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    n_n_avs

    @n_n_avs

    pixivから下げてきた供養小説置き場です。閲覧、リアクションありがとうございます😭嬉しいです💓

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    n_n_avs

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    🐉と🐢。アニメ本編の🚁搬送シーン以降のあれこれを妄想。🐉視点。
    pixivに掲載していたものをこちらに下げました。

    #龍宮クロム
    #神成シエル

    黎明のポラリス『────、────』
    『────! ────!』
     ブラックアウトした意識の静寂(しじま)が、端の方から徐々に明ける。水中を縫うかのように不明瞭な音が、ぼんやりと覚醒を始めた聴覚を刺激した。

    「────、…………、Xタワー…………離陸…………これより……、……搬送……」
     途切れ途切れに聞こえてくる人の声には、淡々とした緊迫感漂っている。
    『……了解。……、救急……待機します』
     無線機越しにノイズが混じる。これもまた人の声だ。
     次第に全身の感覚が鮮明になる。
     体の芯を揺るがすような振動、空気がうねる音、そして浮遊感──。現状況が何であるかを、過去の体験から掘り起こした。
     ここはヘリの機内だ。
     消毒液の匂いが鼻を掠める。そして今、己の肉体は妙に安定した床面に横たわっている。

    「搬送患者、龍宮クロムさん。意識なし。バイタルは、心拍90、呼吸35、血圧78、体温は36.8度です」
    「血圧低下、徐脈、発汗あり。また、軽度の脱水状態が見られます」
    「血管迷走神経反射性失神の典型的な症状ですね。しかし念には念を。総合病院に搬入され次第血液検査および脳波検査、CT、MRIの準備をお願いします」
    『了解しました』
    「輸液材の点滴をお願いします。低張電解質3号を500ミリリットル。それを2時間……いえ、3時間掛けて滴下しましょう。各臓器に負担がかかっている可能性も捨てきれません」

     耳元のやりとりは、おそらくヘリに搭乗している救急隊員と医師、そして搬送先の医療スタッフたちの会話だ。
     クロムは目を開けようとした。声を上げようとした。ところがまるで意志と体の運動機能が切り離されてしまったかのように、指一本動かせない。
     ただ茫然と慌ただしい気配に耳を傾ける傍ら、ぼんやりと記憶を辿る。そうしてクロムは、自身が仮面X戦の直後に失神したのだと理解した。
     
     黒須エクス。仮面X。

     その影が脳裏に閃き、具現の像を結ぼうとする。しかし関連する情報がクロムの思考や感情にアクセスしそうになった時、俄かに昏迷の靄が覆い被さってきた。
     まるで己の生命維持機能あるいは精神保持機能が、これ以上の破綻を防ごうとしているかのように、クロム自身から彼らの存在を遮断する。おそらく自覚している以上に、体は理解しているのだ。これ以上傷つく隙間の残っていない心が、既に限界であることを。

     そうして記憶の先へと辿り着けないまま、クロムの意識は再びゆっくりと、深い暗闇の底へと降りていった。



    ◇ 

     漠々とした黒い闇の中を、仄かに冷たさを含んだ風がそよいでいる。

     人間の精神世界には、過去を貯蔵する湖のような場所がある。清濁、そして美醜。玉石混交の記憶が、拭き清めたように澄んだ水の底に澱り、佇んでいる。
     クロムの自我はその水面の、一番表層に浮かんだ一隻の小舟の上に位置し、水底へと遠ざかる過去をひたすらに眺めていた。これまで生きてきた軌跡というのは決して平坦ではなく、記憶から跡形もなく取り除いてしまいたい過去の数など、挙げればキリがない程だ。
     しかし自らの手を湖の底へ向けて浸し、水を掻き分けて過去を攫おうとしても、その度に手の指の隙間を水が零れ落ちるだけで、決して過去には届かない。波紋が湖の縁まで及んでも、やがて何事も無かったかのように、緩やかに凪いでいく。

     黒須エクス。彼と過ごした記憶の数々は、クロムの精神世界が闇の奥底へと決潰するのを危惧しているかのように、水面下のどんな過去よりも輝きを放っていた。
     深く暗く、己の肉体までをも塗り潰そうとする闇に恐怖するとき、クロムはその見守るように優しい光に縋ることで、ひとときの安寧を得ていたのだ。

