彩珠島の夜は静かだ。
波音と虫の声。人の気配は薄く、星がよく見える。
そんな夜に、イルディオはよく海辺を歩いた。
何をするでもなく、ただ、歩く。風を感じ、気まぐれに羽根を広げ、潮の匂いに目を細める。
異世界から迷い込んで一ヶ月。
政府に保護され、島に住まうことを勧められ、アパートの鍵を渡されるまではあっという間で。
「当面の生活費と支援金はあります。落ち着いたら、島の研修施設に──」
そう言われたが、イルディオはただ頷いた。
別にすることもない。ただ、“ここ”で生きるしかないから。
そんな日々の中で、時折思い出すのは、あの人の声だった。
師であり、主であり、檻だった──あの人。
寡黙な吸血鬼だったが、ふとした時に静かに歌っていた。無骨で、不器用な旋律。
それはイルディオの中で、確かに灯火のように残っている。
「……やがてあなたの背を、想うでしょう……遠ざかる声は 霞んで……」
波音に紛れて、イルディオは浜辺で小さく歌った。
歌うつもりはなかった。ただ、口をついて出てきただけ。
風に髪がなびき、夜空に向かって小さくコウモリのような黒翼が広がる。
その声を、ある男が聞いていた。
─────────
亮介はその夜、「今夜こそセイレーンに出会えないかな」と思いながら、水辺をうろついていた。
彩珠島には、水棲種の歌姫がいるらしいと聞いた。
美声を持つ伝説の……けれど、今は現実の存在。
彼はその“奇跡の声”を求めて島に来た。自分の曲に一番似合う声を求めて。
「……ん?」
不意に、微かな声が耳に届いた。
風に混ざる歌。音程もリズムも完璧ではない。けれど……心を揺らす何かがある。
気づけば足が勝手に動いていた。音の方へ、引き寄せられるように。
そこにいたのは──セイレーンではなかった。
黒い髪に白い肌、静かな目元。そして夜空に広げた黒い翼。
「……」
一瞬、言葉を忘れた。
そして次の瞬間には、叫んでいた。
「──俺の曲、歌ってくれないか!?」
─────────
「は?」
イルディオは眉を僅かにひそめた。どうやら一般人のようだが……
知らない男が急に現れて、いきなり曲を歌えと? 状況が読めない。
彼の目は驚きよりも困惑に染まっていた。
しかし亮介は構わず、一歩前へ。
「やばい、マジで今の歌は神。いや、神超えてる。やばいってばほんと……!」
「……どこがどうヤバいんだ」
「まず気だるい感じの低音、吐息の入り方、単純な音階なのに最後の方で僅かにかかったエッジがセクシーすぎ!マイク通してない生声であんな惹きつけられるって何!?もしかしてどっかで習ってた!?」
「いや……別に……」
マシンガンのように放たれる言葉の数々は止まらない。
気づけば以前からの癖で戦闘態勢を取っていたイルディオの体からは力が抜けていた。
「こんな才能持ってるのに音楽やってないなんて嘘だ……てかそれならもう俺が教える!頼む!一度でいいから俺の曲歌って!ほんとお願い!!」
──面食らった。
彼の両手を合わせて頭を下げる必死な姿はちょっと間抜けで、でもまっすぐで。
イルディオは夜風の中、静かに頷いた。
「……それで、あんたが助かるなら。今、別にすることもないし」
「マジで!?よっしゃ!!」
「……声、大きい」
「ご、ごめん……」
─────────
「俺、亮介!音楽屋っていうかDTMエンジニア!」
「イルディオ。イルでいい」
役所から渡されたスマホを操作し、二人は連絡先を交換した。
すると亮介はすぐに可愛いうさぎのスタンプを送りつけてくる。
イルディオはそれを見て、表情を変えないまま数秒固まった。
散々騒いでいた亮介は、そのままスキップのような楽し気な足取りで帰っていく。
「……変な人間」
呟くイルディオだったが……なんとなく。
夜風が少しだけ、やわらかくなったような気がした。