スーパースターにも人恋しい夜はある。
「アンディ、ただいま」
帰宅してすぐ通る声で呼びかける。AI音声認識スピーカーが反応して照明が点灯しエアコンが稼働した。天井の吊り下げ照明のほかにきのこの傘のようなフロアランプや星形のテーブルランプが一斉にやわらかな明かりを広げる。この家に間接照明を取り入れたのは自分だ。上品でふんわりと優しい光がゆったりリラックスできる空間を作る。反射する面の質感や凸凹により光の映え方も変わるので天井材や壁材にもこだわった。けれど広々した部屋の中に一人きりだと寂しい影を生むだけだと知る。
ほんの少し前まで華やかな場所で笑っていて、一番安心できる家に帰ってきたというのにひとりぼっちで放り出された気分になる。それもこれも家族同然の同棲相手がずっと留守にしているせいだ。仕事だと理解しているけれど電波の届きにくい場所にいるせいでなかなか声も聞けない日々が続いている。
ふうと溜め息を吐いた。好きな音楽を流して気を紛らわせようか。ソファに鞄を置くとごとり重い音がして、貰い物の存在を思い出した。
きれいな淡いピンク色の酒瓶。愛知の酒造で製造された薔薇の梅酒だそうだ。最近飲酒可能な年齢になり少しずつ酒に慣らしている途中だが、きみにぴったりだと思って、と仲間から贈られた品だった。
食器棚から透きガラスの江戸切子を取り出す。六角形の亀甲文様と細やかな鱗の魚子紋様を組み合わせたモダンな印象の仕上がりであるそれはペアで購入したオールドグラスだ。かち割り氷の上から酒をしずかに注ぐ。ふわりとローズの香りが鼻腔をくすぐった。ロックで呷る無謀はせずソーダ水を追加した。
唇を濡らす程度にちびちび飲んでいても心細さは薄まらない。
「配信するか」
うん、と一人頷く。いい考えだと思った。ファンは喜ぶし自分は楽しい。
平滝夜叉丸、職業アイドル。いつだって世界が私を待っている。
「――こんばんは。みんなのスーパースター、平滝夜叉丸だ! もう遅いのに見にきてくれてありがとう」
ダイニングテーブルに配信用のスタンドを用意してさっそく始める。余計な情報は映さないよう画角は十分注意した。本人と壁に掛けた絵画が配信画面に切り取られる。ゲリラ配信にも関わらず通知に気付いたファンが開始直後から続々と集まってくる。コメント欄が一気に賑やかになり、目で追えないほどのリアクションをくれた。
「これお酒。ちょっと飲んでる。ふふ、タカ丸さんにいただいたんだ。美しい色だろう? 春にはまだ早いが花を愛でているみたいで楽しい」
からんと氷が涼やかな音を立てる。
滝夜叉丸は五人組のアイドルグループに所属していた。全員が同じ高校出身で、梅酒の送り主であるタカ丸だけ二つ年上だがほかは同級生だ。早生まれの滝夜叉丸が誕生日を迎えて、これでみんなでお酒が飲めるねと喜び浮かれてパーティを開いたのは記憶に新しい。
「いつもの配信部屋と違うって? そう。ここはリビング。壁だけだけど初公開だな。私のご機嫌な笑顔と一緒に保存しておくといい。はいチーズっ」
アイドル活動は多岐に渡り個人配信でのファンサービスも怠らない。自宅には配信機材を揃えた書斎があった。そこで配信すると背後には滝夜叉丸の祭壇――自分自身の写真やポスター、グッズがこれでもかと飾り付けられたスペースが映るので、今夜は別の部屋で配信していると視聴者はすぐに察することができた。滝夜叉丸オタクの最古参は滝夜叉丸、とは界隈でよく囁かれる共通認識だ。全力で自分の推し活をしているアイドルを推すファンの構図を外野は面白がるけれど、滝夜叉丸も滝夜叉丸のファンも真剣だった。