     ところが救いの光であったはずのそれは、次第に現実世界との軋轢を生むようになった。更新を重ねる水面が黒く淀んでいくのと逆行するように、その下の過去は燦然たる輝きを増していったのだ。  
     クロムはこの時既に、過去の残骸が現在進行形で此処に在るのだと盲信することに終始し、執着から得られる快感に依存し始めていた。

     やがて救いの光は、輝かしい思い出の数だけ束となり、それは美しい螺旋を描き、風に煽られ、愛憎を孕み、地獄の業火へと変貌を遂げた。
     分かっていたのだ。好きで好きで、何度も振り返っては愛していた過去が、甘美な地獄へと姿を変えていたということは。しかしクロムはそれを知りながらも、地獄に縋ることでしか人としての輪郭を保つことすらできず、禍々しくも美しい燈の海に魅入られていった。
     己の過去から生まれた地獄は、クロムに救いを授け、さも癒すようなふりをしながら、確実にその精神を蝕んでいった。

     しかしそんな偏執は、黒須エクスとのバトルの中でクロム自身が己の感情と向き合うことで寛解し、結果として執着の拠り所を喪ったクロムの精神世界は、不可逆的な闇の深淵へと堕ちて行こうとしていた。
     この闇に呑まれたが最期、もう二度とヒトとして還ることはできないのだと、覚悟を決めた。

     ──そんな時だ。

     崩落しかけた湖の水面──黒く澱んでいたはずの、最も新しい水面が淡く光を帯びた。
     クロムは仄かに暖かい気配を感じ、背後を振り仰いだ。すると、どこからともなく差し込んだ細い光が、まるでクロムを手招きするかのようにゆらゆらと揺れていた。幾筋も降り注ぐそれらが、水面を照らしていたのだ。
     滲むような煌めきは、これまで輝いていたどんな過去とも全く違う色をしていた。その情景が俄かに心の琴線を震わせた時、水面下に沈んだ過去の残骸も、地獄の業火も、徐々に視界では捉えられなくなっていった。不鮮明に揺らぎ、霞んでいく過去を眺めながら、しかしクロムは狼狽えることも、焦ることもしなかった。

     湖を囲む世界に明かりが戻れば、水面の下の虚しい灯りを、敢えて覗き込む必要は無い。

     その時クロムは、自身がかけがえのない縁をこの手に掴んでいるのだと、知っていた。





     
     一定の間隔で響く電子音が耳を打つ。 
     クロムは心電図モニターが自身の心拍を示す音で目を覚ました。瞬きのたびに、ぼんやりと眺める白い天井が左右にゆっくりと回転し、やがてピタリと静止する。

     眼球だけを動かして周囲を窺うと、すぐに見慣れた姿を捉えた。濃い色合いの金髪と、特徴的な髪型を見間違えるはずもない。

     神成シエルは、クロムが横たわるベッドの右側のスペースに置かれたパイプ椅子に腰掛けていた。少し俯きがちに頭を垂れて、小さな寝息を立てている。
     彼の胸郭が、呼吸に合わせて浅く上下する。背もたれに体を預けながらも、ピンと伸びた背すじとカッチリと腕組みをしている様子から察するに、おそらく熟睡してはいないのだろう。閉じられた目の下に、浅黒い隈ができていた。
    「シエ……ル……」
     その姿を認め、クロムは横たわった体勢のまま反射的に彼の名前を呼んだ。
     久しく使われずにいた喉は、ほとんど空気が声帯を通り抜ける音しか出せなかった。
     室内の空調の音にすら掻き消されてしまいそうなほどの、糸のように細い囁き声は、しかし体一つ分離れた距離にいるシエルに届いたらしい。
     途端、それまで閉じられていた彼の目が見開かれ、抜けるように透き通る翠色の瞳がクロムを捉えた。
    「クロムさん……! 良かった……気がついたんスねっ!」
     シエルが立ち上がった拍子に、ガタン、とパイプ椅子の脚がリノリウムの床を打つ。次の瞬間、大きな音を立ててすみません、と恐縮するシエルの白目は充血して、うっすらと赤くなっていた。
    「シエル……。もしかして、ずっと、俺のそばにいてくれたのか?」
     相変わらず、ひりついた喉では蚊の鳴くような声しか紡げない。それでもシエルはクロムに寄り添うように近づいて、的確に意図を汲んでくれた。
    「はい。チームペルソナとの試合の途中でクロムさんが搬送されたあと、昨日の夜9時ぐらいまでは社長と専務も、あとシグルさんもここに居たんスけど。……今は、オレ一人ッス」
    「昨日……?」
    「はい。既に日を跨いでるッス。今は……明け方の5時を少し過ぎたところですね」
    「そうか」
     どうやら半日以上、気を失っていたといたらしい。肝心の試合結果はどうなったのかと、ぼんやりと思い至る。しかし口に出して訊くことはしなかった。シエルも言及しなかった。

