それはそれで愛おしい日々 朱雀召喚が失敗に終わり、別の形で召喚を行うという話になったとき一同はすぐにその準備に追われる事になった。
理由はいたって簡単。同じ目的を持つ倶東国に先を越されない為。そして今までとは違い、国を跨ぐ壮大な旅になるからだ。紅南国内に留まっていればまだ治安も含めて安全であっただろうが、一歩国境を越えれば紅南国皇帝である星宿の力は及ばない。そして皇帝自らが他国に赴くこともできないため七星士の戦力も下がる。それは大きな痛手だった。そのため、旅の安全性を少しでも確保しようと、星宿は万全な準備をさせるよう家臣たちに命じてくれた。
星宿だけではない。他の七星士達も準備を進めていた。身支度を優先する者そうでない者。各々の好きな順番で進める中、翼宿は前者であった。
長旅になるため荷物を増やせば足枷になる。現地調達できそうなものは全て除いてまとめれば、思ったより時間もかからず翼宿の準備は終わった。
となれば残りの時間は全て自由だ。鬼宿でもからかいに行くか、柳宿と美朱誘って街に繰り出すか。どうしたものかと思案していると、突然隣の部屋から耳を劈くほどの絶叫が響いた。
「な、何や!?」
突然のことで驚きで身体がビクリと反応してしまう。先日まで瀕死の重傷を負っていたこともあり、隣の部屋には医者である軫宿が割り当てられていた。
隣で何かあったのか。どこか間の抜けた絶叫にも聞こえたが、翼宿は愛用の鉄扇を片手に隣の部屋へと駆けつけた。
「何や今の猫の断末魔みたいな声は!!軫宿、たま潰したんか!!」
勢いよく部屋の扉を開けて異変を探す。しかしそこには軫宿が平然とした様子で立っているだけだ。軫宿は厳しい視線を翼宿に向けて口を開いた。
「静かにしろ」
そして視線を部屋の奥にある寝台へ移す。翼宿もそれに倣って見てみれば、寝台に誰かが伏せているのが目に入る。旅人のような軽装はよく見知った人物だ。
「ち…井宿?」
近づいて恐る恐る覗き込んでみても、まごう事なく仲間の一人だ。彼はうつ伏せに突っ伏したまま翼宿が名を口にしても指一本動かさない。
確か井宿は自分とは違い、自身の身支度よりも張宿と共に相談役として大臣達の会議に出席にして全体の準備を優先していたはずだ。各地を旅した井宿の知見と張宿の抱負な知恵は各種指針を決めるのに大いに貢献していると聞いている。
その彼が何故、こうして軫宿の寝台で寝ているのか。いや、これは寝ているのか?
翼宿は声の調子を落として軫宿に問う。
「何ぞ怪我でもしたんか?」
彼ほどの術者が軫宿の世話になるなど余程の事だ。侵入者と対峙して怪我を負った可能性もある。緊張を孕んだ声で聞いてみれば、軫宿は静かに首を横に振って答えた。
「いや、按摩をしただけだ」
「按摩ぁ?」
予想だにしなかった返答に、翼宿は怪訝な顔で声を上げた。しかし軫宿は、元から寡黙で表情もあまり変わらないとは言え、至って真面目に続ける。
「井宿の素顔は隻眼だと聞いてな。気になって肩を掴んでみたら想像以上に凝っていたので思い切り解させてもらった。後は…十分休めば楽になるだろう」
翼宿は伏せたまま動かない井宿に視線を向けたまま説明を聞いていた。簡単に説明してはいるものの、按摩だけで果たしてこんな事になるのだろうか。余程気持ちが良かったのか、と思いたいがあの叫び声からするとそうとは思えない。心なしか眠るその表情には安らぎが感じられなかった。何というかこれは、気絶、というのが正しい気がする。
怪我もしていない、忙しく準備に動き回る井宿が大人しく軫宿の施術を受けるとも思えない。一体この部屋でどんなやり取りが行われたのか。
翼宿は一瞬想像しようとしたが背筋に悪寒が走ってすぐにやめた。
「片目で過ごす負荷は目だけにかかるものではない。目の筋肉の緊張が続けば肩や背中にも影響が出る。そこから頭痛や体調不良にも繋がるから油断はできない。出立までに無理をされて倒れてもらっては困る」
「はぁ……」
淡々と説明する軫宿に、翼宿は気の抜けた相槌を打つことしかできない。
結局井宿が眠っている間、彼がする予定だった仕事は軫宿と翼宿で分担してこなした。半分とは言え宮廷中を走り回され、この時ほど井宿の移動術が使えたらいいのにと思ったことはない。それは軫宿も同じだったようで、目が覚めた井宿からは酷く感謝され、その晩は深い眠りにつけたことを覚えている。
今ではいい思い出ではあるが、翼宿が井宿の絶叫を聞いたのは後にも先にもこの時だけだった。
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あれから何年経っただろう。
世界を二度救い、生き残った相棒の旅に気まぐれで付き合う日々を翼宿は過ごしている。時には拠点の山に戻り、時に実家に戻り、時にこうして遠方を旅する。相棒も十分自由人だが、自分も大概だ。そんな折、野生動物に襲われてた商人に出会した。動物自体は翼宿の炎で退けたものの、重傷を負った商人は息も絶え絶えだった。放っておけば絶命するのも時間の問題、という所を井宿は迷いなく軫宿から渡された神水を使った。応急手当てを施し、翼宿が商人を担ぎ、井宿の術で医者の元へと連れて行った。
