猫なオジサン、日中はたまたま自分を世話してくれた青年アキレウスのもとでのんびりまったり、夜になると部屋を出ていって朝まで帰ってこない。
世話は見ているが拾った、というよりは同居しているといったほうが正しい。自分で選んでいることなのだから、と夜どこかへ行くのを見逃しているアキレウス、本心は「夜危ない!あんな小さい体でどこへ行く?なにしてるのか、他に家があるのか?」と心配に満ちている。が、アキレウスは存外猫のヘクトールを気に入っている。夜出歩くのを制限したら、自分の元へ帰ってこなくなるのではないか。そんな不安が沸き起こり、アキレウスはヘクトールが夜出ていくのを容認している。
その夜も、ヘクトールは出ていってしまった。背中越しに丸いかぎしっぽをふるりとふる姿はまるで”ばいばい”をしているよう。その姿に若干の寂しさを感じながら、アキレウスは出ていくヘクトールの背中を見ていた。
出ていったあとの開きっぱなしのドアを見ること数十分、そんなことをしても猫は帰ってこない。寂しさに駆られたアキレウスはそれを紛らわせるよう、上着を引っ掴み、猫が出ていったドアから自分も外へと飛び出した。
暗い夜道には、飲み屋の看板がいくつか光っている。喧騒が漏れ出る店もあれば、重厚な扉で外界と隔絶を目指しているような店もある。移ろう光を眺めているうちアキレウスの目に止まったのは、少し高い位置につけられた暗い緑色を発している四角い看板だった。バートロイア、と書かれた文字の下に、かぎしっぽの猫が描かれた看板は、どこか自分を夜な夜な置き去りにする猫を思わせる。惹かれるようにその下へと足を進めれば、真っ黒に塗られた扉があった。かけられた赤い【OPEN】の看板が自分を招いているように見え、アキレウスは扉についているハンドルに手をかけ、引く。存外軽い力で開いた扉の奥には、オレンジ色の温かな光が広がっていた。
「いらっしゃ……い」
扉の横手にあるカウンターから声がかかる。バー、というくらいだ、バーテンダーが迎えてくれたのだろう、声のした方に顔を向ければ、壮年の男が目を丸くしてこちらを見ていた。
「あー…ビールはあるか?」
「え、えぇ、ありますとも。何がお好みです?」
「ピルスナーを」
「かしこまりました、お好きな席にお座りください」
店内は狭く、三席ほどあるテーブル席のほかはカウンターに数脚椅子が用意されているのみだ。アキレウスは入口付近のカウンター席へ腰掛けると、改めて店主を見た。
明るい茶色の髪は少し長く、襟足を一つで束ねている。外の看板と合わせているのか身に纏っているシャツの色は深い緑色をしており、ベストは看板の猫と同じ黒だ。物音を立てずグラスを用意し、背後にある樽からビールを注ぐ姿はしなやかで、バーテンダーとしての暦を窺わせる。傾けられていたグラスに黄金が注がれ、それにきめ細やかな泡で蓋をすると、店主はそれをアキレウスの眼の前へと持ってきた。
「どうぞ」
「ありがとう」
「いえいえ。なにかつまみます?」
にこりと目を細め、唇で弧を描くその顔に既視感を覚える。髪の色、佇まい、ふにゃりとした笑顔。つきつめれば、それは飼い猫、もとい同居猫ヘクトールに似ていた。
「メニューはないのか?」
「その日で入ってくるものが違いましてねぇ。あるものを一律の料金でお出しする形になります」
「わかった……今日は何がある?」
「今日は……すぐ出るものならナッツ、時間がかかってもいいならイワシのアヒージョかな」
「イワシか……うまそうだな」
「今ならパンもつけれますよ。今日は君が最初のお客さんだから、材料がたんまりある」
「いつもはないのか?」
「ここもそれなりに人気でね。一気に人が来ちまうと、パンなしアヒージョなんていうさみしいもんができちまう」
「そら今のうちに食っちまうほうが特約だな。パン、大盛りで」
「ここは定食屋じゃないんだがね。仕方ない、若者に免じて少し多く切ってあげよう」
