寂しい ローレル───否、シルビアは、くたくたになった足で手当てを終えたばかりの身体を無理やり引きずりながら保健室を出ていく。今日はなんだか嫌に廊下が長い。重い瞼を擦って窓の外を見れば、遠くの空が白み始めていた。
お遊戯会に襲撃の対応にと、ひっきりなしに戦い続けたからもう休みたいけれど、残念ながら半壊した園舎の片づけがまだ残っている。外で同僚達が瓦礫やガラスの破片を撤去しているのを横目に、大きな袋一つを握りしめて誰もいない事務室に入っていった。
小さく足音を立てながらルークのデスクに近づいていく。昨晩、彼の机を「元通り」にしたいとシルビア自身が申し出たのである。
他の誰かに任せるのはなんとなく嫌だったし、これは自分にとって心に整理をつけるための儀式のようなものだと思った。この先少しずつルークの死を実感していくより、今のうちにその事実を直視してしまった方がきっと尾を引かないだろうから。袋を握る手に汗が滲んでちょっぴり気持ち悪い。
シルビアはしばらくその机上をぼうっと眺めてから、そこにある荷物を「いるもの」と「いらないもの」に分けて、後者を袋の中へ放り込む。彼の僅かな私物もまたそこには含まれていた。といっても、それほど量が多い訳でもないからすぐに終わるだろう。
今日が終われば、もうこの園にルークのいた証は無くなってしまう。だけどそれはいつものことだ。
努めて無感情に手を動かしていると、整然と並んだ仕事用のファイルに埋もれて少女漫画数冊が佇んでいるのを見つけてしまった。
「あ……」
手が止まる。機械的に処分するには、それはあまりにもルークの面影を濃く残していた。
余計なことは考えるなと脳内で警告が鳴り響くのに反して、シルビアはそれから目を逸らせない。ついには机上棚から一冊を手に取って、パラパラとページをめくり始めた。よほど読み倒していたらしく、ところどころ紙がヨレていたけれど、表紙には傷や汚れが一つも見当たらなかった。
彼のお気に入りを揃えているからか、巻数が連続していないせいで話の流れは全くわからないし、そもそもこの漫画が果たして面白いのかどうかもわからない。それでも、1ページ、また1ページと読み進める手は止まらなかった。
読めば読むほどルークのことを思い出して、胸の奥で眠っていたものが膨らんでいくのを感じる。きっとこれは蓋をしておかなければならないものだ。溢れ出したら、この不似合いな化けの皮もほつれてしまいそうだから。
一冊読み終えて本を閉じると、すっかり昇った朝日がチクリとシルビアの目を刺した。これ以上油を売っていてはいけない。慌てて漫画と残りの荷物を袋に詰め込んだ。
すっかり淡白で味気なくなったデスクは、他の特殊教諭達のものに囲まれるとどこか寂しさが見え隠れする。逃げるようにデスクから背を向けた。
そのまま事務室から立ち去ろうとして、膨らんだ袋を持ち上げると、先程読んだばかりの少女漫画が目に留まった。シルビアは衝動的に袋の結び目を解き、その一冊を自分のデスクの引き出しの奥深くにしまい込んだ。
「……バカみたい」
自嘲気味な呟きが漏れる。結局、自らルークの死を引きずるような行為に出てしまったのだからこの儀式は全く不毛で何の意味も持たないものになってしまった。
シルビアは袋を固く縛り直して、足早に事務室を後にした。
* * *
ジリジリとアブラゼミが力強く鳴くのを聞きながら、シルビアはヨシテルを迎えに行く準備を整え、出発前の報告書を書き進めていた。ふとセミの声がコンクリートの割れる音で遮られた。どうやら外では派手にやっているらしい。
中華街を訪れるのは初めてだ。せっかくならチャイナ服でも着てめかし込んでみたいし、園周辺の住宅街とは違う景色に思いを馳せるのを楽しんでいる自分もいる。けれど、小骨のように引っ掛かった罪悪感をずっと取り除けずにいた。
ヨシテルを再びここへ連れて来るということが、彼を死地に引きずり込むことを意味しているような気がしてならない。もちろん、特殊教諭として働く以上常に死と隣り合わせなのは当たり前なのだが、自分自身が車を出すという事実がそこに嫌な実感を与えていた。
書き上げた報告書をしまっておこうと引き出しを開けると、あの日くすねた少女漫画の表紙のキャラクターと目が合った。
あの日以来、漫画のページを開いたことは無い。そのまま漫画の存在すら忘れてしまえれば良かったのに、2ヶ月前の日のことをまだはっきりと覚えている。ルークの記憶に縋っている弱さを認めたくなかった。
シルビアは2ヶ月ぶりにそれを手に取った。改めて見ると、少しヨレた紙と状態の良すぎる表紙の組み合わせがどことなく歪に思える。またパラパラとページをめくり、適当な場面を拾い読みした。
ツッコミどころこそあるが、全体的には少女漫画らしく、高校生が送る平和で穏やかな日常がそこにあった。それはいつか姉と自分───ローレルが夢見た、けれど今は諦めと悲観の混ざっている世界だった。
これ以上読んでいたら沈鬱とした気分に支配されてしまいそうな気がして、再び引き出しの奥に漫画を戻した。いつまでも未練がましく持っていてもいいのだろうかという不安も一緒に押し込んで。
シルビアは自身の両頬を一度パシッと叩き、立ち上がった。もうすぐ出発の時間になる。
殺しの世界で生きていく限り、失うことは常だ。そんなことはずっと前からわかっているし、もうとっくに慣れているはず。だからなんともない、寂しくなんてない。
事務室のドアを閉めて、バスへと急ぐ。
鼻の奥がツンと痛んだのには、知らないフリをした。