おやすみジーニアス 一、
幼い頃から、姉の背中に隠れているような少年だった。四つ離れた姉の下に生まれ、いついかなる時も姉の後ろに隠れて人見知りをすることが多く、常に首を縦に振るか横に振るかしか行動を起こさなかった。
引っ張り出した記憶の中にある部屋の床にはいつも、姉が使っていたおままごとのおもちゃや、テレビアニメでよく見る変身道具や、ピンク色の色鉛筆が転がっていた。
「茉白くんは大人しいんやねぇ」
近所の人からの褒め言葉といえば、それが多かった気がする。否、裏を返せば子供らしくない、とでも言われていたのだろうか。
幼稚園でも小学校の低学年時代でも、周りにいるのは女の子ばかり。見つめていたのは姉の背中ばかり。真っ直ぐにストンと重力に従った、細くて繊細な白い髪の毛。
茉白はずっとその髪の毛を眺めてきた。
どうしてもお揃いにしたくて、髪の毛を伸ばしてはいたが何度も両親に首を横に振られ、何度もはらはらと一定の長さまで伸びたら切られを繰り返していた。
「えー、まつりもましろとお揃いがええのにぃ。」
ぷく、と愛らしい桃色の頬が、茉白の目の前で膨らむ。仕方ないやろ、男の子なんやからと諭す両親。姉は徐に、伸びきった茉白の前髪に手を伸ばした。
きゅ、と茉白が目を瞑る。
目を瞑ったままでもよく分かるほど、視界が、目の前が途端に明るくなった。
恐る恐るそっと、茉白が目を開けると目の前にはニコリと笑った姉の顔があった。
「こっちの方がかっこええやんか!」
髪の毛と同じぐらい白い色した歯を見せて笑う姉と、顔を見合わせる両親。視界が開けて、重苦しい前髪が左右に避けられる爽快さ。
茉白のくっきりとした黒目に、やっと光が差し込んだ
「おかーさーん、次からましろこうやってセットしたってー」
母にそうねだる姉の声が遠のいた。
小学校高学年に上がる頃、姉が小学校を卒業した。常に見ていたあの背中はどこか遠くへと旅立った。
小学四年生に上がった茉白は、机しか見ていなかった。姉の背中以外、見るものがなかった。遠くではしゃぐ声も微々たる視線もちっとも気にせず、俯いて机ばかりを見つめていた。
前髪が横に分かれているのはやはり落ち着かない。姉が褒めてくれないのなら鬱陶しいと思うほどに。
ふ、と茉白の机に影が落ちた。気になって少し顔を上げてみれば、いつの間にか何人かの男子グループが、茉白の机を囲んでいた。
「な、なに…」
「おまえさあ、いつも机ばっか見てて、つまんなくないん?」
「ぼっちやぼっち!」
「俺らが友達になったろかー?」
三人、だった気がする。寄ってたかって、一人をこうして晒し首にする事しか能がないなんて今考えれば馬鹿げた話だが、相手は小さな茉白である。姉の背中しか見ず、まともに友人も作れなかったような小さな男の子である。
「そういえばおまえ、三年生のとき姉ちゃんの後ろに隠れてたやつやん!」
「へー、シスコンやシスコン!」
きゃはきゃはと気味の悪い笑いが耳を突く。茉白はおたおたと目線を泳がせるばかりで、きゅ、と黒いトレーナーの裾を握っていた。
「姉ちゃんしか話せるやつおらんらしいでー」
「かわいそー」
見ている。周りのヤツらが見ている。視線も声も突き刺さるように、チクチクと痛い。
逃げ出したかった。今ここに姉がいるのなら、すぐさま駆けていって、姉の背中に隠れて、姉が口で言い負かしていた。
もうダメか、逃げるか、と椅子を引く音を鳴らした時。
「こらー!!なにしとんねん!お友達いじめたらあかんやろ!!」
「げ!まくろや!!」
「逃げろー!!」
「あいつにつかまったらボコされるでー!」
小魚達がぱっと群れを散らして、駆けていく。瞬きの間だったかもしれない、一瞬ですぎたことのように感じられて、ハッとなった頃にはもう三人組は目の前には居らず、ただ一人の、自分と同じぐらいの身長の、黒髪の綺麗なぱっちりした目の男子が立っていた。
小魚の群れが逃げる時に聞こえた名前がふと思い返される。たしか、
「まくろ、くん?」
まくろ、まくろ…そんな感じの名前だった気がしなくもない。姉の名前以外口に馴染まなくて、随分発音するのには時間がかかった。
確かその当時は妹が生まれたばかりで、その妹の名前を呼ぶのもままならなかった気がする。
目の前のまくろという少年は、名前を呼ばれるや否やぱっと丸い目を輝かせて茉白の手をきゅ、と握った。
「そう!俺椎名眞黒!ましろくん、よな?おなまえが似てたから気になっとったんよー!」
そのままぶんぶんと上下に握った手を振り、茉白が唖然と口を開いているのにも関わらず眞黒は話を続けた。
「なぁっ、ましろくん、これから何かあったら俺の事頼ってええからな!」
眞黒はにこりと微笑んだ。姉があの時微笑んだ時に僅かに似ていた気がしていた。
今となっては、この時助けに来てくれたのが彼でなければどれほど良かったか、と心底思っている。
二、
その時から茉白が見るようになったのは眞黒ただ一人だった。
幸運なことに、茉白と眞黒は小学六年生に上がるまで三年間ずっと同じクラスだった。茉白がなにか嫌味を言われる度に眞黒がすっ飛んできて、小魚たちを叱って。
眞黒は昔から少し他人より力が強かったと言っていた。一度学校で問題を起こしてしまってから、両親に強く言い聞かされ、以降しっかり手より先に口を出すようにしているという。
小学校の卒業式の二週間ぐらい前、眞黒は茉白に訊いた。
