慈しむたましい「すき焼き、楽しみだね」
「うん。父さんがね、すっごく楽しみにしてたんだよ」
「それはあきらだろう」
父さんは笑いながらお肉を焼いている。その通りだったのでぼくはへへ、と笑った。
ぼくが動けるようになったお祝いに、お姉さんを呼んですき焼きをしようと父さんが言ったのは、一週間前のことだった。ぼくが辛かったとき、すごく優しくしてくれた『ゆうちゃん』とまた会えるのは嬉しかったけど、目が見えるようになってから会うのは初めてだから緊張した。あの暗い部屋で、ゆうちゃんに最初に声をかけたときより緊張したかも。だってゆうちゃんにはさんざん振り回されたし、ぼくのこと子供扱いしてきたから。恥ずかしくてよく覚えてないけど、でーと、とか言ってからかわれたような気もするし。
あのときのゆうちゃん、澄んだ声でコロコロ笑って、明るくて、楽しそうだった。そのゆうちゃんにいざ会えるって思ったら、すっごくすっごくドキドキしてしまった。
それに。それに……あのとき、せっかくぼくの部屋まで来てくれたのに、うまくお話できなかったから。あれで最後になっちゃって、次に目が覚めたときにはゆうちゃんはいなくて……正直すごく落ち込んでたんだ。
だから今日、会えてすごく嬉しかった。久しぶりに会ったゆうちゃんは、ぼくの姿を見るなり「あきらくん!」と駆け寄ってきて、ぼくを思いきり抱きしめてくれた。ゆうちゃんは思ったより小さくて(ぼくと同じくらいだった)驚いたけど、想像通り、優しそうで素敵なお姉さんだった。
「ゆうちゃん生卵だいじょうぶ? 割っていい?」
「はい。私割りましょうか?」
「いい! ぼくがやる」
隣に座ったゆうちゃんのために小皿に卵を割り入れながら、ぼくはさっきまでとは違う意味でそわそわしている。父さんは肉が焼けたのを確認してから手際よく鍋に調味料を流し込み、野菜を入れて煮込みはじめた。すき焼きのいい匂いが辺り一面に広がって、ゆうちゃんの前でお腹が鳴ってしまわないか心配になる。
「そうだ、あきらくん」
「なに?」
「お洋服、自分で選んだんですか? とっても似合ってます!」
「本当? ……ありがとっ!」
「ふふっ」
恥ずかしいのをこらえてお礼を言うと、ゆうちゃんはますますニコニコした。なんだか、もてあそばれてる気がする。困って父さんを見上げると、父さんは「よかったねあきら」と目尻にしわを作って笑った。その途端、ぼくは数日前の会話を思い出して思わず叫んでいた。
「父さん! もしかしてゆうちゃんに話したの!?」
数日前、ぼくは緊張してつい父さんに「ゆうちゃんと会うとき、何着ていけばいいと思う?」ときいてしまい、案の定からかわれたので口をきかなかったことがあった。テーブルに手をついて身を乗り出すと、父さんは鍋を作る手を止め慌てたように両手を挙げる。
「いやあすまない。あきら、ごめん。ついね。私にきかれても分からないもんだから」
「父さんとしか話せないんだから父さんにきくしかないじゃん!」
身体が動くようになったとはいえ、ぼくは退院できたわけじゃなかった。今日はゆうちゃんと会うために外出許可を取っている。ぼくが怒って言うと、父さんはハッとしたように目を開いて肩を落とした。
「いや、それは、その通り。そうだったね。ごめんよあきら。気のつかない父で」
「もう知らない!」
急にしゅんとした父さんにひるんだものの、ぼくの怒りはまだ収まらなかった。よりにもよってゆうちゃん本人に話すなんて!
「白おじさま、あれって内緒のお話だったんですか?」
「実はね。前にも怒られてて。また絶交されてしまったよ」
「まあ。いけない人ですね」
「言葉もないな」
お肉の焼けるいい音にまぎれて、父さんがすごく小さな声でごめんね、と言った。それをきくといつも、なんだか自分が悪いような気がしてくる。いつもそうだ。父さんには腹の立つこともいっぱいあるけど、最後にはいつも、父さんが可哀想になってきて、ぼくは降参しちゃうんだ。
「そうだ、あきらくん」
突然、ぱん、とゆうちゃんが手を叩いた。
「今度のデートは一緒にお洋服買いにいきませんか?」
「本当に!? 待って、今デートって言った!?」
「はい! あっ、デートじゃなくて、遊びにいくってことでしたよね。覚えてらっしゃいますか?」
「忘れるわけないじゃん!」
「行ってくれないんですか?」
「いくよ! いくけど! 恥ずかしいよ! 父さんの前だよ!?」
「あっ、心配しないでください。お父さんはちゃんと置いていきますから」
そういうことじゃない。そりゃ父さんがついてきたらデートじゃないけど……違う!
