二つの跡 時は夏の初め。少し動けば汗は出るし、不快なあいつが寄ってくる。『蚊』だ。
「聖」
涼しい顔をして次に出ると言っていたドラマの台本を読んでいる恋人を呼ぶと、ゆるりと顔を上げて近寄ってくる。
「何?」
手の届くところまで来たので、握りしめていたものを突き出した。聖は面食らったように半身を引いてかわして、俺が手に握っているものをしっかり確認してから大人しく受け取る。
「さっきから半裸でうんうん唸ってると思ったら、これ塗ろうとしてたの〜?」
手にした虫刺されの薬を見ながら、へらりと笑われたが、割と正直それどころじゃない。よりにもよって背中を蚊に刺されてしまって、薬が塗りにくいことこの上ない。気になるし、不用意に掻くと傷になりそうだし、早く治してしまいたいのだ。風呂上がりに試してみたが、全然上手くいかなかった。気付いていたなら声をかけてくれればいいものを、この恋人はきっとまた俺の奮闘を『面白い』と思ってあえて放っておいたのだろう。本当に。
「有罪。とっとと塗れ」
ん、と背中を向けると、後ろから「えぇ、自分で塗りなよ〜」と文句が聞こえたが、なんだかんだと言いながら座ったようなので、動かないでいた。
「自分で塗れるならそうしてんだよ。出来ねーから言ってんだろーが」
「はぁ〜、はいはい」
恩着せがましくため息を吐いて、聖が背中に触れてくる。少し、昨日の夜のことを思い出してしまったが、何事もないように振る舞った。
「……あぁ、ここね。真っ赤っか。痒いでしょ」
言いながら患部を突いてくるので、今度はビクッと反応してしまった。いや、これは色気のある反応ではなくて。
「さっわんなっ! ぁ、くそ、かいぃ……」
手を背中へ回して聖を振り払うが、既に刺激されたそこはじわじわ熱を持って疼く。
「あはは、掻くなよ〜」
ヘラヘラ笑っているところが容易に想像できるような、楽しげな声色で言う聖に「笑ってんじゃねー有罪!」と声を張るが、当然聖は怯まない。
「いいからとっとと塗れ。次の撮影までには治してぇ……」
「え、脱ぐの? それっていつ?」
一応塗る気はあるのか背に触れてくるが、俺が答えるまで動く気はないらしい。
「来週末。前肌蹴るぐらいで、背中まで撮る予定はねーけど、露出多め」
当日急に脱ぐ可能性だってあるし、最悪メイクで隠せるにしても、出来るだけ完璧な状態で臨みたい。
「そっか、よかった」
「……ハ?」
なぜか、やけに安心したように呟くので、首を捻って振り返る。聖は視線を俺の背に注いだままで、目は合わなかった。
「よく虫刺されをキスマークの言い訳に使うってシーンあるけど、実際は違うよね」
「あ? さっきから何の話だよ。意味不明……」
「治りかけだったら、似てるのかなぁ」
聖は依然として独り言のように呟きながら、するりと背中の一点を撫でてくるが、そこは刺された場所ではない。
「昨日の夜、初め後ろからしたでしょ」
昨夜のベッドの上でのことを思い出してしまって、体温が上がる。
「お、おぉ」
「その時俺が何したか、覚えてない?」
何って。昨日はベッドに入って早々にうつ伏せに転がされて、聖が「今日はこれでしよう」と言うから、大人しく、してやっていて。
「……あっ、テメー」
さては背中に、跡を付けたな。昨日はやたらといろんなところを舐めたり吸ったりしてきたので、きっとそのうちのいくつかが残っているのだろう。実際、太ももにしつこく付けられた跡はまだ消えていない。俺が察したことに気付いた聖が悪びれもせずに続ける。
「跡付けようとしても廉が嫌がらないから、直近で露出ある撮影はないんだろうとは思ってたんだけど、次の撮影とか言うから……ちょっと焦ったよ」
そう言うところで焦るのは無罪だったので、この話は終わりにしておいてやることにした。「直近で撮影あんのに止めねー訳ねーだろ」と答えていると、ひやりとした感覚が背中にやってくる。
「だよねぇ」
どうやらやっと薬を塗ってくれる気になったらしいので大人しく背中を預けた。
「はい、いいよ。絆創膏貼るでしょ。持ってくるから待ってな」
絆創膏の場所ぐらいもう知っているが、聖がすぐに立ち上がってしまったので何も言わなかった。でもそういえば、如何に薬を塗るかばかり考えて、その後のことを考えていなかったな。おー、と答えながら、刺されたのが恐らく家に帰ってからであることも同時に思い出して、注意喚起も含めて聖を呼び止める。
そう、まず、今回の件で圧倒的に有罪なのは蚊なのだ。
「おい聖、この蚊、うちに住んでやがるぜ。見つけたら仕留めろよ」
立ち上がった聖を見上げて指差すが、あからさまに嫌そうな表情を浮かべる恋人から快い返事は返ってこない。
「えぇ……蚊って、潰すと他人の血が出てくるかもって思うとあんま潰したくないんだよねぇ」
他人の血とか、何やらまた有罪なことを言うので、これにははっきりと言い返してやった。
「は? なに有罪なこと言ってんだ。吸ってんのは俺の血だろーが」
当然のことを言っただけなのに、聖は固まったままこちらを凝視してくる。しばらくそうしていたかと思えばぱっと顔をそらして、えらく歯切れ悪く呟いた。
「あー……まぁ、そうだね」
なぜか照れているらしい恋人の背中に小さく優越感を抱く。やけに時間をかけて絆創膏を探す恋人を待ちながら、背中の二つの跡のうち先に消えるのはどちらだろうと考えて、やっぱり虫に刺された跡なんかはさっさと消えてしまえばいいと思った。
終わる
「……つか、背中だと俺見えねーだろーが。やっぱり有罪だ」
「ん? 見たかったの〜? 次見えるとこ刺された時に、横につけてあげようか?」
「は……? 有罪」