>市内に一戸建て
「今日は勝つ!」
イキナリ、おそ松が部屋のド真ん中でやかましく立ち上がる。すると、ばっとホコリがたった。部屋の掃除はさすがの母親もしてくれないので、当番の誰それが掃除機をかけないと、共用の部屋はすぐにこうなってしまうのだった。
「……そんな気がする」
語尾をヨワくして、ウンウン、と自分で頷いて。元気と調子だけはからっきし良く、おいチョロ松行くぞ、とバイト求人誌を見ていた三男坊の首根っこを掴んで、シャン、と立ち上がらせた。
「ヤだよ。僕、今日は用事があるんだ」
「用事って何の?」
「そりゃ、色々……。僕にだって用事くらいはありますよ」
本当は付いてくのが面倒なので、チョロ松は何もないのを用事があるなんて言い繕ったのである。おそ松はンン……なんて、妙に真面目ぶって唸った。バカだから、本当は嘘だとか、そういうところにも頭がいかない。ひとしきり頭を捻った後、そうは言っても、同じ境遇の無職の弟の用事などきっと取るに足らないものだろう、と自分で決めつけて、やっぱり行こうや、とその腕をとって玄関まで無理矢理に連れていった。
「オマエ、ほんと何なの」
無理矢理にされたので、むくれっ面をしている演技で、チョロ松は言う。
兄はその演技を無視して、何年ものなのかもはやわからない自転車をガタガタいわせて納屋から出して来た。兄弟の誰かが高校の頃くらいから使っていたもので、他にも自転車はあったのだが、なにせ全員でめちゃめちゃに乗る上に、使い勝手がとてつもなく荒いので他のは全部コワれてしまったのだった。はげた銀色のボディに、どういう訳がタイヤの中にテニスボールが2つ、ハサマっている。ハサんだ当時ですらその改造はとてつもなく古くさかったと思うのだが、誰松かが面白がって、誰松かの自転車に、ハメたのだろう。
「ナー。駅前のテンガイって、駐輪場あったっけ?」
ガシャンと音をさせてストッパーを蹴り上げ、おそ松はサドルに収まった。カッコつけて、乗れよ、みたいなポーズをしたら、その拍子に車体がぐらり、と揺れた。慣れない事はするもんじゃない。
「あったような、なかったよーな?」
自然な様子で、そのうしろのステップに立ったチョロ松が答えた。ステップもつけっぱなしで、ゴリゴリに錆び付いている。一人で乗る時も、そのへんを誰かとぶらつく時も、適当に乗って行く自転車なので永久に付けっぱなしになっている。
カマキリ型のクソダサイ持ち手を揺らしながら、兄がコンクリートの道をえっちらおっちらと漕ぎ出した。体格は同じくらいだが、中々どうして弟の方が少しヒョロいので、こういう時は楽だ、と兄は思っている。おそ松は、モテたい一身で体を少しだけ鍛えていた。腹筋を、一日に15回〜50回程度の鍛え方だ。なので、こういう時は率先して、鍛えちゃうよ、などと言って漕ぐ側に回った。実際のところ、しばらくは信号がないので、止まることがないもんだから、そんなに鍛えるも何もない。
「こないだロンロン行ってさー」
ブレーキをキィキィ言わせながら、同じ顔がゆっくりと平日の住宅街を抜けて行く。
「いや、あそこアトレだから。名前かわったの何年前よ」
「いーんだよ、適当で。で、ロンロン行ったらさー、中学の…」
おそ松は、話を続けようと口を開いた。けれども、すぐに面倒なミサイルが、頭上から降って来る。
「アトレなんだよもう。なくなる時みんなで意味もなく写真とりに行ったじゃん!どうしても気になっちゃうんだよ」
