鉛色の血判 ・明るい話ではないです
・満鉄の路線たちにドラスティックな設定をしています
(ショックを与えるものかもしれないです)
・当時の時制を鑑みた表現があります
・既存設定との齟齬など、甘い部分がある可能性があります(プロトタイプゆえ……)
人気のない山合いを縫う列車は今この夜の中でただ一つの光になっている。
ほんのり橙色を帯びた明かりのもと、燕が開けた窓から吹き込む夜風は体を質量をもって、しかし柔らかに体を包んでいた。
この男がもうその名を冠していないことも、上官の地位も失していることも承知の上で、東海道は呼び名も何も変えていなかった。それが色々な事を傷付けうる行為だと分かっていても、こっぴどく怒られでもしない限りこのままでいると決めていた。意義や意思があるわけではない。何となく、この男に対して折に触れて甘えてしまうところがある。今回もそれに当てはまったので、そうしたに過ぎなかった。
「付き合わなくていいぞ」
自分が身じろぎしなくなったのを察したのか、燕は背中越しに言った。
「寝てきましたから」
それに寝れやしませんよ、こんな時に、と東海道は吐き捨てた。
肉体はあれど何も決められることのない、ついでに普通に死ぬことも叶わない、ことわりの外の存在はGHQの手に余った。
裁きも咎めもなく放置されたのをいいことに、面倒事の担い手として、運転士と車掌としてふたりは度々駆り出された。
客や積荷は大体察しがついた。自国のものもあれば、それ以外のこともあった。
ふたりともなるべく見ずに済ませたし、取り立てて話すこともなかった。なかったことにしたまま、曖昧な記憶として忘れていくに越したことはないものだと分かっていた。ただ、今回ばかりは勝手が違った。
引揚の最盛期はとうに過ぎている。本土では舞鶴が抑留で帰国の遅れたシベリア帰りの人々を受け入れているくらいになった。
鉄路の話に限れば、数年かかった満鉄の留用も終わりが見えている。時の総裁も職を追われ、故郷に戻ったと聞いた。本分どころか国家の後始末にまで追われることとなっていたあの土地の鉄道は、ようやくその役目を終えようとしている。
シベリアからの帰路の多くが舞鶴を経由するのと同じように、満鉄の留用者の多くは佐世保港を経て引揚ていると耳に入っていた。
そうして今日の呼び出しに至り、この夜ふたりは、台帳に適当な人間の名を書き間違えられた或る貨物列車を佐世保の港にほど近い早岐へ向かって走らせている。
その場にこの時期の路線たちが向かう用といえば、一つしか浮かばなかった。引揚援護局のある南風崎まで入らないのは混乱を避けてか、あるいは他の理由か。何を運ぶかも知らされぬような有様では、それもまた聞くだけ藪蛇だった。ただ、忘れることなどとうに出来ぬものをつかまされることを、その行き先と時世が物語っていた。
そのせいか、燕はいつもより饒舌だった。
「どう思う」
「……何が」
「〝満鉄さん〟は生きているか、死んでいるか」
押し黙っていると、燕はひとり話し続けた。
「人か、路線か」
言葉を重ねるにつれ、横の声は次第に冷ややかになっていた。
路線という存在に深入りした話になると、この男は言葉が荒くなった。人間の割を食い、進退も分からぬまますべてがひっくり返った動乱の世に留め置かれる心地を東海道は知らない。知らないが、街角に力なく佇む人間の魂の抜けた姿を見るたび、気を違えていないだけで上出来だということはよく分かった。
「不謹慎ですよ」
「こんな世に不謹慎も何もあるか。散々勝手にされたんだ、今くらい好きにさせろ」
「……それは、」
制する言葉を言いかけて、やめた。
ふいに、こういった平静の姿に似つかぬ暴言が燕なりの甘えなのだと気付いた。ふたりきりになることなど滅多になかった。緘口令にかこつけて、ろくに話を聞いてやらなかったことを、今更ながら悔いた。
(ひとでなし、)
それが単なる額面通りの問いでないことは察せられた。思わず身が強張った。
「私が聞いているのだから、どうせお前も吹き込まれたんだろう」
黙ったところで、燕は口を止めなかった。この話から逃がす気はないようだった。
満州に鉄道の子はいない。
以前からそのことはまことしやかに噂されていた。真実味を帯びていることは感じていたが、具体的なやり口をもってそれを教えられたのは満州という土地がなくなってからだった。
種明かしは格別に気分の悪いものだった。ひとところで聞いたわけでもないのに、状況は燕が今しがた横で語気荒くのたまったのと寸分違わなかった。
多くの犠牲のもとに異例の玉突き人事で分不相応な地位を手に入れた社員のひとりに、隠し持っていたであろうアルコールを煽った口で、すべてを知らされた。入社当時、鳴り物入りの優秀者にしては覇気も威厳もなく立っていたその男のことは、ずっと好いてはいなかった。場違いに清々しい顔で、これで共犯だと言わんばかりのことを言い放った、あの時より重力に負けた部分の増えたシルエットはあの時と同じように、こめかみの隠れる程度の痣をしきりに気にしていた。
「あいつらは良いな。せいぜい数十年の辛抱で何もかも忘れて浄土行きだ」
「地獄じゃないですかね」
「清算ができるなら変わらんだろう」
「いいえ」
人間に対してあんなに鋭く、明確に殺意を持ったのは初めてだった。どうあったとしても、満鉄が自分の血を分けた兄弟なのは揺るぎない真実だ。知らない土地においても、そこでずたずたにされても、その存在と名誉を守る使命が己から消えることはない。
世論に振り回されながら、また人間の言葉に雁字搦めにされるのも自分達の運命だった。刻まれた言葉は心を超えて肉にまで及んでいる。馴染みすぎて得体のしれなくなった愛が、手足を、頭を侵している。
「私は行かんぞ」
同時に、この男がこう言い切るのもまた宿命のように思えた。最もそう思うより、分かれた思惑に身を裂かれることが、少なくともこんにちのあの路線に関わることについてはないのだと胸を撫で下ろすのが先だった。
「……はい」
元々みだりに外へ出るなとも言われているのだから、咎められるようなこともあるまい。
「あじあです、はとですなんて紹介でもされてみろ」
かなわん、と言い切って、燕は溜息をついた。
返事には迷った。迷っていたら、横から伸びた手が手探りで自分の手帳を引ったくっていった。
「お前が会いたいと思うなら私は止めない、出ていくのを責めもしない」
狼狽して見逃しているうちについていたそれは血潮だった。指先から滲むそれは、荒れた肌が割れたのか、何かで切ったのか、皆目見当もつかなかったが、それは紙面の中の今日の日付から側面にかけて、べったりと擦り付けられた。
「ただ、私は――少なくとも今は、絶対に目に入れたくない」
血糊の染みついた手帳を胸につき返され、しばし呆然としているうちに車両はトンネルを抜けた。眼前には、この辺りではいっとう早い朝が訪れていた。