621、『空力』の生贄になる。 惑星封鎖機構が撤退し、アーキバスすらも手を引いた戦域の隙間――。
その空白を縫うようにして、シュナイダー社の開発研究部が極秘裏にルビコン解放戦線へと出向してきた。
名目は「共同開発の継続と戦地試験の協力」。
だが実際には、アーキバスの目が届かなくなった今、同社が本来掲げる理念――〝空力研究〟の深化が、ようやく再始動したのだ。
かつて同社に籍を置き、シュナイダー製AC『スティールヘイズ』を操っていたラスティ。今では解放戦線の一員として籍を戻した男の元に、次々と試験装備が持ち込まれていた。
ブースター、フレーム、アームユニット。
それらの兵装と共に研究者たちが「今回の目玉です」と神妙に差し出してきたのが――新型パイロットスーツだった。
モーションフィードバックとバイオメトリクス調整を統合した、最新のスーツ。
筋肉の動きをリアルタイムで検知し、AC操作時の負荷を軽減する。
その素材は極限まで薄く、軽く、密着性に富み、空気抵抗すら制御可能。
――当然、その見た目も、それ相応の設計となる。
「……これは」
そのパイロットスーツは――どう見てもバニースーツの形をしていた。
ラスティは渡された資料を手に思わず眉をしかめる。
ハイレグカットに近い脚部、胸元を大きく開いた上半身、背中は大部分が剥き出し。
それでいて、全身にセンサー配線が織り込まれ、「可視データの明示性」という理由でラインが強調されている。
「空力と筋肉補助のためです。機能的には完璧です」
開発主任は、悪びれもなく言った。
……この企業は相変わらず、狂気とも取れる程の「空への憧れ」を止められないでいるらしい。
だが、621にそのスーツを着せる理由は、理論上“完璧”だった。
彼女は女性パイロットとしては異例の制御精度を誇り、かつ強化人間という特殊な神経伝達を持っている。
そのデータをシュナイダーが喉から手が出るほど欲していた。
そして――なにより。
――彼女はどんな衣装でも、動じない。
現場の誰もがそう信じていた。
冷静で、理知的で、感情の起伏を表に出さない621ならば。
この『見た目の仕様』にも一切の動揺を見せず、淡々と試験をこなすだろうと。
……そして。
数日後。試験導入初日。
格納庫の扉が開かれたその瞬間――621は、いつものように無表情で、だが確かに〝それ〟を着て現れた。
ラスティの思考は、数秒停止してしまう。
彼女の足取りは変わらず静かで、ぶれのない歩幅だった。
だが、全身にぴたりと張り付いたスーツが、その均整の取れた身体のラインをことごとく際立たせている。
肩幅、胸郭、腹筋、腿の筋肉――すべてが露わだ。
皮膚のように滑らかな素材が、わずかに光を反射しながら呼吸に合わせて動く。
「……戦友」
ラスティがなんとか声をかけると、621は立ち止まり、首をかしげた。
「どうした?」
「いや……その……似合って、いる。非常に」
「そう。ならよかった」
表情を変えずにそう返すと、彼女は手にしていたタブレットを差し出す。
「可動初期データ。臀部と肩の反応精度は良好。だが胸部はやや締め付けが強く、深呼吸時に若干の苦しさがある。胸郭の可動域が損なわれるのは問題」
「……なるほど」
「でも、脚部は特にすばらしい。バネが効いてる。あれはあなたのACの動きを再現したとのことだった」
「……ああ、スティールヘイズか……」
「『動きが美しい』と開発の人が言ってた」
「…………」
ラスティはその場で静かに目を閉じた。
空力に狂わされた者たちの手によって生まれた悪魔のスーツ。
それを無自覚に、無防備に、淡々と着こなしてレポートしてくるこの戦友。
そこへ背後から、開発主任が歩み寄ってきた。
「見てください、あのシルエット! 人間が一枚の翼になれる時代が来たんですよ!」
「股関節のハイレグカットにより脚の可動角度が十二度増加、空気の逃げ場を設けています!」
「背中の開口部は、背筋のラインにそって流れる気流を制御する“風の滑走路”です!」
彼らは本気だった。
本気で空力を、パイロットの肉体に重ねようとしていた。
「……本当に、相変わらずだな……」
ラスティの呟きは、誰にも聞かれなかった。出向時代のことをふと思い出す。ナハトライアーの調整で随分世話になったが……いかんせん研究開発部の癖が強すぎる。彼もまた、空力に脳を焼かれた者たちによる被験者の一人だった。
だが直後、開発主任が手を叩き、真剣な顔でこう言った。
「では設計議論に移りましょうか。現場でのフィードバックを踏まえて、仕様を調整する段階にあります」
「議論……?」
ラスティの顔が引きつる。その横で、621は静かに手を挙げた。
「胸部の圧迫感。深呼吸に支障がある。運動時の呼吸乱れは、AC操作精度に直結する」