チョロ松は気にしぃだ。気にしぃで、神経質で、マメで、面倒くさい。なので、少し自分の気になるところがあると、会話をそこから前に進めらんなくなる。まったくの他人ならば、それもテキトーに流すのは造作もない。けれども、それが兄弟となると、まったく話は別になる。僕があいつであいつが僕で、という6つ子ならではの気持ちワルさで、自分がそれを間違っているように感じられて、トテモ気持ち悪くなってしまう。こうなった時のチョロ松は面倒で、兄弟が訂正するまで、自分の指摘をやめる事ができない。自身でも、何でこうなんだろ、僕。なんて一丁前に悩んでみる事もあるけれど、次の指摘の時にはそんな事はスッカリ忘れて、その辺は兄弟と同じように脳みそも似たバカだから、同じような事を何度も何度も、くり返してしまうのである。
「どっちでもいいじゃん!」
「でも、アトレなんだよ……」
「チョロちゃん、あんたそういうとこだよ。童貞なのはね、そういうとこ……」
「は?童貞はてめーもだから!」
「しつこいっての。だからさ。違うんだってー、俺が言いたいのはね、アトレでー……」
「いや、ロンロンだよ」
「アトレだろ?」
「え?」
「アトレが正解なんだろ?」
きょとん、と少しの間が開く。
「いや、間違えちまったじゃねーか!ふざけんな!」
「ちょっと、何でキレんのよ。俺悪くないでしょ」
げへへ、とおそ松は思わず笑った。あまりにもバカらしいからである。チョロ松がというより、この状況が、あまりにバカみたいだからである。
「その笑い方、気持ち悪いからやめた方がいーよ」
げへへ、とチョロ松も同じ声で笑った。六つ子なので、笑い方も同じなのだ。肩を掴む手にぎゅっと力を入れると、また、おそ松がはは、と笑った。それから、ヨッシャ、と言った。パチンコ屋についたからである。
キキィ、とブレーキをふんで、後ろに乗っていた弟は、我が意を得たり、という風情で、後ろに飛び降りた。
「おいチョロ松。ウソついてんじゃねーぞ。駐輪場ねーじゃんか」
「いや、裏だよ確か」
ウダウダと言いながら、スニーカーをコンクリートにべとべと付けながら歩く。本当に駐輪場は裏にあったので、チョロ松はフフン、と勝ち誇った顔でおそ松を見たが、おそ松の方では今日、打とうと思っている台が空いてるかどうかに頭が行ってしまって、そんな顔なんて一瞥もくれなかった。
その日は、おそ松よりもチョロ松が勝って、兄弟にアトレでケーキを買って行ってあげた。おそ松は負け越して、スッカリ悔しくて地面を蹴り付けたおかげで、右足の人差し指をクジいたそうだ。
おわり
+++++++++
>真夜中に馳せる
ウーウーウーウー。
真夜中。サイレン。すぐそば。停車、それでもまだ鳴ってる。
……うるさい。
僕はずっしりとした眠りから、ほんの少しだけ意識を浮上させた。
とてつもなく眠いけれど、この音で起きてしまうのは今までの癖なのでしょうがない。
僕は、真夜中のサイレンが苦手だった。
半分寝ているような状態で、小さい時、同じように真夜中のサイレンで目覚めた時の事を思い出す。
自分以外の皆は眠っていて、静かな五人分の寝息の部屋の中で妙に目が冴えてしまった時の事だ。
「……おそ松、おそ松」
僕は、隣に寝ている兄を静かに起こす事にした。その向こうに寝ている十四松を起こさないように静かに揺り動かすと、少しだけ唸るようにむずがってから、あいつは起きた。
「どうしたんだよ……まだ夜中?」
他の兄弟が寝入っているのを見渡してから、僕と同じようにささやくように聞く。
「どうした、チョロ松」
「……うん」
もうサイレンは止まっていたけれど、赤い光が外に面したカーテンの色を少しだけ染める。
すぐ近くに止まっている救急車。何だか心が落ち着かなくて、ざわざわする。
誰が呼んだんだろう。きっと、こんなに長く止まっているからいたずらじゃない。
おとなりのおじさんかな、それとも、駄菓子屋のおばあちゃんかな。いつもは気にならない近所の人が、倒れていたらどうしよう、死んじゃっていたらどうしよう、と急に不安になってきた。
いつか、みんなが倒れて、救急車に乗る事になったらどうしよう。
僕がぐるぐる考えているのに気付いたのか、ちゃかす様子もなく、僕の肩に手をやって、スルスルと撫でてくれた。
