夢「………利吉くん……利吉くん……」
耳元で誰かの声が震えている。弱々しく、切なげに。泣きじゃくる声が自分の名前を繰り返し呼んでいる。
利吉はその声に応えようとした。だが、まぶたを開けても視界には何も映らない。ただ、視界を覆うのは血のように濃い赤色だけだった。その赤の中で、世界は歪み、音も曖昧に揺れていた。
「せ、……ん…せ…………」
自分の声がかすれ、口から漏れ出た。まるで誰かのもののように、遠くから聞こえる。それが自分の声だと気づくのに少し時間がかかった。
声には力がなく、空気を切り裂くどころか、その場に沈んでいく。
「せん、せい、の……顔が……見えない……」
「利吉くん……行かないでくれ……」
その声は必死だった。
懇願するように、すがりつくように響いてくる。だけど、声はだんだん遠くなっていく。まるで深い水の底に沈んでいくように、音が途切れ途切れになり、やがて完全に消えてしまった。
視界の赤は、いつの間にか深い闇に飲み込まれていた。世界は完全な黒に包まれ、何も感じられなくなった。
はっと目を見開いた。心臓が激しく鼓動している。しばらく呼吸が整わず、喉がカラカラに乾いていることに気づいた。
ここは自分の部屋で窓の外はまだ夜の闇に覆われていた。街灯の光がカーテンの隙間から細く差し込んでいる。時計を見ると、アラームが鳴るまでにはまだ時間がある。それでも、もう眠れそうにはなかった。
まただ。
利吉は静かに息をついた。この夢を見るのは、これで何度目だろう。もう数え切れないほど繰り返されている。同じ声、同じ光景、そして同じ胸の痛み。
数年前から、この意味のわからない夢を時折見るようになった。夢の中の自分は弱り果て、誰かの泣き声に包まれている。だが、その誰かの顔は思い出せない。声は耳に焼き付いているのに、顔は霧の向こうに隠されたままだ。
目が覚めるたびに、胸の奥が締めつけられる。まるで見えない手で心臓を掴まれているような感覚。そして、気づけば頬には冷たい涙が伝っていた。枕がじっとりと濡れていることに、もう驚きはしない。
「またか……」
呟いた声は、暗闇の中で虚しく消えた。夢を見た朝は、決まって心が沈む。この重苦しい感覚は一日中尾を引く。どれだけ気を紛らわせようとしても、胸の奥に残る違和感は消えてくれなかった。
利吉は天井を見つめながら、あの夢の意味を考えた。しかし答えは出ない。夢の中の声が誰のものなのか、自分がどうしてあんなにも弱っていたのか、全てが霧の中だ。
あれはただの夢なのか?
それとも、何か忘れている大切な記憶の断片か……?
夜の静寂の中、風が木々をそっと揺らし、微かなざわめきを生んでいた。静けさの中で、その音だけがやけに耳に残っていた。
***
目覚めた朝の憂鬱さを引きずりながらも、利吉はなんとか身支度を整えて家を出た。こんな気分でも大学には行かないといけない。冷たい風が頬を打つが、それでも胸の中の重さは消えない。夢の記憶が鮮明すぎて、現実の世界がどこか薄っぺらく感じる瞬間がある。
大学へ行く途中の通学路を歩きながら、利吉はぼんやりと空を見上げた。雲ひとつない青空が広がっているのに、心は晴れなかった。
大学に着くと、いつものようにざわめきが迎えてくる。クラスメートたちはそれぞれの話題で盛り上がっているが、利吉はその輪の中に入る気分にはなれなかった。
だが、その日。
利吉はあの声と再会する。
昼休み、廊下を歩いていたときだった。講義室のドアが開き、誰かの話し声が聞こえてきた。そういえばどこかの教授の教え子の誰かが恩師の講義内容を見に来るといっていたっけ。その教授も別学科のため意識はしていなかった。が、その瞬間、利吉の足が止まる。
……この声……。
鼓膜に触れた瞬間、体が硬直した。あの夢の中で何度も聞いた、あの切なげな声。
間違いようがない。
声の主が廊下に姿を現した瞬間、利吉の心臓が跳ね上がった。
見覚えのない顔。けれど、耳がその人物を知っていると告げている。
