るいぱす終盤(りますたー)書きたい部分だけを書いたので、既に発生したとされている会話や出来事は「起きた」前提で進めていく。
詳細を知らなくても取り敢えず読めばその概要は分かるようにしてある。
前置きの後直ぐに物語が始まるので、あしからず。
修正前のものを読んだことがある人へ:ほぼ何も手を加えていないシーンもあるので、読み飛ばすかどうかは任せます。少し表現に色を足している部分もありますが、微々たる差です。
【前提知識:用語】
※作中で得られる情報が複数あるため、最悪読まなくても良い
〇ルインタウン
嘗て存在した、信教者が集う大規模な宗教集落。
政府による「総括的信教禁止令」により、
信教が禁止されても尚その現状を保ち続けた結果、
政府直属の軍警察によって弾圧された。
法令に従わなかったとして政府が強行に及び、
当時集落に居たものは1人残らず消されたとされていて、
この事が軍警察の不信感を募らせ、組織の解散へと繋がった。
対して現在も政府は「旧政府」として現在も存在しているが、
依然支持率は地の底へ落ちたままであり、事実上機能をしていない。
そんな中でも運良く生き残った者達が存在し、
新しい治安維持組織によってその者達の人権は保証される運びとなった。
今では立ち入り禁止区域として、集落の廃墟のみが残されている。
〇魔法
"古代魔法"というものもあるが、ここでは"近代魔法"を指す。
ルインタウン出身の者達のみが扱える特殊な力であり、
彼らの間では「神から与えられた祝福」と形容される。
旧政府はこの力を恐れたが故にあのような事件を起こしたのだとされている。
〇カガミ
各地に点在する「鏡」を模したポータルの俗称。
カガミかどうかの判別は"自分の姿が映るか否か"である。
空間、存在、もしくは概念に干渉できる者のみが破壊でき、
1度破壊されたカガミが修復されることはまず有り得ない。
〇平行世界
カガミを通じることで到達できるとされている世界。
彼方と此方の行き来自体は難しいことではないが、
彼方から此方へ来た場合は、認識されないことがほとんど。
〇外来勢力
平行世界から此方へ来た中でも「有害」とされるものを指す。
前述の通り、カガミから此方へと来たものはそう認識できる事自体が珍しいため、気づいた頃には大体手遅れである。
・ウイルス
外来勢力の中で最も危険とされる存在。
一度でも、一瞬でも彼らに首元を触られる事を許してしまえば
途端に「存在」が崩壊してしまう。
知能が高い、もしくは実体がハッキリしているほど強い。
通常の個体は黒1色で、影のような見た目。
何処かにある「コア」を破壊すれば倒せる。
〇研究者
"旧政府直属"の肩書きのみが共通している集団。
各々が日々「ジンルイ」の研究に勤しんでいる。
目指すはそのクローン生成。そして、対・外来勢力。
【前提知識:人物】
〇すている
血液に毒性がある。
人に使えば多少の麻痺程度、ウイルス相手に毒性の本領を発揮する。
◆
◆
「向こうの方にある教会跡にカガミがあるみたいなんだ」
そう言ってクインは、ドリフとスティアを同行者として呼びつけた。
「それで、なんで俺達を?スティアくんは分かるけどさ」
「そんなに意外かな?……思うに、君達はダントツで頭がキレるだろう」
ぽん、とドリフとスティアの肩に手を置き、クインは困ったような顔で2人に訴える。
「もちろん皆戦ったばかりでグロッキーだろうから、あまり疲れてない僕だけで行くべきなんだろうけど…1人じゃ心許ない。だから2人の力を借りたいんだ」
「ぐろ……なんだって?」
聞き馴染みのない言葉にスティアは眉を顰めたが、ドリフは納得している様子だ。
ドリフを除けば、クインの使う死語についていける者はいない。
「要するに、みんなチョベリバって事だよ。」
「ああ…うん。そうかい。ちょべりば、ね」
死語の解説に死語を使われ、スティアは取り敢えず理解を諦めて聞き流すことにした。
「聞き捨てならねえな、あんた」
端の方で立ち話をしていた3人に割って入ってきたのは、不服そうな声色。
「…教会跡に行くのか?ここからそこは、近くないぞ」
「おやおや、アリウムくん。それは僕達を心配してくれているということかな」
「心配?バカか。ちげーよ……これは警告だ」
馴れ馴れしく受け答えしてくるクインに顰めっ面をしつつ、アリウムはそう告げる。
教会跡に制圧していないカガミがあるということは、そこに向かうまでの道で何体ものウイルスに遭遇する可能性があるということ。
何度も奴等と戦ってきているのは確かだが、いくら警戒しようがしすぎる事は無い。
「俺は別にあんたらの実力を舐めてるわけじゃねえし、どうしても行きたきゃ行けばいいが…頭がキレるからって余裕ぶってると、死ぬぞ」
「承知の上だよ。その間、君達にはこの拠点の死守を頼みたい。僕の異空間もそこまで強いものじゃないからね」
そう言ってクインがアリウムにウインクをすると、アリウムはそれを避けつつも彼に心強い視線を返した。
「俺達にできないとでも?」
「頼もしいね」
それじゃあ任せたよ、と背を向けるクインと、若干不安そうにしつつも彼に着いていくドリフ。
それに続こうとするスティアのフードをアリウムはぐい、と引っ張り、
「おい、あんた─────」
何事かと、スティアは怪訝そうな顔をしている。
アリウムがこうも強引に、誰かを引き止める事なんてなかったからだ。
「…無事に、帰ってこいよ」
そんなアリウムの言葉を聞くと、スティアは一瞬拍子抜けしたような顔をした後、ふっと笑みを零した。
「オレの実力が不安かい?」
「いいや。ただ…何となく嫌な予感がしてるだけだ」
「安心し給え。オレだって何となく感じてるさ」
だったらなんで、と言いたげなアリウムにスティアは表情ひとつ変えずに応える。
「飛んで火に入る夏の虫と言えど、結局その火が消えないことに変わりは無いからね」
スティアは踵を返し、完全に背を向ける直前、アリウムに視線を流した。
「だから──────その時は、君が火を消してくれ」
◆
「此処だ、見給え…あのカガミさ」
クインの指し示した方には、彼の言うようにカガミがあった。
スティアは構わず近づくと、それを一瞥する。
「見たところ、機能していないみたいだね。ただのポータルになってるみたいだ」
「どうりで…あまり戦わずに来れたんだね」
納得したように、ドリフはうんうんと頷く。
「でも、何時また敵の侵入経路として機能し始めるか分からない。ここは大事を取って潰しておくべきだと思うよ」
そう忠告すると、スティアは前にいたクインの方を見る。
スティックとは違い、異空間を操る力を扱うクインはこのような類のポータルを武器などに頼らず、その能力のみで封じ込められる唯一の人材である。
もちろん、クインのことだ。きっと言いたいことを察して、ポータルを破壊するだろう…
そう、スティアは思っていたが。
「うーん…そう急がなくてもいいんじゃないかな」
意外にもクインは楽観的なようで。
「君、アリウムくんに言われたことを忘れたのかい?頭がキレるからって─────」
そこまで言うと、唐突にスティアは何かに気づいたかのように目を見開く。
「クイン、俺もスティアくんの言う通りだと思…」
スティアへの同調を示そうとしたドリフの言葉も途中で終わる。
彼がすぐ横で、小さく合図をしているのが見えたからだ。
人差し指を下に向けている。恐らく、"姿勢を低くしろ"の意。
「────2秒後だ」
何かが来る気配を察して、そう囁く。
ドリフは彼の指示通り、2秒数えてから床に膝をついた。
スティアもドリフと同時に膝をつく。
刹那、きらりと光る何かがが2人の頭をかすめた。
(刃物?いや……)
──────注射器。
「ありゃ、外しちゃった」
後ろから聞こえたのは此処に居るはずの無いすているの声。
飛んで行った注射器は、2本ともクインの手の中に収まり、ぱりんと音を立てて割られた。
「まぁ、そう簡単には行かないよね。分かってたけどさ」
そう言う彼の指と指の間から、赤く染まったガラスの破片がぱらぱらと落ちる。
「スティアくん、」
ドリフの目は動揺の色を宿しながら、スティアの方を真っ直ぐと見据えている。
2人は変わらず膝をついたままだ。
「いけないね、2人とも。こんな簡単に拘束されちゃうなんて」
─────そう。気づけば、2人とも身動きが取れなくなっていたのだ。
スティアは考えを巡らせる。
(嫌な予感はしていた、が…まさか)
クインが、裏切るなんて。彼は…そんな行動をするようには見えなかった。
「特にスティアくん。君は随分と警戒心が強いように見えたけれど…多少の油断は誤魔化せなかったみたいだね。僕のことを少しは信用し始めてくれてたのかな?」
「─────でも残念、僕の本性は、君が僕に抱いた第一印象そのままだ。」
拘束されたまま、スティアはクインを睨みつけた。
「…どういうつもりだい?」
「そう怖い顔をしないでおくれよ、安心して。多分、殺しはしないから。…すているくん。ドリフの拘束を外すから、君が見張っておいてくれる?」
「はぁーい」
そう言うとすているはドリフの後ろに立ち、頼りなさそうな仁王立ちで動きを牽制した。
いとも容易く動けなくされたドリフは、自分の救世主であったであろう彼に疑問を投げかける。
「…ね、君さ。クインとグルなの?」
「さあ?」
暫しの沈黙。
「何故彼の拘束だけ外した?」
それを破ったのはやはり、この状況に訳も分からず立たされた故に生まれた、幾つもの疑問。それらを問うスティアの、静かな声である。
「うーん。1つは、無駄に拘束して体力を消費したくないから。もう1つは、万が一抵抗されても勝てるからかな」
つまりは完全に舐め腐っているという事だ。
拍子抜けする程簡潔に纏まるその言葉の意に、ドリフは困ったような苦笑を浮かべる。
「はあ、俺は随分と見くびられてるみたいだね」
「ふふ。僕は知っているからね。この4人で戦闘になったら、真っ先に死ぬのは君だ」
「…否定はしないでおくよ。」
「いつまで雑談を続けるつもりだい?」
スティアは変わらずクインを鋭い目付きで睨みつけている。
噛みつかんばかりに自身へと刺さる視線を宥めるように、或いは掻き乱すように、クインは言葉を紡いだ。
「ああ、ごめんごめん。2人とも混乱してるもんね」
「何をへらへらと……。さっさと目的を言い給え。」
「まあそう焦らないで。僕にひとつ質問させてよ」
クインはにこりと、場の緊張感を崩さない程度の笑みを湛える。
「スティアくん。君は、何者?」
そう言うクインの手には、黒く光る物が握られていた。
紛れも無い────銃だ。
もしかしなくても…尋問、の類であろう。
そんな状況に立たされても、スティアはクインの言葉に対して溜め息を吐く余裕があるようで、
「オレは何者……か。」
スティアはその質問を反芻する。
もし彼が答えを得ることにそこまで執着していないのなら、スティアはそれに対して真面目に答えるつもりは無い。
彼の質問が冗談半分なのか否か、口調や表情からは読み取れなかった。
「君が普段通り、意味の分からないふざけた言葉を使ってくれれば…幾分か答えやすくなるんだけど。」
「君だって、人が死んだ時にぴえんなんて言わないでしょ」
的を射ているようで、よく分からない例えだ。
恐らく、そういう雰囲気では無いと言いたいのだろう。
「先程の質問。君は、どんな答えを期待しているんだい?」
「僕は真実を知りたいだけさ。君の同僚の彼が、君を問い詰めていたことは知ってる。」
クインが言っているのは、恐らくアリウムに呼び出されたあの日の夜のことだろう。
「盗み聞きか。タチが悪いね」
ドリフはなんの事かさっぱりだと言いたげだが、黙ってスティアとクインのやり取りを聞いていた。
「アリウムくんの言っていた事も尤もだ。あの状況下で、君の行動は勘のいい者なら訝しむのは当たり前。でも僕が気になったのは君の発言だ」
「君はあの時、自分がこの一連の事件の”原因”だと明かしたね。それに、自分のことを殺せ、とも言った。」
───『この地獄から解放してくれる救世主が君でも、オレはそれで構わない』
スティアのその言葉が、あの月夜からずっと脳裏に焼き付いている。
クインは、ただの興味でその会話を聞いていただけだった。
アリウムに対するスティアの言葉は要領を得ないものばかりで、理解に苦しんだのは言うまでもない。
奪われた死の概念、永遠の生という地獄。
そして、一連の出来事の"原因"。
全て、スティアの声で紡がれた言葉たちだ。
「アリウムくんも多少は疑問を抱いただろう、何故自分が”黒幕”だと言うのではなく、”原因”という言葉を使ったのか。」
彼のネオンカラーの十字架が、目の前の紫色の瞳を見据える。
スティアはその視線に応えるのも億劫と言った様子で目を伏せた。
「彼にも言ったけど、そのままの意味だよ。君がオレを脅威だと思うのなら、今ここで殺せばいい」
「これはまた、随分と死にたがりだね。僕は君の口から語られる言葉が聞きたいんだ。僕が君をどう思ってるかなんて、今は重要じゃない」
そう言ってクインは肩を竦める。
きっと彼は何か良くない事を企んでいるのだと、そんな事はとっくに分かっていた。
だがそれとこの尋問はねじれの位置にある。
今の彼は陰謀云々とは関係無しに、率直な疑問を述べているだけ。
このやり取りは、彼の好奇心を満たすための道具なのだ。
スティアが自分の知っている事を全て話すには、彼の動機は短絡的すぎる。
クインの疑問に答えるか否か、彼は暫し考え込む素振りを見せた。
「そうだね。どうしてもと言うのなら、答えてあげてもいい───だけど、」
そう言いつつ、スティアはすているの方に少し視線を向けた。
「君は先程から、会話に入れていないようだね」
2人の視線が交錯する。
スティアの視線と言葉の真意を図りかねたすているだったが、
「ああ、おれの事はお構いなく。ゆっくり、3人で話しなよ」
そう言うと彼は輸血パックを取りだし、ストローを差し込む様子を見せた。
それを見たスティアはクインの方へ視線を戻すと、
「……オレは黒幕じゃない。黒幕が、一連の事件を起こすきっかけとなった存在がオレ…。即ち元凶ではなく、あくまで"原因"。『そのままの意味』さ。…単純な話じゃないか」
半ば呆れた様子で、クインが知りたかったであろう"真実"とやらを告げた。
「きっかけであるオレが死ねば黒幕も諦めてくれるだろうって言う浅はかな考え故に、オレは彼に自分を殺せと頼んだんだ。…これで、疑問は解消されたかい?」
「うーん…まぁ大体は分かったよ。」
構えていた銃の引き金部分を人差し指に通し、くるくると回しながらクインは答える。
「いいや、俺はまだいっぱい聞きたいことがあるよ。スティアくん」
先程から1度も口を開かなかったドリフが、スティアの方に一切視線も向けず、薄暗い床を見つめたまま問う。
「俺達は誰1人として、この状況が何たるかを理解していない。でも君は自分が原因であることと、黒幕の存在まで把握してる。それに、大半のカガミの位置も知っていた。」
「…それで、何が言いたいんだい?」
ドリフは何かを確信したような様子で顔を上げた。
教会のステンドグラスから射し込む光に照らされた、何時になく真剣な彼の眼差しに、スティアは一切動じない。
何を言われるのか分かった上で、それにどう答えるか考えあぐねているような様子だ。
「スティアくん。君がこの事件に巻き込まれるのは、今回が最初じゃないよね」
「……。」
黙り込むスティアと、何処か愉しげにやり取りを眺めているクイン。
完全な部外者になってしまったすているは、つまらなさそうに輸血パックの中身を吸っている。
「─────187829」
どれだけの間、彼は黙っていたのだろうか。
「……君の口座残高の話?」
「クイン、茶化さないで」
「オレがその黒幕とやらを殺した回数だ」
空気が、途端に凍りつく。
そんな事は意にも介さず、スティアは淡々と言葉を続けた。
「同時に、オレは187828回、黒幕に殺されている」
「よくそんな事をさらりと言ってのけるね、君」
信じられないものを見るような目で、クインはスティアの顔をまじまじと眺める。
「ここまで言ったからには、オレにはこの事についての真相を話す責任があるんだろうけど…まだ君の目的を聞かせて貰ってないからね、この事については後回しだ」
「あぁ、そういえばそうだった」
情報開示の攻防戦である。
一連の事の真相と、裏切り者の陰謀が等価交換できるというのなら上出来。
スティアはそれを狙っていたのだ。真相を語ったとて、自分にデメリットはない。
一方で、その頭脳戦に参加していないすているは既に、先程の輸血パックの中身を飲み終わっていた。手持ち無沙汰なのか、彼はドリフの肩を揉み始める。
「…えぇ、全然凝ってないじゃん」
自分から勝手にやっていると言うのに、彼は退屈だと言わんばかりに文句を呟く。
普通なら気が散るところだが、ドリフはあくまで真剣に、クイン達の会話へ耳を傾けている。
「長々と話しても真相を知るのが先延ばしになるだけだし、簡潔に言おう。僕の最終目標はアリウスの殺害、今の目標は、その障害となり得るスティックの鎮圧。だから君たちにも静かにしてもらわないといけない」
それを聞いたスティアの顔色が瞬時に怒りの色へと変貌する。
「は………?…ふざけるな。そんな事、オレが許すとでも思って…」
「いいや?思ってない。だから君だけ拘束を解かなかったし、何時でも拳銃を打てるように構えてる」
激憤に震える彼の声と、それに応対するクインの軽薄さは全く釣り合っていない。
「拘束を解かれて、拳銃を打つ前にオレに殺される、などとは考えなかったんだね。」
「うん。その可能性はゼロに近いから」
そう言われながらも、スティアは何とかして拘束を解こうとしている。
が、どれだけ彼が力を込めようとも体が解放される気配は無い。
一体、この拘束は何由来の、どういう力なのか───
「無駄さ。その拘束は簡単には解けないし、拘束が解けたとしても君は僕に勝てない。生憎、君に今吹いているのは向かい風だよ。スティアくん」
勝ち誇ったような顔でそう言われ、スティアは悔しそうに俯く。
そんな彼の横でふっと笑う声が聞こえたかと思えば、
「じゃあ───ここでひとつ質問。向かい風を追い風に変える方法は知ってる?」
唐突に、ドリフはそう投げかけた。場の空気にそぐわない、普段通りの口調で。
誰も自分の質問に答えようとしないのを見て、彼は直ぐに言葉を続けた。
「答えは…背を向ける、だ。」
何処か余裕そうなドリフに、スティアは怪訝そうな視線を向ける。
ドリフの態度を訝しんでいるのはスティアだけでなく、クインも例外ではない。
その空気を感じとっても尚、彼はその態度を貫く。
「ってことで、お暇させてもらうよ」
背を向けるとは、その言葉の通りの意味。
即ち…この場から立ち去る事が最適解だと、彼は判断したのだ。
「へえ?大胆じゃん。らしくないよ、ドリっち」