「怖い夢でも見たのか?かあさん所行くか?」
いつもと違って兄貴ぶるおそ松の手をとって、ぎゅうと握る。
自分と同じように、温かい手だった。
「いい…でも、手握ってて」
「変なの」
あいつは空いている方の手で鼻の下をすると、僕の手をさらに強い力で握り返してくれた。
不思議と心強くて、僕は思わずへへへ、と笑った。
「チョロ松、変なの」
「うるさい!もう、寝ろやい……」
恥ずかしくてふざけて言うと、おそ松はへへっと同じように笑ってから、言われなくても寝ますよん、と言って、本当にすぐ寝息をたてて眠ってしまった。
それからというもの、僕はずっと真夜中のサイレンが、駄目だった。
いつもは気にならない皆の寝息。ジィィ、と電気の豆電球が焼けているような小さな音。段々目が慣れて来て見える、自分の真上にある天井のシミ。些細な事が、巨大な化け物のように、僕に襲いかかってくるような気がした。
小さい頃はいちいちおそ松を起こしていたけれど、高校生くらいになってからは、もうあいつを起こすのはやめて、勝手に手だけを拝借するようになった。
僕のものとは違って段々肉厚になっていった無骨なおそ松の手は、不思議と幼い頃と同じようにとても温かい。
僕は、真夜中のサイレンが苦手だった。
寮の中とまではいかないが、そこそこ近所に止まった救急車。人を運び出すための担架を用意するようなガシャン、という音まで聞こえる。
それでも、なぜだろう。心は平穏なままだった。
……いや、そりゃそうだろう。
誰の事も知らない。ここの近所の人の事なんて、一切。
このサイレンは、僕の知らない誰かが、救急車で運ばれる音なのだから、心を痛める必要もない。相当、ドライなのかもしれないって思うけど。
僕は、いつもあいつが寝ていた方の手を閉じたり、開いたりした。
うるさいサイレンの音よりも、ひとり寝のシーツがすれる音の方が大きく聞こえる気がする。
それとも何か。
僕は、真夜中のサイレンが苦手だと思っていた。でも、本当は……。
本当は、起こしたはずもない兄が、繋いだ後の手を握り返してくれるのを僕は知っていた。
知っていたから、僕はいつも、もう怖くもなんともないのに兄の手を取っていたんだろうか。
子供だましのような方法で、そんな事でしか手を握れなかったから。
……いや、真夜中の事なんて、夢と一緒だよな。
僕は大きくあくびをする。生理的に目に涙がにじんで、すっと枕に落ちる。
試しに、布団の中で右手と左手を繋いでみた。
遺伝子的にはほぼ同じのはずなのに、やっぱり、全然あいつのとは違うから不思議だった。
本当は知っている。
手だけではなく、あいつだけは、世界中の誰より、全然違ってる。
僕はもう一度、わざと大きくあくびをした。
だって、あくびをしたら、涙が出るのは普通の事だから。
おわり
++++++++++
>夏の兆し
目覚めた時、寝室には自分の他には誰も寝ておらず、窓からは高くのぼった太陽の光が部屋の中に降り注いでいた。
誰が見ている訳でもなかったが、眠そうに顔をしかめた後、くわぁ、と大きくあくびが出る。よく寝たはずだが、まだまだ眠い。どうせ毎日が日曜日みたいなものなのだから、二度寝を決め込もうかとも思ったのだが、何となく腹が減っている事に気付いてしまい、しょうがなく、枕の上で首をゴキゴキと鳴らし、やっとの事で体を起こしてかけ布団を剥いだ。
松野おそ松はぐらぐらと揺れながら、階下へと階段を下っていった。時間はもう正午を過ぎようとしている。
「誰かいるー?」
テキトーに顔をジャバジャバと洗って歯をおざなりに磨いた後、期待せずにとりあえず居間で誰ともなしに声をかけると、お勝手の方から、まだ寝てたのかよお前!という、男にしては少し甲高い声がした。
「チェッ。チョロ松だけかぁ」
「チェっとは何だよ、チェッとは」