     シエルは手元のスマートウォッチに目を落とし、時刻を確認すると改めてクロムに微笑み掛けた。
    「クロムさん、ナースコールしましょう。目が覚めたら呼んでくださいって、看護師さんたちが言ってたッス」
    「ああ。分かった」
     クロムが手元のコールボタンを手にした時、俄かに病室の壁に、朱い光が線を描いた。光源に誘われるようにして窓に目を遣ると、シエルの背後に位置する窓枠に掛けられたカーテンの隙間から、陽の光が差し込んできていた。
    「シエル」
    「はい」
    「すまないが、カーテンを開けてくれるか」
    「了解ッス。ナースコールは、もう少し日光浴してからにしましょうか。……クロムさん、体を起こしますよ」
     彼に応えようと「ああ」と発したはずの声は上手く紡げず、クロムは一つ頷いた。
     シエルは視線だけで頷き返し、ベッド傍のリモコンを手に取り、クロムが横たわる寝台面の角度を調整してくれた。

     ガラス窓越しに、明けの空を望む。
     ちょうど生まれたての陽の光が、白亜の病棟群と、その周辺の街並みへと、刻々と満ちていくところだった。
     見上げた空の高い地点は薄黒い雲に覆われているが、地平線付近には隔てるものは無く、浅い角度で差し込む光芒は、しっかりと地上へと届いている。
     そして東の空の低い位置には金星が浮かび、一切瞬かないほどに揺るぎなく、灰青の中に佇んでいた。