「しろはさ、中学入ったら部活なににするん?」
茉白は少し唸って考えた。部活動の紹介とかされても、茉白の心にはちっとも響かないし。特に目を引くようなものもなかった。何せ姉は来年から高校に上がるのだから。
「俺は、特に入らんかな。」
「え〜そうなん?せっかくやし同じとこ入ろって思ったんにぃ。ほら、しろ背ぇ高いからさ、バスケとかいけそう!」
眉を寄せ皺にして、茉白は少し嫌そうな顔をする。くしゃりと顔を顰めると眞黒はあれぇ、と惚けた顔をした。
「そもそも俺運動得意ちゃうし、入るとしても運動部には絶対行かんわ」
「え!?で、でもぉ…」
「くろは脚が速いから陸上とかええんちゃう」
「じゃあしろも一緒に来てや!!陸上部のセンパイ、ちょっと怖そうやし…」
「しらんわ、もう…」
はぁ、と短い鬱憤を吐息と共に吐き出せば茉白はそっぽを向いた。 桜が風に揺られるような、穏やかな春の日差しが教室に差し込むような、暖かく少し冷えた昼に交えた会話だった。
同じような気候の日、三月某日。
晴れやかな笑顔の眞黒と、少し表情の固い茉白の写真は今でもアルバムに封じられてある。狭い体育館に大勢が詰め込まれて、大層感動的なムードの中、茉白は周りとのテンションを合わせることに集中していた。
涙腺が緩むこともない、歌いながら涙を流すこともない。だってどうせ何週間か後にはまた会えるのだ。
いや、会えてしまうの方が正しいだろうか。
茉白は中学へ対する楽しみも、期待も、全く胸に抱いてなかった。
どうせ中学へ上がったとて、このままの精神じゃ成長なんて微々たる差だろう。
「なぁっ、しろはこの後の打ち上げいく?」
「行かん。行ったとてお前としか話せんし」
「そ、かー。じゃあええわ!俺もしろとこのまま帰っちゃお。」
仲良くなりたての頃の後に興味を持ったから知ったが、眞黒はどうやら茉白の隣の家に住んでいたらしかった。仲良くなったその幼き頃に両親に伝えたら、昔からの付き合いで両親同士も仲が良かったという。
茉白が人見知りなせいで、今まで関わって来なかっただけ、らしいが。
眞黒はとにかく変わっていた。
何をするにも、何処へ行くにも茉白といっしょ、茉白に合わせる、茉白について行く。姉がそばにいた頃の茉白のように着いてきた。
眞黒は明るくて、一部を除くクラスメイトからの注目の的ではあったが、遊びに誘われても「ましろくんが行かないなら行かんかなぁ」とそればっかり。でも周りから避けられることは無かった。何故だろうか、と考えるのなら容姿の愛嬌という言葉が浮かぶだろう。少し、いやかなり、悔しいところはあったかもしれない。
別に嫌な気はしなかった。その頃は、特に何も。
三、
中学にあがっても、おかしな事に茉白と眞黒は同じクラスだった。大体似たような席で、大体似たような背丈だった。中学一年生までは。
結局茉白は部活には入らず、授業を終えたら無駄なことはせずにまっすぐ帰るような日々だった。眞黒もいつもの様に「しろが入らんなら俺もいいや」とヘラヘラ笑って茉白の隣を歩いている。
成長期だからだろうか。
隣を歩く眞黒を見上げるようになったのは。
中学二年生。多感な時期で、世間一般では思春期という時期だろう。その年は、茉白と眞黒のクラスが離れた年だった。
茉白はあの時のように同じく机に目線を落としていた。どうせ眞黒以外に話せる人なんてこんな騒がしい教室には居ないのだ。
退屈からなる欠伸を零せば、そのまま突っ伏そうとした茉白の背中にこつんと何かが投げられる。
それは重力に従って落ちていく。椅子の下、確認するまでもない。十中八九消しゴムだ。
どういうつもりか、と言わんばかりに背後を振り返れば、ヒソヒソとこちらを見ながら嘲笑を浮かべる、あの時の三人…
…いや、四人組がそこに立っていた。
見慣れない顔だった。鮮やかな黄緑色の髪の毛と、負けず劣らず鮮やかな紫色の瞳。それを見たものは恐らく口を揃えて「美しい」と零すのだろう。茉白は心底どうでもよかったが。
「なぁ、君、机ばっか見てつまらんくないん?」
「別に…」
「はは、君もしかしてさぁ」
わざわざこちらまで足を運ばせてきた目の前の美しい少年は茉白の髪の毛を鷲掴みにして問うた。
「俺の事覚えとらん?」
茉白は思わず「は?」と零してしまった。確かにそれは彼の問いかけに肯定する反応だった。ひゅう、と窓から流れる冷えた風が茉白の席まで届く。
悪寒が、する。
「去年同じクラスやった、宇堂緑って言うんやけど。」
「宇堂」
___宇堂緑。
聞いたこと、というか興味を持ったことがなかった。でも思い返してみれば去年、そう言えば居たような。割と端っこの席で、一人でずっと教室を観察しているような、気味の悪い目つきの。
「今年も同じクラスやのに、覚えとらんなんて悲しいわぁ。」
「…なら、離して貰えんか。」
このまま茉白の髪の毛を引っ張ったとて、悲しい思いをするのはこっちだ。
机の周りを囲われる。三人から四人に増えたからか、四方八方を塞がれて椅子を引くことも出来ない。それどころか、背後に立っている奴はこちら側にぐ、と体重をかけている気がする。
ぐう、と腹が押される。苦しい。息が、詰まる____
「こらー!なにしとんねん!しろの事虐めたらあかんやろー!!」
「げ、眞黒だ!」
いくつ歳を重ねても変わらない小魚の群れたちは、ぱっと散り散りに逃げていく。
扉の前で叫ぶ眞黒に怖気付かなかったのは、緑ただ一人だった。
