今まで読んでいた箇所は、すっかり頭の居場所を譲ってしまう。夢中でほお張っていると、分けたパンの向こうに、丸くなった目が落ちる。

     魔法の本か。つぶやいた声には、驚きまじりの感嘆が乗っていた。彼の反応は元より、皆が驚いていたのも当然だろう。物理技一辺倒の自分が、魔法を身に着けようとしている。どういう趣旨替えなのかと、自分でも不思議に思うくらいだ。
     魔皇軍の脅威は去った。だが、平和が恒久的なものではないことも、歴史から習わずにはいられない。王国を守る戦士として、常に自分を磨き上げたい。それはみなが一様に持っている志であり、持たなければならないものでもある。

     しかしアレスの場合は少し違った。兵士として相対しただけでなく、自身が魔皇を打ち取っている。新しい技を身に着ける、その意味合いも変わってくる。
     称賛と尊敬と、若干の畏怖が混じった様々な視線。いくら変わらずにあろうとしても、同じままではいられないのも確かだった。

     クロムはなにかを引き留めるように、机のふちをつかんだ。

    「この前のこと、気にしてるのか?」
    「……まあな。オレの火だから、ちゃんと操れるようになりたいんだ。バッチリ使いこなせれば、皆の力にもなれるしさ」
    「それで魔法なのか」

     「今のところサッパリだけどな」。付け加えると、向かいの顔もまた、同じように苦笑を浮かべる。

     数日前、演習の最中に起きたことは、うっかりでは済まされないものだった。危うく演習場の外にまで、火の手を広げるところだったのだ。将軍にはそれはもうこっぴどく叱られたが、同時にアレスは安堵してもいた。皆に自分の火が点かなくて良かったと。

     それからは、暇を見つけては本を読み、火を操る手段を模索している。元より自然と備わっていたもので、修練で得たものではなかった。なんとなくでは済まない以上、事故が起きてしまう前に、制御を身につけなければならない。

     一つだけ確かなことがある。火を持て余すようになったのは、魔皇と戦ったあとからだ。自分の底から湧き上がる、自身を焦がすほどの熱。これまでとは比べものにならないくらい、強く噴き上がってくる力。無我夢中で戦っていた、あの光景を思い出すたびに、暗いなにかが波打って、足にまとわりついてくる。

     今もまた濃さを増した闇を、クロムの赤色が打ち消した。

    「ずっとあんたに礼を言いたかったんだ。今更になっちまったけど……」
    「ん? ……」
    「あんたのおかげで、今の俺になれた。あんたの友人でいられることを、誇りに思ってる」

     兵士として出会ったばかりの頃だ。力も技も未完成で、攻守どちらに徹するのか、彼はまだ決め兼ねているところだった。
     誰かに決めてほしかったわけではない。それでも人に話していれば、自然と心も決まるのではないか。そんな将軍の言葉を信じて、アレスにも同じ話をしたという。

    ――攻撃も防御もできるって、それってすげえじゃん!

     そう言って自分は笑ったのだろう。思い出している目は、穏やかに嬉しそうに、記憶をなぞっているようだ。

     どちらも出来るようになればいい。言うだけなら簡単だが、技として両立するためには、その分習得も厳しいものとなった。
     だがクロムはやりきった。その言葉が決め手になったと、感謝の言葉をまっすぐな目に並べた。

    「オレも差し入れサンキューな! 頭使うと腹減るんだよなあ」

     はあ、とこぼれたため息が、肩と一緒に落ちていく。どうやって切り出すか、これでも結構悩んだんだぞと、照れくさそうに目がそれた。





     底板にふたの落ちる音がした。拾おうと伸ばした手は、横から腕にさえぎられる。街で言葉を交わした誰か、守るべき象徴と仲間たちのもの。共に戦った大きな翼、そして友人の赤色、……。幾重にも連なる腕は、いつしか鎖のように絡みつく。
     友人とは誰だったのだろう。自分が見ていた景色は、本当にそこにあったのだろうか。そもそも「自分」とは、どこにいるものなのだろう。
     そんなことを、脳裏で誰かが問いかける。記憶は確かに地続きなのに、他人の頭でものぞき見ているような、あいまいで実感のない感覚。
     今ここにある自分は、それまでどこにいたのだろうか。どこにも行っていないのに、どこかに行ってしまった自分を、まぶたの裏のその奥で、探しているのは誰なのだろう。

    「お目覚めか、煉獄皇」

     目を開けると、「誰か」はそこで鳴りを潜めた。当たり前になっていた、しかし以前と違う赤色は、今もまた視界を染めている。

     辺りを見回しながら、ゆっくりと頭を上げる。並び立つ本の塔を、ようやく崩しにかかったところで、眠ってしまっていたらしい。今日の予定はこなしたはずだ。もうひと眠りの理由を探そうとして、魔皇の含み笑いに遮られる。

    「客人が来ているぞ。貴様に会わせろと言って聞かんそうだ」
    「客人? ……」

     ドアの向こうから従者の呼ぶ声がする。まだぼんやりする頭を抱え、ソファから体を起こした。

     客人は先にいた。待たせてしまったことを詫びたところで、驚いたのは互いに同じようだった。王国を離れてしばらくになる。彼もまた、あれから姿が変わったのだろう。背格好は騎士のものになり、戦士としての風格も増したように見える。

     ただ自分に対しては、あまり良い驚きではなかったらしい。煉獄の主として身に着ける鎧は、以前とは比べものにならないほど、大きく重い。自分が背負うべき象徴は、彼の困惑ぶりからもよく分かる。

