夢の話を 空き缶をごみ箱に放り投げて、一つ大きなあくびをした。あの形容し難い甘さがまだ口に纏わりついている。
子供達が返った後の事務仕事は殊更に眠い。長机に散らかった書類を整えて、睡魔を押し殺しながら紙面に這っているミミズ達を丁寧に消し去った。
すみれ組とたんぽぽ組は園の掃除に駆り出されているから、今ここには俺ともう一人だけ。なんとなく横に視線を遣ると、同じように書類に向かい合っているシルビアが目に入った。しかし彼女の琥珀の瞳は日頃より捉えどころがなく、手に持ったペンが走る気配もない。上の空というやつだ。普段と違うところといえば、目元にうっすらと浮かぶ隈だろうか。
「シルビアー?」
「─────何?ヨシテル」
反応が一拍遅れた。思っていたよりも、彼女は深く思考に耽っていたらしい。
「上の空のシルビアも好き。付き合って」
「ごめん無理」
「早い」
今回もすげなく断られてしまった。俺は至って本気なのに。繰り返されるいつもの応酬は、いつになったら変化が訪れるのだろう。俺達の任期が終わる前だといいな。
「寝不足?隈できてるよ」
「……そうね。少し夢見が悪くて」
「ふーん。どんな夢?」
それを聞いたシルビアは露骨に顔をしかめ、そして黙ったまま再び視線を紙に落とした。彼女の握っていたペンが文字を綴る音が静かに聞こえ始める。
「気持ちのいい話じゃないわよ。どうせつまらないわ」
「それでもいいよ〜。ほら、誰かに話せば正夢にならないって言うし」
「………」
実際のところは、「話す」と「離す」を掛けた単なる言葉遊びにすぎないらしいけれど、おまじないの類なんてきっとほとんどがそんなものだ。彼女の物憂げな顔を放っておくくらいなら、こんな迷信にだってありがたく頼ろう。頬杖をつき、そっぽを向くシルビアをじっと見つめる。
それでも彼女は口を閉ざしたままで、黙々と書類仕事を進めるばかりだった─────これ以上話すことは無いと、言外に示すように。だけど、このまま大人しく引き下がってやる気にはならなかった。
「今日は、一人ぼっちになる夢を見たんだ」
一瞬、彼女の身体がピクリと反応したけれど、すぐに何事も無かったかのようにまた手を動かし始めた。夢の記憶を辿りながら、俺は努めて穏やかな、そして優しい語り口を意識して話を続けた。
「幼稚園で仕事をやり遂げて、やっと自由の身だって喜んだんだけど、もう俺を出迎えてくれる場所がどこにも無いって気づいちゃってさ。何を食べても美味しくないし、可愛いサモエドだって誰にも自慢できないから……すごく、つまらなかった」
ちょうど窓へ差し込んできた夕日が陰を作り、彼女をすっぽり覆っているから表情はよく見えなくなった。シルビアは依然として何も言わず、静まった事務室でペン先の擦れる音と俺の声だけが響く。
「それで、毎晩昔のことを思い出して…いろんなことを後悔しながら眠りにつくんだ。もしあの時ああしてたら、自分の居場所を壊さなかったらこんなに寂しくならなかったのかなって。─────でもこれはもう嘘だね。シルビアが聞いてくれたから」
最後にあっけらかんと言い放つと、息を呑む音が鼓膜を僅かに震わせる。
いつの間にかペンが走る音は止んでいた。シルビアは始終無言だったけれど、律儀に話を聞いていたようだ。これをチャンスと見てもう一度彼女に問いかける。
「シルビアは、どんな夢を見たんだ?」
話したくないと、そう態度で示し続けてきた相手にここまでするのは意地悪かもしれないが、ここのところ元気を無くしているように見える彼女の胸の内に触れたい気持ちを無視できなかった。
シルビアは呆れたように嘆息して席を立ち、部屋の明かりをつける。その背中が、いつもより小さく見える気がした。
「…趣味、悪いんじゃないの?だいたい、ちょっと嫌な夢を見たくらいで私は───」
「隈まで作ってるのに?」
「……っ」
背を向けながら不服を唱える声は頼りなく震えていた。彼女の様子は、リタやハナの前で先輩然として振る舞う姿や、子供達の前でしゃんと背筋を伸ばす姿とはあまりにもかけ離れていてどこか幼く感じる。
椅子から立ち上がりシルビアのもとへ。互いの肩が触れる程に距離を縮めた。
「平気じゃないことくらいわかるよ。放っといてほしいことも。でも、同じきく組じゃん……何かあるなら話してよ」
俺はシルビアの全部を知っている訳じゃない。だから彼女の傷を癒すことはできないけど、ならせめてその傷口が広がらないように。
その言葉にシルビアは顔を上げ、やっと二人の目が合った。迷いを映したその瞳から目を逸らさずに、黙って彼女の口が開かれるのを待つ。部屋を照らす蛍光灯がチカチカと瞬いたのを境に、シルビアはぽつりぽつりと語り出した。
「……ヨシテルが、死ぬ夢を見たの。私の目の前で」
「うん」
「血塗れで倒れてて、抱き起こした身体がだんだん冷たくなって、わざと名前を間違えて呼んでみてもヨシテルは何も言わなかった」
「…うん」
ためらいがちな声音だけれど、滑り出した言葉は止まらない。彼女の横髪が微かに揺れる。
