結び1. 1 婚姻手続きループ現象について
結婚っていいな。
それがカーヴェの、幼少期の結婚に対する印象だった。
己の人生で最も幸せと運に恵まれていたのは、生まれてから数年くらいである。その当時、両親は自他共に認めるおしどり夫婦であった。まだ建築における寸法の測り方も知らなかったカーヴェでも、己の親が非常に仲睦まじい夫婦であると理解していた。彼らは同じベッドで眠り、挨拶の代わりにキスを送り、慈しみの証としてハグをした。
愛と思い遣りに溢れた両親の振る舞いに、結婚への憧憬は募るばかり。
ーーー ボクも大きくなったらステキなお嫁さんと結婚して、幸せな家をつくるんだ!
結婚生活における苦難や妥協は分からずとも、愛し合うことの真理だけは知っていた少年だった。
「くそ...幸せな結婚をするはずだったのに....」
「嘆くのなら、自身の酒癖の悪さと乏しい反復学習を嘆くんだな」
「君だって共犯だろ!?なんで止めなかったんだよ!」
「俺のアルコール許容量は一般人の平均値より少し高い程度だ。当然、量が過ぎれば酔う」
「そう言われてみれば、酔っていたな...」
カーヴェの弱々しい嘆きは法務部の扉の奥へと吸い込まれていった。
アルハイゼンと二人で訪れた教令院の法務部で、室内の視線がいっせいに集まる。
「あーーー.......その、ちょっといいかな、君。事務手続きをしたいんだが」
「離婚届ですかな?」
手近な職員をつかまえて囁けば、なぜか先手を打たれてしまう。どうして自分たちが離婚届を出しにきたと分かったのだろう。カーヴェは慌てて声を抑えるよう初老の職員にジェスチャーする。背後ではアルハイゼンが興味なさげに壁によりかかっていた。おいおい、少しは慌てろよな!僕たちの"離婚"だぞ
「この件は内密に頼むよ!離婚届を出したことも、結婚届を出したこともだ。特に相手がコイツだってことはくれぐれも秘密にしてくれ」
「あら、それはどうしてかしら?」
「僕がアルハイゼン相手に何度も結婚と離婚を繰り返してるなんて、そんなこと世間に知れ渡ったらどんな噂をされるか分かったもんじゃない!」
「噂というと、”アルハイゼン書記官がカーヴェさんの求婚を断って離婚するのは、他に好きな人がいるからだ” といったものかしら」
「そうそう、それじゃあ僕が無理やりアルハイゼンに結婚を迫っているみたいだろ.......うん?」
「わたくしも、ちょうど噂の真偽が気になっていたところなの」
「クラクサナリデビさま!!!?????」
カーヴェがつかまえていた初老の職員のすぐ脇に、我らが聡明なる草神さまがおわすではないか。驚愕で数センチ飛び上がったカーヴェは、周囲の職員たちが浮かべる呆れた表情に気づいてしまう。どうやら己たちが訪問するより前から草神はここに滞在していたらしい。
まさか世間どころか草神さまにも知られているなんて、なんてこった...
「はぁ。さっさと手続きを済ませろ」
「こんにちは、アルハイゼン。先ほどの噂について、ぜひ貴方の見解が知りたいわ」
「君の探究心を満たすには、根も葉もない噂では不十分だろう」
「ふふ。そんなことはないわ」
僕も噂の真偽なんてアルハイゼンの口から聞きたくなどない。どうせ論文の最低評価Cマイナスよりも容赦ない返答が返ってくるに決まっている。本人が言っていたとおり結婚届の提出を止めなかったのは、酔っていたからだろう。アルハイゼンの表情筋はほぼ役目を放棄しているが、それでも昨晩の彼は口角が3度上がって目尻が2ミリ下がっていたから、確かに酔っていたはずだ。酔狂の果てにカッコいい先輩と結婚してもおかしくはない、うん。
「噂の真偽を明確にすれば、繰り返される婚姻の手続きに終止符を打てるわ」
「仰る通り」
「あなたたちの結婚は16回、離婚は15回だそうよ。動物の中には特定の番を持たずに交尾を繰り返すオスとメスもいるけれど、人間のそれにしては数が多いんじゃないかしら?」
「ごもっとも」
「今回16回目の離婚をしても、17回目の結婚が発生する可能性が高いわ。法務部の業務範囲とはいえ、繰り返される手続きの意義を明らかにしても良いんじゃないかしら」
「全くもって同意です」
小さな草神の一言一句に、初老の職員をはじめ皆がうんうんと深く頷く。どうやら彼らはカーヴェたちの傍迷惑な騒動に辟易しているらしい。だからって草神さまにチクるなんて卑怯だぞ!
「それにね、わたくしは知りたいのーーー"愛"というものが何なのかについて」
「人間の愛について学習するのに、なぜ俺たちの婚姻が参考材料になると?」
「結婚も離婚も愛にまつわるものであり、このテイワットで番を得るのに書面上の手続きを必要とするのは人間だけだからよ」
おお....なんてシンプルでわかりやすい回答なんだ。やはり僕たちの草神さまは聡明だな。思わず職員たちと一緒にうんうん頷いてしまったカーヴェは、すぐさま我に返る。いけない、話がややこしくなる前にさっさと手続きを済ませたほうが良さそうだ。
「意義を明かさないまま手続きを繰り返して、業務を逼迫させることは貴方の主義からも外れているはずよ? アルハイゼン、貴方の今月の残業時間は?」
「……わかった。それで、クラクサナリデビ様にはどのような提案があると?」
「安心して、貴方もきっと興味が湧くはずよ。貴方とカーヴェでディベートをしてはどうかしら? 論題はーーー」
「貴方たち2人は結婚するべきか否か」
何を突然言い出すのだろう、この神さまは
僕たちの婚姻をどうするかなんて僕たちが決めるべきことだろう、なぜディベートなどしなければならないんだ。スコールの予兆のように瞬く間に暗雲が胸中に立ち込める。カーヴェの首筋に冷や汗が流れるも、職員たちの間では感嘆のどよめきが上がっていた。こら、拍手するんじゃない!