     クロムと名乗った「友人」は、しばし言葉を失って、ようやく実感を呑んだようだった。動揺を抑えているのだろうか、絞り出すように言葉を続ける。

    「あんたがここにいるって聞いた時は、嘘だと思ったんだ。……」
    「……」
    「絶対だまされてる、悪魔にそそのかされたんだってよ。
     ……でも本当、だったんだな。今のあんたを見たら、そうとしか思えねえ」
    「……そうか、ヴァルから聞いたのか」

     うなずいた彼の向こうに、自分とよく似た熱血の獣人が浮かぶ。煉獄へ向かう自分に、着いて行くと言って聞かなかった、もう一人の友人だ。この姿になることを選んだ自分を、最後まで心配してもいた。

    「……なあ、なんでだ? どうしてあんたは、黙ってここまで来ちまったんだ」
    「……」
    「皆になんて説明すればいい? 将軍は、陛下はどうする? あんたのこときっと、いや絶対……」
    「悪い。お前にも心配かけたな、クロム」
    「ちがっ、……そういうこと、言ってるんじゃねえよ……!
     ……ああもう、わけ分かったのに、訳分かんねえ!」

     地団太を踏んでいる姿が、ずいぶん懐かしく思えた。彼は間違いなく、自分の知っているクロムだ。
     だが今の自分は、彼の知らないアレスなのだろう。元より、自分ですら想像もつかない姿だったのだ。受け継いだ本質も、煉獄の主としての力も。魔皇との相対がなければ、すべてを封じたままだったかもしれない。
     果たしてそれは、自分らしさと呼べるのだろうか。内なる自身が、出してほしいと願っていたなら?

    「想像できるか? 自分の中にずっと、閉じ込められる様を」
    「それは、……」
    「俺はようやく俺らしくなれた。オレはそれを望んだんだ」
    「……だからって、あんたじゃなくなっちまったら、意味ねえだろ……」

     彼が言うとおり、今の自分は、自分らしくないのかもしれない。だとすれば、「アレス」は分かっていた上で、どんな姿を望んだのだろう。
     ほんの数日前まであった当然が、突然崩れ去ってしまった悲しみ。告げられた事実が、どんな想像よりも恐ろしく、直視できないものだった衝撃。
     埋もれていた熱の片鱗は、少しずつロウを溶かしたのだろう。「アレス」が覚醒するのは必然だった。芯がはっきり表れたのが、今この時になっただけだ。
     魔皇から聞かされた推測を、今一度自分の口で繰り返す。自分はきっと、こんな顔をしながら聞いていたのだろうなと、彼を見ながら思った。

    「ここまで来たなら、煉獄も見てきたんだろう?」
    「……」
    「俺の生まれた場所らしい。俺のことを知ってる奴もいた。
     俺はここにいなきゃいけないんだ」

     だからもう戻れないのだ。
     口にするまでもなく、クロムは理解したのだろう。煉獄の主として生きると決めた、「アレス」の覚悟を。

    「……変な術でもかけられてるなら、殴ってでも連れ帰るつもりだった。
     でも今の俺じゃ、あんたには絶対敵わねえ。それだけは分かる」
    「俺が、恐いのか?」
    「ああ。やべえくらいだって、足だって震えちまってる」

     「アレス」を探すため、彼はここまで旅をしてきたらしい。強くなった自分が、さらわれた友人を救い出す。そんな英雄譚めいた話であれば、無理を言って出てきたこの旅も、意義があったというものだろう。
     だが、望みはあっけなく打ち砕かれた。玉座に掛けているアレスは、悪魔に魅入られたいびつなものではなく、自ら望んだままの姿をしていた。

     握りしめていた手が、さ迷うように空をつかむ。うつむいた口元が、「こんなの、悔しいじゃねえか」とつぶやいた。






     王国に戻ったクロムは、ありのままを皆に伝えたようだ。隊列に立っているだけで、あらゆる目と感情が、こちらをうかがい見ているのが分かる。
     王国に奪還されていた橋を、再び手中に収める。アレスは軍を率いて、火の国を北上していた。配備されていた兵士たちは、いちべつをくれるだけで、みな一様に武器を引く。恐怖に我を忘れたのか、闇雲に突っ込んでくる者でさえ、炎と熱の壁に立ちすくむ。

    ――すっかりバケモノみたいだな。

     かつて寝食を共にし、同じ志で戦っていた仲間たちの、明らかな困惑と恐怖。雨のように降り注ぐ敵意は、しかしこの熱を冷ますには、あまりにもぬるくてもろい。

     「アレス」はもちろん、この光景を予見していたはずだ。なのに、悲しいと思えないのはなぜだろう。マントに小枝が引っ掛かった、そんなささいな感情しか湧かず、吹かれた灰のように散っていく。
     彼らが何度も呼んでいる、アレスという名は誰のものなのか。彼らが自分を知らないのではない。自分が彼らを知らないのだ。

     橋のアーチが視界を区切る。隊列の真横、並走するように躍り出た赤色に、いち早く反応したのはアレスだった。杖を構える従者たちを、腕を上げて制する。

    「ここまで踏み込んだのは、お前が初めてだぞ、クロム」
    「やっぱりあんただったか」
    「分かっているだろうが、俺たちは橋に向かうつもりだ。
     お前はどうする? 宮殿に戻らなくてもいいのか?」
    「そんなの決まってるだろ。ここであんたを……止める!」

     その言葉が合図だったようだ。周囲から迫る白色に、黒い翼が視界を覆う。
     撒かれたものは、魔法を無効化する霧だ。説明してようやく、従者の袖から解放された。王国もすでに、手段を選んでいられないようだ。
     従者を背にしながら踏み込む。霧の範囲から推測して、少なくとも四人に囲まれているはずだ。霧が晴れるまでは、互いに物理攻撃しか使えない。妨害のためとはいえ、攻め入る場所と方法を、敵に明かしたも同然になる。つまり、正面から戦えというのだ。
     予想通り、踏み込んでいたのは、クロム一人ではなかったらしい。覚えのある顔は、近衛隊に近い騎士たちのものだ。この橋は要所として、宮殿をつなぐ足がかりとなる。戦力を分けたとすれば、十分な采配だろうと思われた。もっとも、相手が煉獄皇でなければの話だが。