「それはこっちのセリフだよ、クイン。殺しだなんて君らしくない」
ドリフはそう言いながら徐ろに立ちあがる。
彼の動きを見張っていろと言われていたはずのすているは、これから何が起こるのか興味津々の様子で、あえて何もしないでいるようだった。
「まぁつまり、クインは俺たちが計画の邪魔をするのを危惧している。どんな手を使ってでもここの場に拘束しておきたい。そうだね?」
相変わらずにこにこしながら、クインはドリフの話を聞いている。
「スティアくんは知らないけど、俺はここに留まるだなんてごめんだし、まだ死ぬ訳にも行かない。」
「───だから、俺たちはクインの計画に一切手を出さないって約束しよう。さあ、彼の拘束を解いて」
声を出さずとも、スティアがそのドリフの言葉に困惑しているのが分かる。
クインは暫し考え込む素振りを見せたが、直ぐに元の笑顔を浮かべると、
「ドリフは物分りがいいね。…いいよ。行きな、僕の気が変わらないうちに。」
クインが1つ指を鳴らすと、途端にスティアの拘束が解けた。
スティアがクインに殴り掛かるより先にドリフが腕を掴む。
「君、何を…!」
「しっ…。一旦、冷静に。…それと……」
どうやらまだクインに言いたいことがあるようで、
「なあに?」
相変わらず文句を言いたげなスティアを視線の圧で押さえ込みながらドリフは口を開く。
「君はさっき、俺はこの4人の中で1番弱いって意味であんなことを言ったんだろうけど」
「─────頭脳じゃ、君でも俺には敵わないよ」
いつもの彼からは想像もつかない、自信の籠った不敵な笑みを浮かべる。
宣戦布告とも取れるその発言に、クインは一瞬意表を突かれたような顔をすると、途端に声を上げて笑い始めた。
「あっはは!面白い、僕を出し抜こうって心算かな?やってみ給えよ…存分に楽しませてくれ」
「──────っ、…離せ!」
「うわっ!」
教会から無理やり引っ張り出されたスティアは暫く抵抗し続け、ドリフの腕を思い切り振り払うと、冷静を欠いた眼差しで彼を睨みつけた。
「ちょっと、何するの急に!」
「こっちのセリフだよ、オレは戻る。戻って、あいつを殺す。君は戦えないんだろう?さっさとここから立ち去るんだ」
そう言って、スティアは反対方向へ駆け出そうとした。
「待って、スティアくん!」
◆
その頃。
「…オレも行ってくる。流石に、心配なんだ」
スティックがスティア達の後を追って、教会跡に行くと言い出していた。
最も戦績を残しているのはスティックであるが、それは同時に彼の体力も大幅に消耗されていることを表している。
拠点に帰ってきてからそこまで時間は経っていない。
まだ完全に回復しきっていないだろうと、ブラッドは心配そうにしている。
「スティ。本気で言ってるの?だったらぼくも一緒に───」
そう言いかけたところで、後ろから声がかかる。
「オレが一緒に行く」
「……2号…お前、ちょ、おい!」
困惑するスティックを気にも留めず、その腕を掴んで拠点の出口へと向かう2号。
そして彼は言い忘れていたかのようにブラッドの方を見ると、
「ここは任せた」
「あ、…うん。スティの事、頼んだよ」
(やっぱり、心配だな…)
そう思いながら、ブラッドは2人の背中を見送った。
「…なあ、そろそろ離せよ……」
拠点を出た後も暫く掴まれた腕が離される気配は無く、スティックは声を上げた。
すると2号はぱっと手を離し、
「悪い」
短くそう謝られると、スティックは何も言い返すことは出来ず。
(クソ、なんでよりにもよって……)
自分と全く同じ容姿を持つ彼の事が、スティックは少し苦手だ。
口数は少ないし、暇な時はずっと分厚い本を読んでいるし。
戦っているところは、一切見た事がない。
丸眼鏡から覗く瞳はどこか冷めていて、有無を言わせる何かが宿っている。
先程から2人の間にこれと言った会話は一切無く、自分に背を向けたままずかずかと進んでいく2号にスティックは必死で着いて行くしか無かった。
───着いて行くのに必死で、違和感に気づくのが遅れたのだ。
「ま…待てよ、教会跡って……本当にこっちなのか?」
スティックに、ここら辺の土地勘は無い。
無いのだが、彼は直感で何となく、この方向は間違っていると感じたのだ。
もしかしたら、無意識に一切会話のない状況で話題を捻り出そうとしただけかもしれない。
ただの自分の勘違いだと。───そう、思いたかった。
スティックの言葉に、前を進んでいた彼は足を止めた。
不安そうにしているスティックの方を振り返らないまま、彼は口を開く。
「なあ、お前はさ」
「過去に戻りたいとか、思ったことあるか」
掴みどころの無い質問だ。
どう答えたらいいのか、分からない。
というよりも───スティックにはまず、戻りたいと思う『過去』の記憶がないのだ。
2号のその言葉に動揺し、思わず聞き返してしまう。
「…過去?」
「オレが言ってるのは、お前がこの世界に来る以前の話だ…全部覚えてないとは言わせない」
そう言って2号はようやくこちらを振り向く。
彼が何を言おうとしているのか、スティックは嫌でも分かってしまう。
そう、それは闇に葬った───自分の、罪。
「お前はここに来る以前、居場所が欲しくて沢山殺しをしてきた。そうだろ」
紛れもない事実。肯定も、否定もできない。
こちらを見つめる眼鏡越しの視線。そこには怒りの色も、軽蔑の色も見えない。
ただ、その視線が突き刺さるような感覚を覚えた。
彼の口調には責め立てるような雰囲気もない。
淡々とその言葉で、スティックを追い詰めているだけだ。
「加えて、お前は"唯一の居場所"があった頃にも、自分だけ助かって、仲間を見殺しにした」
そう続けられた会話に、スティックは目を見開く。…一体、いつの話だろうか。
「急に───何、を」
分からない、目の前の彼は一体、何を言っているのか…分からない。
「冗談は……よしてくれ、オレは…オレはそんなこと」
─────知らない。
そう言葉にしようとした時。不意に、脳に電流が走る。
頭に浮かんだのは、今の彼には誰かも分からない───その、仲間たち。
「──っ、かはっ…げほ、がほっ……!」
脳裏に走ったその覚えの無い記憶は、身体中にショックを与えた。
スティックは思わず血を吐き、その場で蹲ってしまう。
「はぁ、はあ……は…ッ」
呼吸が荒い。頭が痛い。この場に、いたくない。何も聞きたくない。知りたくない。何も、何もかも、全て────
「吐血……過去の記憶への拒否反応か」
きっかけを作った張本人である2号が此方へ近づいてくるのが見える。
何故か彼の姿を視界に入れるだけで、喉元に血液が昇ってくる感覚がしてきた。
2号は蹲っているスティックの顔を覗き込むようにしてしゃがむと、彼の肩に手を置く。
「…っ、てめ……どういうつもりだ」
「いいから、全部吐け」
無駄な気遣いに甘える必要は無いと、スティックはどうにかして血を体内に押し戻そうとしたが、"拒否反応"というものには敵わなかった。
再び地面を赤く染めたスティックの口元を2号は優しく拭き、
「辛いだろ。───だったら、最初からやり直してみないか」
さも当たり前かのように、時間という概念を無視した発言をする2号。
先程から彼は何がしたいのか、要領が掴めない。
「…は?」
そんな反応をするスティックを無視し、2号は言葉を続ける。
「最初に戻ってやり直せば、お前のその罪は全部チャラだ。欲しかった居場所もできる」
──────欲しかった居場所が、できる。
その言葉は、未だにスティックは自分の居場所を見つけていないという意味だろうか。
2号の真意は分からずとも、そう言う意味だと捉えたスティックは憤る。
「黙れ…!オレの居場所は、この世界だ……」
ここが自分の居場所でないなら、今自分が必死に戦っている意味も無くなってしまう。
「違う」
そんなスティックの気持ちを意にも介さず2号はそう言うと、立ち上がってスティックを見下ろし、
「───そんなの、オレが許さない」
見下ろされる体勢は癪だと、スティックも彼に続いてよろめきながら立ち上がる。
スティックが瞬きする間も無く、2号は一気に彼との距離を詰め、
「…オレと一緒になれ、スティック」
彼の耳元でそう囁いた。
2号はそのまま彼の───首元に向かって、手を伸ばす。
呆然としていたスティックはその手に気づき、ハッとして咄嗟に彼の身体を突き飛ばした。
「…なんの真似だ?お前は……誰だ」
先刻の彼の行動。
それが表す事実を受け入れたくない。ただの偶然だと信じたい。
「オレが誰かって…」
警戒するような眼差しで見つめられた2号は、常識だとでも言うような口調でスティックの言葉に応える。
「オレは、"過去の"お前だ。…違うと思うか?」
「んな事とっくに分かってんだよ!お前のその見た目だけは…オレだ。オレそのものだ……」
であれば何故、スティックはあんな疑問を投げかけたのか。
「お前とのさっきの会話で、思い出したんだ…オレの元いた所は、既に存在しないってことを。だから───」
「お前が…ここに居れるはずがないんだよ」
───2号は、存在し得ない。
今のスティックと、過去のスティックは分離した存在である。
過去の出来事が丸ごと消されているのなら、"過去のスティック"も消されているという事。
至極真っ当で、単純な話だ。
2号は先程までの口数の多さが嘘だったかのように黙り込んでいる。
「なあ、応えてくれよ。オレは…お前を、殺したくない」
気づけば、震える声でそう2号に声をかけるスティックの手に、彼の愛用するレイピアが握られている。
彼が戦闘態勢に入ったのは、目の前の2号が"異常"だからだ。
「2号。お前は───…過去のオレに扮した、ウイルスなんだろ」
首元を触ろうとする行動。それはウイルスが人々の存在を破壊する際にするものだ。
ウイルスだと言われた彼は目を丸くしたかと思えば、スティックを見て哀しげに微笑む。
「全部分かってたか。まあ…そりゃそうだよな」
そう言って彼も武器を取り出す。───スティックと持つそれと、同じシルエット。
「優しくしてやろーと思ったのに…意味ねーじゃん」
「お前、その武器……!」
驚くスティックを他所に、2号はレイピアの切っ先を彼の方へ向ける。
2号が自分をここに連れてきたのは、この戦いのため。
「本気でかかってこい。お前とオレ、どっちが"スティック"に相応しいか───勝負だ」
「言われなくても──────そのつもりだっての!!」
その言葉の余韻が響くより先に、2人の体が動く。
距離を詰め、懐に入ろうとしてきたのは2号の方。
対してスティックは、そんな彼から距離を取ろうとしている。
途端に片方のレイピアは長槍に変わり、斬りかかってくる2号の体を連続で素早く突いた。
「…はあ?!」
確実に彼の槍を持つ手には、目の前に迫る身体を貫通する手応えがあった。
その感触の気持ち悪さに目を細めたかと思えば、相手の体から一滴の血も流れていない事に気づいてしまう。
「なんっ…おま、なんで!!」
半ば叫ぶようにそう問いかけつつも、脳裏では答えが浮かんでいた。
相手はただのウイルスであると…そう気がついたのは紛れも無い自分自身。
自分はどこにどんな傷を喰らおうが、それが積み重なれば死に至ることもざらでは無い。
対して2号は、コアを潰さない限りどう傷ついても消えることは無い。
なんとまあ、愚かな戦いをしているのだろう。
全く勝てるイメージが湧かない。
「ずるいだろ、そんなん…!!」
遠距離戦に持ち込もうとしているのを察したのか、2号はレイピアを拳銃に変える。
「そう思うんなら、さっさと投降するんだな」
急所がどこなのか、そこを狙わない限り…消耗されるのは自分の体力のみだ。
普通のウイルスであれば、コアは薄らとその体から認識できる。
2号の場合は、しっかりとした"実態"と"意思"のある、全くもって未知数な存在。
コアを見つけようにも、それらしきものは全く見えない。
だからこそ急いで分析したいのに、耳を劈く銃声と、銃弾が体を掠める痛みがそれを妨害する。
「っつ…!!」
灰色の布に、じわりと赤黒い染みが広がる。
服が汚れたことで、ぼんやりと自分を叱るスティアが頭に浮かんだ。
「クソ、怒られちまうじゃねぇか…!」
一瞬動きが鈍るが、負けじとこちらも同じ武器を展開すると、狙いも何も無しに乱射する。
「いいからさっさと───死んでくれよ!!」
勿論、放たれた無数の銃弾は空気を切り裂くのみで終わる。
そんな向こう見ずな攻撃に、2号は呆れたような、何処か落胆したかのような表情をした。
「おいおい…死んでくれだなんて、言うようになったじゃねえか」
攻略法の見えない戦いに、焦りと動揺を隠しきれないスティック。
優勢な方に立っている2号は余裕そうに、そんな彼を揶揄ってみせた。
「それに…"オレ"は随分と頭が弱くなったらしいな。そんな雑な攻撃で、弱点に当たると思ったか?」
2号がそこまで言うと、スティックは敵意をギラつかせた鋭い視線で彼を睨みつけた。
「ブレイズ──サーベル!!!」
炎魔法の詠唱。咄嗟の判断だが、どんな効果があるか分からない。
スティックが、その視線で定めた標準…2号の周りから、途端に数多の炎弾が炸裂する。
突然の爆発が体を炙っていると言うのに、彼は動じる素振りすら見せない。
それどころか何かを納得した様子で、
「炎…。ああ、…そうだったな」
呟くと、涼し気な顔で爆ぜる焔のベールを通り抜けてみせたかと思えば。
「生憎────オレもそれが使える」
旋風が駆け抜け、スティックが認識するより前にお互いの距離が詰められる。
「ッ……?!」
「───ブレイズサーベル」
仮にも、目の前の彼は自分であること。
自分が使う攻撃は、相手にとってのヒントにしかならない。
至近距離で爆裂した幾つもの赤い焔が、スティックの五感を灼熱で埋め尽くす。
「ぐぁ────!!あっっ…つ!!!!」
状況はつい先程の再演でしかない。
だが確実に違うのは、スティックの皮膚が熱にやられ火傷を負ったこと。
空気中の温度が上がったことで吹いた突風は、焼けつく体の痛みに悶える彼の足を縺れさせる。
「熱いだろ。辛いんだろ?…それが、お前の業だ。存分に感じろよ、スティック」
痛みに喘ぎ、喉を焼いた熱に呼吸さえも苦しくなっていたスティックは、反論もできないその一言にただ沈黙を貫くしかなかった。
「さっさとそこを譲れ。業なんて背負う必要もなくなる」
乾いた喉に耐え切れず、矢継ぎ早に咳き込んでいるスティック。
そんな彼を2号は感情のない双眸で見下ろしながら、何度目かの降伏勧告を行う。
焼け爛れた皮膚を庇いつつも、スティックはその負傷の酷さを感じさせない強い口調で、再び2号を拒否した。
「っは、よく言うぜ……所詮てめぇは、ただのウイルスが創った…紛い物のくせに…!」
「その紛い物に負けているのは、他でもないお前だろ」
至極当然。一目見ればわかる、スティックの劣勢。
図星ではあるが、まだスティックは負けていない。
「今は、って付け加えとけよ…クソ野郎。隠そうったって無駄だぜ…てめぇ、炎に包まれた時……体が溶けかかってただろ」
ゆらりと揺れる陽炎に映った、黒い…ウイルスの本質部分。
2号は寸刻の間ではあるが、"過去の姿"を保てなくなっていたのだ。
彼の言う『弱くなった頭』で導き出した、スティックの中での最適解。
それは、ありったけの炎で…コアがむき出しになるまで、焼き続けること。
「──────ゲヘナ!!」
突破口が見つかったかもしれないという高揚感が、手加減という概念を忘れさせる。
スティックが唱えたそれは、先程繰り出したものより範囲が広く、標的のみを確実に狙っていく正確性には欠ける。
しかしその分逃げ場が少なく…温度もその比にならない。
「っち、眼鏡がズレるだろうが…」
石畳さえをも焦がす勢いで規模を増していく青白い焔。
大気の温度が掻き回され、吹き荒れる風は止むことを知らない。
「どんな手を使おうが───無駄だっての」
どろりと溶けた顔の一部が目の上に滴り、視界を黒く染めるのを2号は乱暴に拭う。
こうも炎に囲まれていれば、逆に向こうは此方に干渉する方法が絞られているだろう。
身体を保ちにくくなるハンデを負ったとしても、スティックが同じ状況下になった時程ではない。
2号は比較的余裕をもって、行動する前に思考することが出来るのだ。
ズレた眼鏡を掛け直す僅かな間に考え終えると、彼は即時行動へと移る。
彼には、絶対に自分が優勢で有り続ける自信があった。
「悪ぃな…今回は、オレの方が、速ぇ!」
たとえ、その多すぎる余裕が、スティックの攻撃から遅れを取ったとしても。
2号は物量と速さで畳みかけようとしている彼へと視線を流した。
「─────…!」
自分に似た容姿と、過去に関する何かを知っているような話ぶり。
正直、スティックは2号に対して心の底から"殺意"を抱けていない。
相手に勝つ気に。『本気』に…なれないのだ。
どちらがこの存在に相応しいのかの勝負。
負けた方は無論、存在を抹消されるのだろう。
自分が負ければ、これまでの自分は無かったことになる。
2号が負ければ、今までと変わらず──自分の過去が無かったことになる。
「黙って、殺……っ」
死んでくれ、殺されてくれ。直接的な、相手に死を望む言葉。
殺意を抱けていないスティックにしてみれば、それさえも本心ではない。
ただただ自分に殺す意思があるのだと、無理やり"そう思わせている"だけ。
2号は、闇に葬られた自分の罪を知る…唯一の手段。
自らそれを断つ事など、できない。
ずっと───自分をちゃんと知りたかった。
目を背けたまま生きていくことなんて───
総ての罪を背負わないだなんて…許されない。
「っ、…く……」
だからこそ、余計に躊躇いが生まれてしまう。
果たして、罪を負うべき自分が───存在し続けていいのか。
ここで殺されて、やり直せるなら…本望なのではないか?
「はっ…そんなんだから、"無駄"になんだよ。全部」
スティックの葛藤と躊躇、そして半端な覚悟が揺れ動く瞳。
そこに2号の自信に満ちた目線をぶつければ、動揺は彼の行動全体へと広がる。
高く燃え上がっている炎の、そのまた高くから降り注ぐ刃の雨あられ。
熔融の影響が少ない左腕で、2号がそれを全て受け切ると。
「────エアゴスペル」
そのまま、"無傷"の左腕を前に出す。
スティックが、次の攻撃を繰り出す寸前の事だ。
意識を手先のみに注いでいた、彼のクリアな聴覚が拾ったもの。
それは、全くもって覚えの無い名前だった。
「へ────」
聴覚の次に機能したのは、痛覚。そして、赤く染まる視覚。
瞬きの刹那に消された業火。風が運ぶ、場に残った煙の匂い。鉄の味で染まる口内。
───斬られたのだと、遅れて理解する。
「あ──────が、っ、……?!」
なされるがまま、石畳へと叩きつけられる。
身体の許容を超えたダメージ。
2号が使ったのは、風魔法。
まさか、過去の自分は炎と風の力の2つを操っていたのか?
