SAKURAメモリアル Xシティーの街並みに、今年もまた桜が色をつけていく。
とある、うららかな昼下がり。
俺は幹線道路沿いの細道を下り方面に歩いて、拓けた公園が広がるエリアへと足を伸ばした。緩やかな丘陵の谷間には清川が流れ、白い水鳥たちが羽ばたきながら空を滑る。澄んだ水面が湖畔に咲き乱れる桜の姿を反射して、目にも華やかな情景を織りなしていた。
「クロムって、そんな形なのに桜が好きだなんて。意外ね」
川に架かる橋の上から眼下の光景に視線を預けていると、不意に隣に立つシグルが声を掛けてきた。彼女の長い髪が、そよ風に撫でられてサラサラと靡いている。
「そうか?」
短く訊き返すと、シグルは俺の顔から下を繁々と見遣り、やがて口を開いた。
「派手な髪に派手な顔、あと派手な服。こんなにも色を渋滞させている人が、古風な花を眺めてうっとりしてる絵面……なんか変。ミスマッチな感じがする」
その整った顔を少しも歪めることなく平然と言い放つシグルへ向けて、俺は思わず苦笑いを零した。橋の欄干に背中を預けて、彼女の目を軽く覗き込む。
「ははっ。……色の渋滞だとかミスマッチだとか、随分な言われようだな」
言い返す傍ら、彼女らしい批評だと俺は内心で秘かに感心した。どんな時も飾らない彼女の態度や言葉を、俺は忖度無く好きだと思える。
「それに服装はともかく、髪と顔が派手なのは生まれつきだ。こんな見た目でも、たまには春の風情を楽しむことぐらい許されるだろう?」
「好きにすれば。別にダメとは言ってない」
フイと俺から目を逸らしたシグルは、さして関心の無さそうな素振りで桜を眺め遣った。
シグルの言う通り、俺は桜が好きだ。奥ゆかしく慎ましく。決して派手な色ではないのにもかかわらず、他のどんな花よりも人々の心を魅了する。鮮烈に豊かな花を実らせ、そしてあっけなく散っていく。桜が持つそんな刹那の美しさに、俺は惹かれるのだろう。
「シグルは好きか?」
「何が?」
「桜だよ。これまでもずっと、俺が花見に誘うといつも付いてきてくれるだろう?」
シグルにそう水を向けると、彼女は俺から視線を外して少し顔を上向けた。桜を見上げる眼差しの中には一切の情感が浮かんでいない。彼女にしてみれば、春の情緒を楽しむというよりは、ただ目の前に広がる景色を網膜に映しているだけなのだろう。
「私は別に。見れば綺麗だなって思うけど。それ以外特に何も思わない」
「そうか」
咲き乱れる花は少し風が吹いただけで、まるで蝶を舞わせるかのようにその美しい花びらを解き放つ。
何気なく見上げた空には、抜けるような蒼穹の中にところどころ羊雲が浮かんでいる。
〝明日は、春の雨か〟
不規則な軌道を描きながらくるくる、ゆらゆらと落ちてくる花びらへ向かって片手を伸ばす。俺の手のひらに舞い落ちるかに見えたひとひらの花弁は、その直前で指の隙間をすり抜けた。
少し辺りを見渡せば一面花びらの海だった。薄紅色の絨毯が静かに大地を彩る景色は、春の風情が溢れている。
不意に、緩く大気が揺れた。
その流れに煽られるようにして、思い出のページが春風に靡く。
「去年の今頃は、エクスも一緒にここで花見をしたな」
俺がそう切り出すと、シグルは前を向いたままの顔を動かすことなく短く応じた。
「そうだっけ。覚えてない」
彼女の素っ気ない声を、吹き上げた花吹雪が攫っていく。過去へと繰るページの中には、大切な思い出が記されている。暖かな風が頬を撫でるのを感じながら、俺は挟まれた栞の中から、その一つ手に取った──。
ちょうど去年の今頃、俺たちはチームペンドラゴンのスポンサー企業の役員や社員たちと連れ立ってこの場所で花見をした。
広く場所を取ったビニールシートの上に座り、各々好きな肴を手に桜を眺めた。
俺の目の前ではシグルが黙々とあんこクリーム寿司を口に運ぶ傍らで、エクスも同じメニューを頬張っている。
「んん〜やっぱお花見は寿司に限るよねー」
堪らない様子で舌鼓を打つ仕草を前に、俺は自然と笑顔を引き出された。
「そうか。旨いか」
「うんうん。用意してくれてありがとうクロム」
