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    ふっ返り

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    ふっ返り

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    虎化一虎のふゆとら 桜は、酒を飲む口実に自分の存在を使うから、人間が嫌いだ。
     でも、桜は自分の存在を忘れられるのが怖くて怖くて、毎年壮麗な花を咲かせていた。

     今年も都会の公園に咲く桜はピークを終え、花びらは散り地面で踏み潰され、かつて瑞々しかったその花弁は所々が茶色く変色している。やがて緑の葉が生え始めるとお世辞にも綺麗とは言えず、毛虫がマンションの住人の如く住み着き始め、また桜は存在していないかのように誰にも見向きされなくなる。
     しかし、そのみすぼらしい桜をじっと見つめる青年が、いた。
     

     松野千冬の経営しているペットショップは展示している子犬、子猫のため19時ごろには閉店する。だが必ずしも閉店時間と退勤時間は同じとは限らないのだ。
     時刻は22時を回った頃、ようやく事務作業や戸締りの確認を終えると、すぐに家から駆け付けられるように店からさほど遠くない所に借りた、自分のアパートに帰ってきた。
     玄関の鍵を後ろ手に閉め、電気もつけずに暗い空間でフウとため息をつきネクタイをゆるめる。千冬は経営者になってからというもの、接客よりもパソコンや書面と睨めっこをしている時間が長いため眼精疲労が出、肩の凝りと闘っていた。
     やっとの思いで入浴を済ませ、倒れるようにベッドへ横になると外の小さい物音が気になってきた。
     カリカリ…カシ…
     玄関のドアを硬いものでカリカリと引っ掻く音が聞こえてくるのだ。
     空き巣か?ありえないとは思うが幽霊か?もし空き巣であったら正当防衛と叫びながら一発殴って追い返してやろうと、千冬は重い体に鞭打ってベッドから立ち上がった。
     玄関のドアをガチャリと開け目の前を見渡すと、何もいない。
     逃げたか?千冬はイライラを更に募らせながらドアを閉じようとすると、足元にフワリと柔らかい感触がした。
     下を見ると、ふわふわとした四つ脚の生き物が足元にくっついてきた。玄関の電気をつけていないため、暗くて色が視認しづらい。
    「犬?」
     犬にしては手が太すぎる。身体の模様もしましまだし。
    「猫?」
     猫にしては身体が大きすぎる。柴犬くらいはある。
    「ぎゃあ」
    「………虎ァ!?」
     深夜によろしくない大きな声で驚くと、四つ脚の生き物は家の中へするりと入って行ってしまった。

     子虎はかって知ったるという感じでトタトタ廊下を走って、ワンルームにある来客用の座布団に座る。
     千冬は、待て待て、皮膚にダニやノミがついていたら職業上家には置いておけないと思い慌てて虎をおいかける。
     座布団に腰を下ろしている子虎を素早く持ち上げる(腰にピキッときた)と、虎の子供はイヤイヤと暴れだした。
    「暴れんなってコラ…良い子だから!」
     宥めながらとりあえず目視でチェックをしていると、虎は千冬の両手に抱きかかえられたままぬいぐるみみたいにだらんと大人しくなった。
     所々に桜の花びらがついていたが虫はついていないし皮膚も赤くなっていない。目に見えて異常がないことを確認すると千冬はホッと一息ついた。
     野良猫じゃなくて虎だから外暮らしなわけないし、逃げ出してきたんだろうな。虎が逃げ出したとあれば大ニュースだ。そう思いスマートフォンでそれらしい記事がないか確認するがそれらしい情報もない。

     千冬の部屋に子虎が舞い込んできて30分が経った。
    「どーしよ…」
     床に下ろした虎におそるおそる下から手を出すと、素早く手を肉球で床に押さえつけられる。カーッと威嚇もされた。
    「勝手に入ってきておいてなんなんだよその図太い態度は…」
     …もう寝たい。とりあえず寝たい。千冬はもうヘトヘトなのだ。
     …大家さんには黙っておこう。ちゃんとコロコロをしとけば大丈夫だろう。そう頭の中で完結させ、千冬はベッドで寝ることにした。
    「部屋ぐちゃぐちゃにすんなよ」
     千冬はそう言い残し、部屋の電気を消してベッドへ倒れ込んだ。千冬は寝付きがいい方であるため、5分程度で寝息をたて始めた。
     子虎は言葉を理解したのか大人しく来客用座布団で丸くなったが、春の夜はまだ少し肌寒い。子虎は千冬に暖められた布団へ潜り込むことにした。

    〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

     朝7時を回ると千冬のスマホがけたたましく鳴る。

    (あ〜…休みだけど餌やり…行かなきゃ…)
     布団の中でモゾモゾとしていると胸から腹にかけてあったかいことに気付く。
    (あったけぇ………なんだこれ?)
     触るともふもふとしている。ぬいぐるみみたいだ。しかしぬいぐるみはこんなに暖かくないなと思っているうちに意識がハッキリとしてくる。

