皇宗SS/ドレスコード「これでよし」
皇紀の髪のセットを終えた宗雲は、我ながら完璧な仕上がりに満足の息を吐く。かっちりした服装には難色を示した皇紀だったが、髪型のほうはわりと気に入ったらしい。
「視界が広い」
「それは良かった」
宗雲は唇を緩め、改めて今の彼の姿をじっくり鑑賞させてもらうことにした。手を伸ばして頬に触れると皇紀は大人しく宗雲を見返し、概ね好きにさせてくれる。役得の時間で、宗雲だけの特権。前髪をすっきり上げたぶん、二つ並んだ赤い瞳がいつもよりも澄み切って見える気がした。彼の均整の取れた顔の造形が正面から宗雲の視界を彩る。
「…………」
彼の頬を撫で、指先で耳を触る。皇紀は黙ってされるがままになっているが、時折思い出したように宗雲の手に己の肌をすり寄せてくる。こんなにも人外じみて美しい男の、よく懐いた猫のような仕草を見て触っていると、宗雲の気持ちはだんだん夢心地に染まってくる。彼の美しさが好きで、普段とは違う姿を見るのも好きだ。そして、彼がこういうことを許してくれるのはたぶん自分だけなのだろう、と思うと、夢の中にはとろとろと甘くて重いシロップが注ぎ込まれて、どんどん目覚めがたくなる気がした。
ち、と壁時計が音を鳴らした。宗雲ははっと我に返り、皇紀に触れていた手を引き戻す。
「すまない。そろそろ戻ろうか」
「……ああ」
皇紀はそう答えるなり、自分のネクタイをほどき、上のほうのボタンを外してしまった。宗雲は自分のジャケットを手に取りながら、横目に彼の緩んだ胸元を見て溜息を吐く。
「こら、勝手に着崩して……」
「充分見ただろ」
「俺が見ればそれでいいという話では──」
ないだろう、と続けようと視線を上げて、鬱陶しげに腕をまくる彼の姿に絶句した。
あまりにも、あまりにも似合いすぎている。
フォーマルな装いで着崩すのは褒められたものではないが、彼の楽なほうに動きやすいように最適化された姿には、逆に彼らしい荒々しさが出ているというか、美しいだけでは終わらないというか、宗雲の知る彼の可愛らしさすら押しのけられてしまうというか──。
有り体に言えば、格好いい。
「おい」
宗雲の態度を訝しんだのだろう、皇紀が眉を顰め顔を近づけてくる。宗雲は咄嗟に目を逸らし俯いた。そして恐る恐る視線を持ち上げ、皇紀の姿を再度捉える。
ネクタイは首にかけられただけだし、シャツの着こなしも誂えられた装いとはもう別物だが、正直この方が決まっている。しかしこの姿の彼を表に出すにはあまりにも……。
(……不健全、のような……)
宗雲は、皇紀を直視しようとする視線を彼のななめ下あたりにとどめながら、手元のジャケットをぎゅっと握った。即刻二人きりの状況を抜け出すべきだろうが、その前に支配人として、しっかり彼の服装を正させないといけない。意を決して叱責を飛ばそうと口を開いた時、ひんやりした親指が唇の下に触れ、つうとなぞった。
「……へぇ」
面白そうな皇紀の声。ぴしりと固まった視界の中、真っ赤な舌と鋭い犬歯がちらりと覗くのが見えてしまう。宗雲は慌てて後ずさったが、背中はすぐに壁につき当たる。せめてもの防衛として目を閉ざすと、もう一度笑い混じりの息が聴こえると同時、唇に慣れた感覚が触れて、柔らかさのぶんだけふわりと沈んだ。
「ん……っ」
皇紀に食われる。食われたい。いや何を考えているんだ。こんなところで彼に骨抜きにされている場合ではないというのに。
懸命に閉ざした唇に皇紀の舌が触れる。この場にふさわしくない控えめな水音が間近で響く。自制心と道を開けてやりたい気持ちが激しくぶつかりせめぎ合う。後者に身を委ねるわけにはいかない、と頑張っていると、やがて皇紀が諦めの混ざった息を吐いて引き下がった。
「……どうした」
とか言いながら、皇紀は全部わかったような表情で宗雲の目を覗き込んでくる。いつもは多少宗雲を守ってくれる前髪は少し上げてしまったから、盾としてはかなり心もとない。
「……ぐ……」
喉の奥から苦渋の声を絞り出すと、皇紀はふん、と可笑しそうな息を吐いて、宗雲の垂らした前髪をかきあげてくる。せっかくセットしたのに乱れてしまう、と抗議しようとしたのだが、両の目でまともに直視する皇紀の姿があまりにも危険な美しさを纏っているものだから、宗雲はいよいよ焦って彼の胸をかなり強めに押し返した。
「皇紀、駄目とは言わない、後でだ、後でにしよう、全て」
皇紀はそれでも余裕たっぷりに、喉の奥でくすぐるような音を立てる。
「先にその気になったのはお前だろ」
「そんなことはっ……」
ない、と言う前に唇をまた塞がれる。喋りかけだったから、今度はフレンチキスでは済まなかった。
「っ……」
口蓋に彼の舌がもぐりこんでくる。中途半端に開いた歯にピアスが当たって音を立てる。ジャケットを持つ手が緩んで、重力に従う布地がささやかな衣擦れを立てた。水の音が大げさに鼓膜をかき回し、清くありたい脳裏に不純なノイズをさざめかせる。その雑音に今にも飲まれそうな理性を必死に繋ぎ止める意識に、急に涼やかな冷風が吹き込んだ。
「そーう〜ん、皇紀さーん、まだー?」
「っ……」
慌てて胸を押すと、皇紀の体は今度は逆らわずに素直に離れた。十分距離を確保する直前姿を見せた颯は一瞬察したような表情を浮かべるが、皇紀を見るなり「すごい! 皇紀さんかっこいー!」と無邪気な声を上げる。かっこいいどころではなかった宗雲は口元を押さえ小さな咳払いを何度か繰り返してから、控えめに皇紀のほうを示した。
「颯、客観的な意見を聞きたいのだが……」
「ん? うん」
「この皇紀は表に出して大丈夫だと思うか」
颯は質問の意味自体がわからない、という様子で首を傾げる。
「? 大丈夫って何が?」
「……そうか」
俺が邪なだけか。あの葛藤はなんだったんだ、と肩を落としながら、颯と連れ立って部屋をあとにする皇紀を見やる。ちらと振り返った彼の目が可愛さのかけらもなくにやりと笑い、唇から不敵な舌がまた覗くのを、宗雲は見逃すことができなかった。