「みんなはもう接吻の経験しているの?」
ほわほわした長閑な口調の問いかけにその場にいた面々はぴたりと身動きを止める。
事の発端は守一郎のひそひそ話だ。
夕飯時、同学年のうちたまたま時間が合った五人が長屋の台所に集まっていた。い組の喜八郎と滝夜叉丸、ろ組の三木ヱ門と守一郎、は組のタカ丸である。分担して持ち寄った米を炊き、味噌と豆腐で汁を作り、川魚を焼いた。食に関わる場での言い争いは腹が空くだけでいいことがないと過去に痛感しているため、互いに対抗心を燃やすナルシスト二人も淡々と手を動かしている。無言でも連携が取れるのは曲がりなりにも三年以上共同生活を送っているからだ。喜八郎はいつもこうなら静かで良いのにな、とぼんやり思う。
米が蒸し上がるまで待つ間に、守一郎が「そういえば俺、見ちゃったんだけど」と控えめに切り出した。
用具委員会の活動で単独荷の移動をしていた途中、倉庫の物陰でろ組の同級生とくのたまが人目を忍んで会っている様子を目撃したらしい。ぴったりとくっ付いて幸せそうに語らい、別れ際に頬を染め合って口付けた。それをずっと見ていたのか、三木ヱ門の胡乱げな視線に対し、気付かれたらまずいと思って出るに出られなかったんだもん、と言ってしおしお肩を落とす。ともかく、守一郎はその同級生のため見なかったことにして忘れるべきと頭ではわかっているが、重なるふたりの影が脳裏にはっきり焼き付いてしまい、親しい間柄の面々が揃った今つい吐露してしまったということだ。
原則忍たまとくのたまが男女の関係になることは禁じられていた。それでも良い仲になってしまうと学園の中でこっそり逢瀬を交わすようになる。噂話が好きなタカ丸や対象と同級である三木ヱ門は、忍者の三禁を破る蛮勇の正体を聞き出して、わーとかきゃーとか盛り上がっていた。喜八郎にはとくに印象のない名前だった。滝夜叉丸が神妙な顔つきで黙り込んでいる。大方、誰かに見られている時点で忍べていないし、下級生もよく通る用具倉庫付近で落ち合うとはなんと浅慮であるか、と腹を立てているのだろう。
そして話が落ち着こうとした頃に、タカ丸は人差し指をぴんと立てて言ったのだ。接吻の経験は如何に。
同じ学年だが年上であり、女性あしらいが上手な彼からふんわり問われ、誰が口火を切るか窺っている。沈黙が重くなる前に三木ヱ門がコホンと咳払いした。
「私は、ある!」
どんと胸を張った。守一郎が同室の宣言に目を瞠る。
「えっ三木ヱ門そうなの? いくつのとき?」
「十歳だ。あれは入学して間もない頃……彼女とふたりで散歩をしていたら、普段よりずっと心が通じていると感じてな」
「一年生で? おー、都会の子はやっぱり進んでるんだなあ」
「守一郎、守一郎! 真面目に取り合うな」
滝夜叉丸がそっと耳打ちする。その間も三木ヱ門の彼女との美しい思い出語りは続いていた。
「それまではうまくいかないことも多かったが、いまならいけると確信して、的に向けて放った砲弾がなんと! すべてど真ん中に命中したんだ! 嬉しかったなあ。感激した私は思わずユリコに口付けてしまったというわけさ。唇が熱かった」
「撃ったばかりならそりゃあね」
「熱こもっちゃうよねぇ、ユリコちゃん」
釜の蓋を開ける。良い具合に米が蒸しあがっていた。各自が椀によそう。
杓子でぺたぺたご飯をこんもり盛っていた守一郎が「俺はまだなんだ。喜八郎は?」と言った。自分の順番をさらっと飛ばし喜八郎に引き継ぐ。火器への情熱的な愛を綴る声が途切れた。
「僕は……」
斜め上に視線を巡らせ考える。
初めての接吻。
「僕も十歳だったかも」
喜八郎は思い出を振り返りぽつり呟いた。
⭐︎
一年い組は先日教科の授業にて遁術を習った。
忍者が敵から身を隠したり、陽動や撹乱により追跡を躱す術である。木、火、土、金、水。これらを五遁の術と呼ぶ。
水遁の術を実技の授業で実践的に学ぶ前に、一年生は全員泳げるようになること。先生から水練の話を聞かされたのもその時だった。