     シエルはクロムの隣の付かず離れずの位置に立つと、並んで窓の外を覗った。
    「こうしてゆっくり日の出を見る機会って、なかなか無いッスよね」
    「ああ」
    「すごく、綺麗です」
    「……そうか」
    「クロムさん」
     不意の呼びかけに、クロムはシエルの顔に視線を寄せた。しかし彼はクロムの顔を見ないまま、静かな声で続けた。
    「クロムさんと見る世界は、いつだって綺麗です。オレ、クロムさんと同じ景色を観ている今が、幸せッス」
    「…………!」
     俄かにクロムの心を大きく震わせたことを知ってか知らずか、シエルは相変わらず視線を窓の外に移したままそう言った。
     シエルの横顔を、太陽が朱く照らしている。やや視線を下に向けているせいなのか、若干伏目がちの目元が、どことなく憂を帯びて見えた。記憶の中よりも妙に大人びたシエルを前に、クロムは何を言うよりも先に、すぐ側に立つシエルの頬へと、震える手を伸ばしていた。
    「シエル」
    「はい」
     呼び掛けると、シエルは普段よりもトーンを抑えた声で応じてくれる。彼の艶めく虹彩は、朱い光を透かして甘い色合いに輝いていた。
    「お前はなぜ、そんなふうに笑えるんだ?」
    「クロムさん……?」
     翠色の瞳は戸惑いを滲ませながらも、クロムの意図を汲み取ろうとするかのように、真摯に見つめ返してくる。
     その眼差しと結び合ううちに、心の底で澱り固まっていた何かが、クロムの中で俄かに融け出し、熱を放ち始めた。
     自分よりも幼く小さな彼が、必死に差し伸べてくれたその手を。クロムはこれまで数え切れないほど乱暴に振り払い、踏み躙り、傷つけてきたのだ。
    「…………!!」
     胸の奥底から、抑え切れないほどの悔恨の念が、噴きこぼれるように溢れ出した。情動のうねりの赴くまま、隣に立つシエルの腕を掴んだ。今、詫びなければならない。申し訳なかった、すまなかった、許してくれ、と。しかしクロムの口をついて出た言葉は、そのいずれとも異なっていた。
    「シエル……。どうして……。どうして、そんな優しい目で、俺を見るんだ……!」
     クロムが震える声で問い掛けると、シエルは目を見開いた。彼が息を呑んだ隙に、畳み掛けるように懺悔した。
    「俺は神成シエルの尊厳を破壊し、おまえが俺に対し抱いてくれていた憧れの気持ちを利用したというのに……」
     クロムの言葉を受け止めたシエルの目元が、僅かに眇められる。自身に降りかかった災禍を回顧しているのか。その精悍な顔立ちが、苦しそうに歪む。
     シエルは少しの間、返す言葉を纏めるように沈黙したが、やがて躊躇いがちに口を開いた。 
    「……確かに、初めてクロムさんから仮面を手渡されたあの日……つらくなかったと言ったら、それは嘘になるッス」
     シエルの視線は僅かに揺らぎがちではあるものの、決してクロムから逸らされることはない。
    「今ならわかるんですけど、オレはたぶんあの時……いえ、今も。クロムさん、あなたに……必要とされたかったんです」
     シエルの言葉が耳を打った瞬間、まるで雷に打たれたかのような衝撃が、クロムの胸を貫いた。
     目を見開いたまま微動だにできずにいるクロムを察したのか、シエルは紡ぐ言葉を一つ一つ選びながら、丁寧に語り掛けてきた。
    「オレは、初めてチームペンドラゴンのメンバーとして迎え入れてもらった日に、あなたの絶望に気付いてしまったんです。オレは、あなたと同じ痛みを感じたい、支えになりたいと願ったッス。たがらクロムさんがどんな形であれ、オレを必要としてくれたとき。本当にそのことが……信じられないくらい、嬉しかったッス」
     クロムは愕然とした。シエルは加虐者であるクロムを恨むどころか、彼自身が感じる痛みの中から、クロムの心を識ろうとしてくれていたのだ。
     痛々しいほどに健気なシエルを前に、クロムは咄嗟に返す言葉を見つけることができなかった。
     そうして僅かに流れた沈黙を破ったのは、シエルだった。
    「少し前の、クロムさんの言葉を返すようで悪いんスけど……」
     シエルはそう前置きをした後、姿勢を正してクロムへと向き直った。
    「俺は、黒須エクスの代わりにはなれないッス。仮面Xにもなれません。……いえ、なるつもりもありません」
     はっきりと言い切った彼の表情は硬いが、同時に清々しくもあった。そして彼は、これから一世一代の宣言をするかのように、一つ大きく息を吸った。 
    「でもオレ、クロムさんにオレのこと、絶対替えが利かない存在なんだって思ってもらえるように、めちゃくちゃ強いブレーダーになってみせますから!」
     見ててくださいねと、少し恥ずかしそうに笑うシエルの顔を見た瞬間、何かを考えるよりも先に、クロムの目から大粒の涙が零れ落ちた。
     ここに。今目の前に。いや違う、もうずっと前から──。自分を必要としてくれる人がいたのだ。その想いに報いたいと思う。
     過去に現在を費やし、あまつさえ己の虚無にシエルを巻き込んだ己の所業は、なんて愚かだったのか。
    「シエル……! すまなかった、すまなかった……本当に……すまなかった……!」
     クロムは狂ったように同じ言葉を繰り返しながら、シエルの胸に縋りついた。馬鹿げている。自ら虐げた相手の胸に顔を埋めて甘えるなどと。しかし止められなかった。彼に赦されたくて、堪らなかった。
    「おわっ、と……! ク、クロムさん?」
    「すまない、すまない、……っ、許してくれ……!」
     シエルは突然抱きつかれたことでわずかによろけたが、すぐに体勢を立て直してクロムの肩を遠慮がちに撫でてくる。自分よりも二回りは小柄で細いはずの彼の体躯は、頼もしくクロムを支えてくれた。
    「あー……、クロムさん、ちょっとすみません」
    「…………?」
     シエルは狼狽えるのも束の間、ちょっと待ってくださいね、と落ち着いた声音で一言告げて、自らのチェストベルトに手を掛けた。
    「これ着けたままギューってしちゃうと、邪魔になっちゃうんで。一旦外しますね」
     シエルはそっとクロムの抱擁から身を退くと、ベッド傍のパイプ椅子の上に、ランチャーとベイバトルパスを収納したそれを置いた。そして駆け足でクロムの元へと戻り、今度はシエルの方から腕を広げて、クロムを抱きしめてきた。
    「……っ!」
     自然としゃくりあげるのと同時に、新たな涙が滲み出し、シエルの胸元を濡らした。
     加減された、優しい抱擁だ。しかし本当は思いきり掻き抱いてしまいたい衝動を、彼の持つ優しさで、寸でのところで抑えているような力強さを併せ持つ。
    「シエル……ありがとう」
     心からそう呟いた時、頬を預けているシエルの胸が、ハッと硬直した。数秒間の沈黙の中で、彼の鼓動が駆け足になっていく。
    「……こちらこそッス。お礼なんか要らないッス。あなたが居てくれさえすれば……、オレはそれだけでいいんッス……、クロムさん……!」
     クロムがシエルの胸から顔を上げると、真正面に望んだ彼の瞳には涙の膜が張っていた。それはみるみる厚さを増して、もったりと波打ち、やがて零れ落ちた。
     シエルの頬を、次々と結ばれる雫が音もなく滑り落ちる。
     笑うでも悲しむでもなく、ただ澄んだ眼差しをクロムへと向けてくるシエルの虹彩に、陽の光が差し込んでいた。
    「これまで、俺がシエルにしてきたこと……許されるとは思っていない。償い切れるとも思っていない……」
    「クロムさん」
    「でもどうか俺に、献身や憧れじゃなく、真におまえが俺を必要としてくれるようなブレーダーになるチャンスを、与えてはくれないだろうか」 
     思い切って告げた余韻のせいか、クロムは体の芯が震えるのを自覚した。それは例えるのなら、まるで一世一代の告白でもしたような気分だ。
    「……はい。クロムさん……」
     クロム名前を呼ぶシエルの声も震えていた。
     感極まったように歪む顔を、純粋に愛おしく思う。己の心を温かく包み込まれるような心地良さを覚えながら、クロムはシエルの頬に指先を添えて、涙の跡をなぞった。
    「俺は弱いな。お前に強いブレーダーとは何かを説いておきながら、実際はシエルから強さとは何かを教えらた。歳上として、先輩ブレーダーとして……とんだ格好悪い話だよ」
    「い、いえ……オレはそんな……」
     シエルは自虐的なクロムの言葉を受けて、恐縮した様子で視線を泳がせた。しかし何を思いついたのか、不意に謙遜を引っ込めた。目の前の彼の表情に、勝ち気な笑顔が浮かぶ。
    「クロムさんの弱いところも、オレが鍛えて強しますから、心配はいらないッス! どこまでもご一緒させていただくッス!」
     シエルはニカッと笑顔を浮かべてガッツポーズを作ってみせた。
     その快活な笑顔につられてクロムも笑みを誘われた時。まるでそのタイミングを見計らっていたかのように、厚く垂れ込めていた雲の隙間から青空が顔を出した。
     