     おのおのの切っ先が幕を切る。霧をはらうように放った一撃は、黒い剣げきに受け止められた。クロムだ。自分がどこから飛び出してくるか、向こうも把握していたらしい。先の戦いでも、同じ手はずを取ったことがある。互いの手の内は、隠し通すには明瞭すぎる。
     兵士として修練を積んでいた、自分を試されている気がした。こうして手順を辿るのは、ある意味答え合わせではある。用心深い従者は、疑うべきだと言っていたが、基本となる戦術は、間違いなく今も踏襲している。
     あちらの手札は、先鋭たちの固有の能力だ。顔触れが変わらない以上、出せる札も決まってくる。この場で唯一裏が見えない札は、王国に戻ったばかりのクロムだけだ。

    ――どちらも選んだ、お前の強さを見せてくれ。

     剣を振りかぶりながら突っ込んでくるクロムを、得物の手元と先端で弾き返す。絡んだ刃とは、何度もつばぜり合いになった。大技を繰り出す機会を、みすみす与えるつもりはない。
     闇雲とさえ言える力で押してくるのは、隊列から引き離すのが狙いだろう。先鋭をけん制しつつ、クロムの予備動作も防ぐには、得物がもう一本欲しくなる。
     だが、条件は向こうも同じはずだ。魔法を封じられたとはいえ、従者たちは杖術にも長けている。霧が晴れるまでしのげれば、時間稼ぎとしては十分だった。戦局が動くのは、どちらが先に欠けるかにかかっていた。

     小さな引っ掛かりが足元に絡む。わずかな感覚であったとしても、直感には従うべきだ。違和感を見過ごしていては、時に命取りとなる。
     今は将軍となった近衛隊長に、そんな指導を受けたことがあった。ただ真っすぐに切り込むのではなく、少しは立ち回りを考えろと、呆れ交じりに怒られたこともある。二人並んで説教を喰らったことも、クロムは覚えているだろうか。
     ……そうか、自分は覚えているのだ。ならば今、彼が必死の声色で、何度も読んでいるその名前は、……クロムが戦っている相手は誰なのだろう。

    「もういいだろう!? あんたと戦う、必要なんてっ、……!」
    「……俺じゃない、……」
    「……ぐ、ッ……!?」
    「オレがお前と戦いたいんだ!!」

    ――……がッ、あぁああぁぁぁあアァ!!

     湧き上がる熱さのままに、天を仰いで絶叫していた。腹の底から噴き出した熱が、体中を煮え立たせながら、目まぐるしく駆け巡る。吸い込もうとした空気も、代わりに吐いてしまう息すらも。逃げ場のない熱は意識さえ歪め、蒸気に変えて散らしてしまう。
     あの時と同じだ、と思った。魔皇を前にして呼び覚まされた、自分のものではない感覚。自身の姿さえ失い、火柱の形をした剣として、その身を貫いた大きな力。

     体を覆うマントから、うかがうクロムの困惑だけが、やけにはっきりと見えた。

    「……あんた、その姿……!?」

     視界にあるものすべてが溶け出していく。従者の呼ぶ声がするが、ごうごうと渦巻く音にかき消され、どこから聞こえているのか分からない。こちらに向けて伸ばされた、腕の意味も曖昧なまま、夢中で武器を振り上げていた。
     すべて溶かされてしまう、それだけは理解していた。この熱と衝動を、火として燃やさなければ、自分は形を失ってしまうだろう。そんな確信にも似た焦りが、体を突き動かしているのが分かる。

     ようやく戻った視界には、およそ戦場とは思えない、奇妙な静けさだけがあった。火だけが煌々と辺りを包み、誰もが武器を手にしたまま、呆然と立ち尽くしている。その視線の中心に、自分がいることはすぐに分かった。石や砂の焦げた跡は、まるで引かれた境界線のようだ。
     放そうとしても、指が得物をつかんだまま離れない。手元を見ようとして、すぐ目の前にあったのは、想像もしたくない光景だった。仲間を抱えるクロムと、それをかばったらしい、先鋭の一人が倒れている。
     なにもかもが燃えているのに、ひどく寒いと思った。






     一瞬にして広がった火は、従者たちの魔法によって、ようやく消し止められた。制圧した橋には、腕を拘束された先鋭たちが、見守られるように立っている。念のため、従者には魔法封じを掛け直させている。回復こそしているが、誰も戦える状態ではないだろう。

     指揮官は誰だとたずねたアレスに、男が一人、答えるように前に出た。伏せたままの顔は、一度たりとも目を合わせようとしない。すっかり悪魔らしくなってしまったなと、顔に出ないように苦笑する。王国と敵対する以上、どんな感情を向けられても、この身で受けなければならない。決めた覚悟は今もまた、心を硬く冷たい器に押し込める。

    「この規模の部隊であれば、見せしめは一人で十分だろう。
     自分か、もしくは誰か一人を選べ」

     言葉はゆっくりと、この場にいる全員に聞かせるように告げた。河を流し見た意味を、そうして誰もが理解したはずだ。ためらいなく自分を選んだ男にも、感傷らしい感傷は湧かなかった。今ここにいるのは煉獄皇であり、すべての責を負うべきは自分なのだ。
     クロムが身じろぎをしたのが見えた。なにか言い掛けた従者を制して、アレスは男に向き直る。息を呑む音が確かに聞こえた。武器を背中に押し当てながら、橋のきわまで誘導すると、男を一息に突き飛ばす。