緑はぱっと茉白から手を離すなり、にこやかな笑みを浮かべて眞黒に近寄った。大体眞黒と同じぐらいの背丈だから、怯えなかったのだろうか。
「あっ、宇堂くん!」
「こんにちはぁ眞黒くん。」
眞黒は普段と何も変わらないように対応した。さっきのやり取りを見ていなかったのか、それともたまたま眞黒の視界に映らなかったのか。
茉白は駆け寄って緑に先程掴まれた髪の毛の話をしようと試みる。
__然し、緑の鋭く睨みつける眼が茉白に釘を刺した。
その場に立ち尽くすことしか出来ず、茉白は目線を泳がせる。顔を覗き込んできた眞黒にも反応ができないまま。
「…どうかした?」
「いやっ……な、んでも。」
直ぐに目を逸らして、そのまま眞黒の制止も聞かず席へ戻って行った。その後のことはまともに覚えていない。チャイムのなる音が教室中に響いて、茉白は授業の準備をしていないことを怒られたような、いや、それはその日のことじゃなかっただろうか。教科書を隠す嫌がらせが始まってからだろうか。
何れにせよ、茉白はあの悪夢を繰り返すことになる。
覚悟こそはしていたが、それよりも遥かなものだとは知らず。
四、
「しろ?」
「…くろ……?」
放課後の夕日が小さく差し込む廊下の隅。髪から滴る濁った水と、被った濡れ雑巾が不快感を増す。聞き覚えのある声に顔を上げればそこには眞黒が立っていた。
見下ろされている。眞黒が茉白を見下ろしている。
あれだけ茉白に拳を振るった四人組、いや、緑を除いた三人組は眞黒が来るや否やさっと立ち退き道を開けた。
「誰にやられたん」
眞黒の声は切羽詰まっている。茉白の声を聞いて走ってきたのが目にわかる。頬に汗が伝い、肩も慌ただしく上下している。
茉白が口を開く前に、眞黒は目線を茉白から移した。
「君たちがやったんか。」
「待て、くろ」
飼い犬の首輪の、手綱を握りしめるようにそう呼んだはずだった。
あんなに怒る眞黒は、茉白でさえも初めて見た。
怒鳴り散らし、手当り次第に手を伸ばして拳を握り締め、同級生の顔を殴打する。
もはやその姿は猛獣、と呼ぶ他ないだろう。
__然し、そんな時でさえ宇堂緑はただ一人、隙を見て逃げ出していた。
思い出したくない記憶は鮮明にある。茉白は、以前にも増して陰口を叩かれるようになった。
何があっても、眞黒に銃口が向くことはなかった。
どうして。
ジリジリと焼き尽くすように暑い、冷ややかな風ひとつ吹かない猛暑日の夕方。七月某日。茉白はあの日のことを忘れられずにいる。
あの後眞黒だけがこっ酷く叱られたという話を小耳に挟んだが、本当に、理解ができなかった。理解ができなかったから、忘れられなかったのだろうか。
とにかく、嫌な記憶であることは確かだ。
もうその時期から、既に茉白は次第に心の扉を固く閉ざし始めていたのかもしれない。
五、
七月某日の事件から、数ヶ月。
新たな桜が新入生を出迎え、茉白と眞黒は三年生に上がった頃。緩やかな風と暖かな大人たちの眼差しの四月某日。
あの事件があってからか、茉白も眞黒も、そして緑も、それぞれ違うクラスへとバラけることになった。
茉白は環境が変わっても根本は何も変わらない。噂を聞き付けた知らない奴らが、噂でしか分からない人間を小馬鹿にしている。
少しばかり心は荒んでいたが、然し茉白には支えとなるものがあった。
他の誰でもない、姉の田中茉莉だ。
自覚するまで茉白は少々時間を要したが、茉白は確かに姉のことが好きであった。白い肌、白い髪、くりっとした黒目。茉白という名前も、本来姉のために用意されたのではないかと疑うほど。
その好きという気持ちが、恋愛感情というものだと気がつくまで、幾年もの時間を要した。
然し血縁関係がある以上、家族という立場から上には絶対に上がれない。いつか姉にも彼氏が出来て、上手くいってしまえば結婚して、子宝に恵まれる日が来る。そうなったら、自分は正気を保てるのだろうか__茉白の悩みは陰口なんかよりも日々そればかりだった。
普通の子よりも変な悩みだろう。それはそうだろう。
妹が小学校に入ってから、姉も、両親もそっちに付きっきりで。茉白の進路に関してしっかり考えるようになったのは、少し遅れてからだったような気がする。
所詮自分は家庭でさえそんな立場なのだ。仕方ないのだろうか。
「なぁ、しろはさ、どこの高校行くん?」
皆が少しだけ進路について考え始めた五月某日。一回目の進路希望調査のプリントを渡された眞黒が予想通り茉白の元へ走っていった。
「どこって…フツーに、近いとこ」
「じゃあ決まったら言ってや!俺も同じとこにするからさ」
「一番頭ええとこ行ったろ」
「なっ…でもしろの為だと思えば…!!」
「…バカなんかお前。」
つくづく此奴はバカだなと思う。進路を合わせてまで茉白と共に歩みたいだなんて。
その背中たちを、ひとつの紫色した眼が眺めていることも知らずに。
各々が受験勉強に励み始めた九月某日。茉白は残暑に眉を寄せ汗を流しながら冷房の効く我が家へと帰宅した。
「ただい」
はたと言いかけて足を止めたのはなぜか。それは目の前に、知らない男が姉と座っていたからだ。
誰、と聞く前に姉が答える。
「ああ、そういえばまーくんには教えとらんかったわ。見て!ウチのカレシ。イカしてるっしょ?」
まーくん、というのは姉から勝手に呼ばれている渾名だ。いや、今そんなことよりも思考が働かない。上手く口が回らない__