彼も利吉に気づいた。目が合った瞬間、彼の顔が僅かに強張る。まるで、利吉の顔に何か見覚えがあるかのように。お互いが、その一瞬で何か異常な感覚を共有していた。
だが、二人ともその場では何も言わなかった。
ただ視線が交わり、違和感だけが胸に残る。
利吉は自分の受けるコマの教室へ行くことも忘れ、ただただ足が立ちすくんでしまっていた。
***
数日後の放課後、利吉は意を決してあの教師に声をかけることにした。不定期で来る彼を捕まえるのは難しいと思えたが、いつも訪問してくるときは周りの女子たちが騒ぐからそこまで苦労せずに済んだ。
人当たりがよい先生なのだと女子たちが口々に話しているのを聞いてはいたが、大学静まり返った講義室で一人でいる彼は笑顔の奥にどこか孤独を纏っているようだった。
「……先生、少しお時間いいですか?」
声をかけた瞬間、彼の目が利吉を捉える。彼もまた、何かを言いたげに口を開いた。
「…君……名前は?」
「山田…利吉…………です。先生は…えっと……」
「……土井です。土井半助といいます」
その瞬間、利吉の背筋に冷たいものが走った。悪寒と思えば心臓あたりが温かくなる感覚も締め付けられる感覚も忙しく同時に起こる。名前を聞いた覚えはないのに、その名前が心に引っかかる感覚。夢の中で誰かがその名前を呼んでいたような、そんな錯覚に陥った。
「……おかしなことを聞くんですが……変な夢を見たりしていませんか?」
利吉がそう尋ねると、半助は一瞬驚いて目を丸くする。
「本当にごめんなさい、意味不明ですよね……」
利吉もおかしなことなのはわかっているが後に引けなくっていると、半助は深く息を吐いて、茶化すことなく頷いた。
「……見てる……。どうして知っているのかな?」
利吉は息を呑んだ。半助は話を続ける。
「ずっと。何度もね。これもおかしな話なんだけど……君に……似た誰かが、目のあたりを斬られて…血まみれで倒れてる夢…なんだ…。俺はその人を抱きしめて、必死に呼んでいて………
でも、君に似た彼は……」
半助の声が震える。その言葉に、利吉の胸が痛んだ。それは、俺の見ている夢と同じだ。自分の視点から見ている夢と、半助が見ている夢が、まるで鏡のように繋がっていることに気づいた。
「……先生の声、夢でずっと聞いたんです…」
利吉がそう告げると、半助もまた静かに頷いた。
二人の間に流れる沈黙は、ただの偶然では片付けられない重さを持っていた。
その後、二人は何度も会話を重ね、夢の内容を照らし合わせていった。奇妙なことに、夢の中の風景や服装、使われている言葉が現代のものではないことに気づく。調べていくうちに、二人が見ている夢の舞台がはるか昔の時代だと確信する。
「……俺たちは、あの時代で出会ってた…のかな……?」
半助が呟くように言った。
「そうみたいですね。……きっと、俺たち…」
あの時代の生まれ変わりかもしれない。
御伽噺めいたこといってももう2人のなかでは笑うことはなかった。利吉の言葉に、二人の間の空気が変わる。これまでの違和感が、少しずつ形を成し始めていた。だが、それがどんな結末を迎えるのかは、まだ誰にもわからなかった。
******
山田利吉と土井半助は、夢が現実の何かと繋がっていることに確信を持つようになっていた。
夢の中の光景は単なる幻想ではなく、二人の過去に深く結びついている。そう感じたからだ。
放課後になると二人は時間を合わせて合うようになった。もともと半助は利吉の大学の教諭ではないが後ろめたさがないわけではなかった。でも、なぜかこの7歳年下の彼が気になってしかたなかった。また自分の見てきた不思議な夢を共有できる仲間ができてうれしさもあったのだ。
ふたりは図書室や図書館、時にはインターネットで江戸時代からもう少しまえ、戦国時代や室町時代の歴史を調べる日々を過ごした。だが、一般的な歴史書には彼らが求める答えはなかなか見つからなかった。まあ過去の自分たちは多くいる庶民のひとりなのだろうし、ゆかりの地も明確ではない。この、砂の中から針を探すような作業は退屈なはずが、なぜか楽しかった。二人でいるこの空気は居心地がよかった。