腹をボリボリとかきながら、おそ松はよっこいしょ、とテレビを目の前にして、ちゃぶ台の脇に腰を下ろした。年季がはいりすぎた為にペッタンコになって意味をなさなくなった座布団は、畳の堅さをダイレクトに教えてくれる。
今度はケツをボリボリとかきながら、まだ今日は顔も見ていない弟に声をかけた。
「なー、お茶ちょうだい」
「自分でしろよ」
ブツブツと文句が聞こえて来たが、少しするとシュル、とふすまを開ける音がして、居間と繋がっているそこから弟のチョロ松が顔を出した。
「はい」
一緒に湯のみを差し出した手が出て来る。
「ん」
おそ松は、それをお礼も言わずに受け取ると、ズズ、とゆっくり飲んだ。
松野おそ松は、世にも珍しい六つ子である。
おそ松にお茶を差し出した彼は、2つ下の弟で、チョロ松と言った。
小さい頃から、おそ松とチョロ松は二人で相棒ごっこなどして、一緒に育って来た。
他の兄弟なんぞと違って、年齢の差というものがないからか、松野家の6つ子は兄弟というよりも、友達のような関係性が形作られていたのである。
その中でも、特におそ松とチョロ松は仲が良かった。仲が良かったというのか、馬が合ったというのか……。
「あいつらは足手まといだから」と言って、おそ松はチョロ松を連れ、チョロ松はおそ松を連れ、他の四人の兄弟を置いて、よく二人で抜け出して遊びに行ったものである。
落とし穴もほった。
砂場で、他の兄弟や、チビ太、はたまたイヤミなど町の大人も、二人で随分と穴の中に落としてやった。
難しいのが、公園で砂場を掘り起こした時、また元のところに砂を入れ直したとしても、もともと穴を掘ったところはすぐにわかってしまう事だった。下の階層の砂は、水を吸って、重くて、何より色が違う。
どろどろとした砂の上から、いくらカラっとしたうわばみの砂をかけたとして、もうその地層は変わってしまっているので、いたずらはスピード勝負だ。
自分達の計略通りに、人が穴に落ちるのは腹をかかえるほど面白い事だった。
こんなようなイタズラを、飽きもせず、ずうっとやっていたのである。
兄弟が全員成人してしまった今では、六人がそれぞれの人格形成を終え、おそ松とチョロ松は昔のようにつるむ事は少なくなった。それでも、やはり幼い頃からの慣習はどこかに残っていて、二人の間には他の兄弟にない、阿吽の呼吸みたいなものが今だに漂っているというのも本当なのだ。
おそ松は、感慨深くなる訳でもなく、ぼんやりと、そんな事を思ってチョロ松に淹れてもらったお茶をズルズルと飲んでいた。
「お前何か食った?」
「今から適当にするよ」
「俺にも作ってよ」
「はぁ?何も作んねーよ。昨日の残り、チンするだけだよ」
「それでいいからさぁー。俺のぶんもやって!あ、飯は?」
「ご飯はある。朝炊いてたのが」
その間にも、チョロ松は名前の通りにチョロチョロとお勝手を歩いては、戸棚をバタン、バタン、冷蔵庫をバタン、バタン、と、ぐるぐる効率が悪そうに立ち回っている。
「自分でやれよ、まったく」
「俺、今さっきタコに足を食い千切られたから無理」
「んな訳ねえだろ!ったく、しょうがないなぁ……」
チョロ松は腹立つわぁ、というような調子で返答したが、そのわりに追撃はしてこない。おそ松は、こうしたくだらない言い訳を案外チョロ松が好きなのを解っていて、わざとこのように返した。真面目だなんだとくり返す弟は、根の部分ではくだらない事が好きなので、あまりにバカみたいな返事をすると、内心喜んで大抵の事はしてくれるのだった。
お勝手から聞こえる話を、気持ち半分でボンヤリと答えつつ、机の上にあったリモコンでテレビをつけ、適当にザッピングする。
情報番組、ニュース、情報番組、情報番組、トーク番組、情報番組……。
「あ、赤塚区特集じゃん」