覚えの無い記憶。2号が使った魔法は、それを思い出す引き金となり、そして──
「か、は……ッ」
どくんと脈打った心臓が、体を循環する血液を逆流させる。
記憶への、拒絶反応。
それさえも武器にして、自分のこの立場を奪おうとしている。
2号のそんな狂気とも取れる感情をひしひしと実感し、血を吐きながらもぞわりと鳥肌が立つのを感じた。
身体が痛い。呼吸が苦しい。頭が重い。立てない。力が入らない。
──────怖い。
「…無理だ、オレ、1人じゃ………」
2号に。過去に、勝てない。
誰かが、2号ではない誰かが一緒に来ていれば。
「そうだな。バカなお前1人じゃ、オレに勝てるわけがない」
大部分が溶けかかっている右半身を修復しながら、2号は淡々とそう告げる。
「ブラッドとか、スティアとか言ったか。あの2人は、特にお前を大事に思ってる」
「片方は、お前に殺されるはずだったのにな。そうだろ?」
如何にも、その通りである。
その記憶は、スティックが忘れるはずもないもの。
ブラッドのことは、殺すはずだった。殺すために彼の元へと向かった。
なのに、気が付かないうちに彼の命を救っていた。最初の目的に反して。
慈悲が生まれたわけでも、殺す必要が無くなった訳でもない。
ただ確実に、その事がスティックのその後の行動に影響を与えたのは事実である。
そして、未だにその事をブラッドが知らないのも、事実。
「あの2人の共通点は、何方もお前に"救われた"と認識していること。けど実際のお前はどうだ?お前が助けた命と、奪った命。天秤にかけたことはあるか」
そんなの、奪った方へ傾くに決まっている。
肉体への攻撃を止めた今となっても、精神をなし崩しに締め付けてくる2号の言葉は続く。
「オレは知ってるぜ、お前はずっと罪悪感を抱いている。中でもスティアに対してはそれさえも超越した、恐怖まで抱いてる。怖いんだろ?"こんな自分"に優しくしてくれている事への真意。自分の罪を知った時の、あいつの対応…」
「そんで────スティアが、"スティック"に何かを重ねていることに。」
「──…」
考えたくないことであった。
スティアが、自分を大事に、何よりも大事に想ってくれている事は痛いほど分かる。
けれど彼のその行動の最奥には、他のものがあるようで…何処か不気味だった。
そう、例えば───『罪滅ぼし』とでも言うのだろうか。
昔やり遂げられなかった事を、"自分"に対してやっているのかのような。
それが何なのかは理解する余地もない。
しかし、1つだけスティックは理解していた。
スティアが自分に重ねている存在と、自分。その2つには、雲泥の差があるのだと。
彼の優しさを一身に享受する権利は、自分には無い。
自分は彼の思っているような人では無い。
だから、ずっと。今ままで、ずっと──────後ろめたかった。
「…そうだ。…オレは……。あいつらを、騙し続けてる…」
認める他なかった。これまで必死に隠していた感情だった。
悪いのは全部自分だ。
自業自得という言葉が、この状況に最も適していると言わざるを得ない。
「…だから」
漸く、感情に整理が着いた。
完璧と言えるものでは無い。中途半端だと言われればそれで終わる。
「あいつらに…本当の事を言うまで─────逃げる訳には行かねぇんだ」
小さく灯ったマッチの火程度の決意だろうと、彼からすれば十分な覚悟。
すぐ折られたって構わない。
自分の上を行く2号に、一発お見舞い出来れば上出来だ。
「しぶとい奴だな……」
軋む身体を奮い立たせて再起するスティックを見て、ため息混じりに2号が呟く。
鉄塊を武器に変化させ、今にも自分に噛みつかんばかりの体制。
そこに彼は片手で静止を入れた。
「まぁ待て。お前、体力がそう長く持たないだろ」
普段通りのスティックであれば、既に息切れもいいところ。
負傷の数は2号と比べるまでもなく、スティックの方がどう見ても重症。
このまま先程のように戦い続けたらどんな結果になるのかなど、目に見えている。
「消耗戦で勝っても絵面がつまんねえ。だから、さっさとケリをつけようって話だ」
彼の提案はつまり、お互い次の攻撃一発で決着をつけること。
剣術で言う、居合切りのようなものだろう。
「いいぜ、乗った……!」
過去も現在も、彼らの本質は変わらない。
よって、考えることは同じ。
「───エルドグリスタ!!」
過去と現在の同一人物2人による、同一魔法の、同時詠唱。
小さな星が2つ炸裂する。
体を焼かれるように吹き荒れる高熱の熱風。
その熱で巻き起こる上昇気流に目も開けられず、2人の視界は遮られた。
今の状況は、お互いにとって絶好の隙である。
灼熱の嵐の中、先に動いた方の勝ちだ。
「ッ、く………ぁ!!」
久々に使った技だ。あまりの威力に、自分の策に呑まれそうになってしまう。
火傷を負った時とは比べ物にならないほどの温度に、体が悲鳴をあげているのが分かる。
戦闘経験はこちらの方が上。風魔法も、この強風の中では意味を成さないだろう。
今度こそ、─────勝てる。
そう確信を持ち、武器を握り直したところで、薄らと目を開けた。
「──────ッ?!」
スティックが生身であるのに対して、2号はウイルスという非生命体。
自分は相手の炎一発で火傷を負ったのに対し、相手は実態が溶ける程度。
そして、負傷が酷いは自分の方。
この状況は2号の"気遣い"の裏で誘導されたものであり。
完全なる───自殺行為だったのだ。
目の前に迫っていたのは、自分の首を狙った刃物の切っ先と。
勝利を確信した、"過去の自分"の笑み。
「………!」
すんでのところで身体を仰け反らせ、レイピアの刃は首を掠めるに留まる。
相手の使う武器は、自分と同じ。
スティックが相手のレイピアの届く間合いに居るということは、相手にも自分の刃が届くということだ。
「舐め、てんじゃ……ねえ…!!!!」
眼球が痛み、瞼をまともに上げられないが、2号の体はきっと半分は溶けているだろうと判断した。
スティックはレイピアを、斬る構えではなく、相手の胸元に突き刺す構えに直す。
胸元に、ウイルスの弱点…コアがあると信じて。
必ずここで、2号を───過去を、殺す。
「舐めてねぇよ。───お前が、甘いだけだ」
どさりと、誰かが倒れ込む音。
キィンと響いた、剣が地面に突き刺さる音。
衝撃で舞った砂埃は、辺り一面をめちゃくちゃにしていた熱風の最後の一吹きに飛ばされる。
一瞬の喧騒から、一瞬で静寂が広がった。
晴れた視界と、雑音の邪魔しない澄んだ聴覚。
彼らは、お互いの状況を理解する他ない。
「お前の負けだ─────スティック」
彼は自身の胸元に刺さった剣を抜くと、それを鉄の塊に変えて遠くに放り投げる。
気怠げに眼鏡を直し、仰向けに倒れ込んでいるスティックを見下ろした──2号。
「……、」
敗北を宣告されたスティックは、ただ呆然としていた。
立ち上がろうにも、2号のレイピアはそれを阻止するように、スティックの右肩を貫通して地面に突き刺さっている。
(……魔法を…いや、コア…の位置、が………)
胸元への渾身の一突きは、全くもってダメージを与えていない。
つまりそこにコアは無く、土壇場での自分の判断は間違っていたということだ。
右肩と、激しい戦闘の最中に負った傷が再び激しい痛みを帯びてくる。
アドレナリンが切れた事で、感じるのは敗北による無力感と激痛のみ。
「っは…、……そうか」
死に際に理解した、自分に殺されてきた者たちの感覚。
このまま死ぬ事は、その罪を償うのに値するだろう。
「…かっこわりぃな……」
───逃げる訳には行かねぇんだ。
先刻の自分の言葉を思い返す。
罪への向き合い方は多々あるだろう。償う。背負う。無かったことにして、やり直す…
何も無かったことにすれば、彼らを騙していた事実も消える。
負けた事を受け入れる他ない。2号は……過去の自分は正しかったのだ。
そう、思いたいのに。
「─────っ」
彼の中で何かがつっかえ、判断を拒んでいる。
気がつけば、無意識に左腕が右肩を固定している2号のレイピアへと動いていた。
「……は、お前─────」
信じられない、と言わんばかりの口調で、2号がスティックの様子に目を見開く。
刀身を素手で握った掌の内側へ、冷たい感触が伝導するのが分かった。
どれだけ深く突き刺さろうが、血が流れようが、そんな事はどうだっていい。
武器を握れるのなら。とどめを刺せるなら。
2号の唯一で、最大の弱点であるコアの場所。
自分でも不思議に思えるほど、脳内が冴えていた。
だからこそ分かる。2号の行動の、小さな違和感に。
刺さっていたレイピアへ掌から渾身の熱を注ぎ込み、鉄塊へと変貌させる。
自由になった体を即座に起き上がらせ、どくどくと血が流れる右肩を酷使するのを厭わず、ありったけの力で剣を振るった。
「──────そこだ」
2号の────驚愕が浮かぶ、両目に向かって。
彼はそこを庇おうとしなかった。
ぱりんと割られる眼鏡。飛び散る黒色の飛沫と、スティックの顔を反射するガラスの破片。
今まで、身体のどこが傷つこうともブレることが無かった2号の軸が揺れる。
彼の体が石畳に叩きつけられた音と衝撃が、呆然としていたスティックを我に返らせた。
「はぁ、っ…は……っ」
倒れ込んだ2号はぴくりともしない。
スティックの身体も、出血が留まるところを知らない。
荒くなる呼吸もそのままに、彼は倒れているその"物体"へと駆け寄った。
「待って、…待てよ……っ!!消えないで、くれ……頼むから…!」
自分でとどめを刺しているというのに、彼のその言葉は矛盾していると言わざるを得ない。
抑えるものが無くなったかのように溢れ出す感情は、消えかかりのウイルスへとぶつける他なかった。
「お願いだ、オレは…お前を忘れたくない…!嫌だ、…嫌なんだ、こんなの……、」
涙声でそう訴えるスティックに、ウイルスは困ったように微笑む。
「本当、ニ……馬鹿だな、オ前は」
ノイズの走る声色に、彼の意識が辛うじて存在している事が奇跡なのだと分かる。
そして、その奇跡が続くのは長くはないということも。
「キレイさっぱリ──────忘れテくれ。お前ノため、なんだ」
崩壊寸前の手を、力無く項垂れているスティックの頬へと優しく添えた。
怖いぐらいに感触のないその手へ、彼はそっと自分の手を重ねる。
段々と、頭に靄がかかっていく感覚。
もう、こうなったからにはどうにもならないのだと。
結局は、どちらかがこうなる運命だった。
「大丈夫だ……お前は…向き合エてるから」
完全に景色へと溶け込んでしまった黒色に、スティックの息が詰まる。
───向き合えているから。
"何か"が最期に言い残したことだ。
向き合う。…一体、何と?
今自分が、ここにいる理由。自分の体から、血が流れている理由。
何かに添えていたような、不自然な手。
「オレは…………オレ、は……っ」
分からない。思い出せない。全部、全部───
全てが元通りになっただけだ。
空っぽになった脳内。言いようもない喪失感。
「っぐ、う……っ、うあああああ…!!!」
スティックは堰を切ったように、嗚咽を漏らしながら涙を流した。
◆
「あ〜あ。真相、聞きそびれちゃったね」
「おや。君は逃げていなかったのかい?」
ドリフとスティアが逃げた後。
ずっと黙り込んでいたすているが口を開いた。
「逃げないよ。まだ対価を貰ってないし」
「そうだね。君に差し出す対価も難なく手に入りそうだ」
すているが提示した対価。それはクインのこれからの行動で、必ず手に入るものだ。
「何故君はそれを欲しているのか、聞いてもいいかな?」
ただの興味故の疑問である。彼の提示した対価は、それ程特殊なものなのだ。
「ふふん。あれはね、性格によって味が違うんだ」
「あの子のはビターチョコの味がする!おれが一番好きな味なんだよ。」
好きなお菓子について楽しそうに話す子供のような口調と、そう易々と共感ができない内容のそぐわなさに、クインはお手上げだという風に肩を竦める。
「君の感覚には毎回意表を突かれるよ。成程、人が違えば味も違うんだね」
彼の主張に賛同するわけにも行かないので、クインは鸚鵡返しで返答する。
その様子を見てすているは面白さに欠けると思ったのか、
「キミさえ良ければ、キスで払ってくれてもいいんだよ?」
そんな突拍子もない提案をするとにやっと笑い、クインを見つめた。
…それぐらいでクインが動じるわけもなく。
「物好きだねえ。本当に君がそれでいいなら、僕は構わないよ。おいで?」
「ったく、冗談だよ。も〜」
そう言いながら彼はひょい、と近くの机に座り、光が差し込むステンドグラスの色彩をつまらなさそうに眺めている。
「ていうか、逃がしてよかったわけ?」
「逃がしたと言っても、一時的なものに過ぎないよ。ここに2人、傷ひとつない状態で留まらせるのは不可能に近い。長時間の拘束にも限界があるからね。加えてあの2人は頭が切れるし、片方は冷静を欠くと殺しにかかってくる厄介者。多分君の攻撃も、彼の固い意志を前にすれば役に立たない」
その答えを聞いたすているは、簡単な事だろうと言うような口調で疑問を投げかける。
「キミが殺しちゃえばいい話じゃなくて?」
「無駄に手を汚したくないんだ。分かるかな?」
すているは全然分からない、というふうに首を傾げている。
「…とにかく。別に僕は急いでいないから、同時に鎮圧するよりも、2人がバラバラになったタイミングで1人ずつ仕留めていけばいい。」
淡々とそう語るクインの手は、何故か少し震えているように見える。
武者震いか、それとも─────。
「…そっちの方が確実で、リスクが低そうだからね」
◆
「──────って、クインは考えてるだろうね。ここで君が俺から離れてクインの方へ戻ったら、彼の思うツボになる」
スティアが駆け出す寸前で彼を引き止めたドリフは必死で彼に訴えかける。
「…だけど、君は彼の計画を邪魔しないと言った。オレはそれに賛同できない。彼の計画にはスティックの鎮圧も含まれている、それを阻止しないといけないんだ」
「……だったら、その前に」
どうしてもスティックを助けると言って聞かないスティアに、ドリフは彼の両肩に優しく手を添え、
「一連の事の真相を、聞かせてよ。」
先刻のクインとは違って尋問する気は無いと示すように、柔らかい口調でそう続けた。
彼のその善性は伝わったのだろう。
「それは…」
スティアは一瞬、否定の言葉を口にしようとした声を詰まらせる。
「……本気で、知りたいと?」
「うん、マジだよ。」
「…。」
揺らぐことは無いドリフの意思に、スティアは再び黙り込んでしまう。
「…君は、本当に隠し事だらけだよね。スティアくん。その隠し事の一つ一つが重くて、辛いことなんでしょ?…無理に全部抱えなくても、いいんだよ。」
直接心を包み込まんとする言葉に、彼が好奇心や探究心などという感情でこの遣り取りを続けているのではない、と言うことが分かる。
淡い光のようなそれは、あまりに眩しい。
「………君は、お人好しだね。」
絞り出すように、差し出された手から目を逸らすように、ただ…そう返すことしか出来なかった。
「よく言われるよ」
ドリフもドリフで、その手を引っ込める気は無い。
スティアは諦めたかのように息を吐くと、自分の肩に添えられた手をべしっと叩いた。
「距離が近い」
「あ、ごめん」
無意識だったのか、ドリフはスティアの両肩に添えていた手を離した。
「───聡明な君の事だから、ここで一つ質問をしようか。一切日光の当たらない環境で、生物は生き延びて行けるのか、否か…」
「……答えはNOだね。君の言う生物がどのような物なのかは知らないけど、先ず確実にその環境下で植物は死滅する。その時点で食物連鎖は崩壊するよ」
「流石だね、ドリフ。良くも悪くも期待していた回答だよ」
ドリフは一連の要領を得ない会話に一瞬怪訝そうな表情を浮かべ、スティアの先程の質問について再び考える素振りを見せた。
「良くも悪くもってことは、不足していた部分があったのかな。……そうだね…食物連鎖という自然の摂理の崩壊は大前提として、急激な気温の下降も考えられると思う。何度まで下がるかは大事じゃない…他にも色々変化する要素があるはずだ。少なくとも、俺は君の言うような環境下で生物は生きていけるとは思わない」
学校の試験でこのような記述回答があれば、大半の教師が丸をつけるだろう。
模範的で、完璧な答えを返したドリフに、スティアはにこりと笑いかける。
「今回は及第点をあげよう。ドリフ──なら、もしその"生物"とやらが…君の言った常識、或いは従うべき自然の摂理を、掻い潜ってしまったら?」
「…え、」
「気付かぬうちに…まともな死に際を見失ってしまったら。」
ドリフにはこれから彼の口から何が語られるのか、一切予想がつかない。
けれども彼は、何が語られようと受け入れる気でいた。
「そんな生物こそが、オレなんだ」
「……何?」
こうも早い段階で、彼の話を受け入れられなくなるとは思わなかっただろう。
誰かの話をしているという事は、何となく察しがついていた。
しかし、察しがついていた…というだけ。
そんな劣悪な環境が存在するだなんて、そこで生きていた者がいるだなんて、信じられなかったのだ。
「……。」
この時点で既に理解の追いつかないドリフに、無理もないとスティアは首を振る。
「最初からオレは…君に、全てを伝えるつもりは無い。」
ゆっくり語っている時間こそ、無いのだ。
そうこうしている間にも、状況は刻一刻と変化している。
「だから、先ずは一言で終わらそう。」
スティアは彼の知りたい事実を、簡潔に伝えることにした。
「君がさっき言っていた通りだ。オレがこの事象を経験するのは2度目。」
何を、どう表現して告げようか。
この身で感じ、ただその通りに言ってしまえば、目の前の彼はどのような表情になるだろうか。
そんなどうでも良い躊躇は無かった。
仮に全てを伝えたとして───傷つくのは自分自身だけだと、確信していたから。
抱えているものを、彼と分かち合って、楽になる気など更々ない。
息を吸って、吐く。吐いた酸素に音を乗せる。
「そして1度目の時───君達は全員、死んだ」
ドリフの絶句は、案の定、と言っていい反応であった。
「でも…それは、」
…有り得ない。
ドリフの本能がそう言っている。
が、そうでもしないとスティアの行動に説明がつかない。
彼が黒幕であれば話は別だが、彼が嘘をつくようにも思えなかった。
彼はあくまで自分は事件の"原因"であると語ったのだから。
そもそも『2周目』を体験していると、最初に確信を持って彼にそう問いかけたのは、紛れも無い自分。その通りだと、彼も肯定している。
そんなことは分かっている。ドリフは理解ができる。
「……ここまで難解な話は初めてだよ、スティアくん…」
けれども彼は、理解するのを拒んでいるのだ。
「単刀直入に言おう。俺は……君の話を、信じたくない。」
自分から話を切り出しておいて、なんて無責任なのだろう。
真実を聞く権利は、自分から掴みに行った。
それを飲み込んで、受け入れるべき義務は…同時に存在したのだろうか。
「…。」
スティアはやはり、そう言われるのは分かっていた、と言うような表情をする。
「…君の優しさに、どこまでも甘えるつもりは無いよ。」
ドリフからの信用が得られなくても構わない。
「ただ1つ、最後に────伝えておきたいことがある」
そう…今出来ることは、伝える事。
誠実に、正直に、"知っている事"を。
「───君が…1周目でどのように死んだのかを。」
正直に語るとなると、聞く側からしても、語る側からしても酷となる情報が必然的に出てくる。
起こり得る最悪な事態…それは、1周目でと同じ結果になる事。
ドリフは信じられないのではなく、信じたくないと言った。
それで良い。今のこの会話自体が、既に1周目と異なっている。
「…へえ、そんな記憶まで残ってるんだ。ループってのは随分と悪趣味だね」
半ば冗談めかして言葉を返した彼。
無理をしているのでは、という考えが浮かんだ。
「続けてくれ、スティアくん」
一瞬の懸念は、彼の揺るがぬ固い意思によって打ち砕かれた。
ああ、まだ余裕が残っているのか、とスティアは感心する。
「物好きだね。君の様子からして、てっきり拒否するものかと思っていた。続けよう────君は1周目においての、最後の死人だった。死因は拳銃による自殺……」
1つ1つ、あの瞬間の出来事を手に取って眺めるように、言葉へと変換する。
「君は1周目でも変わらず、勘が鋭かった。唯一違う部分は、オレが誰とも対話を試みようとしなかった所にある」
「それでも君は…真相の1歩手前に辿り着いていた。」
続けるスティアの眼前に映る景色は、先刻とは異なっていた。
───『全部、君のせいなんでしょ?』
幼馴染を戦闘で亡くし、絶望したドリフがスティアにに投げかけた言葉。
『ずっと、謝れなかった。けど、もう…いい。』
『君の事が…許せないよ。』
スティアを黒幕だと確信した上での問いかけ。
仲違いしていた幼馴染に謝罪が出来なかった事への後悔。
そして、そんな状況になった元凶への激しい怒り。
その3つを言葉にした直後に、ドリフは自殺している。
その際の生存者はドリフとスティアだけであったのに、だ。
彼は"最後の"死人。
彼の考える黒幕の頭を撃ち抜くことだって出来たはず。
それなのに、ドリフは自殺をした。
「──」
目を瞑り、スティアは今自分の目の前にいるドリフを真っ直ぐ見据える。
さて───ここから話す事で、繋ぎ止められる命はあるだろうか。
「…黒幕の行動原理は、オレの存在…ただ1人のため。」
「けれど、この世界は……"この物語は"、オレだけのものじゃない。今のこの状況も、疾うに死ぬべきだったオレの死に際であって…君達の死に際じゃないんだ。」
何万にも及ぶ輪廻に囚われ、突如この世界へと飛ばされた、あの日。あの瞬間。
だからと言って、状況は変わってなどいなかった。
勝手に彼らを巻き込んでおいて何も語らず、それでいて1人生き延びてしまった1周目。
ここで生きている事、それこそが"愚行"なのだと。
「……オレの責任なんだ、全部。君が自らを殺す選択をしたのも、真相の"1歩手前"にしか辿り着けなかったのも。それ以外も、全───」
続けようとした声は、頭に手を置かれた感触で途切れる。
「───もう、いいよ。」
制止の一言に、スティアは喉まで出かかっていた言葉を飲み込む。
そうか…そうだった。
彼は最初から何も信じていないし、何も知ってすらいない。
また、間違えてしまった。
自分だけが知る真実に対して勝手な罪悪感を抱き、あわよくば許されようとしている。
何がしたいのだろう。何を彼に、伝えたかったのだろう。
結局は、自分が満足するため?
話していくうちに、ドリフから視点は逸らされていた。
何故だろう。───彼の顔が、見れない。
彼が息を吸い、発せられた声が鼓膜を揺らすまでが嫌に長く感じられた。
「…君はずっと前から、辛い現実に嫌でも向き合わされ続けた上に、たった1人でこの事件を解決しようとしている。それに比べて俺は、ずっとその現実に目を向けられてない」
───期待外れだ。
スティアはドリフが自分に掛けた言葉をそう評価した。
あまりに、優しすぎる。
どんなに咎められても、責め立てられても良かったと言うのに。
「君を信じるよ、スティアくん。俺の力が行き届く所まで、君に協力したい。」
そう告げたドリフの口調には力強いものが感じられる。
彼の言葉と行動に一瞬、スティアは戸惑った。
その言葉は、そのままの意味だろうか。そして彼は…何をしている?