「はじめまして、君が茉莉の弟さん?すごいね、姉弟ほんとに顔がそっくり__」
「お前、誰?」
姉の彼氏の言葉を遮る。確かに先程姉から説明はされた通りだが、それでも受け入れられない脳は直接茉白に信号を出す。
「…えっと」
「まーくん、さっきも言ったやろ?ウチのカレシだって。大学に居る同い年で、同じサークルで、東京から来たって」
「部外者が!!!!!!!」
わなわなと震えた唇から、今までの茉白から信じられない大声が飛び出した。姉とその彼氏はくしゃりと顔を歪める。姉は怒りで、彼氏はショックだろうか。そんな事はどうでもいい。僅かな表情の差なんて、どうでもよかった。
恐れていたことが遂に現実になった。なってしまったのだ。
「部外者って、そんな言い方ないやろ?これから家族ぐるみになるかもしれない相手にそんな…」
「うるさい、うるさいうるさいっ!!そんな部外者家には要らん!!姉ちゃんは、姉ちゃんはっ…!!」
普段出さないような声量と抑揚の付け方に、若干息が上がる。肩が慌ただしく上下する。冷や汗が垂れる。
そうか、これが眞黒が猛獣と呼ばれた理由か。
「俺と………」
___幸せに、
六、
どのぐらい昔の話だろう。何時しか交えた姉との会話の一部分が鮮明に思い返される。
姉と自分の部屋はレースカーテンで、日差しが零れるとキラキラと眩しくて。子供が目を輝かせるには十分な程の輝きだった。
どんな会話をしたか、どんな表情だったか。
きめ細やかな情景だった。とにかく美しい、そんな言葉が似合っていたような気がする。
__ぐにゃり。
歪む。歪む。目の前の情景が一気に歪む。ぐるりと歪んで、まわって、一回転して、ぐにゃり、ぐにゃり。
遠ざかる、声も姉も姿も形もみな全部。
作り替えられていく。あの時姉の隣にいたのは元から、その男だったように。
変わる、変わる。
鼻を突く香水の匂いと、くるくる巻かれた髪の毛についているヘアオイルの匂い。
あの繊細な髪の毛は熱で虐められている。あの男の為に___
胃から食道まで何かが込み上げてくる。ぐぷ、と喉の奥から嫌な音が鳴る。その頃には口元を手で押えていた。
駆け出す。その場から逃げ出したくて堪らなくて。今あの二人を見ていたら、全てめちゃくちゃにしてしまいそうな気がして。
洗面台で吐露した全ては醜かった。ごぽり、げぽり、吐瀉物が押し出されていく。今日の給食さえも、鮮明に。
蛇口をひねり冷水を流す。口を洗い流しても胸に溜まった物は取り除けなくてもう一度吐き出して。
ふと鏡を見た時には、見窄らしい少年だけが無常にこちらを見つめているだけだった。
もうお前には誰もいないと言うように。
お前に幸せは訪れないと見下すように。
しかし不幸も訪れないと言い聞かせるように。
「おはよ、しろ……し、しろ!?」
「…まくろ」
「あ、ぇ、あー、うーん…と、とりあえずお話は聞くけどぉ…」
結局あのまま死ぬように眠り込んで夜を明かした。翌日姉と顔を合わせられなくて、逃げるように学校に来たのだが。
ああもう結局悩みを吐き出すツテはこいつしか居ない。全部話してしまおうか。いやでも、話してしまえばまたあの情景を思い出してしまいそうで、朝に食べたものがすべて出てきてしまいそうだった。
帰りたいが、今日姉は休みで家にいる。寧ろ帰りたくない。
「…だ、大丈夫?」
「…」
思わず、口を開いた。
「かえりたくない」
眞黒は面食らったような顔をする。そりゃそうだ。幼なじみが、朝いきなり帰りたくないなんて口走ったのだから。
しかし眞黒は柔軟であった。うーん、と考えるような素振りをしてひとつ、提案をする。
「今日俺と一緒に早退せん?」
にこやかな眞黒からのそんな言葉を、茉白は上手く飲み込めなかった。意図が汲み取れなかったのだ。
結局、二限までしか出席できなかった。こんな気軽に早退できるのなんてこれまでだろう。
両親に連絡は勿論行くのだから、当然茉白は茉白の家に帰るもんだと思われているだろう。然し実際はそうでは無い。
茉白が今居るのは、眞黒の家だ。
眞黒の家は両親共働きで、昼間は家にいない。眞黒はうちに帰るなりスマホを手に取って両親に連絡を入れた。ふと覗き込んでみるとそこには信じ難いメールの内容が書き込まれていた。
今日、うちに茉白を泊めてもいいか。
茉白の両親にも話をつけておいて欲しい、と。
「…く、ろ?」
「ん〜?」
「…な、なんで…」
「だって、帰りたくないんやろ?」
「それはそうやけど…」
「なら帰らんくてええやん!今日一日だけお泊まりしようや!お洋服とか俺が貸すからさ」
「で、でも…」
「あ!今おっけー貰ったからええよ!あがって!」
半ば強制的に腕を引かれる。バランスを崩しかけたが既のところで踏み出した足が転倒を免れさせた。
茉白のスマホは当然家にあるので、姉にバレないようこっそり取りに行き眞黒の家に戻る。
眞黒の家はとにかく天井が高い。両親共々背が高いのでその影響だろう。緩やかに流れ込む他人の家の香りに茉白はずっとそわそわと落ち着かない様子だったと思う。
眞黒がお菓子やら飲み物やらを持ってきてソファに座る。隣においでー、なんて言われれば茉白はすぐに眞黒の隣へピッタリとくっついて座った。
「な、映画見よ。俺のお気に入りの映画。」
「ええけど…」
映画なんて見るのはいつぶりだろう。父母や姉が選ぶ映画はどれも茉白にはピンと来ないものばかりで、いつも映画館では暇を持て余していた。