俺に向けて礼を言うと、エクスは口の中の寿司を飲み下すのを待たずに新しい寿司に手を伸ばしている。
「あんまり急いで食べると喉に詰まるぞ」
軽く窘めると、エクスは口をモゴモゴさせながら目だけを細めて笑った。
「だいじょぶ、だいじょぶー」
「ほらほら、とりあえず口の中のものを飲み込んだらどうだ?」
持参した水筒からカップに緑茶を注いで差し出してやると、嬉しそうに受け取ってグイと飲み干した。その様子を見届けてから、俺は少し声音を引き締めて呼びかけた。
「なぁエクス」
するとエクスは目だけを上げて応じた。「何?」と青い目が尋ねてくるのを、居住まいを正して受け止めた。
「チームペンドラゴンは今のところ連戦連勝だが、ここまでなかなかバードなスケジュールをこなしてきた。疲れが溜まって辛くはないかと、少し気になっていたんだ」
「んー? どうかなぁ……」
俺の問いに対し、エクスは大して思慮を働かせる素振りも無く皿の上の寿司に手を付けた。
「特に辛いとか疲れたとか思ったことはないよ。クロムと一緒にいると思いっきりベイバトルできるし、ボク楽しいよ」
清々しいくらいに純粋で能天気な答えが返ってきた。ベイバトルをすることがモチベーションの源泉ともいえるエクスのマインドは、そのタフさに俺自身時折舌を巻くほどだ。
「じゃあ、シグルはどうだ?」
エクスの方は心配無さそうだと見切りをつけて、続いてシグルに話を振った。
「私も別に。何もない」
「……そうか」
端的な返事をしてきたのも束の間、シグルは俺に向かって「お茶ちょうだい」と手を伸ばしてくる。彼女に緑茶を注いだカップを手渡してやりながら、俺は秘かに目の前の彼らを頼もしく思った。フィジカルもメンタルも総じてタフなチームメイトに囲まれながら、俺自身負けてはいられないと気持ちを奮い立たせた。
なにげなくエクスに目を遣ると、彼は頭に何枚も桜の花びらをくっつけたまま、それを気に留めることなく寿司を頬張り続けている。一体どうやったらその小柄な体躯に幾つも寿司が吸い込まれていくのかと、不思議で仕方がなかった。
「エクス。お前は本当に寿司が好きだな」
薄紅色のそれを軽く払ってやりながら声をかけると、エクスは目の前の寿司皿から顔を上げて大きく頷いた。
「うんっ! ボクは寿司とベイがあれば他になにもいらない!」
無邪気にそう言って笑うエクスの仕草には、年相応に子どもらしさが滲む。しかしひとたびスタジアムに立てば、圧倒的なベイ捌きと戦術で対戦相手を翻弄する。その抜群なプレイセンスは、いつだって見る者の目に鮮烈な興奮を焼き付けることを、俺はよく知っていた。
「二人とも、何かあればいつでも言ってくれ。できるかぎり対応する。これからもよろしくな」
俺がそう言ってエクスとシグルへ向けて差し出した手を、両者しっかりと握り返してくれた。
俺よりも一回り小さな、二つの手。その温かさの片方を今となっては手離してしまったが、俺は今でも忘れることができないんだ。
エクスと共に戦った日々は、このまま思い出になってしまうのか。
生馬の目を抜くような快進撃を続けるチームペルソナ──エクスとの距離がどんなに近づこうとも、次に会うときは敵同士だ。そう思い至った瞬間、ズキンという鋭い痛みが胸を撃ち抜くように駆けていった。
なぁエクス。俺たちは今こうして、離れた場所でそれぞれの春を迎えた。あまり考えたくはないが、もしかしたらもうチームメイトとして同じ桜を見ることは叶わないのかもしれない。
それでもオレたちが共にベイを輝かせた日々は、互いの人生のページに深く刻まれて、これからも息づいていく。
俺と同じように、エクスもそう思ってくれていたらいいのにと。そんな、届くかどうかもわからない願いを……離れてからもずっと、飽きもせず抱き続けていることをエクスが知ったら。
──エクスはもしかしたら、また俺の元に……。
「クロム」
感傷じみた随想に耽っていたとき、不意のシグルの声で現実に引き戻された。視線だけで応じると、彼女は俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「エクスが居なくて寂しいのね。それなのに『放っておけ』とか言っちゃって。……この強がり」