何も特集する事ねぇぞ、とテレビに野次をいれながら、ちゃぶ台にぐたりと寄りかかった。隣の部屋からは、何かをジュージューと焼く音が聞こえる。何も作らないって言ったじゃねえか、と思ったが、それを言うと自分の分け前が減るので黙っておく。
話題の創作和食の店でレポーターが有機野菜を食べ始めたタイミングで頭上から声がした。
「おそ松兄さん」
面倒なので顔だけ向けると、盆を持ったチョロ松がいつものように困った眉毛で立っている。
「どけよ。上に置けないだろ」
「へいへい」
おそ松が体を起こすと、卓上にはポークビッツの入ったスクランブルエッグと、チンチンに温められた昨日の残りのブリ大根。しょうが焼きが喧嘩になりそうな3枚。続いて、お茶碗に入った油揚げのみそ汁と、汁物のお椀に入った白米が二つづつ置かれた。
「なぁ、これ、みそ汁とご飯の入れ物逆じゃね?」
「みそ汁間違ってこっちに入れちゃったからさぁ、入れ替えるのめんどくさいじゃん」
「あーたしかに」
女の子だったら、こういう事はないのかなぁ、とも思うが、兄弟は全員男なので、松野家ではこういうところに適当さが出るのだった。
チョロ松はまだ几帳面な方で、カラ松なんぞは自分でゆでたそうめんをマグカップに入れためんつゆで食べていた事もあった。それを横から拝借していた一松も、スープ皿にめんつゆを入れて食べていたりして、合理的というのか何というのか、簡単に言うと品も何もあったものではない。男ばかりの所帯の中で、自分達の用意する食事なんてのは「食べられればいい」のである。
「これくらいでいいだろ?他に何か食いたかったら自分で用意してよ」
「全然大丈夫。大ごちそうじゃん。満願全席だと思ったわ」
「テキトーな事言うなよ」
あまりのくだらなさに苦笑しながら、チョロ松もおそ松と反対側に腰を下ろした。人数が少なくなっても定位置は変わらない。小さい頃からの習慣というのは不思議なもので、あまりに二人が一緒に悪さをするものだから、幼稚園だかの頃からおそ松とチョロ松は一番離れた反対側に座らされていた。大人になってもそれは家のルールとして、何となくそこにおさまっていないと気持ちが悪い。
「いただきます」
「まーす」
ずるずると、テレビを見ながら食事をはじめる。
「こんな洒落た店行かねえよなぁ」
「うん、ケツ毛燃えそう。あ、でもトド松好きそうだな」
録っといてやるか。チョロ松は機転をきかせて、テレビの録画ボタンを押した。流行りものが好きな末の弟は、こういった情報に敏感である。
ポークビッツのスクランブルエッグは、可もなく不可もなく、といったような味だった。それでも、時々口にする自分以外の兄弟の飯の中では何となく舌のおさまりがいい気がする。
「ていうか、ポークビッツ久々に食ったわ」
「だよな。冷蔵庫にあってびびったから焼いた」
ムゴムゴと口を動かしながら、チョロ松が答えた。
兄弟の中でも、少し痩せていて少し背の高いこの弟は、体のわりによく食べる。太らないので俺って胃下垂かも、と言っていたのだが、医者にかかった際、病状を説明する中で「僕、胃下垂なので」と断言した所、「昔から見てるけど、チョロ松くん胃下垂じゃないよ」と言われたと聞いて笑い転げたものだ。
「久々に食うとうまいな、ポークビッツ」
「なんか懐かしいよねぇ」
ふふ、とチョロ松が笑った。おそ松は、あ、今の……と思って、途中でやめた。
おそ松は、少し前からなのか、それとも随分前からなのか、チョロ松の事は考えないようにしている。
例えば、銭湯に行った帰り、チョロ松の後ろを歩いていると、何だかその姿が所存なさげに見えた。なぜだろう、と思ってよく見てみると、そういえば、いつもパーカーの中に着ているシャツを着ていない。この弟の首筋など、今まで散々見て来た。腐る程見て来た。おそ松は、そこで考えるのをやめた。