「俺な、この映画の俳優が好きなんよ。」
映画の初めに毎度流れるスポンサー紹介を見ながら眞黒は呟いた。茉白はどうせ、手元にあるお菓子にしか興味はないだろう…なんて、そう思っていた。
なんともまあ、衝撃的な映画だった。
男子の心を擽るようなアクション映画でなければ、女子の心を持て囃すようなファンタジーじみた映画でも無い。
ただ学校が舞台の、ただただ少年少女がそれぞれの悩みに向かって戦う映画だった。
それだけでない。あとから調べて驚いた。役者のほとんどは二十歳を超えた大人だったのだ。
こんなにも鮮明に、彩やかに、かつ少し薄暗い演技は到底大人になった自分にはできない_直感的にそう感じたからだ。
演技というものに少しばかり興味を抱いたのだった。
「なあ、しろ。」
隣に座ってる眞黒が声をかける。
「俺たち同じ高校でもそうじゃなくてもさ、演劇とか、やってみん?」
演劇。
確か茉白と眞黒の通っている中学校にもそんな部活があった気がする。いつも部室の前を通ると訳の分からない言葉ばかり叫んでいるなとしか思わなかったが___
なるほど、楽しそうである。
茉白はすぐさま頷いた。
夜を迎える。眞黒と同じシャンプーを使ったからか、自分から眞黒の香りがするなんて不思議な話。少し広めのベットに、眞黒と茉白は二人で寝転がった。
「しろ。」
ふと、茉白に視線を合わせる眞黒。
茉白はぴくりと眉を動かして反応した。少し小さな声で眞黒は続ける。
「今日落ち込んどった理由さ」
あ、聞かれる。
話さなければ、と茉白が言葉を脳内で紡いでいた時。
「いつでもええから、いつか、話してくれんかな。」
茉白はえ、とほんの少し目を丸くした。今すぐにでも話せと、心配性な眞黒なら言うと思ったからだ。
的外れなその言葉にどう返せばいいかわからなくなる。というか、冷静に考えてこの状況で言われるのは少し、小っ恥ずかしい。
「いつか…せやな。」
茉白は寝返りをひとつうって、眞黒に背を向ける。
「お前の葬式の時にでも話すわ。」
「はは、なぁにそれ。」
七、
長引いた残暑が引き、長い冬が明け、晴れて高校生となった茉白と眞黒。案の定眞黒は茉白と進路を合わせ、同じ高校に合格し、なんと二年ぶりに同じクラスとなった。
中学の頃と似たような席で、新しい環境。眞黒に人が集まるのは当然のことだが、珍しく茉白にも寄ってくる人がいたのだ。
同じ中学の人間なんて眞黒以外に居ないのだから当然だ。みな茉白に関する下らない噂なんて知らないのだから。
それなりに気さくに応じてはいた。茉白なりに、上手くやろうと。上手く人間と付き合おうと。
部活動。高校生活を左右すると言ってもいいだろうこのイベントに、茉白と眞黒はぶち当たる。
仮入部期間という事もあって、先輩方も少しソワソワとしたような様子で二人を出迎えた。
「じゃあ、試しに台本を読んでみよか!」
部長らしき男の先輩がパチンと手を叩く。配られた台本は五分程度の短い劇で、ショートコントのようなものだった。
「じゃ、君と君は俺と一緒に読もうなー。」
にっこりと微笑んだ先輩の名前は、中田灰誓と言うらしい。キラキラと眩しいその顔。三年生らしく、今度の大会が最後の出演だと聞いた。
演技というものは初めてだからか、眞黒は少し緊張していたが__
茉白は、茉白だけはそうではなかった。
灰誓がワンテンポ遅れてセリフを読むなどするほど、茉白の演技力は圧倒的だったのだから。
眞黒も気がつけば茉白の演技に聞き入ってしまっていた。
「君、凄いなぁ!是非うちに来て欲しいわぁ。ま!君の希望が優先やけど!」
「え、ぁ、あ…ありがとうございます…」
「ええやん茉白〜〜!センスあるって事やで!先輩、しかも部長からのお墨付きや!」
日が傾き始めた眩しい教室で、三人は微笑み合う。間違いなく幸せだった。他の部員たちも茉白の演技のことは認め賞賛していたらしいと後で聞いた。
__不意に帰り道、眞黒は茉白に聞いた。
「なあ、茉白。どうしたらあんな演技ができるん?」
茉白は確かに、思ったままのことを伝えた。
「…分からん。演技したって言う記憶が無くて。」
眞黒は、ふと持っていた空のペットボトルを地面に落とした。
八、
入部届を持った茉白と眞黒は、部室の扉へと手をかける。その伸ばした手に、同時にまた違う誰かの手が伸びてくる。
はっとなって「ごめ、」と眞黒が言いかけた瞬間の事だった。
茉白は、絶句した。
「ああ、久しぶりやねお二人共。もしかして君たちも演劇部に?」
「あ!宇堂くん!?久しぶり!!えへ、そーやでぇ。宇堂くんも演劇部なんやね。またよろしゅうな〜!」
待て、いや待て、何故こいつがここにいる。なぜお前は何も気にせずに宇堂と話している。
疑問がぐるぐると巡って、一周まわって何も考えられなくなる。手に汗を握りしめ、できるだけ目を合わせないように努力していた。
「じゃ、一緒に入部届出しに行こか!」
ガラリと扉を開けた眞黒。茉白もさっとその背中について行こうとした瞬間、ふと緑がぱちりと目を合わせてきた。
蛇に睨まれた蛙のようにその場から動けなくなる。
「また、よろしゅうね。」
「あ、ぁっ………」
逃れられない。この男からは、もう二度と。
逃れられない、この悪夢から。抜け出せない。
最悪の目覚めから始まった演劇部の活動は、案外最初以外はそこまで苦ではなかった。
それは大会に向けての練習が始まってからすぐに分かる。宇堂緑と田中茉白の演技力は、先輩も両手を合わせて叩く程だった。