「なんでしょうね。まるで自分たちは存在を隠している忍びのようですね…」
ぼそりと利吉がこぼしたときだった。
半助がある絵巻を題材にした文献に目を奪われる。
「利吉君、俺、この絵の構図を見たことがある…」
昔に教科書や展示で見た、などではない。実際に自分の目で見たというニュアンスは多く語らずとも利吉にはわかる。
ここに書かれた見出しはこうだ。
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この特別な絵巻の寺院のような建物をみて何を思うだろう。これはただの学び舎ではない。忍ぶものの育成場所である。大名や領主に仕えるため様々な修行をしていたとされる。全寮制で孤児から豪族のものまで忍者志望のものが集結し、まことしやかに”忍者”が育成されていたと思われるが、当時のものは何一つ残っておらず、この仮説も所どころ欠けている絵巻からの片鱗からしか推測するほかはない。
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まあ参考程度に…といったところだろうが、どうしても目が離せないのである。
「俺も見たことがあります。確かこの建物には」
「釣鐘があって」「確か犬のような動物も飼っていて」
ふたりの声が不気味なくらい重なって跳ねる心臓が鳴りやまない。次の解説されたページをめくると、また同じ絵巻のものだろうか、数点ほど絵が載っていて…。そこに描かれた学び舎には、少し小ぶりな梵鐘があったのだ。
「これ……偶然か?」
利吉が声を潜める。半助は黙ったまま、利吉の目をじっと見つめた。偶然で済ませるには、あまりにも出来すぎている。
恐ろしくなり、この日は切り上げて帰ることにした。
なぜか二人は絵巻をみてから言葉数が少なくなり、帰り道はほとんど黙っていた。
***
二人の調査は進むにつれて、夢の内容も変化し始めた。最初は同じ視点、同じ出来事だった夢が、次第に別のシーンを映し出すようになった。
ある夜、利吉はいつもとは違う夢を見た。
薄暗い山道。冷たい夜風が肌を刺す中、利吉は誰かと並んで歩いていた。隣には、見慣れた顔——半助がいる。まぶしい笑顔でこっちを見ている。半助の髪は肩より長くて後ろで結っていた。
だが、夢の中での二人の距離は、現実のそれとは違っていた。
お互いの肩が触れるほど近く、言葉を交わさずとも心が通じ合っている感覚があった。
ふと、半助が利吉の手を取った。利吉は驚きもしなかった。ただ、それが自然なことのように感じた。
次の瞬間、夢の光景が変わる。
利吉が血まみれで倒れ、半助が必死に彼の名前を呼んでいるシーンへと移る。そしていつものように涙を流しながら目覚めた。
「……」
その絶望的な光景は、今まで見てきた夢と同じだが、そこに宿る感情の重みが明らかに違っていた朝だった。利吉は布団の中でじっと天井を見つめていた。心臓の鼓動が静まらない。夢の中で感じた半助の温もりが、未だに手に残っている気がした。
大学で半助と顔を合わせた瞬間、その違和感はさらに強くなった。これまでのようにただの生徒と教師として接することができない。
何気ない会話の中でも、ふとした瞬間に相手の表情や声色に意識が向いてしまう。互いに目が合うたび、胸の奥がざわつく。
「……先生、最近、例の夢はみましたか?…」
利吉が思い切って切り出すと、半助も静かに頷いた。
「……ああ、不思議なことに夢の内容が変化してきた。俺はそこでも教師をしていたみたいだ。でも……」
「でも?」
「利吉君とは、その…すごく距離が……近いかな…って…」
二人はしばし沈黙した。
ああ、やっぱりなと利吉も確信する。今朝に自分が感じたものを先生も感じたのかもしれないと。互いの視線が交わるたび、言葉にしがたい感情が胸を満たしていくのを利吉と半助は同時に感じていた。
