いたずら 早朝、リタはあくびを噛み殺しながら「たんぽぽ組」と書かれた表札の下がった部屋の扉を開けた。今日は一人先客がいたようで、その後ろ姿を認めて胸がざわつく。扉の音に振り向いた彼と目が合った。
「おはよ」
「…っ、おはようございます、ダグ先輩」
柔らかな声で挨拶を投げかけられて、リタの心臓が軽く跳ねた。ダグと付き合い始めてからというもの、今まで以上に彼を意識してしまっているのが近ごろの悩みである。もちろん、仕事中は意識を切り替えているつもりだけれど。
リタの頭の中はすこぶる騒がしくなってしまったというのに、ダグは特段変わった素振りを見せないから気にくわない。顔を赤らめたダグを見たことはあるのだが、それだけでは物足りなかった。彼がこういった関係に慣れているからだろうか、あるいはこちらが意識しすぎているだけなのだろうか。いずれにせよ、自分一人だけ色恋沙汰に浮かされているなんてずるいと思った。
ダグはどう思っているのだろう。夕涼会の日に交わした口づけを思い出してはそんなことを考えてしまう。好きだと言ってまっすぐ見つめてきた瞳に疑いなど無いけれど、やはり気になるものは気になるのだ。盛りを迎えている向日葵を窓越しにぼんやりと眺める。
「リタ、ちょっとこっち手伝ってくれ」
「はーい」
呼び出す声を聞いて、今日の工作の時間に使う材料を取りに向かう。隣を歩くダグの横顔を盗み見て、ふと、彼に不意打ちを仕掛けてみたいという可愛らしい悪だくみが姿を覗かせた。
さて、どうやって驚かせてやろうか。リタはダグの反応を思い描きながら、こっそりとはかりごとを巡らせ始めた。
* * *
「せんせー、さよーなら!」
「さようなら〜」
最後の子供を見送って、リタは一息ついた。そのまま教室に戻ろうとしたが、やっぱり思い直して武器庫へと方向転換する。銃弾が切れてきたのもあるし、なんとなく一人になりたかった。
子供達が登園する前に練っていた「いたずら作戦」は早くも頓挫しようとしていた。というのも、ダグをドキッとさせるような行動をしたら、自分まで恥ずかしくなるということに気づいてしまったのだ。
情緒だとかロマンチックだとか、そんな言葉とは無縁の世界に身を置いてきたリタにとってどうするのが正解なのかわかる訳もない上に、考えてみればしょうもないことに熱を上げていた自分が情けなくなってきて、ダグと顔を合わせるのが少し気まずい。それでも、滑稽な姿を晒してしまう前にブレーキを掛けられたからまだいい方だと自身に言い聞かせ、下向いた心をなんとか持ち直す。
深いため息をついて武器庫に足を踏み入れた。
「わー!」
「うわっ!……って、リタかよ。いきなりビックリさせんな」
よりにもよって今一番出くわしたくなかった人物がそこにいて、大声と共に跳びずさってしまった。図らずしてダグをドキッとさせることには成功したが、期待していたのはこういうことではない。
「それはこっちのセリフです!なんで武器庫にいるんですか!」
「なんでって、別にただの弾切れだよ。あとは教室に補充しとくやつ」
「そ、そうですか…」
ダグは怪訝そうな顔を見せたが、それ以上の追及は無かった。そのことに安堵しつつも、落ち着かない身体はいつもより素早くマガジンをエプロンのポケットに詰め込む。慣れ親しんだ鉄の匂いも今回ばかりは心を揺さぶってきて煩わしい。
「…それ、半分持ちますよ」
「じゃあ頼む。ありがとな」
二つ重なった段ボールを見てそんな言葉が口をついて出た。どんなに彼のことを避けたいと思っていても、こうして手伝いを申し出てしまうのだから、本当はどこかでくっついていたいと思っているのかもしれない。知らず知らず潜んでいた面倒くさい本心を思い知らされたようで内心で苦笑した。