    「あ……そういえば虎が家に入ってきたんだった……」
     子虎は千冬の腹のあたりで丸まり暖をとっていたようだ。まだ起きていないようで、柔らかい横腹は無防備に浮き沈みを繰り返している。
     子虎の乾いた鼻を指の腹でさする。サラサラの鼻を堪能できるのは犬猫を飼っている人間の特権なんだよな、と千冬は思った。
     対して子虎は急所である鼻を摩擦される不快感で目を覚ました。
     子虎は横向きに寝そべったままぐぐ…と伸びをし、眠くて開かない目をそのままに、手をグーパーグーパーと閉じたり開いたりした。
     顔をぐしぐしと手で揉み、乾いた鼻をペロリと舐め湿らせる。そしてようやく目が開く。
     開いた視界いっぱいに写っていたのは、子虎───もとい羽宮一虎の務めるXJランドの経営者であり、場地のもう一人の親友であった、松野千冬のニマニマした緩み切った顔だった。
     
     突然のことに驚き、飛び跳ねるようにベッドから降りると千冬が鼻でフンと失笑するのがわかった。
    「えぇ…そんな嫌がる?アンタから入ってきたんじゃん」
    「ギャア!」
     一虎は嘘だ!と叫んだつもりだが口から出たのは可愛らしい鳴き声だった。
     自分の口から出る人間では出せないような鳴き声を聞いて、一虎は混濁していた意識から人間の意識だけを引っ張り出せた。
    (そっか俺…昨晩気づいたら目線がめちゃくちゃ低くなってて…パニックになって一目散に駆け込んだのが千冬の家だったんだ。)
     昨日は視界は確かに自分のもので記憶もあるのに、思考力が奪われていた───乗っ取られていたのかもしれない。絶対一虎の意思ではしないような、獣のような行動をしていたのを覚えている。
     状況整理をするうちに少し落ち着いてきた一虎は、千冬のワンルームをキョロキョロと見渡す。
     何回かは千冬との宅飲みのために入ったことのある部屋ではあったが、目線が低いと少し雰囲気が違う。前来た時よりもだいぶ散らかっており、一虎を招くときは部屋をしっかりと片付けていたのがわかる。
     何より人間の時より鼻が効くため、千冬の家ってこんな匂いしたんだ…と一虎は驚く。
     そこらへんに脱ぎ散らかした部屋着からは特に千冬の体臭がして、落ち着かない。

    「アンタ、帰るところわかるの」
     そんなところない。一虎は心の中でそう返答した。人間の時でさえ母親と暮らしていた家は、安心できる場所とは言えなかった。母親は夜遅くまで帰って来ず、食事を作らない人のため、同じ飯を同じ場所で食べたこともろくにない。あんなの母親の家に居候しているみたいなものだった。
     虎になった俺を見たら、母親なんか絶対俺だとわからないだろう。もうあの俺の部屋でさえ入れなくなる。
     思考を堂々巡りさせていると、しゅんとしたシルエットが伝わったらしい。
    「家、ないの?昨日の夜、アンタはオレの家を選んだってこと?」
     千冬はそう言って拳をつくり、手の甲を鼻の前にそっと差し出してくる。
     一虎は動揺した。俺が自らの意思で千冬の元に行くことを選んだのか?必死に慣れない四つ脚で走っていたから、うまく思い出せない。
     千冬の家に居たら千冬に迷惑がかかるだろう。としたらこの先ずっと野生で生きていくのだろうか。
     …鳩とか狩って暮らすのはちょっと、いやだいぶ嫌だ。もしかしたら保健所やもっとヤバい人達に捕まるかもしれない。
     千冬の家にいた方が安全かもしれない。一虎は、こんなことで死んだらみなに示しがつかない。そう思った。
     しばらくして、差し出された千冬の手の甲をザリと舐める。それが返事だ。
     それから千冬と一虎の奇妙な同居生活が始まった。

    〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

    「もう中型犬くらいあるし離乳はしてるよな。肉………あ、唐揚げ用に買っといた鶏肉ならあるけど…」
     ゴロゴロと鶏の胸肉をお皿に出される
     生肉なんか食えねーよ!とミャーミャー抗議するが千冬は飯は食わないとダメだぞ、と唇を捲って歯と歯の隙間から小さく切った鶏肉を押し込んできた。

     一切れ無理やり咀嚼させると、眼の色が変わりガツガツと皿の鶏肉を食べ始めた。
    「やっぱ腹減ってたんじゃん。オレも朝飯食お」
     よっこいしょと両膝に手をつき立ち上がると、マーガリントーストを作り始めた。