***
調査と夢を見る進めるうちに、二人は次第に過去の真実へと近づいていった。
時は室町時代後期あたり、二人は同じ忍びの里で育ち、共に数々の任務をこなしてきたこと。半助は教師であったこと。利吉は一か所にとどまってなかったように思うが、いつも半助を探しているのも利吉サイドの夢でみている。半助もまた利吉の家族ぐるみでお世話になっていたことを半助サイドの夢で見ている。その時代の、過酷な日々の中で、二人はただの仲間以上の存在になっていたようだった。
利吉と半助はお互い慕い合った仲だった。現在のような恋人とも呼べない微妙な関係がなおさら二人は困惑していく。
この事実に気づいたとき、二人の間に再び重い沈黙が流れた。
それは過去の記憶に起因するものなのか、それとも現代の彼ら自身の感情なのか……二人はその違いをはっきりと区別することができなかった。
「……俺は過去に相当先生のことが好きだったみたいですね。その、恋愛感情として……。では……今のこの感覚も、そういうことなのでしょうか?」
利吉が恐る恐る口にした言葉に、半助はこの時は答えなかった。ただ、彼の目は否定することなく、利吉の心の奥深くを見つめているしかなくて。どうしても混乱したままで整理ができないのだ。
引き続き、夢の世界の追及は進むが、その間も二人の関係は少しずつ変わっていった。利吉は半助の些細な仕草や声に敏感になり胸を締め付けられていた。半助もまた利吉の笑顔やふとした瞬間の真剣な眼差しに心を奪われ、揺れてる自分に気づいていた。
それでも二人の心には常に同じ疑問があった。
夢を見てなければ出会っていなかったかもしれない。話しかけなかったかもしれない。今この現代で、大勢のなかの1人にすぎない。
それでもこの気持ちに嘘はない…。
二人は確実にお互いに惹かれ合いながらも、その答えを見つけることができずにいた。
それでも利吉は勇気を出して、半助にまたも同じく問いかける。
「先生……。俺たちの気持ちって……過去のせいなんでしょうか……」
半助は困ったように微笑みかけるが、利吉はそのやわらかい笑顔をみるとどうしても焦ってしまう。
「俺もずっとそれを考えているんだけど…まだわからないんだ。でも……とても利吉くんが大切なんだ…」
「……」
黙っている利吉を諭すように、半助は利吉の肩に手を置いた。
「今は、このままで十分じゃないかな…」
その言葉に利吉は胸が締め付けられるような思いを抱きながらも、少しだけ心が軽くなるのを感じた。
******
室町時代の資料を調べていくと、二人はやがて一つの村の名前に行き着く。そこから見える山脈など夢の中で見た風景と酷似していた。
「行ってみようか、利吉くん」
「……うん、俺も確かめたい」
二人は週末に京都の小さな村を訪れることにした。湯の花温泉という温泉街の周囲は観光スポットとして人気があり、半助は宿の予約を取るのに苦労したと言っていた。
きっかけは不純かもしれない。不思議な関係のまま好意を寄せる相手と旅行に出かけるという、順序を無視した展開には戸惑いもあった。しかし、結果はどうであれ、二人の歴史探索の一区切りになることを期待して、足取りは軽かった。
宿に着いた後、村へ向かう。到着した村は静かで、どこか懐かしい空気が漂っていた。この村や近くの山は何百年もの時を経て形成されたものだという。真実に近づいているのか、利吉の鼓動は次第に速くなる。そして村から山へ入り、奥へ広がる林に足を踏み入れた瞬間、利吉の心臓が強く脈打った。
「……この場所……」
「利吉くん?」
初めて訪れるはずの場所。
それなのに、足は自然と動き出す。
「そっちは危ないから、利吉くん!」
半助の警告も耳に入らず、利吉は奥へ進む。
その足取りは重く、ある地点で自然と止まった。
周囲の木々が静まり返り、風の音さえも消える。
——ここだ。俺が、絶命した場所。
突如、利吉の脳裏に鮮明な記憶が蘇る。背後から襲われたおぞましい殺気、愛しい人を守るために自らを犠牲にしたこと、血に染まる自分の姿、視力を失いながらも愛しい人を探し続けたこと。必死に呼びかける半助の声。そして、力尽きた瞬間の冷たい感覚。
