夜の気配を感じて、鶴丸国永はぱちりと目を開けた。
目覚めの瞬間はいつも、あたたかい膜に包まれていたかのような心地よさの名残と、その満ち足りた微睡みから急に水面へ引き上げられた喪失感を覚える。
ゆっくりと上半身を起こし、どこか肌寒く感じる両手を軽く閉じたり開いたりしながら、鶴丸は自然と隣に視線を向けた。
少し離れたところに設置された寝台の上、柔らかな人工の明かりに照らされて、青年の姿をしたうつくしい刀が静かに眠っている。いつも通りの光景だ。
自分の寝台から降りた鶴丸は、眠る刀の元へそっと歩み寄った。今は固く閉ざされた瞼の向こうへ、囁くように語りかける。
「おはよう、三日月宗近。それから、おやすみ」
返事はない。これもいつも通りだ。
鶴丸はそのまま膝の高さほどの寝台の横に座り込んで、三日月の顔を覗き込んだ。
呼吸のために微かに動いてはいるものの、表情のない整った顔はまるで精巧なつくりもののように見える。それは鶴丸の知るどんな人形よりも美しいけれど、それを物足りなく感じてしまうのは、瞼の裏に焼き付いた記憶のせいだろうか。
目覚めたあとはこうしてしばらく三日月を眺めるのが鶴丸の日課だった。三日月の様子はいつもほとんど変わりないけれど、顔色だとか、息遣いだとか、指先の温度だとか、細かな要素は日によって微妙に違ったりもする。それらをじっくりと観察して、しかし結局概ねはいつも通りであることをつまらなく思うような安心するような、そんな複雑な心地で、ああ今日もまた変わらぬ夜が来たのだなぁ、と実感するのだ。
そうして納得いくまで三日月の様子を見てから、鶴丸はようやく部屋を出て、外の世界へと繰り出すのだった。
今日も、さてそろそろ行くかと腰を上げれば、窓から見える空はもうすっかり暗くなっている。目を覚ましたときにはまだ沈んだばかりの太陽の名残が水平線から薄明を残しているのだけれど、ぼんやりと三日月を眺めている間にいつも、気付けば星の方が明るく見える時間になってしまうのが常だ。
引き戸を開けると、するりと冷たい風が入り込む。部屋の中は温度が調節されているとはいえ、無防備に眠る三日月に風が吹きつけては事なので、鶴丸は細い隙間から滑り出るようにして外へ出て、素早く戸を閉めた。
「ああ、起きたんだね、鶴丸さん。おはよう」
鴬張りの渡り廊下を軽快に軋ませながら歩いていると、払串や神酒を持った石切丸に出くわした。これもいつも通りの出来事だ。出会う相手は小狐丸だったり太郎太刀だったり、毎日同じ者というわけではないけれど。
三日月を眺めることに夢中になりすぎて部屋の入口から苦笑交じりに声をかけられる日も少なくはないのだが、今日はどうやらちょうどいい時刻であったようだ。
「おはよう。今から祈祷かい?」
「ああ。三日月の様子は変わりなかったかな?」
「いつも通りさ」
「それは良かった。今日は八つ時に骨喰や非番の粟田口の子たちと大福を作っていたようだから、話が聞きたいなら食堂へ行くといい。大福も取ってあると言っていたよ」
「それは良いことを聞いた。寝起きで腹も減ったことだし、ありがたく頂くとしよう」
ぱっと目を輝かせた鶴丸は足取り軽く歩みを再開するが、そうそう、と思い出したように振り返って石切丸へ声を投げかけた。
「きみもあとでまた昼間の話を聞かせてくれ!」
「はいはい、わかっているよ」
これもまたいつものことなので言われずとも予測していたのだろう、石切丸は苦笑しながらひらひらと手を振った。貴方も飽きないねぇ、とでも言いたげだ。
(中略)
鶴丸国永は、三日月宗近とは『会う』ことができない。
起きている時間が異なるからだ。鶴丸は日の出から日没まで、三日月は日没から日の出まで。鶴丸が起きているあいだ三日月は眠っていて、三日月が起きているあいだ鶴丸は眠っているのだ。
それが、二振りに与えられた役割である。
鶴丸と三日月は時の政府の心臓ともいえる神殿の体をなした施設において、結界の鍵を担っている。一日の半分ずつ、結界を保つ役目をこなす間、肉体は眠りにつく。結界は一秒たりとも切らすわけにはいかないのだから、当然二振りが同時に目を覚ましている時間は一秒もないのだった。
鶴丸はこの役目のために顕現された刀剣男士であり、本霊から切り離され個としての意識を持ってからはや数年、神殿の外に出たことはない。夜の間ならば自由に行動できるとはいえ、何かあっては事なので、結界に守られた神殿からは出ることを許されていないのだ。審神者が訪れたりもする表の施設の様子をモニター越しに見ることはできるが、鶴丸にとっては別の世界のようなものだった。
しかし、三日月は少し違うらしい。
三日月はかつて、神殿に立ち入ることができる他の刀剣男士たちと同じように、古くから時の政府に直属する部隊の一員だったという。
歴史修正主義者との戦が本格化して間もない頃は、この中枢施設の結界を働かせていたのは人間の術者だったそうだ。それでも表の施設や各本丸のような、霊力を元に機械で構築した結界よりは強度があったようだが、人間がそれを保ち続けるには負担が大きかった。
ゆえに、刀剣男士を基点として結界を展開するシステムが新たに開発され、その役に選ばれたのが、当時政府に所属していた刀剣男士の中で最も霊力を多く宿した個体であったこちらの三日月宗近と、同じ部隊の鶴丸国永だったらしい。
この話を初めて聞いたとき、鶴丸は何の気なしに「なるほど、人柱ってやつか」と零してしまい、話してくれていた石切丸の顔を強張らせたものだ。