自分より背の高い人物と話すのが久々だからだろうか、新鮮な感覚だ。
しかし、その状況に納得はできない。
「…君の気持ちは分かった。けど…何……その手は、どういうつもりだい。言っただろう、君の優しさに甘えるつもりは無いと」
自身の頭を撫でていたドリフの手首をぱしっと掴み、スティアは不満げに彼の方を見た。
「気づいてない?君、さっきからずっと…泣きそうだよ」
そう言われてスティアは、珍しく目を丸くする。
何故、一体何時から?泣く程悲しいことを思い出していた様な覚えは無い。
いいや、正確に言えば…今更泣く程悲しい事なんて、無い。
涙はとうに枯れてしまったと。その認識は、正しく無かったのだろうか。
「…なに……うそ、」
気が動転し、何も言えなくなっているスティアをドリフは見ていられなくなってしまった。
嘗て、誰かがしていた表情と、目の前の彼が重なってしまったから。
「いい、何も言わないで。全部話さなくたっていいよ。君が辛い思いをしてきたのは、痛いほど伝わってくる」
そっと寄り添うように、ドリフはスティアの手を自身の両手で包む。
「っ、君……」
「急にごめんね。こうすると安心するって、昔幼馴染が言ってたから」
───その幼馴染を1度死へと至らしめた元凶こそが、自分だと言うのに。
「そんな気休めこそ、要らない。こうしている間にも、クインは…」
拒絶する声はまたも空に溶ける。
ドリフはお互いの額が付く程の距離まで近づく。
そしてゆっくりと、確実にスティアの心へ届くように、囁いた。
「大丈夫。全部、君のせいなんかじゃない……」
その言葉は、彼の1番欲しているものだっただろうか?
ドリフにそこまでは分からない。
分かったのは、彼の目から零れ落ちた涙と、押し殺した嗚咽だけだ。
暫く彼にされるがままの体勢であったスティアは乱暴に目元を拭き、ひとつ深呼吸をしてからしっかりとドリフに目線を合わせる。
「その、……ありがとう」
「構わないよ。それに、俺には少し…君の後悔している事が、その気持ちが……分かる気がしたんだ」
対話。信頼関係を培う上で、それ以上に大切なものはない。
「君にも居るんでしょ。ちゃんと話さないといけない人が」
分かち合うことは───こんなにも、簡単なことだったのか。
1周目でも、こんな遣り取りができていれば…状況は変わっていたのだろうか?
スティアは嫌でもそんな考えに辿り着いてしまう。
「ああ、…そうさ」
ただ今は、今出来る事を。
「だから、これからどうするべきか…君の意見を聞かせて欲しい」
そう言うスティアの目には確かに、僅かながらもドリフへの信頼が宿っている。
「任せて。俺の考えてる方法なら、少しリスクは伴うけど…君が今1番危惧している状況にはならないはず」
頼もしそうにドリフはスティアの信頼に応える。
「そうとなれば…オレ達もそろそろ行動に移るべきだね」
スティアは教会跡とは逆方向に足先を向けたが、そのまま歩き出そうとしたのを止め、
「…あぁ、それと君」
「うん?」
彼に続いて足を進めようとしていたドリフは、自分に軽蔑を含んだ目を向けつつ声をかけてきたスティアに不思議そうな顔をする。
「他人との距離は気をつけ給え。その調子じゃ、いつか背後から刺されるよ」
何の脈絡もないその雑な忠告に唖然とするドリフを無視し、ずかずかと足を進めるスティア。
「……ん?え、ちょっ!待ってよ!」
それを見たドリフは慌てて彼を追いかける。
状況はきっと、好転しているだろう。
◆
泥酔しているかのような、ふらついた足取りで蹴られる石畳。
スティックが足を進めると、紅い花弁がそれに続いて落ちる。
傷は思ったよりも彼の体の機能を蝕んでいた。
戦う力は残されていそうにない。だから、教会跡に向かう他ないのだ。
ウイルスに遭遇しないよう、スティックは薄暗い路地の裏を辿った。
「はっ、は………はぁ…」
揺れる視界に映ったのは、どれだけ時が過ぎようともその神聖さと威厳を保ったままの大きな教会。
そこに足を踏み入れ、真っ先に目に入ったのは1つのカガミだった。
不気味に光を反射しているそれに、スティックはなんとも言えない恐怖を覚える。
「だ…誰か、いませんか!ティア……、センパイ…!クイン、さん…」
恐る恐る、尋ね人の名を連ねるが、その声は虚しくも天井に吸い込まれる。
─────彼らはカガミを壊しに行ったはずなのに、カガミは壊れていない。
ならば、彼らはどこへ行ってしまったのか。
突如、乱暴に何かを破壊する音が空間を揺らした。
スティックは音の方を振り返り、絶望する。
「そん、な…」
震える声の先にいるのは、何度も見たであろう黒い影。
何体ものウイルスたちがいつの間にか追いついていたのだ。
「…冗談だろ、」
彼は自分の限界を理解している。そしてその限界とやらが、もう来ているということを。
────この身体で、1人で来たことが間違いだった。
その判断は疾うに手遅れだと言っていい。
「…助けて、なんて……意味無ねぇか」
こうして生を諦めるのは何度目になるだろう。
スティックが助けを求める事をやめ、ぎゅっと目を瞑ろうとした、刹那の事。
「へ…」
きらりと日光を反射した何かが、こちらへと飛んできたのだ。
スティックは薄暗い中で閃いたそれに眩暈を感じる。
一直線に軌道を描いたそれは、ウイルスのコアを次々と破壊し、彼の頬を掠め、カガミに突き刺さってぱりんと小気味良い音を立てた。
スティックの頬に、一筋の赤い線が伝う。
(光じゃない。ただの、刃物……)
ブラッドのナイフではない。
タイミングを見計らったかのように飛んできた、刃物───
「危なかったね。スティ、大丈夫?」
その主は、正に今スティックが探していた人物のうちの1人。
「クイン、さん…!どこいってたんですか…みんな、心配し……」
ふと気がつくと、入口付近にいたクインがいつの間にか目の前にいる。
「そうだね。心配かけたみたいだから、早く帰らないと」
ステンドグラスから射し込む光を柱が遮り、薄暗くクインの顔に影を落とす。
闇に浮かんだ彼の瞳は、見たこともないぐらい冷たい温度をしていた。
「…クイン……さん?」
漸く、スティックは事の重大さに気づく。
スティアとドリフは何故、クインと一緒に居ないのか。
何故、こうもタイミングよくクインは自分を助けに来れたのか。
目の前の彼の思惑を薄らと理解し始めていたその時、ぽんと肩に手が置かれる。
「じっとしてて。痛くないから…さ」
そういう彼の手に、武器は握られていない。
だが確実に、そこからは殺意が感じられる。
窮地に立たされたスティックは、もう武器を握れそうにないその手でぐっと握り拳を作った。
その行動は、反撃に転じるつもりなのか、死の痛みを受け入れる体制なのか。
いずれにせよ────完全なる、劣勢である。
「─────バカ、そいつから離れろ!!」
声がしたかと思うと、クインの足元に無数の氷の矢が刺さる。
咄嗟に体制を変えた彼に今度は、1発の蹴りが入った。
彼はその衝撃でバランスを崩してしまう。
「つっ…」
スティックはその攻撃に、嫌という程の既視感と、親近感を覚えた。
「アリウム…!それに……」
もう1人の救世主に、スティックは思わず驚いた顔をする。
「うるせえ。お前に用があるわけじゃねーよ」
アリウムとイアの2人は、スティックを背にしてクインの前に立ち塞がった。
クインは服に舞った埃を払い、コートの襟を整えながら2人に声をかける。
「驚いたよ。やるじゃないか」
今の奇襲で動じている様子は微塵も感じられない。
加えて計画を邪魔されたというのに、憤る事すらせず彼はただ感心しているようだ。
「…嘘ですよね。貴方は予想できていたはずだ、俺達がここへ来る事なんて」
そんなクインとは対照的に、敬語から滲み出る怒りを抑えながらイアは空気を震わせた。
「貴方は何を考えているのか分からない。いつも1歩先を行っている…俺達は、そんな貴方の敷いたレールを走る他ない」
「けれど…貴方自身は?」
ぐっと声色を落とし、目の前に立つその脅威へと問いかける。
「───オーナーは、そうじゃない」
「要点が読めないよ、イア。」
困った様な顔をして、容易くイアの質問をはぐらかす、彼。
「違う。俺はオーナーに…"クイン"に、話をしてるんだ」
間髪入れずに、彼の返答そのものへと、真っ向から否定をぶつける。
そして続く一言一言を、擦り込むように、はっきりと口にした。
「お前と話すつもりは無い、そう言った方が分かり易いか?お前が、クインという名を騙るのは、間違いでしかないんだよ」
気味が悪い程に崩れないクインの飄々とした態度。
イアは普段からそれが苦手だった。
出来ることならあまり話したくないと、心底思うほどに。
イアにとっての、畏怖の存在。
その人物を、何かも分からない…誰かが乗っ取っている。
イアの直感が───そう言っているのだ。
「…答えてください、オーナー…貴方はきっと、"まだここに居る"。そうですよね」
そうであれ。そうであってくれ。そうでなくては、報われない。
緊迫した、一刻を争う状況で、ここまで遣り取りを持っていったのだ。
何か、この違和感を証明するに足るボロを出せ。
イアはそう必死に願う。
「……」
返答も、イアの言葉に対する動揺の気配すらもなかった。
これ以上の探りは無駄だと認めるしかない。
イアは舌打ちをすると、話題の本筋を切りかえた。
「その気がないなら仕方ねえ。…ドリフをどこにやった?」
クインへの対応の際に使う敬語は外す。
未だイアは、目の前のそれが彼だとは思っていない。
「……ちょっと休んでもらってるんだ。その中でね」
クインはそう言って、ナイフが刺さって割れたカガミを指さす。
即ち救出は、不可能。
「…どうやらお前は、是が非でも俺たちと戦いたいみたいだな」
自分の上司であるはずのクイン。
彼の部下であるイアはその立場をわきまえ、怒りを最小限に抑え込むことを、この状況下で彼へ向けた最後の敬意とした。
「まさか。僕は無駄に戦う気なんてないよ。でも本気で戦うなら…それもまた一興だね」
2人の流れる様な戦闘態勢への移行を見て、クインは呆れたように肩を竦める。
今、形勢不利なのはクインの方だ。
それなのに、彼は未だ余裕そうな振る舞いで武器を取ろうともしない。
カガミに刺さっているナイフを引き抜いて、構えることができないとでも言うのだろうか。
アリウムはその様子に何処か胸騒ぎを覚えた。
「あんたの目的は?」
「単純さ。」
そう言うと、アリウム達の後ろに座り込んでいるスティックの方へと笑いかける。
「僕より格上な君が邪魔なんだ、スティック。」
「ただ──────それだけだよ」
次に聞こえた発砲音で、彼の"戦う気は無い"という言葉が嘘であることが分かった。
「ちっ……!」
銃弾はすんでのところで、後ろの柱に風穴を開けるのみに終わる。
(最初からその気だったんなら、こっちだって同じだ…!!)
アリウムは咄嗟に反撃に出ると、横にいるイア達に目線で指示をする。
───ここから、離れろ。
「!おい、てめ…立てねぇなら、さっさと言え!!」
「?!は、ちょっ」
アリウムの指示を汲み取ったイアは満身創痍なスティックを、彼が困惑するのも厭わず無理矢理抱きかかえる。
「おっと、」
アリウムの手から放たれた風の斬撃は、クインの脇を掠めて壁を大きく倒壊させる。
傾きつつある陽が一気に差し込み、建材はばらばらと落ちて、砂埃が舞った。
「サンキュ……使わせて、貰うぜ!」
ニッと笑みを浮かべて礼を言うと、イアは彼が魔法で開けた壁穴へと全速力で駆け出し、その場から逃げた。
「っ、あんた……追いかけなくて、いいのかよ」
2人の逃げ道を作ったのは、クインの逃げ道を作るのも同然。
そのリスクを承知した上で、アリウムは彼の逃走経路を1つに絞る事を狙って魔法を大胆に使ってみせた。
スティックの制圧が狙いなら、より一層自分が壁に空けた穴を利用する他ないはず。
だがクインは逃げ出した2人を一瞥したのみで、追いかけようとも、この場から逃げようともしない。
全くもって、彼が何を考えているのかが分からない。
(けど、どちらにしろ状況は───有利…!)
アリウムは素早く体勢を変えると、クインの死角を突いて氷の刃を繰り出す。
「どこ見てんだ…隙だらけだぞ!」
「ふふっ、それはどうかな?」
にやりと笑うと、クインはノールックで刃を打ち落としつつ、アリウムの方へと標準を向ける。
「君の本気が見れるなんて、僕はツイてるよ」
楽しそうな笑みを零しながら、ぱっとアリウムの方を振り返る。
「笑ってんじゃねぇ、気色悪ぃ…!」
鳴り響く銃声。
飛んできた弾はアリウムの眼前で展開された水のクッションに吸収され、速度を失うと、からんと音を立てて床に弾かれた。
展開した水を魔法へと流用し、高速で放たれた水の光線がクインを襲う。
彼は光線の攻撃を柱の後ろでやり過ごすと、アリウムを守る水が消えた所を狙ったように、再び発砲音を響かせた。
(俺の正面に弾を撃つだけか?攻撃の応用が効いてねぇ…絶対、何か──)
分かり易い弾の軌道に、怪訝そうにしながらも容易くそれを回避する。
直後、そんな軌道を描いた理由を理解するなどとは思わなかっただろう。
「な…!」
避けた弾丸が、またも柱に穴を開ける。
ぱらぱらと落ちる木片。ごうんと響いた不穏な音と、空間の揺れ。
アリウムは嫌な予感が的中したのだと悟った。
この短時間の戦闘で、教会の柱に空いた風穴。
それは、長い間放置された木造の建築物を倒壊させるに値する傷だ。
(さっきの銃撃は、俺が防御に魔力を消耗させたくないのを分かった上で…!)
先程と同じようにして、魔法を使って銃弾を建物に命中させないようにしていれば、あるいは───こんな窮地に陥ることは無かったかもしれない。
気を取られている隙に、クインは先程アリウムが開けた壁の穴から外へ抜け出そうとしていた。
「君も早くしないと、崩れるよ」
そう言いながら銃を建物の真上に向かって2発撃ち、ぺろっと舌を出してこちらを煽ると、コートの裾をひらりとなびかせ出ていってしまう。
「させるか!!」
後を追おうとアリウムが足を踏み出した瞬間、脱出口であったはずの出入り口と壁の穴が、大きな揺れと共に倒壊した建物の1部で塞がれてしまう。
(全部、これを狙って…)
崩れ行く建物に押しつぶされるぐらいならと思った矢先の、咄嗟の判断だった。
ごう、と強く風が吹き、周囲の大気が凝縮される。
「───ストルム…ドレイン!!」
詠唱された風魔法は、一層威力を増したかのように辺りの空気を吸い込む。
1点に集められた空気は一切の雑音を反響しない。
耳が痛くなるほどの沈黙。
放出された空気が透明な爆発を起こすと同時に、遅れて轟音が脳に届く。
「どわ…!!くっ、…そ!」
「うわっ」
突風がいとも容易くアリウムと、すぐ外にいたクインの体を、木端微塵になった教会の屋根諸共宙へと舞わせる。
「っは、感心したよ。にしても派手にやるね」
1度の魔法に、2つの意味───崩れ行く教会からの脱出と、自分との距離を縮めること───を持たせたアリウムの頭脳を、クインは賞賛した。
「汚ぇ手使いやがって…!もう、逃がさねぇぞ」
飛ばされた勢いで、クインは唯一の武器であった銃を取り落としている。
それに、空中であれば体勢のコントロールもままならないはず。
着地までの時間はそう長くない。仕留めるなら、今だ。
───ふと、クインの様子がおかしいことに気づく。
彼の視線。アリウムの方をじっと、薄らと笑みを称えながら見据えていた。
…つま先が、地面に着いてしまう。
彼の笑みは、自身の劣勢に対する諦めの表れか?
(………いや…違う!!)
視線は、ミスリード。
真っ直ぐな視線の裏で、クインが伸ばした彼の手の先。
その先に、いたのは。
「──────イア!!!!」
「ッ─────?!」
スティックを安全地帯へと逃がし、こちらへ加勢しようと向かってきているイア。
アリウムはつま先に触れた石畳を蹴り上げ、唖然としている彼の方へと疾風の如く駆け出す。
間に合え、間に合えと脳内で唱える。
心臓がばくばくと波打っているのが、全身に伝わる。
「な───っ」
がば、と自分に覆い被さるかのようにしてきたアリウムが視界に広がり、直後それが紅く染まっていった事で、イアはその状況を理解した。
「…アリ、ウム」
自分が──アリウムに護られたということを。
覆い被さられた勢いで、イアは呆然としながらその場にへたり込んでいる。
胸元が、じわじわと生暖かくなっていく。
震える手で自分の上にいるアリウムの体へ触れれば、べっとりと赤黒い液体が付着するのが分かった。
「…んだよ……なんで…だよ…!なあ、アリウム……!!」
「あちゃあ、急所は外そうと思ってたのに。変に割り込んじゃうからそうなる」
絶望するイアを他所に、クインは呆れたような口調でゆっくりと此方へ足を進めてくる。
そんな彼に、アリウムは呼吸も絶え絶えにして言葉を投げかけた。
「あ…んた、」
クインは両手に武器を持っていない、丸腰の状態で標準を定めていた。
その証拠に、今彼の手には変わらず何の武器も握られていない。
そして、アリウムが負った傷は銃によるものではなく───斬撃によるもの。
「…その、力は………!」
武器を必要としない攻撃手段。
それは、アリウム自身が扱うそれと同じ。
「僕にこの手を使わせたのは君で2人目だよ、アリウムくん」
紛れもない─────魔法による斬撃。
「なんで、あんたが、それを……っ」
ルインタウン出身でない者が魔法を使うには、魔導書から独学で学ぶ必要がある。
しかし、その可能性まで考える必要はなかった。
クインの出自。誰も、"ルインタウン出身では無い"などとは言っていない。
クインが魔法を扱える理由。それは彼が、ルインタウン出身だから。
隠されていた事実が明るみになっただけの、単純な話である。
それが普段の会話内で展開されていれば…まだ良かった。
「ちょっと考えれば分かる事じゃないか。そんな事どうだっていいよ」
それが、戦闘中に明かされた真実であるから───アリウムは絶望しているのだ。
その事件の当事者でもないイアからしても、状況が頓挫している事は手に取るよう分かる。
旧政府が恐れた力、それこそが魔法。
その使い手が敵に回っていて、且つ目の前にいる。
同じく、魔法の使い手であるアリウムの負傷。
傷は深い。考えたくは無いが、恐らく致命傷だ。
逃げるか、反撃に出るか。今動けるのは自分しかいない。
焦り、混濁するイアの脳内と、背中に伝う冷や汗。
「俺…は、」
判断を誤るな。ここで死んではいけない。ここで死なせてはならない。
「ねえ、イア。君は考えた事ある?」
状況の重大さ故のプレッシャーをひしひしと感じているイアに、クインは会話を持ちかける。
「君の事が大嫌いなスティアくん。彼と君は、互角にやり合えるぐらいの実力差だよね」
「……?」
先の質問とどんな繋がりがあるのか、考えかねる。
イアは警戒しつつも上着を脱いで、アリウムの傷から心臓に近い部位をきつく縛った。
「君は一般家庭出身の、一般人。対してスティアくんは、何万回もの殺し合いを経験してる。そんな2人が互角に戦えるのは…なんでなのかを」
「……は、」
クインがさらりと言ってのけた、スティアの経験してきたこと。
イアは半ば、信じる気にもなれない。
何万回もの殺し合い?一体、彼はどこでそんなことを。
彼が経験に見合わない弱さなのか。
それともクインが言いたいように、自分が経験に見合わないほど、怖いぐらいに…強すぎるのか。
いや───違う。今考えるべきはそれではない。
クインの笑顔は不気味なほど崩れない。
いつまた、此方に魔法を飛ばしてくるか分からないというのに。
「君とアリウムくんは似ているよ。周りの人を凌駕する程の力を持っていて───それでいて、誰も助けられない」
「……っ!」
そこまで聞いて分かった、クインの真意。
今のこの状況。今まで生きてきた中で、思い出したくない記憶。
ぐさりと、クインの言葉が心に突き刺さる。
1度刺さったら、二度と抜けない。それほど、的確で───明確な事実だった。
「イア、聞くな……!俺の事は、いいから……早、く」
ハッと我に返る。クインが狙っているのは、精神へのダメージ。
気づけば、イアは彼の思うがままにされていたのだ。
しかし、アリウムの言う通りこの場から逃げるのも気が引ける。
自分を見捨てろと辛そうに呼吸しながら指示をするアリウム。
クインはそんな彼へ視線を流し、
「君のその膨大な魔力。同じ魔法を使う者からすれば、大層素晴らしいものだろうね」
その言葉を皮切りに、アリウムへと攻撃対象が移った。
「でも君は、その魔力で誰かを救えたことがない。」
移ったのは、精神攻撃の対象のみ。
殺傷能力のない、ただの暴風が辺りを駆け巡った。
ただの風であれば…アリウムとイアの距離が離れることもなかったはずだが。
勿論それは、クイン由来のもの。
体を張って、間一髪で助けられたと思っていたのに。
負傷している自分とのスピード勝負。無論それは、クインの方が速かったのだ。
「ほら、今だってそう」
イアが吹き飛ばされた先で迫っていたのは、真っ直ぐと此方へ迫る無数の弾丸。
その存在を認識するのも叶わず、呆然としている間にそれはイアの身体に容易く風穴を開けた。
「ぐ─────…ッ!」
手を伸ばせば余裕でクインに届く距離。
なのに、反撃のしようがなかった。
イアは未だに尻込みしている。彼…オーナーと、まともに戦うことを。
クインの立つ、"裏切り者"という立場は便利なものだった。
人情の厚い者ほど、彼に殺意を抱けない。
「イア……!!」
あまりの痛みに耐えきれず倒れ込んだままでいるイアの背を、アリウムを挑発するように軽く踏みつけるクイン。
流石の彼でも、憤りを覚える他なかった。
「……あんたは、さっきから…何が、…!!」
彼の劣勢に見合わないその態度に、クインはやれやれとも言うようにして続ける。
「単純な強さだけが力じゃないよ、アリウム。君は強いんじゃない。人をちょっと多く殺してるだけさ」
「ッ……勝手に、言ってろ…!」
─────『親殺し?ああそうだ、新入りのあの子だよ』
昔孤児院で暮らしていた頃に、裏で言われていたことが頭によぎる。
孤児院にいた中で助かったのは、自分1人。
その時も、魔法で軍警を殺したから助かった。
裏社会での仕事も、殺しが少ない訳では無い。
ただの便利な凶器だと。魔法なんて、所詮世間ではその程度にしか思われていない。
アリウムは止血され、鈍く痛み続ける傷も他所にふらりと立ち上がった。
「…まだ続ける気?」
状況は誰が見ても分かり易いものだ。なのにアリウムは未だに限界を認めようとはしない。
自分の足下で、イアも同じく立ち上がろうとしている。
それをより強い力で抑え込むと、
「だったら、君と同じ力で…引導を渡してあげよう」
クインは楽しげに手を宙へ伸ばす。
彼の思うがままにされていく風。それは、絶望をも運ぶ風。
「──────トルメントス」
いやにはっきりと聞こえたその魔法名は、聞き覚えのないものであった。
ぐらりと傾く視界。同時に、寸刻前と辺りの景色が違うことに気づく。
大部分が刻まれ、倒壊した建物。散乱した瓦礫。体の上にのしかかる木材。
すぐ横で呼吸音が聞こえる。額から垂れる血液で、どんな状態か認識できない。
そして、彼が目を覚ます気配もない。
全身を駆け巡る激痛。イアが結んでくれた上着は、その上から斬撃を受けたことで意味を成していなかった。
止めどなく流れ出す、生温かい液体。
まだ自分が生きている事が不思議なぐらいだった。
「……何、が」
一体─────何が起こった?