     千冬がトーストを齧りながらぽつりぽつりと話し始める。
    「オレ、ペットショップ経営しててさ」
     知ってる、働いてるからなと一虎は鼻をツンと突き出す。
    「休業日だけど朝はみんなの世話してこなきゃ」 
     俺も行く、と食器を片付け朝の支度をする千冬について回る。
     玄関を開けようとすると一緒に出ようとしてくるので千冬はあわててドアを閉める。
     付いてきたいの?と訊く千冬に、駄々をこねる子供のような目で見つめ返してくる一虎。結局千冬が折れ、どうやったら誰にもバレずに連れて行けるだろうか、と考える。
    「あ。この前一虎くんが発注ミスって大型犬用のキャリー頼んだのが押入れにあるから、それに入れていくか」
     一虎は、なんだ、俺を犬猫みたいにカゴに入れてくのかオマエ!と思ったが、そうか俺今虎だもんな。と納得し、キャリーに入る。
    「おっ。大人しく入った。言葉わかんのかなぁ?」
     虎入りのキャリーは結構重量があったが、キャスターがついているので大丈夫だった。ガラガラと道路を引きずって歩き、シャッターの閉まったXJランドに着く。
     鍵を開け、シャッターを半分開け屈んで店に入る。バックヤードに入ると千冬はキャリーケースを開ける。
     動物達は怯えてしまうかと思ったが、みんな虎に興味しんしんで見つめている。虎も大人しくみんなのことを見つめている。
    『一虎クン、なんでちっちゃくなったの?』
     活発なポメラニアンは千冬と虎の顔を見に行ったり来たり忙しそうだ。
    「みんなのご飯食べないでね」
     わかってらあ!とぎゃあと一鳴きする。
     目にも止まらぬ速さでご飯を食べ終わった犬猫たちが『一虎クン一虎クンどうしたのどうしたの』と一虎にわらわら群がってくる。
     一虎は普段から餌やり係として群がられていたが、虎になったので犬猫の圧に負けてうもれかける。
    「わー!!みんな落ち着いて!」
     千冬は慌てて犬猫の中から虎を救出した。そのまま、大丈夫だったー?と抱っこされる。
     物心ついた時には、だれかに抱っこされるなんて人生でなかった一虎は、今まで感じたことのない不思議な気持ちになる。
     一虎のお腹にちょうど千冬の心臓が当たっており、音が伝わってくる。
     あたたかさに意識がふわふわとしてくる。意識が本能に押し出される感じだ。ひどく酔っ払った時みたいな浮ついた思考になる。
     虎の手は器用だ。別々に動かせる指が5本もあるからだ。その指でギュっと肩にしがみつき、首に頬擦りして眠ってしまった
     千冬は「おお………」と感動しながら、虎を抱えたまま苦行のような業務を行った。
     流石に帰る時はキャリーに入れないとダメだと思い、すやすや寝ている虎を起こしたくはなかったのだが、そっとソファへおろすとパッと目が覚める。くあ、と欠伸をするとぺろぺろと自身の鼻を舐める。
    「あー、起きちゃった」
     千冬?と声に出すが実際に発音されたのは小さい口籠もった「ミャア」だった。
    「アンタオレに抱っこされてずっと寝てたんだよ」
     は!?と思ったがずっと心地よかった記憶がうっすらある。恥ずかしくなった一虎は、そそくさとキャリーに戻りミャアミャア!早く帰るぜ!と誤魔化した。


     午後はずっと千冬が撮り溜めていた恋愛ドラマを座椅子に腰掛けて見ていた。
     一虎はそんなものに興味はなく、最初はボーッとしていたが、ふと「もう元に戻れないのか?気づいてもらう方法はないのか」と思った。
     辺りを見回すと、床に置いてある千冬のスマホは、ロックをといてホーム画面がつきっぱなしになっている。不用心だ。
     千冬の意識が完全にテレビに向いているうちに、スマホをチョイチョイと引き寄せ、鼻でなんとかGoogleのアプリを起動する。
     画面のキーボードを出し、ちふゆ、と打てば千冬は気づいてくれるのでは無いか。そう思ったが困難を極めた。
     虎の鼻は狙ったところをタップするにはデカすぎるのだ。
     打ち間違えてバツボタンを押そうとするがまた別の文字をタップしてしまい、
    「とさはすはさは」
     めちゃくちゃだ。
     しきりに頭を上下させている虎に千冬が気づいてしまった。
    「うわ!なにやってんの。画面ビチャビチャじゃん」
     千冬は鼻の跡がめちゃくちゃついているスマホの画面を服の裾で拭う
     スマホをロックをかけて机の上に置かれてしまった。作戦は失敗した。
     千冬は虎が構ってもらえないからスマホをいじっていると思ったのか、あぐらをかいた足の上に虎を乗せ、テレビを見ながら頭を撫で始める。
     抱っこといい、撫でられることも人生で初めてだ。テストで良い点をとろうが、誰もいない日に簡単な夕飯を一人で作り食べていようが、頭を撫でられたことなんてない。
     一虎は、何もえらいことをしていないのになんで今頭を撫でられているのか、不可解で仕方なかった。
     テレビの中では別れ際に男が女の頭を撫でている。女のサラサラとした暗い茶髪の上から、男の骨張っている手が慈しむように数回撫でる。
     画面の中の映像と、頭の上の感触がリンクしたような気がして、勘違いしてしまいそうだった。



     夕飯はスーパーで買ってもらった鶏肉を一口で食べられるサイズに刻んでもらい、ペットショップから帰るときに少し持ってきたウェットタイプのキャットフードを混ぜてもらった。
     キャットフード、普通にうまい。
     もう生肉やペットフードへの抵抗はすっかりなくなり、ガツガツと食らいつく。
     簡易トイレも千冬が作った。段ボールの耳をカットして、片方の長辺を入口用に低くカットし、店の猫砂を敷き詰めて完成だ。
     飯は早いうちに抵抗がなくなったが、この開放的な空間で用を出すのはかなり厳しい。
     そこで用を足すのはわかっているが、いそいそと簡易トイレに移動すると千冬が見てくるのだ。俺は人前でうんこをする趣味はない。
     そこはなんとか理解してもらわねばならないと、見てくるたびにミャ!(見るな!)と鳴きトイレを出る。千冬は勘がいいので、四回目くらいでようやくプライベートがないことに気づいた。
    「あ、オレ見てるとしづらい?」
     そうだよ。
     そして段ボールトイレは人間トイレの横に置いてくれるようになった。
     でもその後の処理を千冬にされるので結局見られることになるのだが。
     動物は不便だ。

