若生紫雲という名の大罪人について<千秋楽>
彼奴を殺してやりたいと思ったのは何も最近の話じゃない。ずっとずっと昔から俺は彼奴の事が許せなかった。
神も悪魔も手玉に取り、まるでさぞ自分が人生の主役かのように堂々と舞台上を歩く、その姿が気に入らなかった。
「君の役を、茉白くんに変えようと思う。」
目の前にいる灰誓にそう言われた瞬間、釘を刺されたようにその場から動けなくなる。重たい頭を下げて、足元を見つめても現実が脳を叩いて逃げ出すこともままならない。
「茉白くんはどう?」
おい、ちょっと待てよ。
なぜ先に俺に聞かない?なぜ誰も先に俺に相談をしてくれない?数年前のことを覚えていないのか、こいつは。
決別する、と廊下であの脚本を破り捨てた日のことを覚えていないのか、演技をしようと誘ってきたのもお前なくせに。
この舞台がコケたら、俺たちはもう若さだけで舞台には立てないんだぞ。
「やりたい、です」
隣にいる田中がそう頷く。確かにこいつの演技の才能は認めよう、確かに俺よりも才能があって、優れている。そんなこと分かりきっている。
このまま俺はきっと田中の代役を務めさせられるんだろう。そう思うと胃から喉元まで何かが込み上げてきた。
…そんなこと許したくはない。こいつなんかに出番を奪われたくない。
今すぐここで大声を出して茉白のことを殴っていいのならそうでもしただろう。殴殺ぐらい喜んで出来た。
どうしてこうも現実は無情なんだろう。どうしてこいつに演技の才能なんて持たせたんだろう。不平等だ。
「なら、やらせてあげるべきやな。」
噛み締めた気持ちをゆっくりと吐き出す。顔を上げて、真っ直ぐに灰誓の方を見つめる。
やらせてあげるなんて言ってやったんだから、せめてお前は日本を背負う俳優にでもなってしまえばいい。取り返しのつかないところまで登り詰めて、死ぬに死にきれなくなればいい。
お前が死んだ時、後追いするやつは何人いるのだろう。お前の演じた役の好きなセリフをいいながら奴らは屋上から飛び降りるのだ。頭蓋骨から脳をぶちまけて。
「それじゃ、顧問に言ってくるから」
灰誓の背中を僅かに睨んだことはバレていないだろうか。元々目付きが悪いもんだから、意図して睨んでるかなんて分からないだろうか。
横に立っている田中は颯爽と部室へ戻って行ったが、俺はどうもあんな生温い温度の部室になんて戻れそうにもなく、荷物を纏めて「トイレ行ってくる」なんて嘘を吐いた。
あれから10年、経ったんだろうか。
少し早く帰れたその日にテレビをつけたら、白い髪の田中の姿がテレビに映っているのを確かに見た。
俺が見たかったのはドラマだったが、つける番組を間違えたかと目を見張った。
……なぜ、こいつが芸人しかいないバラエティ番組に出演しているんだ。
けらけらと笑って、有名な芸人たちと喋って、トークを繰り広げる。字幕なんかで面白おかしくされた茉白の話は、田中から発せられると信じるのに時間を要した。
小さい液晶のテレビだったが、そんなこともお構い無しに田中の顔面に対しリモコンを突き立てる。液晶は、割れたんだっけな、もうそんなことも覚えてない。
「許せない、許せない、どうして、なんでお前は、お前の才能さえあれば、俳優ぐらい、簡単になれたはずなのに」
俺が舞台を降りてまでしたかった事はこれじゃない。田中茉白を芸人にしてやりたかったわけじゃない。
こんな幸せそうな顔をさせるつもりじゃなかった!!
「ふざけるな!!ふざけるな!!!」
今まで俺が苦しんできたのは何だったんだ!ふざけるな!
何度、リモコンを液晶に叩きつけても気が済まなかった。田中の顔が、違う芸人の顔に映り変わってから、正気に戻った。
ふと、狭いキッチンに目をやると包丁が視界に映りこんだ。ああもう、どうにでもなってくれ。俺はもう、何もかも捨てて逃げ出したい。
あいつが舞台から蹴落としてきてまでに俺は、椅子に座って毎日毎日首と腰を痛めながらキーボードを打ちたかったわけじゃない。
学生時代に私服として着ていた黒いパーカーと、コロナ禍に買い溜めした黒いマスクは、丁度よく心地よかった。
田中の所在地を辿れば、収録終わりのあいつが歩いてくるだろう。
何も今来て今殺す必要も無い。来なければまた同じ時間に来ればいい。
___しかしなんて幸運を引いたのだろう。茉白が目の前から歩いてくる、今だ、今だ!
足の速さは昔から自信があった。陸上競技を勧められるほどだ、でも俺はそれがしたかったんじゃない。ただ舞台の上で、手を伸ばして、最後の台詞を飾って、大喝采を受け、カーテンコールまでしたかった、ただそれだけだった!!