「考えるべきことは他にあるはずなのに、あなたも私を置いていくの、なんてぼんやり思ってるところで目が覚めたわ。血の匂いとか肌の感触とか、あれこれ妙に生々しかったし、ヨシテルが意識を飛ばしても戦ってるところを見たばかりだから…今日はそれがずっと忘れられなかったの。───これで満足?」
「うん…ありがとう」
そっけなく放り投げた彼女の最後の一言は、取ってつけたような強がりだった。
彼女が俺に対してただの情を超える何かを抱いていないことなどとうに知っているけれど、シルビアが俺の夢を見たという事実に心を躍らせる自分もいるから困ったものだ。ちょっとしたいたずら心が首をもたげる。
「シルビアは俺が死んだら寂しいんだ?」
「それは誰がそうなっても同じことよ。別に泣く程でもないし」
形の良い眉を寄せて片肘で小突いてくる。以前ならばなんともないと少しも表情を変えずに言っていただろうに、今日はやけに素直だ。寝不足のせいで心に隙が生じてしまったのか、それとも俺相手になら寂しさを吐露してもいいと思ってくれたのか。後者であることを祈ろう。
ごめんごめん、と言いながら彼女のひんやりと冷たい手に自分のそれを重ねた。背丈はさほど変わらないけれど、しなやかで女性らしいその手は俺より一回り小さかった。
「俺は死なないし、シルビアを置き去りにしたりもしない。絶対正夢になんかならないよ。……手、あったかいでしょ」
どこかの後輩と違って、俺は好きな人にそんな不義理を働かないのだ。
たわむれに指を絡めて手を握ってみても、それが振り解かれることはなかった。これは重症だ。
「随分楽観的ね」
「そうじゃなきゃ特殊教諭なんてやってないって。シルビアもそうだろ?」
人殺しが幸せを掴もうだなんて馬鹿げた話だと大抵の人間が一蹴するだろうが、それでも僅かな可能性にしがみついてここまで来たんだ。
確かに自由になったところで俺にはもう帰る場所は無いけれど、だからといって自由への渇望と幸せへの期待を捨てることはできない。そしてそれは、きっと俺に限った話でもないのだろう。
「俺は生きて、自由になって、やりたかったこと全部やって─────またシルビアに会いに行くから」
シルビアは一瞬虚を突かれたように目を丸くした。そして、すぐにいつもの俺を軽くあしらうときの表情に戻る。
「いつまで私に構うつもりなのよ…」
「んー…シルビアが俺と付き合ってくれるまで?」
「さすがに一生はやめてほしいんだけど」
「え〜…」
何があろうとその一線は譲ってくれないらしい。いつか必ず踏み越えてみせると一人静かに誓った。
「………もう、しょうがないわね」
彼女がため息混じりに呟くと同時に、手を握り返してくる感触がほんの少しだけ伝わってきて思わず頬が緩んだ。
それに応えるように手の力を強めると、調子に乗らないで、と言いたげにまた脇腹を小突かれる。彼女の顔からはもう翳りは消えていた。
「ちょっとは気分が晴れたみたいで良かったよ」
「……そう」
あとはもう一つ。隈が浮かぶ顔にそっと視線を注いだ。
握ったままの手を引いて再び椅子に並んで腰掛け、それから手を離して彼女の背に回した。
「今日はちょっとだけ眠っていきなよ。仕事は俺がやっとくからさ」
「そこまでしなくて大丈夫よ。寮に戻ってから寝ればいいんだし」
「どうせ五時には叩き起こされるでしょ。それにほら、寝るのって気持ちいいじゃん」
断ろうとするシルビアを無視して、子供を寝かしつけるときのようにその背中をゆったりと叩く。いつも俺が眠らないように目を光らせている彼女を眠りに誘おうとしているのだから少し変な気分だ。心地よい秋風が吹き込んできてカーテンをはためかせた。
「……仕事、頼んだわよ」
俺が引くことはないと悟ったのか、シルビアはそう一言告げて机に突っ伏した。
頼まれたからには張り切らなくては。絶対に眠らないと固く決意し、予備に置いてあったエナジードリンクの缶を引き寄せた。
やがて、静寂に包まれた事務室でシルビアは穏やかな寝息を立て始めた。
「……おやすみ」
背中から手を離して、大きな音が鳴らないように缶のタブを開ける。
どうか、彼女が悪夢に苛まれることがありませんように。
* * *
「ん……」
「───おはよう」
ちょうど仕事が一段落ついた頃、シルビアは目を覚ました。部屋の明るさに目が眩んだらしく、彼女は瞬きを繰り返している。窓の外では、夕日がすっかり沈んで月が顔を出していた。
「私、どれくらい眠ってた?…仕事は?」
「もう俺達以外は寮に帰っちゃった。仕事は終わってるよ」
「…ありがとう」
「どういたしまして」
シルビアは暗くなった空を一瞥して、一つ伸びをしてからいそいそと帰り支度を始める。その頬に腕枕の跡が残っているのを見つけてつい顔が綻んでしまった。
彼女につられて同じく帰り支度をする中で、不意にある一言が頭に浮かんだ。それをどうしても仕舞っておけずに彼女の背中へ呼びかける。
「ねえ、シルビア─────どんな夢を見た?」
「…………言わない」
どうやらいい夢を見られたみたいだ。