    「昨日はそのままベッドで寝たけど、今日は洗おうか」
     夜、そう提案された。猫用のシャンプーも持ち帰ってきたらしい。千冬は用意周到だ。
    「オレも一緒に入っちゃお」
     まじか。
     そういうとポポンと服を脱ぎ始めたので急いで逃げようとしたが、無慈悲にも逃げ込んだ先は風呂場だった。

     結局真っ裸になった千冬と一緒に風呂に入ることになった。
     身体中千冬の手がわしゃわしゃとシャンプーを泡立てるために触れていく。
     首から肩周りは気持ちよかったのだが、腹は触ってほしくなかった。本来他人には触られたくない部分だ。ぶるぶると身体を震わせ泡を飛び散らせて抵抗するが、千冬は「ワー!」と言うだけで手を止めてくれない。
    「やめてよ!」
     こっちのセリフだ!
     後ろ足、尻尾、果てはケツの穴まで洗われて最悪の気分だった。
    「あ、オスなんだ」
     彼はデリカシーがない男だった。

     一緒に湯船に浸かる。一虎はなるべく千冬の体など見たくないので、浴槽の縁に両手をかけて床を見つめるが、千冬が向かい合いたいようで両脇を持ち上げられザパと湯船から半分ほど上げられる。
    「あ、右目のすぐ下にホクロみたいな模様ついてる。一虎君みたいじゃん」
     急に自分の名前が出てビックリした。瞳孔がキュッと縮まる。
     ミャー! 思わず大きい声で返事をしてしまった。気づいてくれ。俺だ。
    「…名前つけよっか。うーん……ホクロあるし、一虎君でいっか!ちょっと生意気なとこもそっくりだよな!うわ!暴れんなっ!」
     半笑いで馬鹿にする千冬にカチンときたが宙ぶらりんなのでジタバタすることしかできなかった。水をバシャバシャとかけてやるとギュッと目を閉じて怒る。ざまぁみろ。
     風呂から出てタオルドライとドライヤーで毛皮を乾かされると、ふわふわになったのか千冬は俺を抱っこしてベッドに潜り込んだ。
     昨日は起きた時ビックリしてて気づかなかったけど、春なのにパンイチで寝るつもりなのか。
     訝しんでいると、厚手の布団をバサッと二人を包む。二人の体温で狭い空間が暖められ、だんだん眠くなってくる。
     暗い布団の中でも虎なので夜目が効き、千冬の顔がはっきりと見える。
     じっとこちらを見つめているので、なんだかむず痒くなってベッドから逃げ出そうとしたら余計に抱き寄せられてしまった。
    「逃げないでよ一虎クン」
     そう言われた瞬間身体が金縛りにかかったように固まってしまった。
     逃げるなという言葉にふと引っかかったのだ。
    「フフ、やっぱり言葉理解してる?」
     千冬の鼻で笑ったのがひげに風が当たる感触でわかる。
    「おやすみ、一虎クン」
     千冬の呼吸が寝息に変わったのがわかると、俺も観念して寝ることにした
     他人が隣にいるのに寝るなんて無理だと思っていたが、千冬と寝るのは、子猫が母猫に守られているような安心感があった。


     千冬は早朝に目が覚めた
     身動きが取りづらく、寝返りが打てなかったからだ。
     目をようやく開けると、目の前にはふわふわの虎、ではなく、何も身につけていない裸の羽宮一虎が千冬に抱きついて寝ていた。
    「!!!?!」

      夕飯はスーパーで買ってもらった鶏肉を一口で食べられるサイズに刻んでもらい、ペットショップから帰るときに少し持ってきたウェットタイプのキャットフードを混ぜてもらった。
     キャットフード、普通にうまい。
     もう生肉やペットフードへの抵抗はすっかりなくなり、ガツガツと食らいつく。
     簡易トイレも千冬が作った。段ボールの耳をカットして、片方の長辺を入口用に低くカットし、店の猫砂を敷き詰めて完成だ。
     飯は早いうちに抵抗がなくなったが、この開放的な空間で用を出すのはかなり厳しい。
     そこで用を足すのはわかっているが、いそいそと簡易トイレに移動すると千冬が見てくるのだ。俺は人前でうんこをする趣味はない。
     そこはなんとか理解してもらわねばならないと、見てくるたびにミャ!(見るな!)と鳴きトイレを出る。千冬は勘がいいので、四回目くらいでようやくプライベートがないことに気づいた。
    「あ、オレ見てるとしづらい?」
     そうだよ。
     そして段ボールトイレは人間トイレの横に置いてくれるようになった。
     でもその後の処理を千冬にされるので結局見られることになるのだが。
     動物は不便だ。

    「昨日はそのままベッドで寝たけど、今日は洗おうか」
     夜、そう提案された。猫用のシャンプーも持ち帰ってきたらしい。千冬は用意周到だ。
     虎の姿とは言え、誰かと風呂に入るというのはムショ以外では経験がほとんどない。
    「オレも一緒に入っちゃお」
     まじか。
     そういうとポポンと服を脱ぎ始めたので急いで逃げようとしたが、無慈悲にも逃げ込んだ先は風呂場だった。