「ふむ、なるほど。つまり——」
「カップの設計が甘いのですな」
「空力的には張り出しを抑えたいが、内部容積が足りない」
「となると素材の張力を緩めつつ、補助ラインで支える構造に——」
「いやしかしそれでは摩擦係数が……」
「では、いっそこの部分を“揺らし”として利用してはどうか? 動的抵抗の変化をトリガーにできる」
周囲が静かに凍った。
「揺らし……?」
ラスティが震えた声で復唱すると、主任は純粋な目で答える。
「はい。乳房の揺動は本来、人体の質量バランスから見ればノイズですが……それを“あえて使う”という試みです。跳ね上げではなく、流し。つまり、“滑らかに揺れる胸”を」
「そういう問題ではないと思うのだが……?」
誰もツッコめなかった。
なぜなら、議論は真面目だったからだ。誰よりも、空を目指す者たちの真剣な試みだったから。
彼らの視線は、常に〝先〟を見ていた。
空力という名の、理想という名の、救いのない空の彼方を。
◇
その日の午後、試験運用の第一段階が始まった。
格納庫には整備士たちと、研究部のスタッフ数名。
ACの各部位にスーツとの接続アダプタを装着し、同時にパイロットの動作による反応データを収集する。
――そして、621が姿を現した。
ぴったりと張りついた試験用スーツを纏い、無表情のまま足音を響かせる。
その一歩ごとに、布地の光沢が微かに軋み、関節の可動域を滑らかに表現する。
整備士の誰かが、手にしていたレンチを取り落とす音が響いた。
別の一人は無言で視線を逸らし、もう一人は明後日の方向を向いたまま一切動かなかった。
「……被試験者、C4-621。コードネーム、レイヴン。機体への接続を開始します」
静かに告げる声。
どこまでも冷静で、整然としている。
だが、彼女の背後――数歩遅れて歩いてくる男――ラスティの表情は、完全に死んでいた。
どれほど抗っても逃れられない。これは現実だ。
あのスーツを着た621が、これからACに搭乗し、空力設計に基づく新型の反応テストを行う。
しかも、その一部始終に自分は立ち会わねばならない。
これが、戦場より過酷な地獄でなくてなんだというのか。
試験は、開始された。
新型スーツを装着した621がACに搭乗し、各種運動動作・負荷・反応速度・中距離旋回挙動など、あらゆる挙動のログが回収されていく。
通信越しの621の声は、いつも通り冷静だった。
「操作感覚は良好。特に、従来スーツより直感的な操縦が可能」
「理由は?」
「布の引きつれや摩擦が一切ない。身体の反応がそのままACに反映される感覚」
格納庫に設置されたモニタールームで、研究員たちが歓声をあげる。
「そうだろうそうだろう! 布こそが人類の抵抗だったんだ……!」
「薄さこそが進化だ! 厚みは罪!」
「これが……人が空へ還る装備……!」
ラスティは言葉を失い、椅子に沈んでいた。
さらに、動的抵抗の変化を感知するための、いわゆる〝揺らし〟システムの評価が始まる。
ていうかなんなんだ、揺らしシステムって。
「621、状況は?」
「……揺れによって、胸部の締め付けが局所的に強まり、内部構造に痛みが出た。息が乱れる」
一瞬、通信の音声に息を呑むような途切れが混じった。
「……っ、問題あり。『揺らし』は、実用に耐えない」
「そ、そうですか……!」
「我々の理想が……!」
「滑らかに揺れる胸の夢が……!」
通信の向こう、621の反応は終始冷静だった。
「単純に、痛い。ノイズになる」
研究者たちは項垂れ、ラスティは口元を覆って呻いた。
◇
――試験は無事に終了した。
全体としてのスーツ適正評価は高く、621も異常なしとの診断を受けていた。
しかし、ACから降りたその瞬間。
「ピシッ」という乾いた音とともに、右胸部のスーツが、裂けた。
張力に耐えきれず、カップがずり下がり、柔らかな膨らみが露出しかける。
「うわーーー!!」
ラスティは思わず悲鳴をあげてしまった。
咄嗟に前に出て、前方にいる者たちの視界に入らぬよう両手を広げて621をガードする。
対して621は一切動じない。そのまま、右手でずれたカップを持ち上げ、静かに収め直す。
それを見守る整備士たちは誰も動けなかった。
レンチを握った手が固まり、誰一人、息を呑む以外の反応ができなかった。
「……素材の耐久性に問題あり。部位によっては引き伸ばしに耐えられず、破損に至る」
「もッ……申し訳ありません……!」
「空気に近づけようとしすぎました……!」
「空気と布の間には、まだ越えられない壁が……!」
……ラスティはその場で崩れ落ちていた。
誰も悪くない。
皆、ただ真面目にスーツを設計し、真面目に飛ぼうとして、真面目に裂けた。
それでも――
「……次は……もっと布面積を増やしてくれ」
ラスティの呟きもまた、誰の耳にも届かなかった。