そしてある日、こんな話が演劇部の中で飛んできた。
「今、演劇部みんなはテッペンを目指してやってきてると思うんやけどさ。」
突然、とある三年の先輩と茉白を呼び出した灰誓はそう言って話を切り出した。
「もしその目標を達成させるとするなら、配役を変えた方がいいんじゃないかって俺は思うんよね。」
「…つまり?」
名前も覚えてない三年の先輩は、少し間を開けてそう尋ねる。次のセリフが手に取るように分かる。
「君の役を、茉白くんに変えようと思う。」
心臓が大きく跳ねた。嫌な跳ね方だったのだろうか、そうでなかっただろうか。
「茉白くんはどう?」
灰誓は先に茉白に尋ねた。茉白は少し口篭る。確かに、役を貰えるのは嬉しい。が、隣にいる先輩はどうなる。
最後の大会で舞台に立てないとなった彼は一体。
……いや、でも、灰誓は違う。
灰誓は、田中茉白に聞いている。
ならばこちらも、「田中茉白」で答えるべきである。
「やりたい、です。」
茉白は確かにそう答えた。やりたい。やってみせたい。やり切りたい。
隣にいる先輩は俯いて覚悟を決めたように顔を上げる。
「なら、やらせてあげるべきやな。」
ここは先輩として、なんて気持ちでいたのかもしれない。
その現実を受け入れるのには相当な覚悟がいるはずだ。何とも非情な現実を、何とかして飲み込んで受け入れたのだから。
灰誓は満足そうに頷いた。
「それじゃ、顧問に言っておくから。」
灰誓が去った後、茉白も部室に戻ったが、隣に居た先輩はトイレに行ってくる、と荷物を持って言ったっきり部室には戻ってこなかった。
舞台に立つことは楽しかった。それはそれは時間を忘れてしまうほどに、成績を気にしなくなるほどに。でも茉白は物足りなかった。演技をした時の記憶が無いのだから。
物足りない、もっとその記憶をちゃんと保持したいという気持ちが、茉白の才能に磨きをかけた。
二年生に上がる頃には眞黒も緑も、茉白と同じ舞台に立てるようになっていた。
眞黒に関してはやっとの事だった。待ちわびていた。茉白と同じ舞台で、同じ照明に照らされて演じることを。
本格的な進路をまた考えるようになった九月某日。高校二年生の茉白と、母と、担任。
成績の話ではすこし母は顔を顰めたが、茉白は特に何も気にしていなかった。
「田中は、おまえ、将来何になりたいんや。」
「…俺は。」
その時、茉白は初めて話した。自分の夢を。自分の未来を。
中学の時、姉が彼氏を家に連れ込んだ時はもう未来なんて何も考えたくなかったが、眞黒にあの時背中を押されてからは気楽に未来を見ることが出来た。
その眞黒への感謝を込めて、茉白は話した。
「俺は、俳優になりたい。芸術を極めたい。演技をもっとやりたいです。」
普段の茉白からは考えられない、ハッキリとした意思だった。こんなにもまっすぐ何かを伝えられるというのは、初めての事だった。
然し、担任の顔は渋かった。
「……田中、今から厳しいことを言う。」
担任の話す一言一言をハッキリと耳に入れた茉白の目からふ、と光が消えた。
大会前のあの日、顧問は灰誓に告げていた。
「田中の才能は確かに素晴らしい。世の中に出ていないのが勿体ないほどだ。でも、ああ言った天才は既に芸能界では事足りている。あの様な天才を送り込むと、どうなるか。…わかっているだろ、中田。」
____天才を目の当たりにした秀才の芽が次から次へと摘まれていく。諦めて舞台から降りるものも出てくる。
「実際、役を田中に変更されたアイツや椎名がいい例だ。椎名はまだ舞台を降りていないからいいものの__」
アイツはいずれ、田中と擦れ違いを起こすだろう。
そして身をすり減らすことも多くなる。田中の才能のせいで。
「だからあいつを世に出しちゃいけねぇんだ。」
「…でも、茉白くんは」
「分かってくれ、中田。」
顧問は、灰誓の肩を叩いて去っていった。
「____芸能界に天才は多くおる。いずれそいつらとの格の違いに、お前はいつか舞台を降りることになる。
…そうなったら、お前はどうするつもりや。」
茉白は腹が立つ気も失せていた。未来を、自分の感情を決めつけられているような気がして、とにかくうんざりだった。
茉白は耐えきれず両手を振り上げて机に思い切り叩き下ろした。
バン!!と乾いた音が教室中に鳴り響く。
「じゃあ進学でいいです。」
そのまま突き放すように椅子から立ち上がり、駆け出すように教室から出ていった。今年もまた長引く残暑の鋭い太陽の光が、廊下を照らしていた。
待てと制止する声が遠のき、無我夢中で階段を駆け上がり、逃げるようにして部室の近くまで行く。
練習する声と、談笑する声に混ざって茉白の足音が鳴り響く。
ふと、部室から眞黒が出てきた。
「茉白!面談終わったん?今から練習するから、早く」
「眞黒」
茉白は眞黒を呼ぶ。ハッキリとその名前を呼ぶ。
「二人で話したいことがある。」
眞黒はあの時のように面食らった顔をしている。茉白が眞黒の横を通り過ぎたと同時にくるりと方向を変えて、茉白の背中を追って行った。
もう、ここで蹴りをつけてしまおう。
ここで、二人の夢を終わらせよう。
九、
部室から漏れる談笑の声が遠ざかる。人気のない静かな廊下で、眞黒は落ち着きがなく茉白の背中を追っていた。
突如、茉白が身体の向きを変える。眞黒と向き合う形になる。眞黒は、ぴくりと肩を震わせて足を止めた。