「飲んでると小腹が空いてきた。少し離れるから待ってて」
途中離席してキッチンに立ち、冷凍庫のフライドポテトにオリーブオイルを和えてトースターで加熱する。
配信スペースに戻ると皿に抑え気味で盛った芋を食べながら再開した。甘いとしょっぱいが交互に口の中を満たして美味しい。
頬杖をついて、後ろの壁を指差す。
「飾ってあるこの絵は私のお気に入りなのだ。作者? 悪いがそれは答えられない。ある高校の学園祭で展示された作品でな、無名の学生が描いたものだから。一目見て好きになってしまい、どうしても欲しいとねだってねだって貰い受けた、私だけの絵だ」
一見してそれは空を描いた油絵だ。キャンバスの中心に円形の晴天。円の外は暗い色で塗りつぶされ、紺碧が鮮やかに浮き上がる。一筋流れる雲の白さが強い日差しやまとわりつく熱気まで伝えてくる深く濃い青を際立たせた。
滝夜叉丸が得意そうにふふんと笑う。その頬はほんのり赤く染まっていた。
「なんだ急にコメント増え、わ、読めない。待て、私は可愛いのではなく美しいのだ。可愛いは三木ヱ門や守一郎に言ってやれ。あいつらは可愛い枠」
名前が出たついでにメンバーの話をぽつぽつ呟く。ライブの裏であった出来事。撮影中のアクシデント。訓練されたファンは滝夜叉丸の自慢や夢物語を喜んで聞くが、仲間の話題はまた別で盛り上がった。
ふいにチャット欄から「綾部くんは何枠?」という文章を読み取る。
「喜八郎……」
底に残っていた梅酒を飲み干してグラスから手を離す。唇がメンバーの一人である綾部喜八郎の形を作ったあとから黙り込んでしまい、配信の空気が変わった。
目立つことが好きでぐだぐだ舌が回る滝夜叉丸と飄々としてマイペースな喜八郎。ふたりは公の場での接触がほかのメンバーと比べて少ない。持ち歌の演出ではシンメになることが多く、歌や踊りの相性はぴったりなのだが、トークはちぐはぐで視線が合わないことで有名だった。巷では不仲説が定着している。
同接はどんどん増えていて滝夜叉丸の動向を見守る。推しに振る話題の選択を誤ったかとフォローに回るコメントがちらほら上がった。
「きはちろうは、格好良いよな」
ぽやんとした小さな声をマイクに拾われた瞬間、リビングの扉が開かれ「ただいまぁ」とのびやかに響く挨拶があった。
「あ、滝夜叉丸いた。全然返信ないからもう寝ちゃったかと思った」
ボストンバッグを担いでたった今帰宅した綾部喜八郎は、卓上配信スタンドのリングライトに照らされスマホに向き合う滝夜叉丸の姿を見つけて、きつく眉を寄せる。
「なに。配信中? 知らせてからにしてっていつも言ってるのに。おまえのSNS通知全部切ってて気付けないんだから」
「き、きはちろ。帰ってきたのか。予定より早くないか?」
「巻いたの。帰国便変更したこと連絡したんだけど、その様子だと見てないね」
「スマホ電池切れで……」
あわあわと立ち上がって言い訳する。うっかり充電を忘れたせいでプライベート用の機種が使えなくても、仕事用があるからメンバーやマネージャーとの通信やこうして配信する分には問題なかったのだ。
喜八郎は呆れた様子で首を振る。灰色のふわふわした髪がしなやかに揺れた。
思いがけない人物の登場に配信画面ではこれまでの比でないほど爆速でコメントが流れる。阿鼻叫喚。
「はぁい、綾部でーす。みんなごめんね、今夜の配信はここまで。滝夜叉丸にはあとで謝らせます。おやすみ。よい夢を」
そんな中カメラに完璧なアイドルスマイルを映し、喜八郎は一方的に配信を切った。スタンドから外し渡されたスマホは画面に触れても全く反応がなくご丁寧に電源まで落とされていた。
