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    うまちゃん

    馬のチラ裏置場

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    うまちゃん

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    つまらんお化け話を書きました。

    あすこここ それが現れたのは仕事を変えて幾日かした頃のことである。
     私は親との折合いがよろしくなく、17かそこらで家出同然に就職した。郷里から何時間も夜行に乗って辿り着いた、東京の、郊外の方の、そこそこ大きな工場が次の私の住処だった。女工として同僚や社員さん方には大変よくしてもらった。
     が、そこは私の安住の地とはならなかった。
     私は数年工場勤めをした後、給料日の翌日にバックレてその日暮らしの木賃住まいの身になった。
     その頃である。初夏の、日照り続きの日だった。東京は故郷と違って兎に角蒸し暑い。朝起きてまず窓を開けるのが習慣になっていた。
     太陽は家々の隙間から顔を見せ始めていた。ジワジワと蝉の煩いツゲの木の頭が窓からひょっこりと覗いている。
     私は眼の開ききらないまま窓に近づいた。錠を外そうと手を伸ばして、視線に気づいた。
     母がそこに居た。
     母は私によく似た、重い瞼の猫目を眇めて厚い唇をむっつりと閉じて、私を睨み付けていた。今にも舌打ちでもしそうな不機嫌な面である。
     怨み節の一つでも言えば良かろうに、この母はそれはしない。ただじっと、私を嫌な眼で見ているだけなのである。
     私は怯んだ。すっかり硬直してしまい、母から目を反らせなかった。
     母はじいっと私を見ている。
     私も母を見ている。
     あの時の事を思い起こすと、熊に会ったら背を向けてはいけないという教訓を思い出す。私はそもそも逃げようとできない人間らしい。危険から目を離すということができないのである。それは多分冷静とは違う。
     何分睨み合いをしたろうか。そろそろ熊に食われている時分だったと思う。
     伸ばしたままの右手が錠にあたった。
     私は勢い窓を開けた。がらんと、隙間だらけのサッシは簡単に走った。
     窓の外には当然誰も居なかった。
     こんなこともあった。
     出勤前の化粧をしていた時である。生憎鏡台などという大層なもんは持っていない。手鏡を確認しては粉を叩き確認して、とやっていた。慣れると案外、鏡を見なくとも紅は差せるものである。
     最後の確認に手鏡を持ち上げた。
     そこに、見知らぬ女が映った。真っ赤な唇を引き結んで、流行りの細眉をしかめて、そして私を睨むのである。膿んだ物言いたげな目をして、ただ私を見ている。
     私は内心恐慌してその女を見返した。
     女の視線はなんだかすごく恐ろしかった。いつか見た土左衛門に似た死んだような暗闇の目だった。ぞろりと悍けに背を舐められたような心地がして、私は固まってしまった。
     瞬きの間に女は消えた。
     私は女が消えても悄然としていた。しかし、そのまま一晩魘されるという訳にもいかないのがその日暮らしの悲しい所である。遮二無二働き、出先の宿で泥のように眠った。
     それからというもの、そういうモノがよく現れるようになった。
     銭湯の鏡に母が、ショウウィンドウに兄が、水溜まりに女が、眼鏡のレンズに少年が、酒杯に何かが、居る。
     彼方此方に。
     其処かしこに。
     映って居て、じっと私を見ているのである。何を訴えるでもない。何をしてくるでもない。ただ攻撃的な視線だけを私に向けてくるのだ。
     恐ろしかった。
     が、慣れてしまった。
     人とは良くできたものだ。どんな異様な状況でもずっと身を置いているとそれが普通になってしまうようである。船に長く乗っていると波に慣れて、陸に揚がると地面が揺れているように感じる。あれと同じだ。
     私はすっかり驚かなくなった。
     すると次第に別の恐ろしさを感じるようになった。
     そいつらは皆、いつかの視線に似ていると気付いてしまったのである。それは例えば、兄のジャケットを着て歩くのを母が咎めた時の目だった。
     もっと女の子らしい可愛い服を着て欲しいというような事を母は私に訴えた。私は母がそういう服を着たいなら自分で着ればいいのに、と思った。母はそうではない、と嘆いて
    「折角女の子なのに」
    と言った。
     私はそういう時の母が怖かった。私はついぞ女の子には成れなかったから。
     或いは、女の子らしい振る舞いをする私を物珍しく見る人の目にも似ていた。母が苦労して買った可愛い服を着てやった時などの、あの珍品でも見るような、嫌な目。女ではないのに女のフリをしている私の、化けの皮を剥がそうとする、その目が。
     彼処此処から。
     其処かしこから。
     私を苛むのだ。
     恐ろしや。
     ただし私はそれでも平然と日々を過ごしていた。そういうチクチクと刺す視線を受け流す術をすっかり心得ていたからである。心を硬く閉じて貝になれば良いのだ。
     そうして四季が廻った頃。
     私は今どきの東京で拝み屋をやっているという風変わりな人に会う機会を得た。やけに口の回るその人に、私の身の回りの些細な不思議を相談させられた。させられた、言葉にすると妙な感じがするが言葉通りである。
     拝み屋は一通り話を聞くと、
    「それは『あすこここ』という妖怪ですね」
     と言った。
     いい加減な名付けだ。私が笑うと、拝み屋は化け物は名が体なんですよ、と大真面目に説いた。
    「あすこここに化け物がいるんです。あるいはあすこここが垣間見える、謎のお化けを表したかったのでしょうね」
    「正体が分からないのですか?」
    「正体はないんでしょう。あるいは何でも正体になり得る」
     何者でもない何か。
     そう聞くと無性に親近感が沸いてしまった。相手は敵意剥き出しの視線そのものなのに。
     拝み屋は見るだけのお化けなら、見ることしか出来ないのだから好きに見せておけば良ろしいと無責任な事を宣った。そして私がムッとしたのを見てこうも言った。
    「どうしても気になるなら、そうですね、会釈のひとつでもしてやればよろしい。挨拶は無害の標榜です。人は白旗上げた人に手を上げにくいものだ。挨拶をして殴りかかってくるのは挨拶をしないでも殴りかかってきますから」
     熊もあれで人が怖いから襲うのですよ。
     拝み屋の言う事かと思ったが、壺でも持ち出されるよりは遥かに良いので、神妙に頷いておいた。
     その帰り道、私は雨に降られてしまった。
     おまけに金がないので濡れ鼠で2時間歩く羽目になった。
     全く、ついていない。
     こんな日は出そうだな、と路肩の三輪トラックを横目に見ると
     居た。
     兄が、死んだ兄がミラーに映っている。生前、一度だけ着て見せてくれた空軍のジャケットを着て、痩せた青白い顔で、なんだか泣きそうな目をして、じっとりと私をーー
     見ている。
     私はまた動けなくなった。
     怖い。
     兄はどうして私をそんな目で見るのだろう。何故何も言ってくれないのだろう。一言怨み節でも、文句でも言ってくれれば、私だって。私だって、普通に。もっと普通に。女の子みたいに悲鳴のひとつも上げられるのに。
    ――会釈のひとつでも
     陰気な声の助言を思い出した。
     私は至極慎重に、頭を下げた。視線は兄から離さぬまま。辛うじて会釈をして、それから殊更ゆっくり顔を上げた。
     ミラーの中の兄は泣きそうなまま会釈を返した。
     そして、横を向いて行ってしまった。少し頬が緩んで笑ったように見えた。
     私は日の暮れるまで呆然と兄の居ない鏡を見つめていた。
     それからは何も見ていない。
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