     結局真っ裸になった千冬と一緒に風呂に入ることになった。
     身体中千冬の手がわしゃわしゃとシャンプーを泡立てるために触れていく。
     首から肩周りは気持ちよかったのだが、腹は触ってほしくなかった。本来他人には触られたくない部分だ。ぶるぶると身体を震わせ泡を飛び散らせて抵抗するが、千冬は「ワー!」と言うだけで手を止めてくれない。
    「やめてよ!」
     こっちのセリフだ!
     後ろ足、尻尾、果てはケツの穴まで洗われて最悪の気分だった。
    「あ、オスなんだ」
     彼はデリカシーがない男だった。

     一緒に湯船に浸かる。一虎はなるべく千冬の体など見たくないので、浴槽の縁に両手をかけて床を見つめるが、千冬が向かい合いたいようで両脇を持ち上げられザパと湯船から半分ほど上げられる。
    「あ、右目のすぐ下にホクロみたいな模様ついてる。一虎くんみたいじゃん」
     急に自分の名前が出てビックリした。瞳孔がキュッと縮まる。
     ミャー! 思わず大きい声で返事をしてしまった。気づいてくれ。俺だ。
    「…名前つけよっか。うーん……ホクロあるし、一虎くんでいっか!ちょっと生意気なとこもそっくりだよな!うわ!暴れんなっ!」
     半笑いで馬鹿にする千冬にカチンときたが宙ぶらりんなのでジタバタすることしかできなかった。水をバシャバシャとかけてやるとギュッと目を閉じて怒る。ざまぁみろ。
     風呂から出てタオルドライとドライヤーで毛皮を乾かされると、ふわふわになったのか千冬は俺を抱っこしてベッドに潜り込んだ。
     昨日は起きた時ビックリしてて気づかなかったけど、春なのにパンイチで寝るつもりなのか。
     訝しんでいると、厚手の布団をバサッと二人を包む。二人の体温で狭い空間が暖められ、だんだん眠くなってくる。
     暗い布団の中でも虎なので夜目が効き、千冬の顔がはっきりと見える。
     じっとこちらを見つめているので、なんだかむず痒くなってベッドから逃げ出そうとしたら余計に抱き寄せられてしまった。
    「逃げないでよ一虎くん」
     そう言われた瞬間身体が金縛りにかかったように固まってしまった。
    「フフ、やっぱり言葉理解してる?」
     千冬の鼻で笑ったのがひげに風が当たる感触でわかる。
    「おやすみ、一虎くん」
     千冬の呼吸が寝息に変わったのがわかると、俺も観念して寝ることにした
     他人が隣にいるのに寝るなんて無理だと思っていたが、千冬と寝るのは、子猫が母猫に守られているような安心感があった。


     千冬は早朝に目が覚めた
     身動きが取りづらく、寝返りが打てなかったからだ。
     目をようやく開けると、目の前にはふわふわの虎、ではなく、何も身につけていない裸の羽宮一虎が千冬に抱きついて寝ていた。
    「!!!?!」
     普段は人をギョロリと舐めるように見る、何を考えているのかわからない大きな瞳は瞼によって閉ざされており、ただただ彫りの深い美人が眠っているだけだった。
     千冬は驚きのあまりピシリと石になったかのように身体が固まってしまった。
    「か…ずとらく…!?」
     ようやく絞り出せた声は小さくてカスカスだった。
     だがその消え入りそうな声を拾ったのか、一虎も目を覚ます。
    「ン…ん〜…」
     ゆっくりと目を開けると、驚いた千冬の顔がある。
     アホ面だなあとぼんやりした頭で思いながら首に額を擦り寄せると「ちょっと…!!」と千冬の焦ったような声が聞こえてきた。
    「ンだよ……あ?声出せて…」
     久しぶりに聴いた自分の声だ。低い声が頭蓋骨にビリビリと響く感覚が懐かしい
     よく見ると千冬に巻きついた自分の前足は長く、ツルツルに変わっている。いや、戻っている。
    「え、」
     驚いて千冬の背中に回していた腕をひく。
     自分が上半身裸なことがわかり一気に身体を引く。
    「うわあ」
     引いた身体が視界に入ると、自分が何も履いていないのが見えてしまった。
    「あああ」
     寝起きとは思えない素早い動きで布団を奪い身体を隠す。
    「ああああ!!!」
     そして身体を引きすぎたため、一虎は狭いシングルベッドから勢いよく落ちた。


    「え、なに、てか、虎は…」
     一虎は千冬と目を合わせられず、布団を被り下を向いたまま小さな声で呟く。
    「虎は……俺だ…」

     無言の部屋で衣擦れの音だけが響いて気まずいったらありゃしない。
     お互いに背を向けたまま着替える。
     一虎はとりあえず、千冬のなんとも言えないセンスのTシャツと、買ってから一度も履いていない下着、一応あった部屋着のスウェットを借りた。
     千冬もパンイチはまずいと思ったため、上下服を着た。
    「もっかい、最初から話してもらっていいスか…」
     二人は床に座って向かい合う。
     千冬は正座、一虎は三角座りをしている。
    「だから……一昨日の夜、公園でうたた寝して目が覚めたら虎になってて、急いでその場から飛び出したんだけど、気づいたら千冬の家にいて、んで…あとはお前もわかるだろ…」
     千冬は床に突っ伏す。三角座りをした一虎の爪先に頭が当たりそうになってビクッとする。
    「は〜〜〜〜…じゃあ俺は正真正銘一虎くんのお世話をしてたってことですか」
    「そーだよ…悪かったな」
    「いや、いいんスけど……」
     千冬が突っ伏したまま動かない。これは絶対昨日のいろんなことを思い返しているに違いない。
     もう完全に人間の意識を失って甘えていたことを思い出し、膝と膝の間に顔を埋め「う゛ぉ〜〜」と一虎も奇声をあげる。
     できることなら今ここから消えてしまいたい。