それを壊したのは田中茉白という存在で、不覚にも、田中茉白の演技を全人類が愛してしまった、そして俺もそのうちの一人だった。
ああ、田中、田中、田中茉白!!
「、が、はっ…!?」
ここから先は脚本のない俺のアドリブだ!!
アスファルトに横たわった田中は、俺を睨みつけて呼吸を荒らげている。段々とか細くなる呼吸に、朦朧とする意識。ああ、苦しんでいるんだ。ずっとずっと演技じみたことをして疲れただろう、俺も鬼じゃない。最期ぐらいは__
なんてな。
「愛してる、愛してるよ田中。世界から愛されてどんな気分だった?」
「…」
田中は薄らと口を開いてこう答えた。
「気持ち悪かった、……まくろも、宇堂も…貴方も、」
寝入るように事切れた田中を見つめて、笑いを堪えられる方がおかしい。
俺はくつくつと胸の奥で響かせるように笑ったんだ。冷たくなった田中の身体は滑稽で、惨めで、哀れで、もう動かないなんて可哀想だ。
「は、は、はは、田中、茉白。ましろ、茉白、茉白、はは、は」
ぐしゃりと視界が歪むのを誤魔化すように血濡れた手で目を擦る。
___お前がしたかったことは本当にこれだったのか?
いや、違う!!
「俺は、ただ、お前と肩を並べて演技がしたかった、それだけだったのに」
せめてお前と、灰誓と、ちゃんとした口喧嘩さえできていれば、こうならずには済んだんじゃないか。
<No title>
田中茉白が俺の手によって殺されたあの日から一ヶ月が経った。馬鹿な警察官共、俺の完全犯罪は運がよく誰にも見抜けないはずだ。
何時だって俺は優秀なんだ、ざまあみろ、そこらの犯罪者とは訳が違う。
___まぁ、どうせバレてしまってもそれでも構わない。そうすればようやく、母さんに見てもらえるんだ。
真夜中の東京は茹だるように暑い。湿った空気が肌に張り付く。ベタベタと、煩わしい程に。
ふと、光が差し込んで目を覚ます。やっと朝が来たんだ、あの湿った夜から、朝が___
不意に違和感を覚える。それも、確かなものだ。
自分の部屋は、こんなに散らかっていただろうか。いや、高校で演劇をやめて以来、ここまで汚くした記憶はない。
カレンダーが目に映る。俺は確かに見たんだ、その日付。目を見開いた。
約10年前、確かに、灰誓から演者の変更をさせられたあの日だ。
ハンガーにかかっている制服。なんのつもりかは分からない。鏡に映る自分は間違いなく学生時代の自分で、ここは実家だ。両親の朝ご飯___なんのつもりか分からないが、どうやら記憶を持ったまま過去へ来た、らしい?
となればこれはチャンスじゃないか!
なんとかして、あの田中茉白を食い止めることが出来れば、俺はもう!
___なんて思っていた時期が、あったのかもしれない。
どうやったって上手くいかない
話し合いで解決しようたって無駄。結局、俺は感情を押し殺して飲み込んで、田中茉白が舞台に立つのを甘んじて受けいれているだけだった。
なんなんだ、これは。夢ならば早く覚めてくれ。こんな夢なんかいらない。まるで何してもお前は変われないと突き出されているようじゃないか。
10回目のループが始まった。もう慣れたルーティンだった。
どうせ今回も話をもちかけたところで止められるだけだ。
「君の役を、茉白くんに変えようと思う」
___どうして、
どうして誰も、俺に相談してくれない?どうして誰も、先に俺に断りを得ない?
何時だって此奴はそうだ。俺が黙って見ているのをいいことにずっと、ずっと。
「やりたい、です」
田中が答えた。答えてしまった。どうせ今回もダメなんだ。ずっとこうなんだ。変われない、俺はどうせずっと、変われない。変わらない。
「演技の才能しか、無いくせに」
いつの間に声に出していたんだろう。灰誓と田中が驚いたような顔で此方を見ている表情が映ってから、自分が今何を口にしたか分かった。
捲し立てて何も無かったことにしたかった、でも、脳がそれを引き止めるんだ。
言え、言え、丸く収まるのを待っているだけじゃお前は何も変われない。ぶつかり合え、殴りたいなら殴れ、本性のまま叫べ!
「っ俺はこの役を最後に演じたい!!!!俺はこの役を最後に演劇部を引退するって決めた!!!それなのにぽっと出の一年なんかに奪われて、たまったもんじゃない!!!俺は、俺は、っ」
「紫雲!!」
灰誓が眉をつりあげた。こいつの怒った顔なんてそう見た事がなかった。
苦しげな顔をしている。なぜお前が苦しそうなんだ、苦しいのは、苦しいのは、
「___苦しいのは俺なのに」
どれぐらい時間が経ったんだろう。
俺の口からは、終始本音しか出てこなかった。
結局、役は田中に奪われてしまった。
いつもと違う帰り道で、夕焼けの中灰誓に嫌という程強く抱き締められて、声を上げて泣いた。
そう言えば、中学の頃もこうやって声を上げて泣いたんだっけな。その時は背後から抱きしめられたんだっけな。
灰誓が真正面から抱き締めてきたのは、初めてだった。
目を逸らさずに俺の話を聞いてくれたのも、何もかもが。
中学のあの時からいつの間にか、感情を、自分の意見を押し殺すのが正解とされていた。
だから社会に出てからもこうして、所謂"社畜"をやっているのだろう。
なにもかも、押し殺すのが正解な世の中を変えたかった?