     赤色が視界に尾を引いた。飛び出したのはクロムだと、考えるまでもなく、心のどこかで理解していた。男の頭をかばう姿が、ゆっくりと視界に残り、河に消えるまでの一瞬を、永遠のように切り取った。

    「……一人増えたか。……。
     赤のエンプレスに伝えろ。我々はいつでも交渉の席に着くと」






     どうやら取り込み中のようだ。開いたままの扉をくぐろうとして、アレスは廊下の壁にもたれかかる。従者の一人、ガープの私室では、彼とその弟子が話し込んでいるようだった。彼らにしては珍しく、言い争いに近い声色になっている。
     曰く、師匠によく似た利かん気だというマーリンは、何度か進軍に伴ったことがある。火を主体とする軍の中では珍しく、氷の魔法を得意としていた。知識も腕も確かで、氷がいばらのように張られた光景は、アレスも目にしたことがある。先の侵攻でも、橋まで難なく歩を進められたのは、罠を駆使した魔法の有利が大きかった。

     ちょうどその時の話をしていたようだ。思い浮かべた記憶には、見失った赤色がにじむ。
     自分はとても大切なものを手放した。頭では理解していたが、心は今も、事実を呑むのを拒んでいる。仕方なかった、ああするしかなかったのだと、繰り返した夢の中。それでもつかめなかった赤色は、幾度も指からすり抜けていった。

     「アレス」は自分を失ったのだと、理解するのが遅すぎた。いつの間にか積もっていた、淀みのような闇の泥は、足元からあふれ出し、辺りを溶かす様をまぶたに描く。
     沈んでいく意識を、二人の声が引き戻した。

    「まるで見境のない……。あれでは、魔皇様と同じではありませんか!」
    「言葉を慎め。アレス様のお考えは、お前にも分かるはずだ」
    「分かりません、……。あなたのお考えも、なにも、……!」

     続きはそこで途切れた。近寄ってくる気配に、どんな顔をすべきかと、考える前に彼は立ち止まっていた。蒼白としか言えない顔が、見えたのは一瞬だった。マーリンは頭を垂れた勢いのまま、ひざを折り身をすくめる。

     繰り返す謝罪の言葉は、こちらが遮る余裕もなかった。そのまま去ってしまった背を見送り、突然悪いな、とガープに苦笑を向ける。

    「申し訳ございません。処分は私がお受けします」
    「いや、いいんだ。あいつが言った通りだからな。
     それよりも、お前に話したいことがある」

     少し時間をくれと言うと、彼はうなずき、食器棚に向かった。部屋の中には一客のカップが、沈んだ空気と共に残されている。下げられたものと、用意されたもの。入れ替わる顔ぶれを、見送るように目で追った。カップから広がった、湯気と甘い茶の匂いは、凍った名残を柔らかくほどいていく。

     テーブルに腕を伸ばし、握っていた物を広げる。ことりと音を立てた小さな石は、傾いた陽を取り込み、影に鮮やかな赤を伸ばした。彼が目を見開いたのは、気のせいではなかっただろう。自分がそれを持って来た意味も、すぐさま汲んだに違いない。

    「お前たちが考えてくれた段取りを、少し早めたいと思ってる。
     俺は『本当の俺に』なるつもりだ。そのために、またお前の力を借りたい」

     アレスの火や熱は、煉獄の血が事象となって表れているものだ。生き物に血を止めろと言っても、無理な相談ではある。操ろうなどという考えは、元より不可能なのかもしれなかった。
     問題なのは、このままではあふれ出すという懸念だ。入れ物を失った火が、どんな燃え方をするかは分からない。自分でいるために、そしてこれからの治世のために。アレスという入れ物を補強する。それが彼らと共に出した結論だった。
     ただ、その「補強」も思うようには進んでいない。施されたという封印によって、入れ物は今も、ロウに固められたままとなっている。思いつく限りの手段を試みて、ようやく輪郭が見え始めたところだった。石はロウを溶かすための道具のひとつだ。

    「お言葉ですが、慎重に試行を重ねるべきです。ことを急いては……」
    「心配してくれているんだろう?
     俺は大丈夫だ。……約束はできないけどな」

     「アレス」ならこういう時、どんな笑みを浮かべるだろうか。今はもう遠く、闇に潜んでしまった記憶を、落ちている影に探す。今の自分は、煉獄皇らしく振る舞えているだろうか。熱剣士という肩書きを、自分に預けたその先に、どんな姿を望んだのだろうか。

     誰もが自分らしさを望む。その結末が、自分でないものになることだとしたら、ずいぶんな筋書きだと、いつか魔皇は言っていた。王国の戦士だったアレスとの戦いによって、彼は肉体を失っている。遺志こそ自分が継いでいるが、彼もまた、自分を見失ったと言えるかもしれない。
     だが、彼は満足げにうなずいていた。その意味が、今もアレスには分からない。自分を失って、それでもいいと思えることなど、あり得るのだろうか。

     大切な色を失ってから、心はずっと透明だった。幾重にも巻かれた鎖が、息もできなくなるほど絡みつき、形さえ覆い隠すように、過去と自分を閉じ込めた。
     自分という輪郭が、すでに見えなくなっているのなら。いっそ塗りつぶしてしまえば良いと「アレス」は思った。悔恨とともに沈んだ「アレス」はそうして、繰り返す夢の中に眠っている。
     ならば自分が「アレス」の悲しみを引き受けよう。残した想いごと全て、火種として燃やしてやろう。そのためにここに来たのだと、空になったカップを置いた。






     煉獄の熱さは心地良い。元からこの暑さだったのか、自分がいるから熱いのか、すでにどちらでもよくなっている。
     どこまでも岩が続く、がらんどうのような景色。荒涼とした光景には、かつて芽吹いていた木々の跡だけが、炭となって残されている。一切の息吹の気配を持たない世界は、時折裂け目から噴き上がる、溶岩を目で追うだけで済む。