既に、クインはその場から立ち去っていた。
彼の詠唱した風魔法、トルメントス。
何処か軽快な響きのそれは、全ての魔法を粗方習得しているアリウムでさえも聞き覚えがなかったもの。
それは、彼の家系に伝わる…言わば、奥義のような魔法だ。
故に、被害規模も大きい。
巻き込まれた建物は崩れ、未だに砂煙が辺りを控えめに包んでいた。
「───どこに行く気?」
霧のかかったような視界の右端に映る、2人分の人影。
普段の幼稚な様子とはかけ離れたその声色に、クインは足を止めた。
「そういえば、君たちとは話したこと無かったね」
急いで駆けつけたであろうその2人に、彼は警戒する素振りを見せないまま声をかけた。
「ファーストコンタクトがこんな形になってしまって悲しいよ。ブラッドくんと…それから」
その挨拶の末尾は銃声で掻き消される。
ブレッドによる威嚇発砲だ。
命中することは無かったが、視界のはっきりしない状況下では、逆にその射撃の正確性こそが驚異であると認識せざるを得ない。
「……ちょっと、随分と酷いことをするね」
「黙れ。キミがボクの名前を呼ぶ権利なんてない。せんせいの名前を呼ぶ権利もない」
有無を言わせないその口調に、クインはため息をつくと大人しく黙り込んだ。
彼はふと、自身の背後で宙に留まる2本のナイフの存在に気づく。
「君の策略…前々から企んでいた訳じゃないよね?行動の端々から、焦りが見て取れるよ」
激昂しているブレッドとは対照的に、ブラッドは冷静にクインを分析してみせた。
「ぼく達が君の居場所を突き止められたのは、君が派手に魔法を使ってくれたからだよ。…どうしても、君に……お願いしたかった。ここでやめて欲しいって」
宙に浮かせているナイフは、彼の重力操作によるものだ。
彼が手を動かせば、容易くクインへと突き刺さるようになっている。
「あぁ…そう。ブラッドくんは優しいんだね」
哀しげに訴えてくる彼を、クインはその一言で一蹴する。
此方へ銃口を向けているブレッドと、背後から何時でも攻撃出来るブラッド。
完全に追い詰められてはいるが、その程度で投降するような彼ではない。
「悪いけど、ここでやめる気はないよ」
そう言いつつ、彼は脇に差した拳銃に手をかけようとした。
「うん…分かってたよ」
説得を諦めたブラッドは、申し訳なさそうに留めていたナイフを解放する。
その軌道はすぐに避けられるような、単純なものだった。
クインは流れるように拳銃を構えると、ナイフを2つとも撃ち落とす。
きん、と音を立てて落ちるそれを見届けずに、同じく拳銃の引き金に手をかけているブレッドの方へと標準を合わせた。
「君は─────僕が思っていたよりも冷酷だ」
「キミが─────ボクの大事な人を傷つけたからだよ」
互いに短いやり取りを終えると、ほぼ同時に響いた発砲音が空気を震わせる。
つかの間の静寂。そして、
「……ッ」
クインは右手に走った痛みに顔を顰める。
先に引き金を引いたのは、ブレッドの方だった。
クインが放った弾丸といえば、ブラッドの重力操作によって2人に命中することは愚か、空気を切り裂くことすら出来ていない。
見事な連携だ。負傷した手を庇いつつも、クインは彼らに感嘆していた。
「…動くな。次は肩に撃つ」
ブレッドはたった一瞬の差でクインに傷をつけた。
その事に対する喜びなど感じさせない油断の無さに、クインは諦めるしか無い。
「はぁ、はいはい……こんなはずじゃ無かったんだけど」
拗ねた子供のようにそう言うと、拳銃を地面に落とす音を響かせ、彼は両手を顔の高さまで上げた。
投降の意思が、視界の悪い中でも分かりやすいように。
「……ブレッド」
ブラッドは彼に拳銃を降ろすようにと、そう名前を呼ぶのみで告げた。
彼がその姿勢の向こうで───不敵に笑っていることも知らず。
「……!違う…!せんせ、逃げ……」
言われた通り拳銃を降ろしかけていたブレッドは、徐々に開けていく視界の向こうでそれに気づいてしまう。
魔法の名を詠唱する、クインの口元に。
「…ロント───ブラス」
避ける余地もない、広範囲の爆風による衝撃波。
ただ、それだけの魔法。
そこで、彼に自分たちを傷つける意図はないのだと分かる。
直にその攻撃を受ければ、容易く脳が揺さぶられ…気を失うのだ。
気絶。対象を無力化させるのに最も効率的な方法だ。
「───君たちは凄い。認めるよ、こんなに視界が悪くなければ…最後に油断してなければ、僕は本当に負けていただろうね」
形勢が逆転した。ほんの、刹那のことだった。
ブレッドは力無く倒れ込んでいて、起き上がる素振りは一切ない。
彼に直前で忠告され、咄嗟にクインから距離を離したブラッドにはまだほんの少しだけ意識があった。
「っ、く……」
殴られたかのように、頭がずきずきと痛む。
黒く霧がかかっていく視界に、今にもこの場から立ち去ろうとしているクインが映った。
「…待っ…て、………君は、どうして…!そんなに…悲しそうな、顔、を……」
言うことを聞かないブラッドの体は、彼の背に手を伸ばすことさえ許さない。
か細い声でそう問いかけられたクインは彼を一瞥すると、
「答えは簡単だよ」
ふっと口角を上げて、薄れゆく彼の意識に言葉を流し込む。
「君の、見間違えさ」
その言葉を辛うじて拾ったのを最後に、ブラッドの意識はぷつりと途切れた。
◆
「あ〜あ………」
その頃。異空間に閉じ込められたドリフは途方に暮れていた。
クインに捕まったのは彼の戦略の一つである。
が、まさかこんな所に飛ばされるとは思ってもみなかった。
見渡す限りの純白。
壁一面に広がる、幾つものカガミ。
聴覚が拾うのは、自分が発した音のみ。嗅覚はそもそも機能していないように感じる。
「なんて居心地だ。娯楽のひとつも無いなんて」
そう言う彼の口調は何処か楽観的にも、何かから逃避しようとしているようにも見える。
脱出方法が分からないからと言って、ドリフは焦っていない。
既にそのヒントとなり得るものは見つかっている。
ただ──────調べる気が起きないだけで。
「俺の五感が完全に機能してなくてよかった。どちらにしても、酷い有様だけど」
ドリフは仰向けに寝転がっていたのを辞めて立ち上がり、この空間の異質な部分へと足を進めていく。
響くのは自身の足音だけ。
真っ白だった視界には、次第に"それ"が映っていく。
「まさか、これが──────」
そう言うとドリフは腰をかがめ、落ちていた誰かの帽子を拾い上げた。
「君の、友人に対する接待だとは。…到底信じたくもないけど」
拾った帽子を眺めつつ、彼の視界のその先に映っているのは────無数の、遺体。
驚き、困惑する事は既に済ませた。
「クイン…君が何をしたのか、俺に当てて欲しいとでも言いたいの?」
生憎彼は、それに値する頭脳を持ってしまっている。
クインの真意は分からない。もしかしたら、飛ばす空間を間違えた可能性もある。
脱出する上で、唯一のヒントとなり得ると思われるその悍ましい物を、ドリフは嫌でも分析しなくてはならない。
「……外傷は無いみたいだ。解剖が出来る訳じゃないから、本当の事は分からないけど…」
自分と同じく彼らも異空間に飛ばされ、脱出する方法が分からず頓挫してしまったとするなら。
死因は恐らく───餓死と考えていい。
「そしてこの服装…軍警察かな。…ここは……ルインタウンの跡地。」
軍警察。旧政府直属の、治安維持部隊。滅ぼされたルインタウン。
ドリフは5年前の報道を思い返していた。
5年前───旧政府による『総括的信教禁止令』が出され、事実上、全市民が無宗教となった。…唯一の宗教集落、ルインタウンの民を除いて。
彼らは、最後まで旧政府に抗ったのだ。
そして最終的に軍警察が集落に乗り込み、住民は鎮圧され、滅ぼされたのである。
鎮圧という名の大量虐殺だと民間から大バッシングを受け、それが現在の旧政府の低い支持率と、軍警察の事実上の解散に繋がっている。
土壇場で意見を覆し虐殺を逃れた者を除いて、ルインタウン出身の者は殆ど亡くなっていると思われているが、アリウムやアリウスのように逃げ切った者もいる。
新しく構成された民間の治安維持組織によって、その者たちの人権は保証される事となった。
暫く、この一件でメディアが持ちきりだったのを彼はしっかり記憶している。
──────"軍警察が集落に乗り込み、住民が鎮圧された"ということに加えて、"軍警から逃げ切った者がいる"ということ。
そこから分かるのは、クインに関する新たな事実。
(クインの異空間に軍警が送り込まれているということは、クインは軍警が鎮圧する対象だったということ。きっと殺されそうになったところで彼らを異空間に飛ばして、生き延びたんだ)
まさか彼に送り込まれた異空間内で、彼の出自が分かるとは思わなかった。
だが今大事なのは、軍警察がここに送り込まれたのが5年前だということのみ。
ドリフからすれば、新しく得れた情報はそれだけで十分だ。
自分がここに飛ばされる際に介した教会跡のカガミは既に割られていて、そこからの脱出は絶望的である。
であれば、周りにある複数のカガミから正確な出口を探さなくてはならない。
カガミはただのポータルであり───それぞれのカガミがどこに出るかはドリフにも分からないのだ。
戦えない彼からすれば、出たところで皆と合流出来なければ、死あるのみ。
加えて厄介なのが、ルインタウンで出来たカガミが全て、ルインタウン跡につながっている訳では無いということ。
滅ぼされたルインタウンに残った一部の物は、旧政府の愚行を『風化させるべきでない出来事』として今後に言い伝えていくため、展示団体等によって全く別の場所に保管されているのだ。
しかしドリフは既に、見つけるべきカガミの予想がついていた。
そう、軍警察が送り込まれる際に介したカガミを見つければいい。
そのカガミがあるのは恐らく、当時のクインの家。所有者本人のクインが生きているのなら、私有地化でも何でも、彼なら何かしら手を加えられないような施しをしているはず。カガミはその時のまま、そこに残っているだろうとドリフは考えた。
見たところ、機能しなくなっているカガミは自分が入ってきたところを含めて7つ。
きっと今までの戦闘で潰してきたもの達だろう。まさかここで、その行動が仇となるとは思わなかった。
ドリフは残りのカガミの中から候補を絞り込むことにした。
(まずは、デザインに十字架が入ってないものは除外しよう)
ルインタウンは宗教集落である。
よって、家具等のデザインには十字架が組み込まれているものしかない。
(次点で、縁が木製でないものは除外していいかもしれない。跡地であれど、街並みを見てきた限り殆どが木造だった)
金属のように見えるものは大体がそう見えるように塗装をされているだけである。
恐らく、ルインタウンが隔離されていたことに起因しているだろう。
きっと金属は集落内では希少で、価値が高かったに違いない。
そして、残るは"5年"という時間。5年間、ここにはもう誰も住んでいない。
団体によって保管されているのは、事件が起きてからそう経たないうちに回収されたものだけ。彼らは"当時の状態のまま"保つ事を重視しているので、上から何か保存料等が塗られているはず。
即ち、塗装の剥げ具合、木材の朽ち具合を観察すれば結論を出せるだろう。
ドリフは遺体から離れ、それぞれのカガミの見た目を確認してから、当てはまるものを1つ1つ手触りで確認して行った。
と言っても、そう簡単に事が進む訳もなく。候補は1つに絞りきれない。
しかしドリフが最後のカガミに手を触れたところで、その状況は一気に変わった。
「これ───金属製だ。珍しい……すごい高価だっただろうな」
そこで、彼の中で何かが閃く。
クインの…今この瞬間までの彼の言動。全てがドリフの脳内で再生される。
1年前、クインと出会ってまもない頃。
彼が読んでいた…当時、4年前の新聞。
(思い出そう。当時4年前なら、今から5年前…丁度事件と重なる。ならば、書かれていた記事はきっと…)
ドリフは必死に記憶の化石を掘り起こす。
(……いや、ちょっと違う。別の記事を見るに、あれは事件から数ヶ月経った後のもの。載っているのは、事件についての詳細じゃなくて…確認された遺体の身元一覧だ)
それに載っているだろう誰かの名前を、探していた?
であれば、関係の無い記憶だったのか。ドリフは一旦それを放る。
一緒にご飯を食べに行った時の、一連の所作。
使い古された、煌びやかな食器。
それらに金箔で刻まれていた、「C.Q」のイニシャル。
(Qは、もしかしなくてもクイン。Cは…)
───苗字。
ルインタウンの身分制は…聖職者、貴族と平民、基本はその辺だ。
苗字を名乗る事を許されていたのは、貴族───裕福な家庭。
「……あはっ、どうやら…俺の勝ちみたいだね」
そう言うとドリフは、そのカガミの中へ飛び込んだ。
「─────────いだっ!!」
カッコつけた台詞を吐いてカガミに入った直後に、頭から転ぶとは思わないだろう。
「げほっ、げほ…」
辺りは埃を被っており、ドリフが落ちてきた衝撃でそれらが舞ったせいか彼は思い切り咳き込んでしまう。
額を抑えながら顔を上げると、真っ先に目に入ってきたのは異空間で見たのと同じ帽子。
それは即ち、ドリフの推理が当たっていたことを表していた。
「ここは……書斎?」
立ち上がり一歩踏み出すと、足元からパリンと音が聴こえた。
何を踏んだのかと足を上げて確認すると、キラリと光るガラスの破片が目に入る。
もしここに顔面から突っ込んでいたら、今頃傷だらけになっていただろうなと内心ほっとしながらも、ドリフはある事に気がついた。
「このカガミ、もしかして一度…割られてる?」
根拠は、今踏んだ破片だ。
位置的にも、さっき自分が出てきたカガミのものだと見ていい。
だが、ドリフがここから出れたことは確かである。
カガミを割れる者なら分かるが、それを修復できる者が居ると言うのだろうか?