「息子が、大人になってしまう……」
父さんもよく分からないことを言って落ち込んでいる。
「だから、ね? お父さんのこと、許してあげましょう」
「……分かった」
次はないからね、と言うと、父さんは微笑んで、ぼくと、それからゆうちゃんにお礼を言った。
*** ***
久しぶりだからどうだろう、と言うわりに、父さんのすき焼きはとてもおいしかった。事故の前には記念日のたびに食べていた気がするけど、食べるのも久々だからか新鮮だった。
「ゆうちゃん、もう食べないの?」
「うーん、お姉ちゃんもうお腹いっぱいになっちゃった。あきらくん私の分まで食べてください」
「えー、……そうなの?」
お腹いっぱいってことは、もうすぐバイバイしなきゃいけないってことなのかな。寂しい気持ちが顔に出たのか、ゆうちゃんは笑ってぼくのお皿におかわりを盛りつけた。
「ほら、あきらくん。そんな顔しないで。あーんしてあげますから」
「わっ! いいよ自分で食べるよ! 子供扱いしないで!」
「でもほら……私もう食べられませんし、ひまですから」
「ひまって何!? どういうこと!?」
「はい、お口大きく開けてくださいねー」
看護師さんの言い方でそう言って、ゆうちゃんはぼくに肉を差し出す。思いのほか強引なスピードで迫ってくる肉とぶつからないよう、ぼくはこわごわ口を開けた。
「うん! たくさん食べられてえらいですね!」
頭をポンポンとしてくるゆうちゃんに、子供扱いしないで!! と言いたいのに、口の中がいっぱいで言えないのが悔しい。ゆうちゃんはぼくの目を見て何かを察したのか、いかにも楽しそうに笑っていた。ぼくは急いで肉を呑み込むと、「またからかってる!」とそっぽを向いた。
「あきらくん、照れてるのかな?」
「照れてない!」
「うそだー」
「照れてないってば!」
「まあまあ、ほら、もうひと声!」
「もうひと口でしょ!? いいよ自分で食べるよ!」
箸だってもうちゃんともてる。なんでも一人でできるし。ぼくはこれ以上あーんされないよう、急いですき焼きとごはんをかっこんだ。
「ほらあきら、水も飲みなさい。……あまり、息子をからかわないでやってくれるかな」
「ふふふ、すみません。ヤキモチ妬いちゃいますよね」
「そういう話はしてないんだがね!」
弾けるように笑ったゆうちゃんがとても楽しそうで、ぼくも、父さんもつられて笑ってしまった。
そうしているうちにお鍋は空になって、お別れの時間になった。駅まで送っていく途中、ぼくは意を決してゆうちゃんの手を取った。
「ゆうちゃん、今日はありがとう。ぼく、ゆうちゃんと話してから、ゆうちゃんみたいにポジティブになろうって決めたんだ。今度はぼくがゆうちゃんを励ませるくらいポジティブになるから、だからね、また会って一緒に遊んでほしいな」
立ち止まって、まっすぐぼくの目を見ながら話を聞いてくれていたゆうちゃんは、うっすらと微笑みながら「あきらくんは、ポジティブになりたいんですね?」とたずねてきた。本当は、ゆうちゃんの力になりたいってことなんだけど、それは秘密にしたくてただ、頷く。
「それなら、私はあきらくんを応援します。一緒にポジティブになりましょう。それにまた来週、遊びに来ますから」
「来週!? 意外とすぐだね!」
「ええ。お父さんと約束してますから。そうですよね、おじさま」
「ああ、もちろんだとも」
そう言って父さんは、もう来週の献立を考え始めている。
「あきらくんとも約束しましょう。そうだ、またエア指切りげんまんしますか?」
「エアじゃなくて普通にできるよ」
「あっ、そう、そうでしたね」
ではどうぞ、と遠慮がちに差し出された小指を取って、あのときみたいに二人で指切りげんまんの歌を歌った。その後、ゆうちゃんは父さんの方を向く。
「白おじさま。これからは、私も頼ってくださいね。お役に立てるかは分かりませんが」
「今でも十分世話になっていると言うのに、このうえまだ頼ってもいいというのかい」
「お互い、分かっていて今、こうしているんです。私がそうしたいからしてるんです」
それを聞くと父さんは「本当に君は……」と何か言いかけて、がしがしと頭をかいた。
「次は君の好物を用意しよう」
「本当ですか! やったねあきらくん、生ハムパーティだよ」
ゆうちゃんはぼくの手を握ってはしゃいでから、最後に少しだけ真面目な顔になった後、またぼくをしっかりと抱きしめてくれた。
「じゃあね。……また来週、会いましょう」
そう言って笑ったゆうちゃんの顔は優しくてきれいで完璧で、――ぼくはなぜだか無性にゆうちゃんのことが恋しくなった。
恥ずかしいから、ゆうちゃんにはぜったい言わないけどね。