さすが店を賄っている、というだけあり、会話のリズムが心地いい。人見知りをする方ではないが、初対面でここまで会話が弾むことが珍しく、アキレウスは店主との会話が楽しくなっていた。準備のためかくるりと後ろを向いた店主の背で結わえた髪が揺れる。その様子が、部屋を出ていくときにヘクトールが振る尻尾を思わせた。
「あんた、名前は?」
アキレウスは店主の背に総声を掛ける。この男が自分の猫であるはずはない。そうおもいながらも、名前を確かめずにはいられなかった。
「……申し遅れました、私(わたくし)、このバートロイアでバーテンダーをやっております、ヘクトールと申します」
振り返った男は恭しく頭を垂れる。まさか、と思っていたものとおなじ名前に、今度はアキレウスが目を丸くしていた。
バーでそこそこ飲み、自宅へ帰って布団に横になっていると、猫のヘクトールも帰宅する。「おかえり」と声をかければにゃぁん、と軽やかな、満足そうな声。
「ったく、あんまり遊び歩くんじゃねぇぞ」
布団に横になるアキレウスのもとにきて毛づくろいを始めるヘクトールにそうごちる。聞いているのかいないのか、当の本人は一生懸命顔を洗っている。その頭をなで、アキレウスはくありと欠伸をすると目を閉じる。隣でしばらく続いていた揺れが収まり、ヘクトールも寝に入ったことを知らせる。そのまま一人と一匹は、夕方まで惰眠をむさぼった。
それからしばらくは互いに気づかないふりを続けた。ヘクトールの夜遊びは相変わらず、夕方出て行っては朝方帰る生活を続けている。そしてそこに、アキレウスの夜遊びも加わった。ヘクトールが出て行ったあと数時間後に家を出、バートロイアで夕食をとる。持ち金のせいで週に数度しか尋ねることはできなかったが、それでもヘクトールが外で何をしているか、を見ることができてアキレウスは満足だった。
仲のいい客とのやり取りや自分に出してくれる料理の数々、見ている分には飽きない。だが、なんとなく、どこか面白くない。それが、自分に内緒にしていることに対してなのか、それとも案外と広い交友関係に嫉妬しているのか、アキレウスはにはその”面白くない”理由はわからなかった。
その日もバーで食事をし、日付が変わる前までヘクトールの出す酒を楽しんだ。あまり遅くまで飲んでは翌日の仕事に触る。日付がわかる寸前まで飲んで帰宅するのがアキレウスの習慣だった。
ベッドで寝ていると、どすりと振動が加わる。猫、にしては重いそれに驚き、アキレウスは飛び起きた。
「っ、んだぁ!?」
自分の上には、バーテン姿のヘクトールが横たわっていた。時計を見れば午前4時。店は遅くとも2時に締まる。それから考えれば、帰りの時間が遅すぎるように思えた。
「おい、どうした。なんかあったのか?」
顔を見れば、目は閉じられている。上気している頬、漂うアルコールのにおい、それらからして、ヘクトールは酔っているように見えた。
「…ん、んにゃ、んにゅ」
「……今は猫じゃねぇぞ」
そういっても目は開かず。意味不明な喃語を繰り返すヘクトールにため息をつき、アキレウスは自身の体をベッドの隅に寄せた。
「起きたら話せよ、何があったのか」
空いた場所にヘクトールを寝せ、首元を閉めるネクタイを緩める。靴とベルトを抜き去れば、ある程度楽になったのか大きなため息が聞こえた。
「おやすみ…ヘクトール」
人間のヘクトールに就寝の挨拶をするのは初めてだ。きっとどちらのヘクトールにも挨拶をしたのは自分が初めてなのではないだろうか。そんな満足感が心を満たす。なぜ猫の姿も人の姿もとれるのか。起きたらそこを問い詰めよう。そう思いながら、アキレウスは目を閉じた。
俺も問い詰めたい。
なんで猫にも人にもなれるんですか?
病弱の弟を救うため自分の命の半分を医神アポロンへと差し出した。
「なぁに、私も神の端くれ、取るばかりが能じゃない。そうだなぁ…こういうのはどうだい?“本当に愛してくれる人からの口づけで、君は差し出した人間の半分を取り戻す”。もちろん、君の半分が猫だ、ということを知らせら上で愛してくれる人間だ。それが叶えられたら、君を下に戻してあげよう。弟も救ったうえでね」
という約束のもと、ヘクトールは夜は人間、昼間は猫、という半人半獣になった。