     千冬が床にへばりついたまま突っ伏した顔を上げると、そこに一虎の姿はなかった。
     また仔虎が目の前に現れたのだ。
    「えっ?」
     虎は「ごめん寝」のポーズをしていたため、自分の姿に気づいていなかった。

    「一虎くん、これ使ってください」
     差し出されたのはピザのチラシ。裏の白い面に丸で囲った「yes」「no」がマジックで書いてある。
    「一回人間に戻ったんです。多分なにかきっかけがあれば戻れると思うんですよ」
     そう言いながら千冬は自分と一虎の朝食の準備をする。一虎の分は相変わらず鶏肉とキャットフードだ。
    「それにしてもオレ、一虎くんに生肉とキャットフード食わせてるんスよね。人間に戻ったら感想聞かせてくださいよ」
     半笑いで飯を差し出してきたので「カッ!」と威嚇してから勢いよくチラシのnoをパンチするとハハハと笑われた。

     今日も店に同行する。本来なら今日は一虎もシフトが入っているので、人間に戻れるか分からないが一応ついていくことにした。
     今日は他にもバイトの金原がいる。彼女は歳のわりに落ち着いていて、機械に疎いのかSNSもやっておらず口が硬いから大丈夫だろうと、一虎が今日は休むことと、虎を連れてきていることを説明した。
    「かわいいですね。触っても?」
    「あー、大丈夫だよ。噛まないから」
     大丈夫ってなんだ。俺は人間だぞ。人権がないじゃないか。触るな。セクハラで訴えてやる。
     そう考えながら棒立ちしている一虎を金原がほわほわと撫でる。
    「さ、開店準備しましょう」
     千冬や金原が掃除、メールチェック、生体管理と仕事に移る中、虎の姿の一虎にできることは今のところないので、休憩室で待機してもらうことにした。これで自分には給料が出るのだろうか。一虎はぼんやりそんなことを考えながら休憩室のソファでウトウトしていた。



     寝てしまっていたようだ。
     一虎はみじろぎしようとするが、何かに包まれているようで動けない。そこでようやく目を開けると、ソファで千冬に抱かれていた。もうすっかり夕方になっており、客足も無くなってきたのか千冬は休憩に入ったようだ。
    「店長お疲れなんですね。私も虎の子供を抱っこしながら寝てみたいなあ」
     通りかかった金原がそんな独り言を言いながらフロアに戻っていく。
     千冬は寝ているが、仰向けの一虎の腹の上で手をガッチリと組み抱かれており、なんとか解こうと手の甲をぽよぽよと肉球で触ってみるが徒労に終わった。
     普段は千冬の方がわずかに背が小さいからか意識したことはなかったが、こうやって近くで見てみると千冬の手って白いのに骨張っていて案外男らしい。さすが人を殴って生きてきただけある。
     千冬のこの手に抱かれていると思うと、一虎はなんだか言い表せないような変な気持ちになってきた。

    「うわ!?」
    「グ!!!う゛ぉぉぉぉ…」
     一虎は急に人間の姿に戻ってしまった。
     千冬が完全に一虎の下で潰れかけている。「オイ!千冬!」と呼びかけて手を解こうとするが、寝ぼけている千冬の手は強力な磁石でくっついてるように離れない。
     一虎が下ろしてもらおうと必死になっていると、フロアから「店長どうしました?」と金原の声が聞こえてきた。
     今ここに休んでいるはずの自分が(しかも全裸で)居たらまずい!と思った一虎は、咄嗟に自分ごと千冬を横向けに倒して、近くにあった毛布を頭まで被った。
    「店長?」
    「な、なぁン…」
     アラサー、苦し紛れの子虎の鳴き真似をする。
    「…気のせいかな」
     金原はそう呟くとフロアへ戻っていった。千冬はまだ目が開いておらず、横向きに寝たまま一虎を抱きしめ直した。自分の肩甲骨のあたりに千冬の心臓がちょうどきている。トクン、トクン、とゆったりとした心音を一虎の体の中に響かせてくるのを感じた。
     千冬が身じろぎ、ウゥン…という吐息がうなじに当たると、一虎は身体をふるりと震わせた。