結果、迅速な行動のおかげで商人は一命を取り留めた。医者の報告に安堵した二人は、やれ疲れただの緊張したなどと話しながら旅を続ける。
商人を助ける際に神水を使う井宿の姿に、翼宿は神水の持ち主であった軫宿とのやり取りを思い出していた。
定期的に鳴る錫杖の環と共に横並びに歩みを進めながら、翼宿は思ったことを素直に口にする。
「神水使わへんの?」
「?さっき使ったのだ」
「そうやない、お前の話や」
神水は元々軫宿が井宿の目を元に戻すために渡したものだ。それを躊躇なく他人に与える事は軫宿は咎めないだろう。それでも翼宿は単純に疑問だった。
翼宿が何を言いたいのか察したのだろう。井宿は彼を一瞥するが歩みは止めない。
「片目だけやったら不便やろ。別に傷なくても昔の事もダチの事も忘れるタマやあらへんし。どうせなら目ぇ見えるほうが便利で楽やん」
親友の事を、過去の罪を忘れないと戒めるのであれば、傷に置き換わる遺品を井宿は既に持っている。ならば傷に拘る必要など無いのではないか。それでも未だに傷を残して旅を続ける理由を翼宿は聞いてみたいと思った。
「そうだな……」
呟くような反応に翼宿が井宿に視線だけを向ければ、彼は何事もなかったかのように正面を見据えていた。そこから暫く無言が続く。錫杖の音だけが街道に響いて消える。
面の上からでは何を考えているのか皆目検討がつかない。長く続く沈黙に、もしかして返した言葉は相槌ではなく返答だったのかと思った矢先に井宿は再び口を開いた。
「翼宿がいるからまだいいのだ」
「は?」
翼宿の足がピタリ、と止まる。数歩進んで井宿も止まり、彼は翼宿に向き直った。
何で俺やねん。
疑問符が頭の中を埋め尽くそうとした時、井宿の言葉がそれを思い切り吹き消した。
「?よくオイラの左側を歩くのはそういう事だろう?」
逆に疑問をぶつけられ、足だけではなく思考も止まる。しかしそれも一瞬で、すぐに「コイツは一体何を言っているのか」という思いと「一体いつから」という思いが頭の中で大喧嘩をし始めた。
軫宿とやり取りのあったあの日から。アイツと行動をする時は気を休める時以外は出来るだけ。
付き合いが長くなってからはその意識も薄れてはいたものの、行動は染み付いて。
井宿の思わぬ指摘に翼宿は思考が混乱し、はくはくと鯉のように口を開閉してしまう。出た言葉は喧嘩中の思考とは別の、ポッと現れたものだった。
「たっ…たまたまや!!そんなん!!」
声もひっくり返り、向きになって反論する姿は動揺しているのは明らかだ。
元より嘘をつくのは苦手であるとは言え、流石にこれは酷いと自分でも思ってしまう。
井宿はきょとんとした表情のまま小さく首を傾げた。
「そうなのだ?まあそういう事にしておくのだ」
そうしてそれ以上掘り下げようとはして来ない。彼の姿勢に本来は感謝するところなのだろう。しかしそれはそれで負かされたような気がして気に入らない。
そんな翼宿を他所に、井宿は手のひらで顔面を覆って言葉を紡いだ。
「不便も慣れれば日常なのだ」
そのまま着けていた面をずらせば、そこから覗く瞳が翼宿のそれを捉える。
「その日常を愛おしく思えるのも“これ“のおかげなのだ」
朗らかに笑むその表情に、翼宿は一瞬目を奪われた。まるで子どもの悪戯を見守る親のような、全てお見通しと言われているような。しかし「愛おしい」と告げるその言葉に嘘などない。そんな、慈愛に満ちた笑みだった。
小春日和のような、そんな暖かさが残る感覚が悔しさを凪いでいく。
しかしそれはほんの僅かな時間で、人通りのある街道で素顔を晒すのは控えたいのだろう。すぐに井宿は面を付け直して、再び錫杖を鳴らし始める。
その背中を翼宿は呆然と見つめていた。
『皆に頼られる程の実力があるのは確かだが、その分負担がかかってるのも事実だ。お前も少しは気にかけてやれ』
皆の信頼を片目に負う彼を心配する医者の言葉に、あの時は確かにそうだと納得して井宿の仕事を請け負った。それからは自分に何が出来るかと意識して、考え抜いたのがその行動で。下手な気遣いは逆に彼を困らせるだろうと、自然を装うのは骨が折れた。
しかし次第にそれも慣れて、彼の隣に立つ時は右隣が当たり前となっていた。
なるほど。不便も慣れれば日常となる、とは言ったものだ。
しかしそれを逆手に取ってくるとは。参った。今までの気遣いは一体何だったのか。
翼宿は天を仰いで語りかける。
「軫宿…、あいつ俺らが思ってるより遥かにしたたかやったわ」
軫宿が苦笑する表情が目に浮かんで、翼宿も思わず苦笑する。
その時、流れる雲を視界から外れると同時に新たな疑問がポッと現れた。まるで神出鬼没な彼のように。
という事は、気が変わるまで俺はあいつの左目になるのか。
その日々を想像して、ふむ、と考える。
しかし翼宿は大して悩むことなく、あっさりと結論を出して井宿の背を追いかけた。
まぁ、変わらなければそれはそれで。