そこまで考えて、彼はぶんぶんと頭を振った。
一面真っ白な空間から一気に元の場所へ帰ってきたことで、少々頭が混濁している。
この状態で何かを思考するのは良くないだろう。
「みんな…無事かな。早く合流しないと」
ドリフは落ちていた帽子を拾い上げさっと近くの長机に置くと、部屋の出口へと向かう。
───やけに外が静かだ。
彼は底知れない不安が渦巻くのを感じた。
◆
カガミのあった建物から出たドリフは、自分の感覚を信じて足を進める。
不安が増しているのか、歩いていたのが早歩きに、そして走りに変わっていく。
どれ程の距離を歩いたのだろうか。目に映る数々の建物は、彼が進めば進むほど原型を留めなくなっていった。
此処周辺で何かが起きたことは確かだと、ドリフの勘がそう言う。
(何か嫌な感じがする。多分、きっと…)
─────ウイルスには一部、高い知能を持つ個体がいる。
それは、スティアと別れる前に彼が教えてくれたことだ。
知能が高いというのは良い事では無い。
何故ならそれはつまり、自分達と同じく戦略を立て、実行する事ができるということ。
彼の足はある倒壊した建物の前で止まった。
(その知能の高さ故の行動とは───紛れも無い、"これ"だ)
建物の中へドリフが足を進めると、"その"光景が飛び込んでくる。
壁に体を預け、ぐったりとして動かないイアと。
そこを狙って、今にも襲いかかろうとしているウイルス達。
ウイルスの平均的な知能であれば、奴等は弱っているか否かに関わらず、見かけた対象に片っ端から襲いかかってくる。だが今の状況は、弱っている対象1人に対して何体もウイルスが襲いかかっている状態だ。
これは、奴等の戦略と言っていいだろう。でもその戦略が分かった以上、思いどおりにはさせない。
ドリフはすぅ、と酸素を一気に吸い込む。そして、
「─────動くな」
ドリフのその一言で、ぴたりとウイルスの動きが止まる。
もし彼が丸腰であったのなら、奴等の行動はもう少し違っていたかもしれない。
しかし、今の彼の手に握られているのは銃───先程の異空間で、軍警の遺体からくすねたもの───であり、その銃口は奴等の方を向いている。
知能が高いウイルスであれば、動きを止めるのは自然なことだ。
「…そう、善い子だね。」
銃を構えながらウイルス達の動きを牽制しつつ、彼は奴等の方へと足を進めた。
「知能が高ければ、多少の意思疎通は可能…って言うのは本当みたいだ。だったら俺の言いたいこと、分かるよね」
動いたら撃つ、と脅しをかける。たとえ、従ってくれる保証が無くても。
(生憎…俺にできるのは、ここまでだ)
知能が高く、意思疎通が図れる。
それはただ単に、戦略とずる賢さに長けているから厄介だという訳では無い。
目の前にいる奴等は、"それ程の強さを持ちあわせている"という事だ。
拳銃を持っているとはいえ、戦闘に関しては何の心得もないドリフが戦って勝てる相手ではない。
加えて、そのレベル強さのものが何体もいるわけで。
どれだけ奴等の注意をイアから逸らしたままでいられるか。
そして、助けが来るかどうか。
言わば───ある種の賭けである。
極度の緊張が張りつめていた。
一体、どれだけ経ったのだろうか?5分か、それとも1時間か。
銃口を向けるドリフと、静止しているウイルス。
先程から、その光景は動画が一時停止されたかのように動いていない。
───その様子が変わったのは、僅か1秒後のことである。
建物の壁を蹴破った衝撃音。ガラスが割れ、破片が光を反射してきらりと光る。
何体ものウイルスは一斉に音の方に向き直った。
刹那、その内の半分が薙ぎ倒される。
突然現れたその救世主は、自身を脅威と見なしたウイルスが自分の周りを囲むのも厭わず攻撃を繰り出す。
──────気づけば、敵は跡形も無く消滅していた。
強い相手だと言うのなら、相手が攻撃をし始める前に殺せば良い。
それを体現したその人物の、洗練された体術と、判断力。
ドリフはそれに見覚えがあった。
「随分と待ったんだよ」
その人物が来るのは分かっていた、というような表情で、ドリフは橙色の目をした客人を出迎えた。
◆
「やっほ〜、チョーシどう?」
突如上から降ってきた声にクインがその方向を見ると、半壊した屋根の上に座っているすているが此方に手を振っていた。
「おれ、そろそろお腹がすいて死んじゃうんだけど」
つまりは対価を払えということだろう。
その要望に応え、クインは懐から瓶を取りだし彼の方に放る。
「お望みの品だよ」
「しごできだね!わあい、今日はご馳走だぁ」
そうやって、無邪気に喜ぶすている。
────彼の提示した対価とは、『スティックの血液』だった。
先程の戦闘で、クインはそれを難なく手に入れていたのだ。
もう待ちきれないと言わんばかりに瓶を開け、すているは一気に中の赤い液体を口に流し込み、ごくりと飲み込む。
しかし、予想に反して途端に彼は激しくむせ始め、
「っ…?!うぇ、げほっ、げほげほ……うげぇ…」
「…君、少々急いで飲みすぎなんじゃ」
クインの指摘に、彼は渋い顔をしながら無言で首を振った。
そのまま暫くむせ込んでいたが、漸く口を開いたかと思うと、
「─────これ、苦いしマズいんだけどっ」
その一言に、クインの表情が変わる。
「…栄養になる分は良いし、別に?でもぜーったい、おれが欲しかったのじゃないよ!これ!」
サイアク!なにこれ!と頬を膨らませながらぶーぶー文句を言うすているを、唖然とした表情で見つめるクイン。
彼は、何かが引っかかっている様子だ。
「………不味い?」
そんなはずは無い。何故なら彼は─────
「…君は、その味が好きだって」
「だーかーら!おれの好きな味のやつじゃなかったの!!絶対違う!」
彼の言っていたことから引用すれば。
味が違うという事は、性格が違うということ。
「キミ、どう採ったかは知らないけど。派手に戦いすぎたかなんかで、誰かと血間違えたんじゃない?」
すているのその言葉で、クインは"とある事実"の確信を得ることができた。
自然に溢れ出る笑み。それは自嘲故でも、どうしようもない悔しさ故でもなく。
彼の笑みは他でも無い、自分をまやかした人物への感嘆の意であった。
「有言実行…か。流石だ、僕がこうも出し抜かれるとは」
◆
朦朧とする意識の中、気を失っていたイアは薄らと目を開く。
「ッ………あ…?」
視界に入た床は薄暗く、外からは夕暮れの明かりが僅かに差し込んでいる。
一体どれだけ気を失っていたのだろうか、自分が何故助かっているのかも分からない。
ただ意識がはっきりせずとも感じる全身の鈍い痛みは、自分が"自力ではまともに動けないこと"を表している。
それでも、立たなくてはならない。
自分には、やらなければいけない事が、護らなければいけない人が───。
その強い信念で自分の体を奮い立たせ、ふらつきながらも壁に手を預けながら立ち上がろうとした、矢先のこと。
「───イアちゃん!!」
未だに霞む視界の中で見えたのは、此方に急いで駆け寄ってくる人物。
薄暗さに慣れてきたその目で、イアはやっと目の前の人物をまともに認識できた。
「……お前、…なんで」
自分の体が今こうして傷だらけになっている理由が、誰よりも大切な存在が、今目の前にいる──ドリフだ。
彼はクインの異空間に閉じ込められ、それを自分は助ける事が出来なかったはず、だが…。
今ここに彼が立っているという事を先ずは喜ぶべきだと、イアはその疑問を隅へ放った。
彼の頭の先からつま先までを一瞥し、全くの無傷である事に安堵する。
良かった───本当に、良かった。
「やっぱり…酷い怪我、」
内心ほっとしているイアとは対照的に、ドリフの表情は険しい。
イアのそれとは違い、ドリフの目に映っている景色は赤黒く染まっているからだ。
「…お前が気にする程じゃねえよ。これぐらい……」
2人の関係に入った亀裂は、未だ塞がれていない。
互いに対する心配の気持ちも、気遣いも本物であると言うのに。
皮肉にも、その全てが亀裂へと転がり落ちてしまう。
イアは自身の発した言葉を証明するかのように1歩足を踏み出そうとしたが、
「いッ…つ」
無論、その試みは叶わぬものであった。
ぐら、と身体の重心が傾き、視界の残像が揺れる。
再び果てへと連れていかれそうになったイアの意識は、腕を掴まれた感覚で繋ぎ止められた。
「!無理に動かないで、休んでてよ。……お願いだから」
必死にそう懇願するドリフの顔には心配を通り越した、困惑の色が混じり始めていた。
誰の目にも分かる、イアの身体に刻まれた深い切り傷、擦り傷、弾痕、それらの多さ。服に染み付いた赤色は、痛々しい色彩を湛えている。
当事者が1番理解しているべきであろう事だ。なのに、彼は尚その状態で立ち上がろうとする。
何故、何がそんなに彼を駆り立てるのだろう。
自分に、心配をかけない為?
───そんなものを、気遣いとは呼ばない。
「…イア」
強く、咎めるような声色で名を呼ぶ。
ドリフの意気に押されたイアに、最初から反抗する理由などない。
先程から目を合わせてすらいないが、腕を掴まれる力がより込められた事で、イアは漸く彼の激情に気が付いた。
「……分かった、から…放せ。汚れるだろ」
イアの記憶の中での彼は、融通の効かない頑固者ではない。
一向に消えない手の感触に、イアは逸らしていた目を上げようとした、
「な……」
よりも先に、身体を引き寄せられる感覚と、柔らかな温度の心地良さを覚える。
生憎目覚めてからそう時間の経っていない彼の頭では、何が起きたのか分からなかった。
それなりの出血量で熱の抜けた身体に染み渡る、優しい温かさ。
「ごめん、やっぱり俺は───」
耳元で聞こえた言葉に、抱き締められているのだと遅れて脳が理解する。
「─────本音で…話がしたいよ」
ドリフは絞り出すように、掠れた声で、そう告げる。
呆然と、イアは暫しその心地良さに身を任せてしまう。
ただやはり、彼はそれを拒絶しなければならない。
「……放せよ…!…俺は、お前と……話なんて」
せめてもの抵抗。彼はそうして弱々しく、ブラフを立てる。
その虚勢は、文字通り虚ろへと響いた。
「放して、…くれよ、」
「嫌だ。絶対」
より強く力の込められたドリフの腕は、イアを少しでも繋ぎ止めたいという意思の表れ。
「……ッ、」
続く単語が出てこない。声が不自然に上擦る。喉に言葉が詰まる。
疾うに、心の堤防は崩れかけていた。
溜め込んでいたもの達が溢れ出し、本当に言いたいことを上手く言わせてくれない。
気づけば、衝動的に彼の背中を抱き返していた。
「─────ごめん……ごめん、ごめんな…俺、っ…本当は、」
漸く声に出来たそれは、今までの事全てに対して許しを乞う、何とも不甲斐ない単語の羅列。
1度口に出せば、後は止まらなかった。
「あの時、俺が1番欲しかった言葉を、お前は…くれたのに……それなのに、俺は酷いこと言って、ずっと……謝りたくて…っ、」
慟哭に混じる懺悔。ドリフはそれを、ただ只管に受け止める。
「うん、…知ってるよ。」
「あの事件の真偽が、責任が…どうとか、そんなの……俺には分かんねえ…分かんなかったんだ……」
自身のいる店に通い詰めていた、女子高生の自殺。
関係性としては、ホストと客。それ以上でも、以下でもなかった。
直接彼女に、何かを言われた訳でもない。
警察に関係者だとされ、質問をされた訳でもない。
彼女の身内や友人に、糾弾された訳でもない。
"死人に口なし"。
結局は、それだけのこと。
彼女が何故死んだのかは、死んだ彼女の口からしか語れない。
そして、今となっては聞く術もない。
どんな推理も、憶測も、噂も、確証を得ることは無い。
全ては可能性として、残された者達の傍に存在し続けている。
そしてそれらに、必要以上に苦しめられた人々がいる。一切気づかない者もいる。
思い込み、そして強い責任感と言うのは、想像以上に人間を蝕むものだ。
手を差し伸べてくれた人へ、思ってもいない言葉をぶつけてしまうぐらいに。
「ただ、寄り添って欲しかった……それだけ、だったのに…俺は、俺はお前を…」
それ以上の謝罪の言葉はもう、思いつかない。
「……イアちゃんに突き放されたなんて、思ったことないよ。」
穏やかにそう告げたドリフの声色は、抱き締められた直後のそれと変わらない。
彼はしゃくり上げても尚続けようとしたイアの髪を撫で、
「───ずっと、信じてた。」
イアの必死の謝罪に対して、許す許さないも何も…最初から想いは、揺らいですら無いのだと。
「っ……なんで、」
どうして───ここまで真っ直ぐで居られるのか。
しかしそれは、イア自身にも言えることであった。
一度は突き放し、或いは突き放され…それでも尚、互いを密かに気遣っていた、2人。
イアはドリフの上着を掴んでいた手を離し、目元を拭う。
それでもぼろぼろと止む気配のない涙に構わず、自責の言葉は止めどなく紡がれていく。
「…俺は、…護られて、助けられてばっかの、役立たず……なのに」
「全然違う。イアちゃんは弱虫じゃなくて……うーん、そうだな」
否定を先に述べ、それに続く単語を暫し思い悩む素振りを見せた後、
「…そう、大馬鹿者!」
「……。」
突拍子もなく出てきたその単語に、イアは唖然とする。
何を言われるのかと思えば、ただ罵倒されただけでは無いか。
先程までの雰囲気との差に、思わず涙が引っ込みそうになってしまう。
「何が違うってんだよ」
「全然違うんだってば。イアちゃんは何も分かってない」
顔をむっとさせ、彼はイアへよく言い聞かせるようにして説き始めた。
「護られて、助けられて…どうしてそれに呵責を覚えるの。弱かったから護られたんじゃない。役立たずだから助けられたんじゃない。君に生きていて欲しかったから、救ったんだよ」
それは、直接脳に響いたと錯覚させる程、
「───、」
イアの目に映る景色を、その色彩を、鮮やかにする。
ずっと───勘違いを、していたのか。
自分がここに居れる事と、他人からの評価。
今まで、後者ありきの前者だと思っていた。
けれども───ああ、漸く理解ができた。
実際はもっと、単純な事。
そこに居て欲しいという願望、欲求、それだけで良い。
今この瞬間、彼が目の前に居るのも…自分がそう願い、行動したからだ。
頭が一杯で返事の一言も出てこないイア。
そんな彼の手を取り、ドリフは自身の両手でしっかりと包み込む。
そして真っ直ぐ、その目を見据えた。
「一緒に生きよう。生きていようよ、イアちゃん…昔みたいに、2人で支え合いたい。この場所を、世界を、みんなで守り抜こう。欠けていい人なんて1人も居ない。戦いはまだ…終わってない」
積もる話が。
言いたかったことが。
一緒に行きたい場所が。
食べたいご飯が。
他の人には話せない、些細な悩みが。
あの頃の、思い出話が。
沢山、沢山…この瞬間までに吸って、吐いてきた酸素を一息に使ったとしても、話しきれないほどに。
全てが終わったその時には、必ず君に全部、余すこと無く伝えたい。
共に歩く、未来が見たい。
この願いが我儘でもいい。
それで叶うのなら、どんな物語に出てくるお姫様よりも我儘になってみせる。
君が、俺の事を嫌いでもいい。
それ以上に、俺が君を愛してみせるから。
「だから────傍にいて欲しいんだ。」
溢れ出て止まらないイアへの親愛を、ドリフはその一言で締めくくったはずが。
予想に反してイアは、動揺とも、笑顔とも取れる…少々困惑も含めた、不可思議な表情をしてみせた。
「っふ、今度は…お前が泣くのかよ」
ドリフはその言葉にふと、納得する。
成程、言葉にならなかった感情は、ただただ頬を伝うのみの塩辛い水へと変わるのだと。
ただ、こんなにも───止められないものだっただろうか?
「あれっ……おかしいな…あはは、これじゃ、カッコつかないじゃん…」
先程まで、自身が慰めていた人達とは比べようもない号泣っぷりであった。
情けない。人の事なんて、何も言えないじゃないか。
余裕なんてなかった。ずっと気が気でなかった。
もう二度と、言葉を交わせないのかと思っていた。
そう。それこそスティアのように。目の前にいるイアのように。
虚勢という嘘を、吐いていたのだ。
最初から全て───取り繕うことなんて、無かっただろうに。
「うっ、…う、寂しかったよお、イアちゃあああああん!!!!!」
「だーーっうるせえな!分かった、分かったって…痛って!おい、おま……さっきまでの心配は、どこに………おい!」
考える事を放棄し、子供のように泣きじゃくり、そのままの勢いで頭をぐりぐりと押し付けてくるドリフ。
イアは呆れつつも、仕方無くそれを受け入れた。
「───随分と騒がしいですね。センパイ」
木漏れ日のように柔い温かさを孕んだ2人の雰囲気へと差し込まれた、冷たい氷のような声色。
凛と響いたそれは一瞬にして、辺りの凄惨さと、2人のテンションの差を中和する。
「それで……話は、終わりましたか?」
イアの視界に、奥の方で立っているもう1人の人影が映った。
割れた窓から大きく差し込んだ夕暮れの逆光で、顔はよく見えない。
イアは目を細める……見覚えのある背格好と、瞳だ。
ドリフの事をセンパイと呼び、慕う人物は1人しかいない。
「てめぇは───スティック……か?逃げてたん、じゃ…」
気を失う前の戦闘で、真っ先に逃がしたはずの彼が同じ空間にいる。
だがその様子に、イアはなんとも言えない違和感を覚えた。
「はぁ…まだ寝ぼけてるのかよ」
スティックと呼ばれたその人影がゆっくりと、此方に足を進めてくるのが見える。
発した言葉を聞いて、イアの覚えた違和感は確実なものへと変わった。
口調も姿も、普段の彼のそれであるが…普段"彼が自分に向けている"それではない。
イアの目に映った、此方に近づいてくる橙色の眼光。
───瞬き一つの間に、それは紫色に変わっていた。
「な………?!」
示された事実は、ただ一つ。
「そろそろ、目が覚めたかい?────イア」
そう言い、にや、と笑みを浮かべるスティック───に扮したスティアは、唖然としているイアの眼前に立つと、
「まさか君でも、あそこまで分かりやすくしないと気づかないなんてね。どうやらオレには役者の才能があるみたいだ」
騙された気分はどうだい?と、彼は腰に手を当てながらイアを見下ろす。
「な…、は……?てめぇら……何時から、入れ替わってた?」
「そうだね。君が、"スティック"を助けに来た時には、既に入れ替わっていたよ」
彼の言う通りだとすれば、その時の彼の佇まいと、今の彼のそれには相当な齟齬がある。
あの時の彼───イアがスティックだと思い込んでいたスティアは、戦ったばかりで疲弊しきっていて立つのもやっと…といった様子だった。
でも今目の前にいる彼はしっかりとその脚で立ち、自分を見下ろしている。
(いや、でも今考えてみりゃおかしい…)
疲弊するほどの戦いの後だったとすれば、あの時の彼は負傷が少なすぎた。
「もちろんスティックは演技なんかじゃなく、本当に立つのがやっとなぐらい疲弊していた。俺はそんな彼を演じただけ……本物のスティックを逃がし、それと同時進行で、クインに今がスティックを倒す上での狙い目だと思わせ…誘き出すために。」
イアが見た"スティック"の言動は、全てスティアの演技。
その事実を知らされたイアは驚きもしたが、ある事に気づく。
「待て、じゃあお前らを助けに来た俺達はなんだったんだ」
「まさか、そこまで予想がつくとでも?」
スティアは淡々とそう告げる。
イアは、教会跡に行ったっきりのドリフを心配してそこに向かった。
実際にはそこにドリフはおらず、スティックが戦闘不能の状態でクインに殺されかけていた。
だがその状況もまやかしであり、結果的に自分はまともに立てなくなるほどの重傷を負った。
彼がスティアに憤りを覚えるのも無理はない。
「嘘つけ!拠点から出る前、アリウムに何か言ってただろ」
「それはそうだけど。オレが言ってるのは君の事だよ。君がスティックを助ける状況なんて、予想出来るわけないじゃないか」
「違う、俺は──────」
ドリフを助けようとして、と反論しようとしたところで、横に本人が居ることを思い出す。
知ってるよ、と言う代わりにドリフが微笑みかけると、イアは気恥ずかしさから黙りこみ、無言でスティアのことを睨んだ。
「勘違いしないでくれたまえ。オレは予想外だと言っただけで、君達の戦いが無駄だったとは言ってない。それどころか、クインに結構な打撃を与えてくれたとさえ思ってる」
これを言われたのがドリフであったなら、こんな回りくどい言い方だったとしても、スティアの意志を汲んですぐ言葉を返していただろう。
しかし生憎、イアはそういう性分ではない。
「何が言いたい?」
言いたいことははっきり言え、と言わんばかりに、彼は怪訝そうな顔をしている。
スティアはそんなイアから視線を逸らし、
「君達の勇気への感謝…と言ったところかな」
少し間を開けてからそう呟いた。
「君への感謝は不本意だけどね。けど、お陰で面白いものを見れたよ。彼に手を握られると安心するという話は本当みたいだ」
予想だにしていなかったスティアからの感謝に目を丸くしていたイアだったが、続きの一言でその目は羞恥の色に変わる。
「てめ……!何処でそんなことを…!!」
思い返せば、スティアは何度となく自分を殺そうとしてきていた人物。
恨んでいる人に対して、そう易々と感謝を伝えられないのも無理は無いのかもしれない。
今はそう解釈し、イアは彼の言葉をこれ以上咎めないことにした。
「………変装のクオリティがやけに高ぇが、どうやった?」
「服を入れ替えて、片目にカラコンを入れる。髪色はフードを目深に被って誤魔化す。───元々声質は近ぇし、そこは余裕だったぜ」
咳払いも無しに、一瞬で声をスティックのそれへと変えるという所業。
イアはその技術に目を見張った。
「すげえ、けど…カラコンを……常備してるのか?」
「街に食料を取りに行った際のついでに貰っていったんだ。マジックの小道具は事前に用意しておくものだよ」
そんなスティアの用意周到さと、この状況を少なくとも起こり得ると予想していたであろう頭脳に、イアは不本意ながらも感心するしか無かった。
「さて。種明かしが済んだところで、先ずは……」
スティアはそう言いながら、未だにイアにべったりとくっ付いているドリフの方に視線をシフトする。
「ドリフ。オレは前に、君は聡明な人物だと言ったね」
「…だからこそ、君の"賭け方"に違和感があった」
その語調はまるで、母親が子の過ちを咎める時のように、本能的な恐怖心を煽ってくる。
イアはスティアの怒り…のような感情を察知し、一体今自分の横にいる彼は何をしでかしたのかと考えを巡らせる。
対して、その感情を向けられた張本人であるドリフはきょとんとしていた。
「…賭け方?」
「自分の実力を誰よりも自覚している君が、強敵の前にみすみす姿を現し…ましてや自分に意識を向けさせるなんて事するはずがない、と言っているんだよ」
「誰から見てもそれは愚かな自殺行為だ。勿論君自身から見てもね」
「銃の発砲音を利用して、敵の意識を逸らす…逆にオレは、君がこうする以外の発想が生まれなかったよ」
スティアの"お説教"が長引くのを悟ったドリフは、肩身狭そうに沈黙を貫いていた。
「けれどオレが来た時、敵の意識は全部君に向いていた。君は拳銃を手にしていたにも関わらず、それを発砲するのではなく…脅しに使っていた」
スティアは足を進めた先でそう続けつつ屈み込み、地に置かれていた銃を手に取る。