いつもの様に、にこやかに口角を上げて
「茉白から呼び出すなんて珍しいなぁ。どないしたん?」
なんてお茶を濁す。これから話すことの内容なんてどうせ、察しのいい彼ならわかっているはずなのに。
「茉白_____」
「眞黒。」
眞黒はきゅっと口を結ぶ。茉白が話し始めると彼はいつもちゃんと黙り込む。
その目は曇っていて、真っ黒に染まっていて。
愛らしい光なんて一筋もなかった。
「俺、お前と俳優目指せんわ。」
目の前にいる眞黒の時が止まる。静かに、冷ややかな時間が流れる。凍りついたようなそんな時間が。
これでいい、これで終わらせてしまったらいい。
これ以上眞黒に、明るい自分との未来を期待させたくなんかない。
一気に空気が凍てついた廊下から茉白は逃げ出すように歩き出した。重々しい空気の中、引き止めるように眞黒が言い放った。
「なっ、なんでや!!俺らなら俳優なれるって、信じてたやんか!なんでそんな急に…」
茉白は歩みを止める。眞黒の目の前。いつの間にか自分を越していた身長。体格…
いつの間に、茉白は眞黒を見上げるようになったのだろう。
「なんだってええやろ。別に俳優目指さんってだけで芸能界入りは諦めた訳ちゃうし。」
「でも…!!」
「お前ならきっと有名になれるんちゃう。」
冷水を被ったような、焦燥と僅かな苛立ちの表情。いいんだ、これでいい。これで突き放してくれるなら、安いものだ。
あの時励ましてくれて嬉しかったのも、それで立ち直れたのも事実だった。
でも、眞黒とはもうここでお別れだ。
然し眞黒は続ける。茉白を引き止めるために叫び続ける。
「なんで…なんで茉白っていつもそんなに中途半端なん!?お姉さんの時やってそうやろ!!諦めんことが大事やって時なんに…!!」
「なんで」
遮るように茉白は眞黒に問いかける。茉白はあの時あの瞬間の会話を忘れてなんかいなかった。
__いつでもええから、いつか、話してくれんかな。
__…いつか、せやな。
__お前の葬式の時にでも話すわ
まだ、話していない。
あの時の姉のことは、まだ眞黒には話していないのに。
それなのに、どうしてこいつが知っている。
「なんでお前が、姉ちゃんのこと…」
眞黒は、ハッとなったように焦って口元に手を当てた。そんなつもりじゃない、と首を横に振り、後ろに数歩よろめいて。
十、
暫く無言の時間が続いたあと、茉白が口を開いたと同時に眞黒が話し始める。早口で捲し立てる。眠っている茉白の目を覚ますように。
「俺は!!……俺は、俺はっ、茉白と一緒に夢追えるのが幸せやったんに、茉白は…茉白は、そうやなかったん?」
「ッ、うっさいわ!!」
衝動的に目の前の眞黒のネクタイを掴んで引っ張る。此方に近寄った眞黒は背を丸めて、抵抗せずに茉白だけを見ている。
こいつは他なんて見ていない、茉白しか見ていない。
失望した。
眞黒までもが下らない噂に流れて茉白をそんな目で見つめる人間だなんて、思ってもいなかった。
「お前の基準を前提として幸せ語ってるんとちゃうぞ……」
吐き出してしまったら全部出てしまうような気がして、眞黒でさえも、姉と同じように茉白を置いていくような気がして。
違う、茉白は、ただ変わっていくことが怖かった。変化することを恐れていた。現状維持をしていたかっただけなのだ。
でも周りは当然変化していく。当然茉白への気持ちだっていつか変わることになる。それが怖い。自分が眞黒を、姉を、嫌いになるのが怖かった。
いつだって眞黒は優秀だ。
体格も、身長も、いつの間にか眞黒が茉白を越していて、手先の器用さも顔の良さもすべて眞黒が持っていた。
眞黒のせいな訳じゃない。自分が勝手に捻くれて、羨望の眼差しを、嫉妬の感情を抱いていただけで。
嫌い、嫌い、でも嫌いになれない。
離れるのだったらいっそ、「椎名眞黒が嫌いな田中茉白」を演じなければ。
「お前には分からんわ!!!!!!」
あ。
言ってしまった。言ってしまったんだ。
自分は散々あんなに、決めつけられることを拒んだくせに。
嫌になる。全てが嫌になる。
ネクタイから乱雑に手を振りほどいて、眞黒の横を通り過ぎる。視界の端に、膝から崩れ落ちる眞黒の姿が見えた。
人が絶望した時に膝を着くことは知っていたが、それを眞黒で初めて見ることになるなんて。
まるで自分が悪役のような気がして、茉白は逃げ出したかったからか、駆け足で走っていった。
どれだけ無の時間を過ごし続けたのだろう。茉白と眞黒は不運にも三年次もまた同じクラスで、茉白は案の定、投げ出すように部活をやめて途方に暮れていた。
流石に、眞黒も大学は別の道を選んだそうだ。いい、これでいい。一々着いてくる方がおかしかったんだ__
大学に上がってからはほとんど自由奔放に暮らしていた。茉白は基本的に一人で行動しているからか、余り周りから声をかけてくれるようなことはなかった。
眞黒とは「卒業おめでとう」の一言以来、連絡をとっていない。返信したんだっけな、既読だけで終わらせたんだっけな。もう今となってどうでもいい事だった。
ふと、ひとつの文字が茉白の目に留まる。
「…芸人事務所、養成所…?」
落語研究会の張り紙だっただろうか、そんな文字が目にとまったのだ。
芸人、というのは些か興味があった。調べたところ費用はかかるらしいが、元々物欲はそんなにない方だ。昔のお年玉とか、これから始めるバイト代を上手く使えば何とか出来るかもしれない。