より重そうな段ボールを両腕で抱えて二人で武器庫を後にする。
たんぽぽ組に戻るには、一度階段を通る必要がある。そこが初めてキスを(事故ではあるが)交わした場所であることを思い出し、心音が大きくなった。
確か、今日と同じように銃弾やらを運んでいた最中だった。バラバラと降ってくる銃弾の中、触れた唇がほんのり温かかったこと、意外にも胸板が厚かったこと、握られた手が節くれ立っていて硬かったこと。あれがファーストキスだったせいもあってか、鮮明に覚えている。記憶をなぞるうちにムズムズとした感覚がせり上がってきた。
「おい!銃弾溢れてんぞ!」
「え……」
思い出に気を取られて段ボールが傾いていたようだ。少し後ろを歩いていたダグが駆け寄ってくる。そのとき、足元に転がっていた銃弾を踏みつけて彼は盛大に転んだ。
「───だっ」
「ダグ先輩!大丈夫ですか?」
「いてえ…」
慌てて段ボールを置いてダグのもとへ走る。彼の段ボールが投げ出されたおかげで、床には爆弾や銃器、銃弾が散らかっていた。
階段から転げ落ちることもなく、廊下に尻餅をつく程度で済んだダグに大した怪我が無いとわかってリタは胸を撫で下ろした。
「床、ぐちゃぐちゃになっちゃいましたね」
「そういや、前にもこんなことあったよな」
「あー…そう、でしたっけ……」
平然と、まるで昨日の夕飯の話をするみたいに言ってのけたダグから思わず顔を逸らした。やっぱりダグはずるい。ここを通りかかる前からずっとあの日のことを考えていたなんて、恥ずかしくて言えるはずがなかった。
そのまま散らかったあれこれを回収し始めると、二人の間にしばし沈黙が流れる。そっとダグの様子を窺うと、よく整った無防備な顔がそこにあった。黙々と武器を拾い集める彼の脳内に、まさかリタが驚かせようと画策していたという考えがよぎりはしないだろう。
不意に、萎びていた悪戯心が再びむくむくと膨らんでいくのを感じた。今こそ彼に一泡吹かせてやるチャンスだと、唆されているような心地だった。
その衝動に突き動かされたリタは、もうどうにでもなれ、と半分ヤケになって口を開く。
「ダグ先輩っ」
「リタ、どうし───」
呑気な返事をするダグの頬にキスをした。控えめなリップ音と息を呑む音が混じって聞こえる。一瞬触れるだけだったのに、肌の温もりがずっと口元に残っていた。
「は……」
「えっと、いたずら、です……なんて…」
のぼせてしまったと錯覚するほどに顔が熱くなる。自分がしたことへの自覚が遅れて追いついてきて、ダグの顔を直視できない。まだ床に散っている銃弾を雑に段ボールに放り投げて、さっさと立ち去ってしまおうと踵を返した。
「それじゃ、私先に戻ってますね!」
「────待てよ」
「わっ」
早口に一言告げて一歩踏み出したところでダグに右腕をぐいと引っ張られて半回転し、そのまま彼の両腕の中に身体が収まる。
「ちょっと、何するんですか」
「お返し。ビックリしただろ?」
頭上からけらけらと笑い声。不満げな声を出してみるけれど、簡単にどうにでもできる彼の拘束を振り解かないのだから説得力なんて塵ほどもない。精一杯のおどかしが全く効いていないらしいのが悔しくなり、ダグの胸にグリグリと頭を押しつけた。
そのとき、ばくばくと存在を主張する鼓動がエプロン越しに耳に届いた。信じられないほどに速く、うるさいくらいのそれに、リタは胸がすく思いがした。心なしか彼の腕も熱く感じる。元詐欺師のくせに随分と隠しごとが下手になったものだ。
「ダグ先輩、ずるいですよ」
「うっせ」
本当に、どこまでもずるい恋人である。
ゆっくりとダグの背に腕を回した。