「…………………………っ!」
脂汗が止まらず、利吉はその場に崩れ落ちる。
抑えきれない感情が込み上げ、大粒の涙がこぼれた。冷静だったはずの利吉が、声にならない嗚咽を漏らしながら泣きじゃくる。
半助は驚きながらも、すぐに駆け寄り、背後から強く抱きしめた。
「利吉くん……大丈夫だ。もう終わったんだよ」
「……お兄ちゃん……」
無意識に口から漏れた言葉に、半助の鼓動が大きく跳ねる。
「り…き…ちくん」
半助は震える利吉の背を優しく撫でながら、そのまま抱きしめ続けた。
「大丈夫だ……私がいる。もう離さないから……どこにも行くな」
耳元で囁いたその言葉が利吉に届いたかはわからない。だが、二人の間にあった過去の影が少しずつ薄れ、利吉も半助も身体から何かが抜けていく感覚がした。そしてここには、亡霊でない、生身のふたりが共にいるのだと強く感じるのだった。
半助はずっとずっと後ろから抱きしめ続けているうちに、利吉の涙がすこしずつ止んでいく。
泣きはらした利吉の顔を包みながら半助が囁く。
「……帰ろうか」
***
村から宿へ戻ると、二人は互いの存在をより意識するようになっていた。とりあえず肩は軽くなったもののどっと疲れた身体を温めようとそれぞれ温泉に入ることになったが(今は恥ずかしくて一緒になんて入れない)、浴衣姿になったお互いを見た二人は同時に
「夢で見たままだ」と笑い合うくらいには緊張はほぐれていた。和装がとても二人に似合っていた。
旅行の前から互いに想いはあった。しかし、今抱く気持ちは、それとはまた違う感覚だった。憑き物が落ちたような、満ち足りた気分ではあるのだが。利吉は言葉をまとめられず黙っていると、半助が静かに沈黙を破る。
「利吉くん、たとえ過去の記憶がなくても、今の君を好きになる自信が僕にはあるんだけど……」
半助は顔を真っ赤に染め、目をそらした。そのいじらしい表情を、利吉は見逃さなかった。
「………俺じゃダメかな?」
その言葉だけで十分だった。利吉の胸は温かさで満たされ、曖昧だった気持ちが明確なものへと変わっていく。
「そうですね、あなたがいいです。
今はこのままで十分です」
ゆっくりと引き寄せられ、二人はしっかりと抱きしめ合った。
***
その夜、利吉は再び夢を見た。しかし、今回は違った。絶命した自分の意識が途絶えた後も、夢は続いていた。
——暗闇の中、半助が自分の顔を両手で包み、そっと唇を重ねる光景。
息を呑み、利吉は目を覚ました。知らなかった。あの時、半助の行動を…。
翌朝、利吉はその夢の話を打ち明けた。
「……俺、知らなかった。死んだ後に、先生が俺に……キスしてたんですよね…」
半助は驚いた表情を見せつつも、優しく微笑む。
「もうそれは過去ではなくて、
今なのかもしれないね、利吉くん」
その言葉を噛み締め、利吉は静かに頷いた。
「……先生」
「何だい、利吉くん」
利吉は微笑み、そっと顔を近づけ、あざとく囁く。
「……お兄ちゃん」
「ちょっと待って、それはズルいよ」
半助の言葉がかき消されると同時に、二人の唇が重なった。その瞬間、過去の痛みも未来の不安も溶け去り、過去のやり直しなどではない、今この瞬間だけが確かなものとなった。そしてそのまま口づけも夜もどんどん深くなってゆくのだった。
***
帰る予定の日、宿泊を延長したいと駄々をこねる利吉に、半助は折れた。休みを多めに取っていてよかったと、心から思った。
その夜、二人は同じ夢を見ることになる。
今より少し幼い利吉と、少し若い半助が小川で無邪気に遊んでいる。蟹を見つけ、魚を獲り、兄弟のように笑い合う。遊び疲れた利吉を半助が背負い、揺れる背中の上で利吉はすやすやと眠る。そのまま同じ家へ帰るところで夢は終わる。
それはもう、黒い闇に包まれる夢ではなく、夕焼けのようなオレンジの光に溶けるような、とても温かい夢だった。
それ以来、二人が過去の夢を見ることはなかった。