「つまり、発砲しなかった理由がある。簡単な話、君はしなかったのではなく…出来なかったんだ」
手の中のそれを興味無さげに一瞥した後、ドリフの方へと放った。
「その銃に───弾が入ってなかったから。そうだろう?」
そう───ドリフは脅す上で、拳銃が打てるか否かを重要としていなかった。
大切だったのは、誰かの助けが来るまでイアを死なせないことであり…最悪、助けが来た時既に自分が死んでいようが、ドリフは構わなかった。
知能の高いウイルスであれば、拳銃を持った相手に脅されるという状況は不利だという事が理解出来る。
あるいは──知能の高いウイルスであれば、使い物にならない拳銃を持った"戦えない"相手は、弱った戦える者よりもずっと殺しやすい事が理解出来る。
ドリフは彼らの知能と、自分の命の2つを、たった1人の幼馴染のために賭けていたのだ。
その真っ直ぐでブレない無謀さに、スティアは怒っているのである。
「えへ、バレてた?…って、いたたた、痛いよ!!」
悪戯に気づかれた時の子供の様な顔をしたドリフの頬を、スティアは思いっ切りつねる。
「へえ、痛いのかい?全然、言い訳なら聞くけれど」
「じゃあ聞いてよ、持ち出そうと決めたその時まで、俺は弾が少なくとも1発はあると踏んでたんだ」
言い訳、にしては理にかなっていそうな導入であった。
スティアは無言で、彼の頬から手を離す。
少し赤みを帯び、ヒリヒリとまだ痛みの余韻が残るその部位を擦りながら、ドリフは話を続けた。
「…この銃は一般的なリボルバーで、弾数は6発。実は俺の閉じ込められてた異空間には先客がいてね、皆亡くなってたけれど…人数は7人」
もう一度あの光景を思い返すのは少々不快ではあったが、その際に考えた事を彼らに伝えねばならない。
「死因は恐らく餓死と、俺は踏んでるよ。だからって彼らが閉じ込められてから何もアクションを取らないわけが無い。必ず色々試して、脱出を試みるはずだ」
「案の定、遺体と一緒に弾丸も転がっていたよ。骨の折れる作業だったけど…41個だった」
ドリフはそこで一瞬、話を聞いているスティアの方へと視線をシフトする。
それに込められた期待に応えるように、彼は言葉を引き継いだ。
「…弾丸だけが、かい?」
「そう、弾丸だけ。」
スティアが何故そこに引っかかっているのか理解できていないイアに、ドリフはウインクをして彼の膨大な知識の1部を披露する。
「リボルバーってね、治安官が持ってるオートマチックとは違って撃つ度に薬莢が排出されないんだ」
「"装填する時に"、手動で取り出す必要があるんだよ」
超絶大ヒント、とも言うかのように指を1本立て、彼はイアの返答を待つ。
先程までスティアに向けられていたものが自身へと移り、イアは未だ靄のかかる意識で思考を巡らせる。
既に答えは出ているようなものであったため、彼が口を開くのにそう時間はかからなかった。
「薬莢が落ちていなかったってことは、つまり…そこに居た奴らは1人ずつ6発撃って…弾の補充をしなかった。そういうわけだな」
ドリフは満足気に頷くと、補足を加える。
「スティアくんの言葉を借りるなら…しなかったんじゃなくて、出来なかったんだ」
「彼らが閉じ込められた時点で、弾のストックが切れてたんだよ。そうじゃなきゃ装填しない理由がない…だって人間はそういうものでしょ」
まだ続きがあると踏んだスティアは、彼がそれを言う前に口を開く。
「でも君は41発だと言った。単純計算で、7人全員が6発使い切ったのなら42発あるはず…その内の1人は1発残していると思ったんだね」
「そ!だから適当にひとつ選んで持ってったんだ。7分の1を当てる覚悟でね。…けど」
その博打の結果は、先のスティアが言っていた通りのはず。
ドリフの言葉尻に付いた逆接は、それを示した否定の意かと思われたが。
「───当てるどころか、そもそも当たりは無かった」
スティアの言う賭けも何も…最初から全て外れくじの、負け試合をしていたというわけだ。
「異空間から出た時…俺はその人たちが異空間に飛ばされた際のカガミを通ってったんだ。だからその先にあった景色は、彼らが閉じ込められる前に居た場所」
どこまで詳細に言うべきか、一瞬躊躇う素振りを見せた後、
「…まあ言っちゃえば、そこは誰かの部屋だったんだ。そして壁に掛かった時計には1つ、弾痕があった。この意味、分かるよね?」
ドリフの口調に秘められた真意を汲み取るのには慣れてきていた。
スティアは溜息を吐くと、その推理を代わりに締める。
「…余っているはずの1発は、既に使われていたということだね」
「それと、もう1つ」
言い訳、とやらは既に終わった筈だ。
「俺が出てきたカガミだけど…1度、割られていたかもしれない」
彼のはっきりしない物言いと、信憑性に欠ける内容にスティアは眉を寄せる。
「でも、確信はしてない。この事について考えるよりも、イアちゃんの容態の方が心配だし…」
だったら最初から言わない方が良かったかな、とドリフは申し訳なさそうに頬を掻き、苦笑する。
心配をかけるにしては少々活き活きし過ぎている、とスティアは呆れた様子でイアの方へと視線を流した。
彼本人はと言うと───ふと何かを思い出したかのようにハッとし、焦りを含んだ口調でこう尋ねたのだ。
「───アリウムは、どこだ」
その鬼気迫る様子に、2人の表情も変わる。
イアと共に戦っていたアリウムが、居ない。その事にスティアは勿論気がついていた。
だが、イアがそこまで焦る理由が分からない。
あのアリウムの事だ。クインを抑えた後、重傷を負ったイアを助ける手段を求め、アリウスを探しに行ったものだと思っていた。
アリウムの強さは知っている。彼がクインよりも強いと、スティアはそう踏んでいた。
まさか彼は───クインに負けたのだろうか。
スティアはさっと周りを一瞥すると、
「…彼は、君以上の重傷を負ったみたいだね。ドリフ、これが見えるかい」
そう言ってスティアが指差したのは、床に付着した血溜まりの跡。
この出血量は、恐らく尋常ではない。
憶測は段々と確信へと変わる。
辺りの惨状は、もしや───アリウムではなく、クインの手によって起こされた物なのか?
「彼は、一体…何を」
確証を得るため、スティアは事実を知るイアへと問いかけた。
「───順を追って…話してやる。」
この状況では焦っても仕方ないと、イアは落ち着きを取り戻すために1つ深呼吸をした後に語り出した。
「お前らが教会跡に向かった後、スティックが1人でお前らを探しに行った。その後にアリウスくんが出て行って、オーナーが作った異空間内の拠点に残ったのは俺とアリウム、ブラッドくんとブレッドくんの4人になった……異常が起きたのは、その時だ」
───異空間の異常は、その主の精神状態に起因する。
同じような現象は既に起きていた。あくまさんの魔力供給に耐え切れず、夜間にアリウスが戦闘不能になった時だ。
意識を失ったアリウスを見たクインの動揺。
それが原因となり、異空間の状態が著しく不安定になったのだ。
「けれど、さっきは違った。異空間が…一瞬にして消えたんだ」
そこまで言うと、彼は1度言葉を切る。
何かを察した2人の様子は、イアの予定通りと言っていい。
「お前らなら、俺の言いたいことが分かるだろ───十中八九、オーナーの精神に何かが起きてるって」
イアがそう確信し、実行した事を間近で見ていた者は此処にいる。
「…だから君は、彼にあんな事を」
傍から見れば何がしたいのかが全く分からなかったそれに、スティアは漸く合点が行ったようであった。
「ああ。俺が最初に対峙したアレには、きっとまだオーナーの潜在意識が残っていたはずだ。だから軽くカマをかけた……結果はダメだったけどな。具体的にどんな状態だったのかもハッキリしねえ…」
クインの裏切りを受け入れたくないが故の、都合のいい妄想かもしれない。
そんな考えが何度も頭をよぎる。
しかしその可能性が依然として払拭されない以上、それに賭ける他ない。
イアは最後に、最も重要な事実を告げる。
「仮に、俺らに向けられた殺意が紛い物だったとしても…俺とアリウムが食らった魔法は、本物だ」
クインが魔法という強力な攻撃手段を扱えることが、今になって明らかとなった。
魔法を生身で受け切る手段はない。魔法で魔法を受け切ろうにも、それには咄嗟の判断が必要だ。相手の手の内を知らないで、どう咄嗟に防げると言うのだろう。
だとすれば、彼…アリウムの敗北にも納得が行ってしまう。
彼は一体、そんな重傷を負ったまま何処へ消えてしまったのだろうか。
そう考えているうちに周辺を調べていたドリフは何かに気がついたようで、
「スティアくん、さっきの血痕から続いてるこれ…見え難いけど、きっとアリウムくんが身体を引き摺った跡だよ」
彼が言った所を見ると、大きな血の染みから真っ直ぐに建物の外側まで続いている跡があった。
血溜まりができるほどの出血量にしては、その引き摺った跡とやらに付随している血痕の量は少ないように感じる。
やり方は分からないが、きっとその場でできる緊急の止血を彼なりに施したのだろう。
「これを辿れば、あるいは…彼の元に辿り着けるかもしれないね」
そう言ってスティアはイアの事をドリフに託し、跡を追いつつ建物の外に出た。
既に日は暮れ始めており、薄暗い中で乾いた血の跡を辿るのは少々骨が折れる作業だ。
その先に生きているアリウムがいると信じて、スティアは目を凝らし、跡を追い続ける。
だが…運命は彼に味方をしなかった。
何故なら、その先は─────────
「───無い…?」
唯一残されたアリウムの痕跡は、無情にも途切れていたのだ。
アリウムの出血が、急に止まったのか?
(いいや、これは…)
足元を見続けていたスティアは顔を上げ、周りの景色を見渡す。
イアのいた建物とその周辺が大きく倒壊していたのは確かであり、ここ周辺で彼らは激しい戦闘をしたのだろうと予想できる。
だとすればこの場所は、彼らとクインが戦い始めた場所───カガミのあった教会跡の近くであるべきだ。
しかし、スティアが幾ら探そうとそんなものは見当たらない。
「付近にあの教会が無い事に加えて、この不自然な途切れ方。まるで…」
───まるで、切り取られたかのよう。
アリウムだけが急に移動した可能性も、イアだけが何者かに移された可能性も今はゼロだ。
スティアの中で既に結論は出ている。
「"場所ごと"、別の部分に置き替えられた…」
そうしているうちに、何処からか伝わってきた揺れが足元に伝わってきた。
続いて、拳銃を撃つ音が耳を劈く。
誰かが近くにいる事と、異常事態を察したスティアは音の方向へと駆け出した。
彼が着いた時には、既に。
「───はぁ、っ…はあ………」
何体ものウイルスが、その場に倒れていた。
「──────スティアくん!」
ようやく追いついた、と後ろから声が聞こえる。
振り返ると、ドリフが自分と同じように息を切らしながら此方へ向かってきているのが見えた。
その後ろからイアも、歩けているのも不思議なぐらいの重傷を負っているのもお構い無しにフラフラと着いてきている。
「さっきの銃声は、一体……なんだ?」
動揺しているイア、無言で状況を飲み込もうとしているスティアとドリフ。
ウイルスの実体を踏みつけながら、3人は足を進める。
進んだ先で、視界に入ってきたのは。
「ブレッドと…ブラッドくん───」
ブレッドに体を預けながらも辛うじて意識を保っているブラッドと、息も絶え絶えに拳銃を構えたブレッドだった。
きっとこの場に倒れているウイルスは全て、彼ら2人で処理したのだろう。
にしても───酷い傷だ。
声をかけられた2人は険しい顔をしながらこちらを見る。
1拍置いて、先に口を開いたのはブレッドだった。
「…スティア、どうして」
「状況を説明するんだ、ブレッド。君たちは、何故───」
「分からないよ。クインと戦って、気絶させられた。目が覚めたら、周りの景色がおかしくなってた…」
そう言うと力尽きたかのように膝から崩れ落ち、2人は座り込んでしまう。
「ぼくの事は、後でいいから…ブラッドせんせを、助けて」
彼の言うように、ブラッドの容態はブレッドのそれよりも酷く見える。
早急な手当が必要だ。
「…分かった、今できる限りの事はする」
しゃがみ込み、意識が朦朧としているブラッドの負傷具合を確認する。
ドリフもその傍らにいるブレッドの方へと向かい、遅れてきたイアだけがぽつねんとその場に残された。
「……俺にも、できることがあれば────」
言ってくれ、と続くはずだった言葉は、此方を振り向きもしないスティアの声に掻き消される。
「何をバカな事を言っているんだい、君も手当される側だよ。さっさとそこに座り給え」
「えっ、」
「そうだよイアちゃん。俺が抱えてくって言ったのに、変な意地張るから…みんな心配してるよ」
見れば、ブレッドが此方へ憐れむような視線を向けていている。
スティアはと言うと、聞こえなかったのかい、とも言いたげな顔。
「わ…悪い。……こんな時に、態々お前らの手を煩わせたくなかったんだ」
「そんな重傷で誰かを助けようだなんて考える方が、こちらとしては大迷惑なんだけれど。そのまま野垂れ死にしたいなら好きにするといい」
刺々しく言われ、イアは大人しく座り込む。
それを見届けつつも、スティアの中では嫌な予感が渦巻いていた。
(クインとの戦いで重傷を負った者が全員、ウイルスに襲われている。それも、近くで)
地形の切り取り───それは、重傷を負ったもの同士を近いところに置き、ウイルス達に襲わせることで、一気に殺すための戦略だろうか。
引っかかるのは、皆クインと戦った後だということ。
クインは人に限らず、地形ごと彼の異空間に飛ばすことができる。現に、拠点を守る上でその能力はとても役に立った。
今のこの切り取り現象は、彼のそれに近しいものを感じさせる。
だが彼の最終目標は把握済みであり、スティアは彼がウイルス陣営と何か関わっているとは全く思っていない。
(信じたくないが、もしかしたら…)
──────既に「黒幕」は、大々的に動き出しているのかもしれない。
◆
地形の切り取り。
それは、確実に他の者たちにも影響を与えていた。
「ど、どこだぁ…?ここ…」
涙目になりながら、スティア───に扮したスティックは路地をふらふらと歩いていた。
"■■"との戦闘後、へたり込みそうになりながらも教会跡に向かっていたスティックは、まさにその時探していたドリフとスティアに再会したのだ。
そこで服を入れ替え、その瞬間からスティックは"スティア"としてその場から離れ───今に至る。
彼はただ、拠点に帰ろうとしただけなのだが。
幸い、ウイルスがスティアを襲わない性質のおかげで新しい傷は負っていない。
だが、拠点への道が分からなくなってしまった。所謂…ただの迷子である。
しらみ潰しに歩いていけばいずれ着くというのは結果論であり、事実スティックの体力は既に限界を超えている。休めるところは無いのだろうか。
何処かの建物で休ませてもらおうと、スティックは周りを見渡した。
すると、他のものとは一線を画した、豪勢な建物が視界に入る。
他とその建物が違うのは雰囲気だけではない。
そこからは──────ウイルスが湧き出していた。
つまり、内部に潰すべきカガミがあるということだ。
湧き出しているウイルスの間を縫うようにしながら、スティックはその中へ足を進めた。
「し、失礼しま〜す……」
ギィ、と音を立てて玄関を開けると、そこに広がっていたのは外装に負けず劣らず美しいデザインをした内装だった。
何となく貴族や王族の住んでいたような雰囲気を彷彿とさせる見た目に萎縮したスティックは、誰も見ていないのにも関わらず、ぴんと背筋を伸ばした。
「そうだ、カガミ…!」
何処からウイルスは湧き出していただろうか、さっと辺りを一瞥するとその答えはすぐに分かった。
目の前の階段を上った先にあるドアの方から、黒いもの…実体化する前の状態のウイルスが溢れだしている。
スティックは大理石でできた美しい階段を1段飛ばしで駆け上がっていき、そのドアを開けた。
いくつもの本棚に、奥の方にある長机。恐らく書斎だろうが、少々状態が悪い。
まず、目の前の時計には1つ穴が空いている。
長い間放置されたのであろうティーカップと、消された蝋燭。
埃を被った、元の場所に戻されていない本たち。
それらは一層時の流れを感じさせた。
一際目を引いたのは長机に置かれた帽子だ。
全体的にアンティークな雰囲気もある部屋の中でも唯一、何処か近代的なデザインをしたそれは、雲の中にある満月の明かりのように目立っている。
最後に足元を見ると、割れたガラスの破片が何かに潰されて粉々になっていた。
「…これか、」
カガミの場所は分かった。あとは、潰すだけだ。
スティックはさっとレイピアを短剣に変え、カガミの前に立つ。
目に映ったのは、自分の───顔。
「─────────?!」
突然の事に驚き、スティックは思わず短剣を落としてしまう。
慌てて落とした短剣を拾い上げたが、次にカガミを見た時にはもう、それは何も映してはくれなくなった。
あれは、ほんの一瞬の事だったのか、それとも幻覚だったのか。
だが、現実だとしたら有り得ないのである。
『カガミ』と『鏡』の違い───『鏡』のように風景を鏡面に投影することは、ただのポータルである『カガミ』には不可能なのだ。
であれば何故、自分の姿が映ったのか───スティックには理解の余地もない。
「今オレにできるのは、予防線を張ること…」
そう言い、スティックは黒いものがどろりと溢れだしているカガミに短剣を突き刺した。
───瞬時の出来事だった。
ハッと違和感に気が付き、スティックは刺した短剣をカガミから抜く。
だがその頃には、もう遅い。
"潰せたはずのカガミから"、より多くの黒い液体が溢れ出している。
それは先程までこの建物の玄関の方へと流れて行っていたのだが、今はその方向を変え、何故か此方へと向かってきていた。
「っ…!?」
スティックは異常を察知した。
今はウイルスに襲われない筈だが───此奴等はその法則に反していると。
咄嗟の判断で彼は部屋の窓を割って地上へと飛び降り、今出せる全速力で駆け出した。
後ろから、何かが何体も追ってくる気配がする。
「なんなんだよ、マジで…!!!」
場合によっては迎え撃つことが必要になる可能性も考慮しなければならないだろう。
状況が、悪い方へ進んでいる気がしてならない。
◆
彩度の低い辺りの景色は、依然5年前の面影を残したままである。
クインは廃れたこの場所で、最も当時の悍ましさと、冷然たる態度を残した部分へと向かう。
一切迷うことなく、その足は開けた場所へと辿り着いた。
彼を出迎えたのは、鈍く陽を反射する断頭台の刃と。
此方の気配に気づき、ゆっくりと振り返った、水色の瞳。
「クイン─────叔父さん。」
何も知らないアリウスは、いつものようにクインの姿を見るなり、彼をそう呼んだ。
「ごめんね、アリス。呼び出しておいて、僕が遅れてしまったよ」
「やむを得ません。こんな状況なのですから…こうして無事に顔を合わせられただけでも、運がいいです」
そう言って、彼はぎこちなく笑って見せた。
一連の様子に、何も───おかしなところは無い。
アリウスの口調も、表情にも警戒は無い。
クインのアリウスに対する態度も、彼がいつも浮かべている笑顔にも揺らぎは無い。
全く、揺らぎは無かった…はずなのだ。
「アリス。君は、僕が君の叔父だと…そう認識しているんだね」
「はい、それがどうかしま──」
アリウスは1つ瞬きをする。
彼はただ、目の前にいる"叔父"の質問に応えただけだった。
次の瞬間、何処からか血が滴り、石畳に紅い模様を描く。
「…………っえ、」
突然のことに頭が追いつかない。感じた激痛のままに、体がふらつくのが分かる。
変わらず、クインは真意の分からない笑みを浮かべたままだった。
「僕には君が理解できないよ、アリス。僕の名前を何度も、何度も聞いている癖に…未だそんな戯言を吐くんだね」
ただ、その声色は普段とは一線を画し、地を這うような冷たさを帯びている。
その圧と、自分の体に傷をつけた…認識できなかった攻撃。
アリウスには、眼前に立つ彼を驚異として認識するべきなのか分からなかった。
彼の最終目標が─────"自分を殺すこと"だというのも。
「どういう……こと、ですか」
「分からないの?」
途端に彼の表情が変わる。
先程までの笑みからは程遠い、睨みつけるほどの真剣な顔。
「僕は、君の叔父じゃない。クイン…僕は、クインだよ」
念を押すようにそう繰り返すと、そのままの勢いでアリウスを壁際へと追い詰める。
そして彼の逃げ場を無くすように、壁へ手を叩きつけた。
「僕は、君達貧民に家族を殺された貴族…キャンベル家2代目当主、クイン・キャンベル───ただの、君のいとこだ」
その名を聞くと、途端にアリウスは目を見開いた。
クインはそんな彼の仕草に被せて言葉を続ける。
「僕はさ、頭にきてたんだ…」
すう、と大きく息を吸い、彼はゆっくりとそう語り出す。
「そりゃあ、仕方ないと思うよ。君含め、僕達が暮らしていた此処…ルインタウンというのは"そういう"狂った街"だったから。誰もが神を崇拝し、崇め、讃えた。君の家族も例外じゃなかったね。」
ルインタウンの民────生き残りは、たったの3人。
集落1つが丸々廃墟になる程の、悍ましい事件だった。
しかしそこには、旧政府の冷徹さと同時に…ルインタウンの民たちが持つ揺らぎ無い信仰心が存在していたのだと。
軍警の愚行のみが独り歩きしている一般社会で、ルインタウンこそが最も狂っていたのだと。
その事を唱えられるのは、生き残りである彼らしかいない。
蛇の如く、心にどろりと絡みついてくる口調が、アリウスの忘れた史実を騙る。
「ただ、度が過ぎていた…。下級階級ほど、信仰は狂気的になるのかな?僕の家族…姉様、そして両親が死んだのは……君たち家族のせいだよ。」
壁に添えられていたクインの手が、アリウスの頬へと優しく添えられる。
「ッ…それ、は」
再び言葉を発しかけるアリウスを、首元にするりと移されたクインの手が阻む。
徐々に力が込められていくそれに、アリウスは抵抗のしようがない。
声帯を震わせられる程の空気が、呼吸するための空気が、体から抜けきってしまう。
「ああ、分かってるよ。君の両親も一緒に死んでる。業火に焼かれ灰になるところを、僕達は一緒に眺めていたからね。燃やされる前に、あそこの断頭台で首を切られていた事…君は覚えてるのかな」
"祓魔師事件"─────彼の語っているそれは、恐らくそう記録されている。
重病を患っていた少女に、病気は悪魔のせいであると断じて疑わなかった彼女の親戚が、その両親に訴えかけ悪魔祓いの儀式を受けさせた結果…少女が回復の兆しを一切見せず、そのまま衰弱死した事件。軍警と旧政府が唯一ルインタウンに介入した事例でもあり、それによって断罪された人物は少女の両親と親戚の、計4人。
その少女こそが、クインの姉…クレア・キャンベルであり。
この事件こそが、ルインタウンの狂気そのものを表している。
「それで終わっていれば、僕も君にこんなことはしない。僕と、唯一の友達だった君が生きていただけで、不幸中の幸いだったと割り切れる。けど今、僕がこうして君を苦しめている理由が分かる?」
クインの動機は、あの事件でアリウスに抱いた憎しみなどでは無い。
であれば、一体なんだと言うのだろう?