     完全な白とは言えない魂を、熱によって清め、次の段階へと導く。帝の役目ではないという、そんな些細な雑事も、アレスは進んで手を差し伸べていた。まるで自分自身が贖罪を受けているようだ。魔皇が寄越したそんな皮肉も、今は素直に受け止められる。
     姿こそ火のようになったものの、なにが変わったというわけでもない。秩序とその象徴として、淡々と役目を果たすだけだった。大抵のことは、こうして出向くだけで片が付く。どうせならと、見回りも兼ねて足を延ばしたが、他に変わった様子はなさそうだ。

     元は聖堂だったのだろう。祈りを失って久しい空間に、不思議と懐かしさを覚えた。ここで生まれたと聞いたのは、まだ「アレス」がいた頃だったか。本来手にするはずだった姿も、置いて行かざるを得なかった自分も。それぞれが折り重なるように、陽は様々な色を落としている。

     伴っていたヴァルカンが、アーケードの下から駆け寄ってくる。扉を見据えながら、アレスをかばうように立った、その意味はすぐに分かった。現れた姿に、鼓動が派手に音を立てる。そこには確かに、ずっと探していた赤色があった。

    「……なんだよ、ずいぶん驚いてるな」

     二度と聞けないと思っていた声は、不機嫌そうな顔と一緒に、しまっていた記憶に火を点ける。クロムがここにいるはずはない。言い返すと、「俺は生きてるっての」と足を見せながら一歩踏み込む。河に落ちた彼らは、すぐさま岸まで辿り着いていたという。

    「だいたい、あんた本気じゃなかっただろう。本当に処刑するつもりなら、火を使ってたはずだ」

     あの場で意図に気付いていたのは、ガープだけではなかったようだ。先鋭は自分たちより、よほど鍛錬を積んでいる。彼なら助かるかもしれないという、一筋の望みに賭けた。突き飛ばした瞬間に、腕の拘束を切っていたことも、クロムにはお見通しだったらしい。
     だが、かつての仲間に手をかけたのは事実だ。後悔が重石となり、「アレス」はこの姿を望んでしまった。言い聞かせるように語れば、そんなことで、とクロムは悔しそうに吐き捨てた。

    「あんたはやっぱり、どんな姿でもあんただった。まだ俺の友人だっていうなら、一つだけ頼みを聞いてくれ」
    「……」
    「あんたをこのまま諦めたくない。だから俺は王国の騎士じゃなく、友人として勝負を挑む」
    「……今の俺は、手加減はできないぞ?」
    「分かってる。だから……負けたら二度と、あんたには近寄らないつもりだ。
     その代わり俺が勝ったら、俺たちの所に戻ってきてくれ」

     今回限りとは、彼にしてはけじめが早い。なにか勝算があるのだろうか。思いながら、後ろから現れた姿に、なるほどとうなずく。
     現れたマーリンは、クロムと並ぶように歩を止めた。ガープと袂を分かった彼は、魔界から姿を消したと聞いている。元より「こちら側」には、染まることのなかったたちだ。「あちら側」に流れ着いていたとしても、なにもおかしいことではない。

     ヴァルカンがうかがうようにこちらを見ている。うなずいて、アレスもまた同じように、友人の隣に立った。






     立会人として、ガープは側廊の階段に立った。クロムたちとはすでに、一戦交えたところだったという。自分の行き先を知っていたのは、勝敗の約束として、彼が話したからだと聞かされた。悪魔であっても、約束はちゃんと守るんだなと、妙に感心していたのがおかしかった。

     心臓が早鐘を打つ音も、今は心地良い高揚感となっている。「アレス」はどこかで、この光景を待ち望んでいたのかもしれない。そう思えるほどに、体中が沸き立っているのが分かる。
     クロムとマーリン。そして隣のヴァルカン。身廊で思い思いの場所に、向かい合って立ち止まる。息を整える間もなく、ガープの合図が響いた。

     マーリンはまず、闇の魔法でこちらの踏み込みを阻止した。着弾地点に火柱を上げる、アレスの飛び道具を警戒しているらしい。射程に入らないよう動きながら、クロムとつかず離れずの位置をとっている。
     ならば、こちらも陽動に乗るべきだろう。得物を掲げ、光の目くらましを炸裂させる。すぐに顔を上げたところを見る限り、効果は望めなかったようだが、動きを止めるには事足りる。

     ヴァルカンが素早く駆けた。炎のツメを振りかぶったところで、かばったクロムに狙いをそらされる。罠を張り巡らされる前に、マーリンを封じた方が良いだろう。事前に確認していた動きも、互いにお見通しのように見える。

     ならば向こうは、範囲と的を問わない技を持つ、ヴァルカンを狙ってくるはずだ。予想にたがわず、マーリンの二発目は、彼のたてがみをかすめて落ちた。入れ替わりのように踏み込んだアレスを、クロムの剣がはじき返し、そのあとを再度ヴァルカンの爪が追う。
     離れればヴァルカンの疾走が、近寄ればアレスの飛び道具が狙い撃つ。自分が二人の側であったなら、どうやって動くだろうかと、考えるだけで胸が沸く。

    「……なに笑ってんだよ、あんた」
    「ああ……楽しい、お前と戦えて嬉しいぞ、クロム」

     思えばこの血は、燃え上がれる場を求めていたのかもしれない。戦士として王国で剣を振るっていた時も、あるいは魔皇と戦っていた時すらも。命を賭して戦う高揚感を、その熱さを、魂が欲している。これが自分の、そして「アレス」の本質なのだろうと、疑いようもないほどに、熱く烈しい衝動が巡っている。