忍術学園にはさまざまな生まれの子どもが入学してくる。川や海が身近だった場合を除いて、泳ぎの経験どころか水に浸かったこともない生徒が大多数だ。水の中では息ができない。泳げないことは死に直結する。担当教師は水難の恐ろしさを散々言って聞かせ、では来週水練を行うと宣言したのだった。
浅葱色に井桁模様の制服を着た喜八郎は、同室の滝夜叉丸に連れられて学園の敷地内にある池へ足を運んだ。
いい陽気の午後。本当は穴を掘りに行きたいが一緒に来て欲しいと頼まれてしまった。いつもの調子できゃんきゃん騒いでいるだけだったら無視したけれど、妙に殊勝な態度だったので受け入れることにしたのだ。
「滝夜叉丸ぅ、なんだってこんなところに用があるの?」
「うん。実はな喜八郎、秘密にして欲しいのだが、私は泳げないのだ」
池の前で滝夜叉丸は苦渋の表情を浮かべる。
「小試験で満点手裏剣は百発百中の学級一優秀な一年い組平滝夜叉丸にかかれば泳ぎなどすぐに習得できるに決まっている! が、それはそれとして風呂以外で腰まで水に入ったことがないし水面に顔をつけたこともないので、来週の実技の授業に向けて水に慣れておきたいと考えた」
「秘密もなにも、うちの学級漁村出身の奴以外泳げないってわかってるよ。だから先生も一年生は水に入って体を慣らすところから始めるとおっしゃっていたんだし、みんなと一緒に教わるんじゃだめなわけ?」
「……だめだ。桜木先輩に無様な姿をお見せすることはできない……」
池のほとりから水面を覗き込む。水草の陰をめだかが素早く通り過ぎた。
喜八郎はなるほどと首肯する。名前が出た人物のことはよく知っていた。四年生の桜木清右衛門——滝夜叉丸の憧れの先輩だ。線の細い優美な相形の実力者。彼のようになりたいと日々後ろをついて回り、拙いながら所作を真似している。桜木先輩がどれほど強く美しいのか、格好良いのか散々聞かされているおかげで喜八郎まで先輩の情報に詳しくなった。
一年生はひと学級の人数が多い。水練は裏山の川で行われる予定だが十人余りが一斉に水の中へ入ると教科、実技の担当教師二名のみでは目が行き届かない恐れがあり、泳ぎの達者な上級生が監視の補助に付くという話だった。桜木先輩はその一人だ。
「この池、三年生の先輩のおひとりがざぶざぶ水の中を歩かれているのを見かけたことがある。さほど深くないのだろう。私が入っても大丈夫だと思う。喜八郎はそこで見ていて、万が一のときはこの縄を池に投げ入れてほしい」
滝夜叉丸はそう言って上衣を脱いだ。渡された長い苧綱が両手にずっしりのし掛かる。
池には川のような流れも海のような波もない。三年生が水底に足をつけて歩けるのなら大丈夫か。木々に囲まれた空間に陽が差し込み水面がきらきらと輝く。喜八郎は水際の地面に座り込んだ。
「よしじゃあまず水の中に入って……足からそうっと……つめた!」
水深は滝夜叉丸の胸元まであった。水の抵抗を受けながらゆっくり歩いてみる。それから池の堤に手を置いて、水面に顔をつける練習を始めた。しっかり息を吸ってから慎重に。ぷくぷく空気の泡が浮かぶ。
よく努力する子だ。絶対に口にはしないけれど喜八郎は彼の真面目で頑張り屋な一面をすごいと思っていた。日夜勉学に励み体を鍛え委員会活動にも意欲的だ。滝夜叉丸は先輩の推薦で体育委員会に所属しており召集されては地獄のような走り込みを強いられている。初めの頃はすぐへばって倒れ込み、不甲斐なさに顔をべしょべしょにして泣いた。暗い自室でうずら隠れする背中をさすって慰める夜がしばらく続いたのは同室ふたりの秘密である。だが悔しさを跳ね除けてどんどん逞しくなっていく。きらきら眩しいほどに。
泳ぎだってきっとすぐ習得するだろう——喜八郎はそこでふと目を丸くした。
滝夜叉丸が消えた。
先ほどまで自分を鼓舞しつつ水に顔をつけてぱしゃぱしゃと泡沫を作っていたのに。
いない。
ぞっと背筋が凍った。苧綱を掴み立ち上がる。
「滝夜叉丸! たきやしゃまるどこっ」
傍の喬木に縄の端を巻きつけ結び、もう一方の端は自分の腰に括った。手が震える。
喜八郎は堤を勢いよく滑り降りて水の中に飛び込んだ。ざぶざぶと波を起こして数歩進んだが滝夜叉丸は池のどこにも浮いていない。意を決して大きく息を吸い込み潜った。制服が水を吸って鉛を着ているようだ。懸命に水の中で目を凝らす。