     また寝てた。気がつくと千冬はおらず、一虎は虎の姿に戻っており、おくるみのように毛布が体に巻かれていた。毛布の中から出たくてぎゃあぎゃあ鳴きながらもがいていると、金原が駆けつけてきてくれた。
    「あらあら、ごめんね、店長接客中だから。出たいの?」
     金原に毛布から出してもらう。もうすっかり夕方を過ぎ、春とはいえ少し肌寒い空気にぶるると震える。
    「どんな経緯で出会ったか知らないけど。店長ね、キミのこと大好きなんだね」
     金原はぽつり、ぽつりと話し始める。
    「休憩交代のとき、寝てるキミを撫でてたんだけど、あの時の顔、菩薩みたいだったよ」
     菩薩?一虎の頭の中ではのっぺりとした大仏の顔しか浮かばず、首をこてんと傾げる。
    「慈愛に満ち溢れた顔ってこと。私店長があんな顔するの初めて見たよ。お母さんとお父さんの中間みたいな顔してた」
     ふーん……全く予想がつかず、一虎は飽きて考えるのをやめた。暇つぶしにてしてしと前足を舐める。
    「そうだ。名前ってカズくんなの?」
     なんだって?耳を疑う呼び名に前足を舐めていたモーションのまま止まる。
     その忌々しい名前が女の声で耳に入るたびに後頭部がヒンヤリとする気配がある。不快さに耐えかねグルル…と口元を引き攣らせると、さすがにのんびり屋の彼女でも様子に気づいたのか、慌てて謝罪をしてくる。
    「ごめんね。違った?でも店長がキミの話をする時にいつもカズ…って言いかけるの」
     千冬のせいじゃねーか!しっかり隠してくれよ!と一虎はガックリする。
    「あっ、金原さん。対応終わりました。もう店閉めましょう」
    「はあい」
     そういうと二人ともパタパタとフロアに戻って行き、締め作業を始める。一通りの作業が終わり、二人ともバックヤードに戻ってくると、金原が壁に貼ってあるシフト表を見つめる。
    「羽宮さん、体調不良ですかね?早く良くなるといいですねぇ」
    「うん……。そうだね。また連絡してみるよ」
     千冬は歯切れ悪くそう言うと、一虎の方を見る。一虎は早く帰って飯を食うぞと、キャリーケースへ入っていった。


    「早く人間に戻る方法を探さないとまずいですね」
     ローテーブルで夕飯を食べながら千冬が言う。千冬の言う通りで、これからシフトに穴を開け続ける訳にもいかない。そう思った時に自分は根っからの日本人思考なんだなと一虎は思った。
    「トリガーもわかってないですし。外で人間に戻っても全裸じゃ大変なことになりますからね」
     千冬は唐揚げを口に放り込む。もうすっかり一虎と千冬は鶏肉生活が続いている。
     トリガーと言えば、今日の昼間勝手に人間に戻り、千冬を押し潰しかけた時のことを話したいのだが、虎のままでは話すことができない。夕飯を食べ終わり食器を片付けた千冬は、ソファに座りふうと一息つく。
    「最初に人間に戻った時は寝てましたよね?うーん……でも初日は寝てもなんともなかったし……」
     一虎くんちょっと来てくださいと言われ、ソファに乗り千冬の横に座ると、引き寄せられ膝の上に乗せられた。わしわしと身体を撫でられ、セクハラするためにわざわざ呼んだのかよ、と呆れる。
    「あーこれこれ。ちょっとデカいけどペケを思い出すなー」
     ペケ……聞いたことがある。中学生の時から飼っていたペケジェーという黒猫がいると。店の名前の由来にもなっているらしい。テレビの横に写真が置いてあるのを宅飲みの時にちらりと見た記憶がある。最近店のグッズを作りたいとか言って雑紙に描いてた奇妙な猫、あれがまさかペケジェーなのか?と合点がいった。
    「ペケはここ好きだったなー」
     そう言い、しっぽの付け根をトントン叩く。叩かれた場所から否応なく快感が全身に響き渡り、しっぽがピンと立ち上がってしまう。心拍数が少し速くなり、まずい、と思う間もなく_____
    「うわっ!?」
    「…………」
     人間の姿に戻った。しかも最悪なのが、千冬のあぐらの上に横たわった一虎のムスコが半分勃ち上がっていることである。
    「お前さ……、わかるよな?専門出てんだから……」
    「す、スンマセン……ついクセで……」
    「こんの、セクハラ店長!!」
     恥と怒りに任せたパンチは元ヤンには予測しやすく、思わず千冬が顔を逸らして避けると、パンチは顔の横で空を切り、勢い余って抱きつく形になってしまった。
    「!?!?」
    「あー……」
     一虎は最早声にもならない悲鳴を上げると、ソファから転がり落ち、ドタドタとトイレへ逃げて行った。
     千冬は己の下半身には気付かぬふりをして、ほとぼりが冷めるのを待った。


    「一虎くーん。もう出てきましょうよ。オレもトイレ入りたいっす」
     千冬がトイレの前で呼びかける。対して中の一虎は、まだ人間のまま、便器に座り項垂れていた。
     今まではすぐに虎に戻っていたというのに、今回はなかなか人間の姿から虎に戻らないというのだ。今ばかりは虎の方が都合が良いというのに、不便な体質である。
    「ま、まだ虎に戻らねえから、待て」
    「えっ、戻らないんですか?それって良いことなのでは?」
     そう言われてみればそうじゃん。虎に戻るのが当たり前になっていた一虎はゾッとした。
    「パンツ、パンツとか、なんでも良いから服持ってきてくれよ」
    「え、ああ、そうですね!持ってきます」
     しばらくしてドアを少し開けるとそこから衣類が差し込まれたのでそれを身につける。