     抗いようのない力に、信念を持って挑み続ける。その熱さこそが希望となり、「アレス」は魔皇を打ち取ったのだ。王国のみなはそう説いていた。
     だとすれば、獲物を失った刃先はどこへ行くのか。希望が描いたその先に、剣を振るうべき相手が見つからなければ?
     そうして行き場をなくした熱は、次の火種として自分を選んだ。「アレス」は自身を燃やし切り、それまでの自分を見失った。

     今ここには、クロムが知っている「アレス」と、ヴァルカンたちの知っているアレスが居る。ならば自分は、ずっとどこにいるのだろう。絶えず繰り返してきた、悲嘆にも似た感情が、再び足元に絡みつく。

     頭にかかったもやが、にわかに動きを鈍らせた。あとに続くはずだったヴァルカンが、つられて軌道をそれたのが分かる。
     向こうにとっても予想外だったのだろう。反応が遅れたクロムは、マーリンをかばおうとして、逆に動いてしまっていた。炎のツメが入り込むには、わずかにできた隙間で十分だった。

     クロムのこんな顔を見るのは、橋をめぐって戦った、あの時以来かもしれない。剣を放り出した勢いのまま、マーリンの上体を抱え上げ、横にしながら呼び掛けている。彼はヴァルカンのツメを受け、そのまま昏倒したように見えたが、意識はあるようだ。

    「私にかまうな、キミは戦え」
    「ッ……けど、っ……」
    「……ちょうど良い、か……。これで、借りた分は……清算だ」

    ――氷のいばらと、たわむれよ。

    「離れろヴァル!!」
    「ガァァッゥウゥゥ!!」

     自分の叫び、ヴァルカンの上げた苦悶の声、そして氷のいばらがうなる音。様々な音が重なり、頭の芯を震わせる。めまいにも似た衝撃を耐えながら、転がるように大きく跳ぶ。
     ようやく目を開いた時には、別世界のような視界が広がっていた。一帯に咲き誇る、光が凍り付いたような白。見入らずにはいられない美しさは、しかし一歩踏み込めば、鋭利な氷の刃となる。火を基とするアレスたちにとって、これ以上ない脅威でもあった。ヴァルカンは軽傷こそ受けたものの、なんとか抜け出せていたようだ。

     辺りにただよう冷気が、体を蝕んでいくのが分かる。このまま睨み合っていたところで、体が冷えて動けなくなるだろう。かといって、罠を解除する手立てもない。あのいばらに飛び込めば、この程度では済まないことも分かっている。
     これが自分の辿る結末か、とアレスは思う。ある意味ふさわしい幕切れかもしれなかった。この場を切り抜けられれば、そんな自虐も許されるだろうか。

     一歩踏み込んだ隣に、ヴァルカンの足が並んだ。思わず振り返った目は、まっすぐ前をとらえている。わずかに揺れたその顔が、微笑みの形に変わった。

    「オレとお前は似てるって、いつか言ってくれたよな」
    「……」
    「いつもアレスについてたから、たまには先に、行ってもいいだろ?」
    「ヴァル! ……ッ……!」

     ひるがえったたてがみは、答える間もなく視界から消えていた。ヴァルカンの咆哮が、氷の砕ける音に混ざる。耳を、目をふさぎたくなるほどの光景は、無数の亀裂となって、神経を切り刻む。それでも目をそらしてはいけない。彼の覚悟を、思いを、この身に灼きつけなければならない。

     結局なにも、自分は選べていなかった。選んでいたつもりで、答えをつかめないまま、友人や仲間たちを傷つけてばかりだった。それが煉獄の主としての本質ならば、自分など最初から、どこにもいない方が良かったのかもしれない。
     だがヴァルカンは、クロムは、どんな時でもアレスを見詰めていた。彼らが見ていてくれたからこそ、自分は自分でいられたのだ。

    ――俺は、……オレはずっと……。

     どこにも行っていなかった。アレスとしてここにいた。どれもが自分であり、どれもが自分でないならば、望んだものこそが自分となる。選ぶ必要などないのだと、語っていた魔皇の言葉も、今なら分かる。

    「……分かったんだ、ヴァル。
     お前がいてくれたから、俺だった。……俺についてきてくれて、ありがとう」

     得物を置いて、横たわったままの顔を包む。凍り付いた毛先の冷たさを、両手でそっと払いながら、ありがとうを重ねた。浅く息をしている口元が、わずかに笑ったような気がした。

     ヴァルカンをガープに託し、友人の前に立つ。合わせ鏡のような光景は、今もまた、クロムという姿を映して立っている。これがありのままの自分であるならば、もうなにも考える必要はない。あとは信じるだけでいい。そうすればすべて分かると、確信めいたものがあるのは、向こうも同じに見える。

    「……やっぱり、あんたの言った通りだったのかもな」
    「お前も俺も同じだった……か。ならば、もう分かっているんだろう?」
    「ああ。あんたもそうだろ?」

     互いに獲物を握り直し、同時に踏み込んでいた。見極めもなにも必要なかった。ただ、クロムが動き出す瞬間と、その剣が描く軌跡を、体中が理解していた。
     上段から振り下ろされた一撃を、当然のように下段から受け止める。弾けた衝撃が全身を伝い、彼の絶叫を伴って、熱風のように吹きつける。自分の体よりよほど熱い、と思った。だが、こちらは火の体を持っている。容易に溶かされる熱さではない。

     なにかが割れる音がした。得物か、もしくは鎧のどこかが欠けたのだろうか。どこかでそんなことを考えている自分が、自分を見下ろしているような錯覚を見た。ひときわ大きな音が、すぐそばで鳴った時、見えたのは聖堂の天井だった。

     いくら指を伸ばしても、得物の先が見つからない。……いや、腕自体が動いていない。受け止めた一撃の余波で、マヒに近い状態になっているらしい。わずかに動かせる頭で、なんとか辺りを見回すと、剣を支えにして立っているクロムが見えた。今の攻撃を耐えたのは、彼が習得したという、技の恩恵なのだろう。