少しばかり脳内で計画を練ってから、家や図書館で調べ物をする。茉白がここまで熱心になれるのは、いつぶりだろう。
ここなら、演技力だって活かせる。これまでの努力を無下にはしない。
養成所に入ってからは、少し苦労した。
ピッタリハマる相方が中々見つからない。上手くコンビになれる気がしない。
ピン芸人という手もあったが、先ずはコンビを組んでから決めた方がいいと何故か茉白はそこに縛りをつけていた。上手く相手になってくれる人は誰か_
「わ、ごめん!」
「うぐ」
考え事をしていたら、誰かとぶつかってしまった。茉白もそこそこに背が高い方だが、それよりも背が高いとなると…
まさか、眞黒
「ごめんごめん!ペン落ちたで、あわなんか色んなのも落ち…って、あれ」
ちがう、こいつは、この人は
「茉白くん!?」
___中田灰誓!
茉白が高校一年生だった時に、演劇部の部長だった先輩だ。まさかこんな所で再会するとは思っておらず、茉白は驚きつつも小さく会釈をした。
「いやぁ久しぶりやね!こんなとこで会えるなんて!」
「せ、先輩…」
「えへ、俺最近コンビ活動が上手くいかんくてさあ。ちょっと行き詰まっとったんよな!ちょーどええわ!な、茉白くん、俺とコンビ組んでみん?」
灰誓は気にせず話を続ける。なぜ茉白がここに居るのか、探りを入れずに気さくに話しかけてくれる。その優しさが、少し染みる。
茉白はこくりと頷いた。やりたい。この人とまた同じ舞台に立てるなら、立ちたい。
「やったぁ!ありがとうなぁ茉白くん!じゃ、これからまた、よろしゅうね。」
にこりと微笑む姿は、四年前と何も変わっていなかった。
さてここからどうなるかは、茉白でさえも見当が付いていなかった。
スタートダッシュはまあまあ、と言ったところだろうか。特別バズる訳でも、特別売れなさすぎるという訳でもなかった。
___まあ、そこそこ。中の下と言った所だろうか。
しかし、順調に上へ上へと進んでいる感覚はする。テレビ出演も果たし、順調に有名にはなってきている。街中を歩いていれば、ほんの少しだけ声をかけられることもある。
スーツに、ベストに、上京するならと姉から貰った赤いネクタイを付けて。
少し時間がある、と楽屋から出て飲み物でも買おうとした時の事だった。
「茉白?」
____遠くから嫌という程聞きなれた声がした。
十一、
「ましろ、茉白!久しぶりやん、茉白!」
「あ、っ…」
眞黒だ。椎名眞黒。
あれからどれだけでかくなったんだ。和服のようなものを身に羽織り、いつの間にかサングラスも付けていて。
茉白はあの時あの瞬間の会話を完全に記憶している。引き返そうとすると、眞黒が手首を掴んだ。
「なぁっ、茉白…」
もう逃げないで、と言わんばかりに、縋るような眞黒の声が聞こえてくる。やめろ、そんな声で俺を呼び止めるな。
「ましろ、嫌や、茉白っ」
逃げないで。行かないで、俺をまた置いていかないで。
そんな眞黒の声が響いてくる。正直すぐさま振り払いたかった。でも、眞黒は力が強い。
「もうあんなことにならないように、俺がもっとちゃんと茉白のこと守るから、だから」
やめろ、
やめろ
もう俺に干渉するな
もう俺に着いてくるな
ふざけた夢を馬鹿みたいに追い続けるのはやめてくれ
「ずっとそばに居るから、な?」
なんであたかも自分が下みたいな言い方するんだよ、クソ。
十二、
もう話すことなんてない。
十三、
とにかくそこからは最悪だった。
皮肉にも眞黒が茉白と共演するようになってから、灰誓とコンビを組んでいる時よりも売れるようになって、灰誓はにこやかに茉白に別れを告げる、
コンビ解散の五文字が過ぎって余計眞黒の事を憎むようになった。あの声あの手あの力あの顔あの姿全てが嫌いで嫌いで仕方なくて。
適当な居酒屋で、全ての感情をアルコールで押し流した。
昔は確かに愛され育って、今だって愛されていないわけじゃない。
不幸どころか幸せで、それなのに不幸ぶって苦しんでて。
どうしようも幸せを受け入れられない自分が嫌だった。
こんなにも苦しんで俺は何がしたかったんだろう。
苦しんだ演技なのかもしれないし、そうでないかもしれないし。
辛いなんて一概に言えなくて押し黙って。
誰かに助けて欲しかった、ただそれだけの事なのに。
自分から、自ら、寄ってくるものを突き放して。
一人ぼっちになるのが怖かった。
変わっていくのが、成長するのが怖かった。
だから目を塞いだ。
このまま、ずっとこのまま
目を覚まさずに一人で塞いで行った方が楽だから。
__それじゃあ、おやすみしたままでいてね、ジーニアス。