     服を着てリビングに戻ると千冬がソファに座って待っていた。
    「やっとまともに喋れますね」
     向かいの座布団に腰を下ろした一虎は身体の火照りが取れず、赤みがかった顔のまま目だけを上に向けて千冬を見る。
    「……そーだな。……まず昼間のことなんだけど」
    「昼間?何かありました?」
    「……人間に戻ったんだよ。オマエが休憩とってる時に」
    「えっ!そうなんですか?状況は?」
     千冬は本当に熟睡していて気付かなかったらしい。何も知らない千冬はトリガーを探すために、より詳しい情報を聞こうとするが、一虎は口をつぐんでしまった。
    「一虎くん?トリガーのヒントになるかもなので、状況を聞きたいんですけど」
    「寝てて、……起きたら、オマエが……」
    「オレが?」
    「オレを……その、抱きしめてて」
    「もうその時には人間になってました?」
     ほてった顔を下げモゴモゴと話す一虎も気にせず、千冬は細かい状況を聞き出す。
    「いや、まだ……」
    「じゃあ寝て起きてがトリガーじゃないっすね。さっきのもあるし。……さっきから一虎くん、歯切れが悪いですけど、心当たり、あるんじゃないんですか?」
     千冬は変に勘が鋭い。業務でミスをして隠してもすぐにバレる。これで何度怒られたか。
     でも正直に言うと、今までの関係が壊れてしまう。一虎は重い選択を迫られていた。
     誤魔化せば、人間に戻る方法が見つからなくなり、正直に話せば、千冬との関係が変わってしまう。最悪、店を辞めなければいけないかもしれない。どっちを選べば良い?
     悩む一虎の尻から黄色と黒のしましまが生えてきているのを千冬は発見した。
    「一虎くん!アンタ尻尾生えてきてますよ!?また戻っちゃう前に早く!」
     千冬が声を荒げる。手掛かりが掴めそうで掴めないのは嫌なんだ。ソファから立ち上がり一虎に詰め寄る。一虎の肩を掴み、下から顔を覗き込むと顔面蒼白で、口を小さくパクパクしていた。
    「どうしよう……」
     耳をすませば一虎は小さな声で繰り返しそう呟いていた。


     一虎は、選ぶことが苦手なのかもしれない。千冬は薄々そう思っていた。
     物を選ぶ時、一虎くんはどっちがいい?と意見を聞くと「どっちでもいいよ」と言うのが定石だった。そんな時は千冬が気分で選んでいたが、お土産のお菓子の味を選ぶ時は、誰かに「どっちかにして!」と言われると明らかに顔が引き攣っていた。じ、じゃあ……とさした指はいつも震えていた上に、前に嫌いだと言っていたつぶあんを選んでいた。
     うっすらとだが一虎は家庭環境が良くなかったと言うことも東卍創立メンバーから聞いている。詳しいことはわからないが、恐らく一虎は選択することにトラウマを抱えているのだろうと千冬は思った。
     三角座りで過呼吸をおこしかけている一虎の背中を優しく撫で、穏やかな声で話しかける。
    「一虎くん。今、二つの選択肢があるだろ?」
     生えかけた尻尾は総毛立ち、一虎の身体を守るように巻きついている。
    「一緒にどっちが良いか考えるから、全部オレに言ってみて?」
     うまくいってくれ。そう神頼みするしかない。
    「難しいと思ったら相談しよう。いつも仕事の時も言ってるだろ?」
    「そうだん……?」
     やっと一虎の意識がこちらに向いた。既に瞳孔は肉食動物のように縦に鋭くなっている。時間がない。でも焦ったら逃げられてしまう。
    「うん。まず一つ目の考え、聞かせて」
     一虎は震えた声でぼそり、ぼそりと話し始める。
    「こ、心当たりを、ごまかしたら、もう人間に戻れなくなるかも……って」
    「うん、そうだね。……二つ目の考えは?」
    「……正直に言ったら、千冬との関係が、壊れるかもしれない……それは、嫌だ」
     正直に言えば関係が壊れるかもしれない。今まで人間に戻った時の状況を考えると、それは千冬にとってはプラスの感情ではないかと思う。しかも壊れるのが嫌だと言う。もうトリガーの種はわかってしまったと言っても過言ではない。
     千冬は「そっか……」と呟くと、一虎はしなしなと子虎の姿に戻った。


     一晩寝たら気分は落ち着いたようだ。もぞもぞと布団の中から子虎の一虎が這い出してくる。
    「おはよう一虎くん」
     先に起きていた千冬は朝の支度を終え、寝起きの一虎に声をかける。
     昨晩、己が一虎を幸せにすれば人間に戻ると目星をつけた千冬は、よし幸せにしてやろうと意気込んだ。
     一虎はもう十分に罰を受けて反省し、更生しているのだ。それは身近で見てきた千冬が一番よく知っている。追加の罰か呪いかわからないが、そんなものいらない。
     一虎をふと見やると、ベッドから動く気が無さそうにぺよぺよと毛繕いをしていたので、家に置いていくことにした。脱走してしまわないか心配だったので、窓は鍵をかけたあとさらにスライド式のロックをして、そこに更に養生テープをベタベタと貼っておいた。カーテンを閉め、なるべく脱走を考えさせないように工夫する。
     朝ごはんを出してやるとノソノソベッドから降り、食べ始めた。
     なんだろう
     なんだか違和感を感じる。具合が悪そうなわけではないけど。
    「じゃあ、行ってきますね。大人しく待っててくださいね」
     千冬はそう言って玄関の扉を閉じた。
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