     剣を引きずる音が近づいてくる。突き立てるように切っ先を掲げている、その目が悲しげに歪んでいた。また友人にこんな顔をさせてしまった。あふれた悲しみはしかし、安堵の形で胸を包む。
     彼は自分を選んでくれた。だからどんな結末でも受け入れられる。目尻から流れたものが、涙と言えるのかどうか、今の自分には分からない。ただ、それでもいいと言ってくれた友人が、選んだ先の自分はきっと。
     下ろしたまぶたの裏で、確かに見えた光を追った。






     光があふれている。目を開けようとして、あまりのまぶしさに目を細めた。光を発していたのは自分だと、理解したのは赤色が戻ったあとだ。
     剣を下ろしたクロムと、それを抱き止めたのだろうか。しがみついたままのマーリンが、ぽかんとこちらを見ている。まだこぼれている光は、クロムの懐まで続いているのが分かった。なにかをつかみ出した手元から、引き寄せ合うように漂っている。

    「その姿……まさか……?」

     言われてようやく、自分に目を向けていた。限界まで熱された鉄の色が見当たらない。熱に揺らいでいた肌も、今はクロムたちと同じ温度になっているようだ。
     自分のすべてが「アレス」に戻っている。驚きと困惑が、残る熱を奪ったのは明らかだった。相手がいなくなってしまった以上は、決着どころではないだろう。互いに消耗が激しいのもある。改めて場を設けるというガープの提案を、誰もが自然に呑んでいた。






     端に座っているアレスからは、それぞれの顔がよく見えた。茶を用意したきり黙っているガープと、髪の先をつまんでいる魔皇。反対側には、明らかに顔をしかめているクロムに、目を伏せたままのマーリン。誰かが芯に触れた途端、破裂でもしそうな緊張が、茶の香りをしたたかに奪っていく。

    「一口くらいどうだ」
    「飲めるわけないだろ」
    「淹れるところは見ていたはずだが、……王国の礼節とはそんなものか」
    「お前は飲めないからいいよな、魔皇」

     なぜこんなことになっているのか。汗で冷えてきた背に、事態の張本人であることを、嫌でも自覚させられる。
     クロムたちとの戦いは、決着こそつかなかったものの、勝敗は明らかだった。これ以上は無意味だという、魔皇の見立てはもっともだが、これならまだ、仕切り直した方が良かったかもしれない。耐え難い剣呑をのもうとして、カップの中はとっくに空だと、確かめるだけになる。

     それもこれも、すべてはアレスの有りようを決めるためだ。魔皇に一発でも入れないと気が済まない。憤っていたクロムですら、自分のために席についてくれている。
     ともに連れ帰るのか、主として居残らせるのか。互いに譲る気がないのは明らかで、だからこそ身動きが取れなかった。

    「だいたい、俺は友人としてここにいるんだ。王国の代表として来たんじゃねえ」
    「それは詫びよう。……主の友人ならば、共に迎えるのもやぶさかではないが」
    「冗談だろ。誰がお前らなんかに」
    「貴様と我らの利は一致している。悪い提案ではないと思うぞ?」
    「……そうやってアレスを言いくるめたのか。よく分かった」

     「俺がいてやればよかった」。苦々しく言ったクロムの呟きが、魔皇の含み笑いに呑まれていく。
     元はといえば、黙って出て来たのは自分だ。付きまとう恐ろしい想像と、告げられた事実が噛み合ってしまった。最悪が現実となる前に、皆の元を離れるしかないと思った。

     あるいは煉獄で、新しい自分を見出せるなら。魔皇たちの助力もあって、主としての振る舞いも、少しずつ分かってきたところだ。
     望みはすべて叶っているはずだった。それでも違和感がぬぐえないのは、望まれ望んだ自分という、理想がかみ合わないせいなのか。

     ガープが息をついた気がした。再び淀みかけた空気を、上がった手がかき混ぜる。

    「アレス様は再度、お力を封印されたと見てよろしいですか」
    「たぶん。……オレにもよく分からないんだ。気が付いたらこの姿に戻ってた。
     ……マーリンはなにか見てたか?」
    「私にはあの時……クロムの持っていた宝石が、お力を吸い込んだように見えました。仰る通りの見立てで、間違いないかと」

     これのことかと差し出した手に、小さな赤色が閃く。橋で戦っていた時に、アレスが落としたというが、まるで記憶にないものだ。
     そもそも、彼らがあの場で見たという姿を、一度も自覚できないままだった。剣士でもあり、煉獄の主のようでもある自分。そんなものは夢か幻だろうと、記憶の片隅に追いやっていた。

     推測だと前置きをしながら、ガープがテーブルの瓶を指す。
     アレス自身がかつて、封印に用いられた入れ物なのは間違いない。ならば問題そのものは、ふたが欠けていたことではないか。アレス自身も捉えていない形を、誰かが再現できるはずもなく、こうして全てがそろうまで、全貌が見えなかった。復元にいくら苦心したところで、元の形には戻らなかったのだ。彼は額を押さえ、苦々しい顔をした。

    「つまり、必要なものは揃ったから、オレにどうにかできるかもしれないってことか?」
    「私の推論が正しければ、そうなります。力の制御のみならず、お姿を自在に変えることも可能でしょう」
    「そんな……そんなの、考えたこともなかった」

     ふたが開いたままの瓶には、際限なく中身を注げてしまう。ふたという輪郭があって初めて、どこまで満ちているかが分かるのだ。
     両側から傾けられていたのだから無理もない。魔皇の指摘に、クロムがわずかにうつむく。