「……っ! 違う、俺は強がってなんか……」
シグルの指摘に対して、思わず少し大きな声を上げてしまった。図星を指されて動揺する俺の言葉を、シグルの静かな声が遮った。
「嘘。だってクロム、泣きそうな顔してる」
「……っ!」
咄嗟に息を飲むと同時に、彼女の腕に抱き寄せられた。スラリとした薄い胸板が、その細さにそぐわないほど頼もしく俺の心を抱きとめてくれた。甘えるように目を閉じた。少し顔を俯かせると、じんわりと二人分の体温が混ざり合った。そうするとまるで何かのスイッチが入ったかのように目頭が熱くなって、眦に涙が滲み出した。
「クロム」
込み上げる想いが堰を切って溢れるかに思えた時、不意に名前を呼ばれた。
「……。……何だ?」
「できれば泣かないほしい。……私のジャケット、涙と鼻水でグチャグチャにされたら困るから」
相変わらず平坦な声と飾らない言葉だ。それでも俺の涙の気配を察知したのか、接したシグルの体からは微かに戸惑うような気配がした。彼女を困らせてはいけないと思い直した時、涙は粛々と引っ込んでいった。
「……わかったよ。泣かない」
一拍置いてから、シグルの肩口からゆっくりと顔を上げた。近い距離で少しの間見つめ合うと、灰色の虹彩に自分の顔が微かに映り込むのが見えた。その表情を「確かに情けない顔だな」と思っていると、やがて彼女は不意に俺の髪に指を絡めて、そのうちの一房をそっと掬った。
「気に入ってるよね、このチャーム」
示された先に留まる銀色の龍は、かつてエクスからプレゼントされたものだ。当時、ペンを飾るために造られたこのチャームをエクスが髪に括り付けてくれた時のことを、今でも鮮明に思い出せる。
「ああ。これ、お気に入りなんだ」
「ふーん」
常に視界で揺れるエクスの存在。
彼は今までもこれからも、俺にとっては大事な仲間だ。この先共に戦う未来が訪れないとしても──俺はいつも……いつまでも彼を想う。かけがえのない思い出を、決して一つとして欠けることのないようにと。
「エクスは今までもこれからも、大事なチームメイトだからな」
「クロムって、エクスのこと大好きね」
相変わらず素っ気ないトーンで、シグルは思ったままを口にする。そんな彼女の前でなら、俺も飾らない言葉で胸を張れる。
「ああ。大好きだ」
「…………」
シグルは俺の言葉を受け止めるような沈黙を挟んでから、一旦伏し目がちにしていた視線を上げて、俺の目を覗き込んでくる。
「シグル……?」
「…………」
そしてほんの僅かに迷うような隙を経て、静かに口を開いた。
「私もね。クロムのこと、大好き」
彼女から告げられた言葉に思わず息を呑んだ。まさか俺のことをそんなふうに思ってくれていたとは、これまで思い至ることすらなかった。胸に熱く込み上げる喜びと驚きが、俺の一切のリアクションを封じてしまう。
咄嗟には何も言えずにいると、そんな俺を見据えていたシグルの眼差しに、ふと暖かな気配が満ちる。
「これからもよろしくね。クロム」
「……シグル……」
そう言って手を差し出してくれる彼女の表情には、笑顔や照れなどの情感は添えられていなかった。それでも目の前の灰色の瞳には、確かな親愛の光が見え隠れしている。
「ありがとう。俺もシグルのことが大好きだよ。こちらこそ、よろしくな」
リーダーらしく締めようと思って出した声には、ほんの少し涙の気配が紛れていた。僅かに感じた恥ずかしさを抑えつけて、俺は自分よりも一回り小さな手を握り返した。なめらかで柔らかい。その嫋やかな質感とは裏腹に、直接触れた指先や手のひらに、ところどころ硬い歴戦の証を受け止める。
俺は幸せ者だ。認め合える仲間に巡り会い、こうして同じチームで共に戦えることを誇りに思う。
刻み直した、仲間への感謝。そしてかつての懐古を胸に──俺は桜の世界に踵を返すと、シグルの手を引いて歩き出した。
春風が俺の髪をサラサラと揺らす。視界に入った銀色の龍は、陽の光を反射してキラキラと瞬いた。
じきに春も終わる。
廻り繰る季節の先には、早くも夏の足音が聴こえ始めていた。
──了──