「滝夜叉丸、お酒飲んでるでしょ。なんか甘いにおいする」
不機嫌そうにすんと嗅ぐ。
はたちになりたてなので喜八郎のいないところでは飲酒を控えるようきつく言われていたことをこの期に及んで思い出した。酔って何をしでかすか分からないからと。エタノールパッチテストまで受けて自分の体質を知られているせいで強く反抗もできず、また喜八郎が側にいる安心がありその通りに従っていたが、今夜はつい気が緩んでしまった。自宅で一人なら迷惑をかける相手もいないと思った。
「タカ丸さんにいただいて。ほらあれ。きれいな色だろ」
「うん。知ってる。タカ丸さん僕のところに連絡くれたもの。ふたりで一緒に飲んでねって」
「……すまん」
約束を違えて決まり悪く滝夜叉丸は殊勝に項垂れる。
腕を取られ、ぐいぐいと引っ張られた。足が素直に付いていく。
向かった先は寝室だ。ふたりで暮らす家の中でここだけは絶対にカメラの類を持ち込まないという取り決めがある。一番広い間取りの部屋にはダブルベッドがどっかりと占めている。ルームシェアの発覚だけならともかく、ひとつのベッドに一緒に寝ているなどと万が一にも流出したらアイドル生命の危機だ。他人を招いた際に誤魔化せるよう喜八郎の寝室としてシングルベッドを置いた部屋も用意してあるが、越してきてから一度として使用した試しがない。
インテリアはすべて滝夜叉丸の好みで整えた。壁紙やカーテンの素材、色。家電や観葉植物。キッチンの設備。恋人が言葉を挟んだ唯一の家具が、最高級の寝心地を追求したダブルベッドだった。
リビングと寝室を繋ぐ扉を喜八郎は後ろ手でゆっくり閉めた。細く失われていく光に、アンディと呼びかけ寝室の照明をオンにするコマンドを唱えようか迷った。けれど口を開く前に、ぎゅっと抱きしめられる。
「ほんものの滝夜叉丸だ……」
久しぶりに感じる体温と優しい仕草。
一口にアイドルと言っても二人はそれぞれ得意分野が異なった。歌とダンス以外では、滝夜叉丸はそのキャラクターを活かしたバラエティ番組に、喜八郎は高い演技力が評価され役者業に忙しい。彼がしばらく留守にしていたのも映画の海外ロケに赴いていたためだ。
「お疲れ様。海外は勝手が違って大変だったろう」
「一生一緒にいられると思ってこの仕事選んだのに、一ヶ月も離れ離れになるなんてほんと意味わかんない」
大きな背中へ手を回し、ぽんぽんと慰めに叩く。
幼稚園で出会ってから中学に上がるくらいまでは同じ目線で変わらなかった背丈は、成長期を迎えて徐々に差がついてしまった。二十歳を過ぎた現在は拳一つ分の開きがある。
「明後日からは同じ現場だぞ。レギュラー番組の収録がこれでもか詰め込まれてるし、レッスンだって」
「わかってる。その前に、明日のオフ、死ぬほど満喫する」
耳元で低く唸るような声がした。
重たいカーテンが月と街明かりを拒絶する。暗闇の中で近づく気配に目を閉じた。
一月ぶりのキスはアルコールとオリーブオイルの味がした。
喜八郎が目の前にいて触れ合える感激に浸る間もなく、かぶりつくような荒々しい口付けに変わる。
怖いくらいの勢いに一歩、二歩と後ずさればすぐそこにベッドがある。
おかえりをまだ言えてないんだが、と声を出すため唇を少しでも離そうとすれば余計束縛が強くなる。頭をしっかり掴まれて、たまに指先で襟足の刈り上げを撫でられるのがくすぐったい。滝夜叉丸はちょっとやそっとじゃ逃れられないことを悟る。
死ぬほど満喫――。喜八郎の言葉の意味は、月が沈み空が目映く輝き始めてからも自分の意思ではベッドから一歩も出してもらえない時点でようやく、心底思い知る羽目になった。