滝夜叉丸は水底で静かに沈んでいた。思わず名前を呼ぼうと口を開き、ごぼりと空気が漏れる。苦しさを堪えて腕を伸ばし小さな体をきつく掴んだ。足に踏ん張りを効かせ滝夜叉丸ごと浮上する。
「はあっ……はっ……」
息ができる。空が見えた。
沈んでいた場所はほとりからそう離れてはいなかった。木と喜八郎を繋ぐ縄を頼りに陸へ向かう。
「……えい、っや!」
なんとか引き上げて滝夜叉丸の体を仰向けで横たえた。
「滝夜叉丸、返事して。滝夜叉丸!」
呼びかけながら肩を強く叩く。喜八郎は混乱の中、授業で先生がなんと講釈していたか懸命に思い出した。溺れた者を見つけたときは一刻も早く引き上げること。意識があるか確かめる。呼吸をしているか見る。
「息、息しないと、しぬ……」
瞼を閉じぴくりとも動かない滝夜叉丸の容態を冷静に観察することは、この時の喜八郎にはひどく困難だった。心の臓が動いているか、胸や腹は上下に動いているか。
ひとえに滝夜叉丸が意識を取り戻すこと。
それだけを望み、唇を重ね合わせると、ふーっと息を吹き込んだ。
⭐︎
夕餉を盆に載せ台所から移動する。和気藹々と車座になり食事になる日があれば自室に散って食べることも、縁側で横一列に腰掛けて星を眺めつつ食べ進める夜もあった。大抵の場合、喜八郎は前を行く同級生の選択に黙って倣う。
「おい、喜八郎」
すっと横に並んだ滝夜叉丸がやけに小声で名前を呼んだ。
「なに?」
「さっきの話なんだが、一年のとき誰と接吻したんだ……? 私は初耳だぞ」
眉を寄せた不機嫌な面をあらわにする。その話題まだ続けるのかとげんなりした。ついうっかり正直を零したせいでその場にいた全員に囲まれ追求と囃し立ての目に合ったわけである。喜八郎は黙秘を貫いた。この一行ではいかにも経験豊富そうなタカ丸に出番を譲り逃げたというのに。
「そうだっけ」
あの苦い出来事——溺れた滝夜叉丸をなんとか引き上げたのち。たまたま池の側を通りかかった先輩が喜八郎の助けを乞う声に応じ、滝夜叉丸の容態を確かめ、医務室まで連れて行くのを手伝ってくれた。沈んですぐ気付けたおかげで滝夜叉丸はほとんど水を飲まずに済んでいた。適切な処置を施した校医の新野先生は人が溺れるときは呼吸をすることに精一杯で声を上げることは出来ず、静かに早く沈んでいくと言った。とくに子どものほとんどは何が起きたかさえわからないのだと。これは後世で本能的溺水反応と提唱された現象であるが、医者である新野は水の事故があると周囲に状況を聞き出し、長年の経験から推察しているようだった。
先生方は喜八郎と滝夜叉丸が池の周りで遊んでいたときに足を滑らせ落ちたと処理した。一年生が二人だけで水練の予習をするとは考えもよらない。喜八郎は友のささやかな名誉を思って本当の経緯は伏せておいた。溺れた本人は意識が戻ってもぼんやりしており自分から言い出すこともなかった。
その日溺死の可能性さえあった滝夜叉丸は、幸い水に過度な恐怖心を抱かず授業での水練が開始すると予想通りいち早く泳ぎを覚えた。
「滝夜叉丸、止まって」
やんわり命ずると物言いたげな様子でありながら足を止める。なんだ、と小首を傾げる滝夜叉丸が可愛くも憎らしい。
懐かしく怖い思い出。
あれから夜中に目が覚めるたび隣を見ては、息をしているか確認しないと気が済まなくなった。元々寝相が良くやたら静かに眠る相手だ。鼻先に自分の頬を近づけて擽ぐるようなか細い空気の流れを感じ安堵する。誰もこの子を天へ連れていかないで、どうか側にいて。祈るように口付けてそっと呼吸を合わせる恐ろしい夜の日々を、滝夜叉丸は未だ知らない。
喜八郎は盆を片手で抱え、利き手を伸ばした。
親指で滝夜叉丸の形の良い唇をなぞるように触れる。
「そのうち教えてあげるかもね」
おまえは自分の初めてが二週間前の新月の夜のそれだと思っているだろうけど。
何度も繰り返し奪われ初めての接吻などとうの昔に済ませているなんて告げたらどんな顔をするかな。喜八郎はどうにも複雑な心境でくすりと笑った。