いや、違う。
田中茉白を殺したかったのは、役を奪われたから?
…違う。
もう演劇ができないと感じたのが悔しかったからだ。
でも分かっていた、そんな理由は灰誓も田中も悪くないなんてこと。俺が勝手に理由を二人につけて、二人のせいにしただけなんだ。
こうしてちゃんと、押し殺さずに本音をぶつけて喧嘩さえできていればこうはならなかったんだ。俺が手を染めることも。何もかもないことで終わらせられた。
殴りたい時に殴ればよかった、それで一時的に収まるのならそれでよかった。
ただ俺は、演劇がしたかった。
押し殺さなきゃ行けない世の中を、演劇を通して吐き出したかった。
もういいんだ、認めよう。お前は世界も俺も認める天才だ、田中茉白。
もういい、もういいんだ。これでよかった、そうすればお前が苦しんで死ぬこともなかった。
俺はこうして喧嘩をして、灰誓と向き合って行けばよかったんだ。田中茉白なんて、天才でよかった。他人でよかった。
目を開くと、そこは実家でも自分の家の部屋でもなく、真っ暗な闇の中だった。
…なんだ、これは。金縛りか?指先ひとつさえ動かせない。
「先輩。」
顔を覗き込む、白髪の青年がいる。何度憎んで舌打ちしたか分からない、田中茉白の顔だ。
「…先輩、やっと分かってくれたんやな。」
「…ああ。分かった。お前は世界一の天才だ。演劇の天才だ。もう認めよう。俺に演技の才能なんてなかった。」
「ちゃいますよ。」
頬に田中の手が触れる。人肌はとても、その空間では暖かだった。
「紫雲先輩が、灰誓先輩と向き合えば良かったってことです。」
「……お前が見せた夢なのか、これは。」
「夢、というか。」
田中は少し目を逸らして苦笑した。
何故だか自然と憎らしい気持ちは波を引いて、目の前にいるこの田中茉白という名の"後輩"を大事にしてやりたいという気持ちさえ沸いた。
「…先輩?」
ぽろり、と目尻を伝って涙が落ちていく。田中はその表情の変化を見つけるなり困ったように眉を寄せた。
「ごめん、田中。あの時ちゃんと喧嘩すればよかったんだ、そうすれば、お前も、もう俺と関わることなんてなかった。
八つ当たりしてごめん、全部俺の問題だったの、に」
額に、唇が落ちる。
田中の、真っ白な長い横髪が顔の頬に触れて擽ったい。田中、茉白は、悪戯っ子の様に笑いながら俺の顔を見つめている。
「先輩が分かってくれたならええですわ。」
ましろ、
声を出そうとした。喉に力が入らないことに気がついて、俺は、呼吸をするだけの機械と成る。
ずぷずぷと闇が押し迫ってくる。沈んでいく、待ってくれ、なぁ、なぁ。
「先輩。」
「あ、ぁ、あ、ぁっ、」
「俺が見つかってまえば、先輩は母親に見て貰えて満足してまう。でも俺が見つからなければ先輩は、ずっと過去に囚われて生きていく。
先輩、先輩は捕まることないですからね。先輩。」
神だ、そして同時に、悪魔だ。
あの笑みは、白い光を纏っていたのか、暗い闇を纏っていたのか、分からない。
天使の輪と、悪魔の角を両方持った、キメラだ。
____待ってくれ、俺はお前がいないと何も気がつけなかった、何も変われなかった!俺はただ演技がしたかった、灰誓と喧嘩したかった、お前と何も関わらずに済んで欲しかった!
やめてくれ茉白!俺を置いていくな!!
「___っは、ッ!!」
上半身を起こす。やけに片付ききった部屋と、カレンダーは昨日目を閉じた時と何も変わっていなかった。
べりべりとカレンダーを捲る。2025年、8月某日。
奇妙な夢を抱えて、今日も若生紫雲は朝を迎えた。
湿気のまとわりつく朝だ。変わらないんだ、変われない。この朝はいつまで経っても変わらない。
田中茉白を殺した事実も、過去も何もかも。
「ゔぇ、っ、ぐ、え……」
嗚咽をいくら漏らしたとて、何も吐き出すものがない。俺が吐き出せる場所は演劇という舞台しか無かった。
「ごめん、ごめん、ごめんなさい、ましろ、ああ、いやだ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…………」
彼奴に、殺されていい理由などひとつも無かった