例えば、アイドルのライブ帰りに、お世辞にもいい匂いとは言えないTシャツを着込んで帰宅するような時。冬ならば、帰って来る途中に乾燥するのかもしれないが、夏の暑い日などは玄関先でその前髪がぴったりと額にはりついている事がある。うなじの毛が、細い首にそって、へたり、とうねっている。そんな様子を見た時、おそ松は何だかわからないが、見てはいけないようなものを見た気がして「くせえぞドルオタ」などと言って、え、ほんと?などと自分を嗅ぎ出した弟を家の風呂に促すようにして、あとは何も考えないようにしている。
例えば……。
数え出すときりがないので、数える事すら、もうやめておこう。
「おそ松兄さん、今日どっか行くの?」
「うーん……パチもちょっと遅いしなぁ。いい台取られちゃってるだろうし」
「じゃ、俺、一人で行ってくるわ」
「はぁ!?チョロ松パチンコ行くの」
「今日久々にちょっと打ちに行こうかと思ってたんだけど、行かないなら一人で行ってくるよ」
「それなら俺も行くし! 置いてくなってぇ、寂しいじゃん、たった二人の兄弟だよ?」
あと四人いるよ、とチョロ松がバカじゃねえの、という感情を言外に匂わせて言った。
「てゆうかさ、それならお前もっと早く出れたんじゃね?開店に間に合わなかったとしたってさぁ」
「うん……いや、ちょっと寝坊したし。お前、誘ったら一緒に来るかと思ったんだよね」
「……」
「……」
ふいに、沈黙が訪れた。
テレビでは、とっくに赤塚特集は終っていて、くだらない街頭インタビューの様子が映っているし、お椀の中の米粒は時間がたって、すこしカピカピになってしまった。卓上のものはあらかた空になってしまっていて、あと一口でみそ汁も終る。
チョロ松は、テレビを見ている。
おそ松は、チョロ松を見ていた。
「……えっと、今のなし」
「うん」
「お前から誘った事にしてよ」
「うん」
チョロ松は、おそ松に見られているのがわかっていて、テレビを見ている。
テレビを見ているふりをして、おそ松をうかがっている。
「チョロ松、今日パチ行かね?」
この、先の見えないような不毛なやりとりは、遥か昔の子供の頃の遊びを思い出させた。
公園で砂場を掘り起こした時、また元のところに砂を入れ直したとしても、もともと穴を掘ったところはすぐにわかってしまう。
下の階層の砂は、水を吸って、重くて、何より色が違う。
どろどろとした砂の上から、いくらカラっとしたうわばみの砂をかけたとして、もうその地層は変わってしまっている。
その事が、おそ松にもチョロ松にも本能的にわかっている。穴を塞ぐなら、スピード勝負だと。
「いいよ」
チョロ松はやっとおそ松を見た。
「じゃ、さっさと片付けて行こうぜ」
「うん」
見て、少しだけはにかんでから、なぜか困った顔をした。
盆に皿を乗せてお勝手に行く後ろ姿を見ながら、おそ松はつっぷした。
ガチャガチャと、流しで皿を洗っている音がし出したので、おそ松は立ち上がる。
「皿拭くぐらいしろよ」
「とりあえず着替えてくるわ。やっといて〜」
「おい!ふざけんなよ!両方やらすな」
クソバカゴミ長男!とチョロ松がカリカリと怒鳴った。
その声を無視して二階に上がると、まだ敷きっぱなしの布団にバタン、と倒れ込む。
これ以上、チョロ松について考える事はやめだ。
……やめたい。本当に、心から、さっさとやめてしまおう。
いつもそう思うのに。
ため息をつくと、つっぷしているので自分の息が帰って来て煙草臭い。
諦めたように体を起こして、彼はパーカーに着替えはじめた。
小さな窓から差し込む陽射しは、そろそろ夏の気配を帯び始めている。
季節が変わる事を止められないように、この世界には、自分の力ではどうしようもない事もあるのだ。
そう、階下では、泡だらけのスポンジを持ったままの弟がおなじような理由で頭を垂れている事も、おそ松の力ではどうしようもない事なのだった。
おわり