     そういえば、と思う。大事を取ってまだ休んでいるヴァルカンが、同じようなことを言っていた。姿は変わっても、その熱はアレスのままであるらしい。王国の仲間が蝕まれたような、異質な力の類ではない。確信があったからこそ、自分はただついていくと決めたのだという。

    「……ずっと考えてたんだ。オレはどうして、この姿なんだろうって」

     願いはかつて、王国と魔界に分かたれた。この地で過ごしたからこそ、実感として汲めた事実だ。
     その願いが魔皇を経て、自分にも続いているのだとすれば。煉獄の主は、姿を封じられたのではなく、ずっと探していたのではないか。……まさに、自分を見つけ出してくれたクロムのように。

     こうして気付けたのも、間違いなく彼らのおかげだ。だからこそ、どちらかに傾けてはいけない。そして、それこそが自分らしさなのかもしれない。
     ずっと沈んでいた、それでも確かにあった答えが、ようやく指先に触れた。その輪郭は、思い描いていたものよりもずっと、鮮やかでまぶしいものだった。

    「オレはもう一度『俺に』なる。
     オレでなくなるためじゃない。オレになるために変わるんだ。
     ……だから信じてくれ、クロム。オレを、……俺たちを」

     マーリンの呼びかけが、反響のように続く。くしゃりとマントを握ったクロムは、ゆっくりと開いた手で、カップを取ってうなずいた。






     宮殿の屋根が見えた頃、足取りはさらに軽くなった。それまでのものと少しずつ違う鎧は、すでに体に馴染んでいる。

     煉獄の焔を受け取ったアレスは、もう一度力を解放した。戻ると思われていた力はしかし、別の輪郭をなぞることになる。思い描いていたものとも違う、剣士の姿。彼らが見たという自分は、こんな風だったのかと、鏡をのぞいて驚いた。

     予想よりもずいぶん早く、王国は申し出を受け入れていた。こうして機会に恵まれたのは、ことづてを託したクロムたちの、説得のおかげに他ならない。ガープはやはり懐疑的ではあったが、アレスにとってはまたとないチャンスだ。さっそく準備を始めた主を、誰も止められるはずがなく、引き留めもそこそこに、渋い顔に送り出された。

     橋を渡り終えたところに、クロムたちの姿があった。駆け寄ってきたマーリンは、弾んだ息のまま、謝らせてほしいとうつむく。

    「すまなかった。ずっと誤解していたんだ、キミのことを」

     魔界を離れた彼は、クロムの後押しもあって、宮廷魔導士の補佐についている。王国で過ごすうち、アレスの話を自然と耳にしていたらしい。クロムがすべてを掛けてまで、取り戻そうとしていた友人のことが、よく分かったとほほ笑んだ。ようやく切り出せたのが、今になってしまったと、申し訳なさそうに付け加えた。

     目の当たりにした力を恐れて、アレス自身を信じられなかった。なにかと疑ってかかるのは悪い癖だ。見えていたはずのものも、そうしていくつも見落としてしまった。苦笑交じりのその顔はどこか、彼の師に重なって見える。
     ガープの配下たちは、魔皇が引き直した境界線から、弾かれた側だったと聞いている。彼が師の元を離れたのも、なるべくしてなったことだ。魔皇が言ったように、最初からそう割り切れれば、どれほど簡単だっただろう。だが誰も、あの場で茶を口にすることはなかったはずだ。

     彼が今も、その香りを覚えているのなら……と思う。彼が彼らしくいるかぎり、置いてきたものも、いつか必ず取りに戻れる。
     思ったままを伝えた顔に、赤みが差したのは気のせいだろうか。戻っていく後ろ姿が、ありがとうと言ったのが確かに聞こえた。






     宮殿には顔触れがそろっていた。赤のエンプレスを中心に、全員が互いの顔を見られるように並んでいる。その出迎え方が今も変わっていないことを、自分たちはよく知っている。

     「まずはおかえりなさい」。立ち上がった彼女に合わせて、アレスたちは敬礼で答えた。にわかに鋭くなった視線は、隣の将軍のものだ。このあともたらされるであろう、手痛い説教を想像したのは、隣のクロムも同じだろうか。

    「陛下。今のオレは、煉獄と魔界の代表としてここにいます。
     すでにお伝えした通り、対話をもって対立を終わらせたい。そして新しい関係を始めたい。それがオレの願いです」

     長く続いた戦いはすでに、隣国や諸国を巻き込んでいる。自分たちが手を取り合って、すぐに解決とはいかないだろう。返答の前に告げられた事実は、それまで降り積もった灰の、黒さと重みを思わせる。
     それでも少しずつ取り除き、歩み寄っていければいい。そのために話せるのが嬉しいと、変わらない瞳で彼女は笑った。

     通された部屋は、主と従者だけの空間となった。並んでいた兵たちは、色とりどりの茶器に代わり、アレスたちを取り囲んでいる。
     「さっそく始めましょう」と赤い髪が楽し気に揺れる。そうして引かれた椅子に、深く腰かけたまでは良かった。
     アレスが就いたことで、おのおのどう変わったのか。苛烈とも言える追及に、始終たじたじとなっていた。ようやく解放されたかと思えば、今度はクロムともども、将軍の説教に捕まることになる。
     二度目の説教もこたえたと、笑い合う時間を惜しむ暇もない。慌ただしい数日間は、あっという間に過ぎ去った。どれも良い土産話だったと、魔皇に笑い交じりに聞かされたのは、魔界に戻ってすぐだった。

     これでようやく人心地だ。アレスはうーんと伸びをして、大き過ぎるベッドに倒れ込む。胸元に覚えた違和感に、クロムから返してもらった宝石を、入れたままだったことに気が付いた。
     石を手に取り、室内灯の火にかざす。見つけ出した自分の形は、確かな赤色を描いている。
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