    「じゃあ、そろそろナースコールしましょうか。オレだけがクロムさんを独り占めしてたら、ダメッスよね」

     シエルはそう言って、ゆっくりとクロムの体を引き離した。
     彼は未だに水浸しの自身の目元を拭うと、ベッド傍のナースコールボタンに手を伸ばした。
     彼の指先が白いスイッチの上に掛かる様子を見下ろした時、その拍子に新たな涙がクロムの頬を伝う。
    「え、クロムさん? 大丈夫ですか?」
     するとシエルが、空かさず気に掛けてくれた。今度はシエルがクロムの頬を拭う。少しささくれ立った指先は、くすぐったいくらいに温かい。
    「ああ。大丈夫だ」
     顔を上げると、シエルと目が合った。間近に望む彼の瞳には、格好悪く微笑む男が一人、映り込んでいた。

     やがてパタパタと、リノリウムの廊下の先から複数の足音が近づいてくる。
     次第に大きくなるその音を感じながら、クロムは自身の胸中に、一つの核が宿るのを自覚した。その決意は、昏い水底を満たしていた闇すらも押し破り、世界を明るく照らしていく。

     ふと窓の外に視線を馳せた。
     いつのまにか東の空に浮かんでいた金星は、陽の光に押し流されようにして、青空へと溶けていった。
     その情景に一抹の寂しさを覚えたとき、クロムは不思議と、「前を向け」と言われた気がした。

     シエルが病室の扉を開けた。彼は廊下に出て、やってきた医療スタッフたちに向けて手招きをしている。

     下を眺めるのはもう終わりだ。
     見上げれば、一度として同じ空模様にはなり得ない、無限の未来が其処にある。
     持ちうる力の全てを懸けて挑み続けていきたい。
     許される限り。この先もずっと、シエルの隣で──。

     

                ──了──
     
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