「審判はわたくしが務めるわ。このディベートを行うことで、貴方たちは人生における重要な選択の一つである婚姻について結論が出せるし、わたくしは愛についての見識を広めることができるの。それに彼ら職員の負担も減るわ。……どう?」
ああぁぁ……駄目だ、そんなメリットをいくつも挙げたら、解決策を生み出す議論が大好きなアルハイゼンがウキウキしちゃうだろ!
「いいだろう。ディベートで得た結論はどのように扱う?」
ほらな!!!
アルハイゼンは組んでいた腕を入れ替え、左腕を上に持ってきた。これは奴の好奇心が刺激された時に発動される本気モードである。カーヴェは彼の一挙一動で次の行動が予測できてしまう特攻スキルを獲得している。伊達にアルハイゼンと議論を交わしてはいないのだ!(勝率についてはカーヴェの名誉のために伏せておく)
「そうね……肯定、つまり結婚すべき時は、昨夜の結婚届を正式に受理し、手続きを進めるわ。否定、結婚すべきではない時は、離婚届を提出する。これ以降は同じ行為を繰り返さないために、泥酔した2人が結婚届を出しても自動で不受理とする。どうかしら?」
「ああ、いいだろう」
「ちょ、ちょっと待ってください、草神さま!不受理ですか それはあまりにも…」
「あら、泥酔時の2人の判断能力が低下しているからこそ、婚姻手続きがループしているのではないかしら。だとすれば、結婚すべきでない時の対処としては十分だと思うのだけれど……」
ぐうの音も出ない。敬愛する小さな神を前に、カーヴェは項垂れるしかなかった。己たちは既に結婚届を16回も出している。そしてそのほとんどはカーヴェの記憶に残っていない。非常に遺憾だが、泥酔時の己はあまり信用が置けないのも事実だ。だからこそ、カーヴェはこうして律儀に15回も離婚届を出してきたのである。
だって、結婚にはプロポーズがつきものだろう。
カーヴェはいつの頃からか、ある計画を温めてきたのだ。借金を返済し、結婚生活に相応しい邸宅の設計をデザインした上で、最も良き日にアルハイゼンへプロポーズする。決して泥酔のどんちゃん騒ぎの末に、勢いとノリで深夜の法務部へ"突撃★結婚届爆速提出タイムアタック!" するべきじゃない。カーヴェの計画が水の泡である。
仕切り直すためには離婚届を出さなければならない。しかしひとたび法務部で不受理リストへ入れられてしまえば、アルハイゼンとの結婚は来世に持ち越しとなるだろう。そんなのは御免だ。
ここはどうやらディベートを受けるしかないらしい。
「わかり、ました……草神さまがそこまで仰るなら。いいですよ、貴女の目の前でアルハイゼンを打ち負かしてやります!」
「ほう、率先して醜態を晒す度胸があるとは。見直したよ」
「ハッ、僕が勝つんだから醜態なんてさらすわけないだろう!」
「おやおや、泥酔時のカーヴェさんはお見苦し……コホン、失礼。それでは僭越ながら私が記録係を務めましょう」
静観していた初老の職員から思わぬ毒舌が飛び出す。ギョッとして振り向くと、彼はアルハイゼンに柔らかな笑みを向けた。
「書記官殿ほど効率的に記録を取れないかもしれませんが、尽力いたします。あなたにご教授いただいた『残業を回避するための10の秘訣』を実践してご覧にいれましょう」
「うん、学びを実践に活かす取り組みは評価に値するだろう。頼んだ」
「ええ、お任せを」
くっっっそ、君さてはアルハイゼンガチ勢だな⁈ なんだその流行りの自己啓発本みたいなハウツーは!
アルハイゼンはたまにこうして熱心な信者を作ることがある。シラなんちゃらとかいう学者といい妙に粘着質な男が多く、カーヴェにとって要注意人物たちである。どうやら法務部に味方はいないようだ。
「ディベートの場所をすぐ用意しましょう。クラクサナリデビ様、どうぞこちらへ」
「ええ、ありがとう」
「あ、ちょっと待ってください!ディベートの準備をしても良いだろうか? 家に資料を取りに帰りたい」
「もちろんよ。ではディベートは3時間後に開始でどうかしら」
「構わない。どんな準備をするつもりか知らないが、君はさっさと行ってくるといい」
「わかってるよ!」
アルハイゼンのため息を背景にして、カーヴェは踵を返すと走り出した。準備なんて必要ない。アルハイゼンはカーヴェと結婚すべきなのだから、己が勝つのは明白である。取りに帰るのは設計図のためだ。
ディベートで勝利した暁には、神の前でプロポーズするのだ。僕らのために設計した邸宅のデザイン画を掲げて!
<1. 2 愛についての考察(仮題) へ続く>