アリウスの首を絞めていた手が緩められ、彼は久々の酸素を矢継ぎ早に吸い込んだ。
「…っは、わ…か、ら……」
「そう。じゃあ仕方ないね」
片手でもう一度、クインは先程より強めに首を抑え込む。
そして彼のもう片方の手はとん、とアリウスの胸元を突いた。
「君の中にいるそいつさ。君は神の一種だと思っている、諸悪の権化だよ」
「ぐ、……ッ…」
「きっと君には僕が何を言いたいのか、分からないだろうね」
アリウスの体を日没後に拝借する代わりに、彼に魔力を分ける。
それが、アリウスの交わした契約だ。
クインが諸悪の権化だと形容するそれを、アリウスは教祖様と呼んでいる。
先ずは、その認識を改めるべきなのだ。
「教えてあげようか。君は "それ" と契約してから日に日に寿命が縮んでいる。加えて、契約する前までの記憶が曖昧なのもそいつのせい…」
アリウスは、その存在と契約した時のことを思い出していた。
あの時────集団で逃げていたところを軍警に包囲され、周りにいた人々が1人ずつ、玩具で遊ぶ子供のような笑い声に包まれながら殺されていき…遂に、自分の番が来た。
ゾッとするような空気の重さと、横で積み上がった遺体から流れ出す生温い血。全身に流れる冷や汗。キラリと目の前で光った銃口に、死を覚悟した、その刹那。
遺体の1つが、むくりと起き上がったのだ。
有り得ない事象に気を取られ、軍警は標準をその遺体に合わせる。
そんなものを気にも留めず、それはアリウスにこう投げかけたのだ。
─────『童よ。生きたいか?』
アリウスはその言葉に頷く。次の瞬間、目を開けた時には既に。
軍警は、1人残らず死んでいたのだ。
「強大な力にはそれに見合った代償が必要だと思っているのなら、もう1つ問おうか。君の中の"神"というのは…信者の記憶を改ざんし、寿命を奪い、身体を酷使し、そのまま朽ちるまで命を蝕む存在の事なのかな?」
今まで聞きもしなかった真実に、アリウスは力無く首を振るだけだった。
そんな返答を受け、クインは何処か落胆したかのような、そんな答えは予想がついていたとも言いたげなような冷たい視線を向けると、ぱっと首を絞めていた手を離す。
「…そうだろうね。そう答えるだろう事は分かってたさ。どうせ覚えていないだろうけど、僕は昔君自身から神の存在について聞かされたよ。当時の君は、両親に劣らない程の信仰心を持っていたんだ」
「そうだね…。姉さん以外の子供と話すのは、君が初めてだった」
思い出に浸っているのか、ぽつりとそう呟く彼の表情が和らいだように見えた。
その表情の裏で別の凶器が出てくるなど、呼吸に必死なアリウスには想像の余地もなかった。
クインはそのまま、ぐさりとアリウスの身体にナイフを突き刺す。
「─────ッ!!」
あまりの痛みにアリウスはまともに悲鳴も出せず、ただただ血だけが流れていく。
「……ぐ、っ……ぅ」
酸素を目一杯吸いたいのに、激痛はそれを許してくれない。
想像もつかないほどの苦しさに、彼は蹲って必死に痛みに耐えようとした。
クインはそんな彼の方を見下ろすと、自嘲するかのように吐き捨てる。
「だからこそ、今でも鮮明に覚えているんだ。あんな事になるなんて…微塵も思わなかったさ」
アリウスの感じる痛みは、クインの激情そのもの。
「僕はじきに君を殺す。君が赦せないからだ。僕の家族を狂気的な信仰の副産物として殺しておいて、その信仰に背くような契約を交わし、挙句には僕のことも忘れるなんてさ──酷いよね?」
底知れぬ怒りを孕んだ声。
唯一の肉親であり、お互いが初めて出来た友人だったあの頃は、もう存在しない。
「僕は君を……君達を信じた。今日の今日まで、信じていたんだ。君達家族は君達の信仰による犠牲を出している。僕はそれを、強い信仰心故の犠牲だと信じていた。
…なのに、どうして。どうしてそこまでしていたのに、神を裏切る行為ができる?何故、僕の事まで裏切れる?君の行動が、僕に対する冒涜じゃないのなら…一体、なんなのかな」
アリウスは反論も、肯定もしなかった。
抵抗する気がないと見て、クインはゆっくりと拳銃の安全装置を外す。
自身に向けられた銃口は、アリウスの脳裏であの時の光景と重なった。
にわかにして、2人の背後から3本の氷の矢が飛んだ。
すんでの所でクインは体を逸らしたため、それは軽く掠めるだけに留まる。
矢は壁に突き刺さって砕け散り、何者かによる奇襲は失敗に終わったかに思われた。
「黙って、聞いてりゃ……くだらねぇ事…ばっか、ほざきやがって…」
空気を揺らした、苦痛の滲むその声の主。
それが誰なのかを認識すると、クインは心底驚いたかのような素振りで視線を流した。
「おやおや、誰かと思えば…だね。随分と満身創痍じゃないか」
先刻の戦闘で、致命傷を負ったアリウム。
あの出血量では、動ける状態では無いはずだが…彼の両足は、しっかりと地に着いている。
見れば、彼の傷口は乱暴に、氷魔法によって止血されていた。
「笑わせてくれんな…誰のせいだと……!」
悪態を吐きながらも、拙い足取りでクインとの距離を詰めていく。
「ア、 リ…ウムさ……!ダメ、です…その怪我じゃ……!」
自身も深手を負っていると言うのに、此方を案ずるアリウスの声が耳に届いた。
アリウムがここに来た目的は定まっている。
今ここで、殺されそうになっている彼を魔の手から救い出すこと。
そして──────
「…少し、話をさせてくれないか。同じ立場として」
クインの動機…あるいは、彼の想い。苦悩。それを引き出すこと。
それが、アリウムがここに居る理由だ。
「へぇ。…いいよ、じゃあ特別に付き合ってあげよう。じきに死ぬ君の──時間稼ぎに」
あくまで、アリウムの意思を尊重した迄。
長話になりそうだと予想したクインは、その間にアリウスが逃げないよう彼に拳銃を向けたまま、アリウムの方へと意識を向ける。
どうやって、何を、何から切り出すかを決めたアリウムは1つ深呼吸をすると、彼なりの言葉で話し始めた。
「さっきまでの話…俺、全部聞いてたんだ。正直言って、俺は…あんたがそいつを恨む理由が、分からないわけじゃねぇ。むしろ、納得しちまった……」
クインが姓を明かした時点では、アリウムはただ驚愕していただけだった。
しかしその後に続いた、彼の身の上話。
主観も含まれているのだろうが、それでも残酷で、理不尽な話だと思わざるを得ない。
神を狂気的に信仰したことによって起きた、最悪な事件だと…言えるのだろう。
「でもな。あんたらの言う神なんて……そんなもんが存在してたら、最初っから誰も死んでねぇよ。アリウスが信じる対象も、裏切る対象も此処にはない…あんたは運が悪かった…結局は関係ねぇんだ、全部」
クインは黙って、彼の話を聞いていた。
だが決して、彼に納得しているという訳では無い。
「神は存在しない、よく聞く主張だね。それがどうかしたのかな」
クインが言っていたのは、結局のところ…アリウスが契約したことへの怒り。
アリウムはどのようにして、それを払拭するのか。
ここからが見所だと、クインは不敵に口角を上げる。
「……俺は…そいつから、契約を交わした時の事を聞かせてもらったことが…ある……。死ぬ間際に、土壇場で交わした契約だって……」
それはアリウムが、アリウスと初めて顔を合わせた時のことだ。
晩秋の、すれ違う人々が皆暖かそうな服装で身を包んでいた頃の話。
お互いの容姿を見てから、容姿だけでなく出自までもが共通しているという事を知った。
唯一アリウムが気がかりだったのは、アリウスがしきりに陽の傾きを気にしているということ。
その答えは、同日に入った"仕事"の依頼中に分かった。
任された仕事をこなしているうちに視界に入ったもの。
闇夜をスキップするように徘徊していた、水色の服。
話しかけて分かった────彼の、"中身"の違い。
最初は多重人格か、夢遊病かと思った。結論はそのどちらでもなかった。
その中身が赤裸々に語ってくれたのだ。彼…アリウスとの、契約についての全てを。
「そんで、今のあんたらの話を聞いて、なんとなく分かったんだ……。アリウス、あんたは……」
アリウスが契約した、死ぬ間際という状況。
もちろん、助かりたかったというのが答えだろう。
だが、助かったとて…その後は?軍警を殺した、その後は。
一体…生き延びて、その後はどうしていくつもりだったのか。
「あんたは──────1人にしたくなかったんだろ、クインの事を」
アリウスにとって、クインはあの状況下で生き残った唯一の肉親。クインにも逆のことが言える。
その当時の時点では、お互いが生きているという確証は無かったのだろうが…それでも自分だけが死んで、相手が1人孤独に生きていくという状況を避けたかったのだ。
少なくとも、アリウムはそう解釈した。そうした方が、何かと都合がいい。
情に訴えかけるのが1番『効く』のだから。
見れば、クインは普段の飄々とした表情に明らかな動揺の色を滲ませている。
「何を言い出すかと思えば…。アリスは僕の事を、まともに記憶してなかったんだよ。つまりはその程度だったんだ、僕に対する感情なんて」
そうアリウムに反論するも、彼は自分の言っていることに自信を持てなくなっている。
「契約する時に書類があったわけじゃねぇだろ?契約した本人も、契約したその存在自身も……その時点じゃどうなるか、なんも分かってなかった…はずだ。」
アリウムにしてみれば、ここまで他人の事情に介入し、そこから他人の感情を解釈し、それで他人の心を揺さぶる事なんて、今までに無かった。
だからこそ、ここまで上手くいっている事に対してふつふつと自信が湧いてくる。
クインとは全く対照的な、しっかりとした口調でアリウムは言葉をつけ加えた。
「逆に考えてみろ、まだ自分でどんな存在かも認識していないような未知の存在と、後先考えずに契約しちまうほど…あんたのことを想ってたって」
クインの目が泳ぐ。
アリウムは逃がさないと言わんばかりの力強い視線で、彼を捉えた。
「なあ、クイン…」
この根拠の無い自信に乗じて叩けば、きっと─────。
アリウムは思いつくがまま、地盤が緩んだクインに畳み掛ける。
「"あれ"を経験したのは…もう、俺たち3人だけなんだぞ。あんたの言ってたその事件となれば、尚更…あんたらがお互いに傷を舐め合う事が、大事だろ……そうじゃねえのかよ」
「俺たちが必死に、生きようと足掻いたから…ここにいるんだ。神がどうとかじゃねぇ…。足掻いて足掻いて、足掻いたっつーのに…そんでお互いに殺しあってどーする」
生き残った身内同士で憎しみをぶつけ、醜く殺し合ってしまえば…それこそが悲劇だ。
ましてやそれが一方の勘違いであろうものなら、どんな言葉がそれを形容できるだろう。
「あんたは…自分と同じ経験をしたアリウスが裏切ると、本気で───思ってるのか」
その問いかけで、アリウムは彼の騙りを締め括った。
「────らしくないね、アリウムくん」
アリウムが話を終えた後、少し間を開けてクインはそう呟いた。
これまでの話で、彼は確実に揺さぶられている。
アリウムにされた質問を脳内で反芻したクインは、卑屈な笑みを浮かべて答えた。
「……思いたくないに、決まってるじゃないか」
その返答に反して、彼はアリウスに標準が定められた拳銃を離そうとはしない。
「だったら、なんで武器を下ろさねぇんだ…!あんたは、何がしたい……?!」
「僕だって、分からないよ。今、自分が何をしてるのか────理解できない。」
震える声でそう言い切った時、ふと見せた彼の表情。
それは、裏切り者としての残忍な顔ではなく…困惑し、何処か不安そうな顔であった。
クインは徐に構えていた拳銃を右手から取り落とす。
投降の意思表示でないことは、それに追随して彼の手に伝った赤黒い血が示していた。
そう、彼が拳銃を落としたのは、それが使えないから…。ブレッドの銃弾は、確実に彼の利き手を潰していたのだ。
しかし拳銃を使えないクインがどんな手に出るのかなど、アリウムが1番身をもって知っている。
クインの左手へ空気が集められるのを感じ、アリウムは必死で訴えかけた。
「ダメだ─────やめろ…!!!」
そんな制止が、今の彼に響くはずも無く。
アリウムの目に、此方へ薄らと微笑みかけるアリウスが映る。
全てを受け入れたかのような、何処か諦めの浮かぶ笑み。
「さようなら、アリス─────君と、日没前に話せて…良かった」
絞り出すような言葉と、アリウスの胸元に描かれた紅い軌跡。
それと共に、黄昏は終わりを迎える。
飛び散った生暖かい鮮血が、日の沈んだ薄闇に溶け込んだ。
指がぴくりと動いたのを最後に、二度と目が開かなくなったアリウスを見届けると、
「…これで、僕の出番は終わり。この貴はかな舞台に、終止符を打とうじゃないか」
クインは静かな口調で、呆然としているアリウムの方を振り返った。
「君に言っているんだよ、アリウムくん。この見世物は、最後に僕が死んで終わる。思うに…僕が拠点から足を踏み出した時から、そう決まっていたはずだ」
──────『だから…その時は、君が火を消してくれ』
アリウムはスティアに言われた言葉を追想する。
彼が言っていた"火"。それはクインのことであると、アリウムは理解していた。
アリウスの死体を背に、クインは此方へと体を向けている。
彼のその佇まいからは、死への抵抗や、殺されることへの恐怖は感じない。
ただただ、これからアリウムが自分をどうするのかを待っているのだ。
────『この見世物は、最後に僕が死んで終わる』
目の前のクインの姿と重なるのは、またしても。
────『魔法を打つんだ、アリウムくん。其れで全て、終わる』
「…どいつも、こいつも……殺せ、殺せって…うるせぇんだよ……!」
「そこまでして、俺を…人殺しにしたいか、あんたらは」
いいや違う、と心の中でその言葉は否定された。
彼らが自分を人殺しにしたいのでは無く────自分は、人殺しにしかなれないと。
総て、クインが言っていた通りなのだと。
この身に宿る膨大な魔力は、人を傷つけることしか出来ない。
だから、殺す他ないのだ。自分にはそれしか出来ないのだから。
そう繰り返し暗示をかけ、アリウムはクインの方へ魔法の標準を合わせようとする。
裏の仕事で、何度もやってきた事。この力を持って生まれてから、直ぐにやった事。
それが…アリウムにとっての、殺しだ。
魔力を込めた掌の向こうに見えた、クインの姿がブレる。アリウムの視界は、狙うべき標準を捉えられない。
いや───アリウムからすれば、クインは狙うべき標準などでは無く。
未だに彼への認識は、1人の仲間なのかもしれない。
何故ならば彼は、魔法の使い手…ルインタウン出身。自分と同じ、被害者なのだから。
「……悪い、スティア…俺は、俺には……」
──────できない。
前に伸ばした手を、アリウムは思い切り地面に叩き付ける。
「ッ、クソ…!!!!」
ただ只管に惨めだった。
仲間を殺した仲間……否、裏切り者を消し去ることすら、できないだなんて。
こんな事もできないなんて、思わなかった。
矢張り、自分はこの魔力に値する覚悟を持ち合わせていないのだと、再認識する。
「……。」
そのまま動かず、失意に陥っているアリウムを一瞥し、クインは彼に自分を殺せる意思が無いことを察する。
「──君には、期待していたのだけれど。」
きっと、アリウムには聞こえていないだろう。
その言葉を呟き、クインはその凄惨な場から去った。
クインは目的を達成したが、何せ裏切り者となってしまったからには行き場はない。
何処に行くべきか考えあぐねている彼の表情からは、達成感を微塵も感じ取れない。
それは、あまりにも上手く事が進みすぎた故のものだろうか。
───『どうして…!そんなに…悲しそうな、顔、を……』
「…悲しそう、ね」
気絶させる直前、ブラッドに言われた言葉を繰り返す。
果たして、自分がやった事はなんだったのか─────。
何処か曖昧な自分の思惑を阻止しようとした彼らに負わせた怪我と比べれば、クイン自身が負っている怪我はせいぜい利き手が使えなくなった程度で…あった。
─────突如、彼のチョーカーがぱさりと切れ、地面に落ちるまでは。
続けて目に入ったのは、落ちたチョーカーの上にぼたぼたと滴り落ちる紅。
「……………は、?」
咄嗟に…いや、反射的に彼は自身の首に手を当てる。
当てた手のひらがじわじわと濡れていく感覚。
遅れてきた激痛は、その感覚と無関係とは言えないだろう。
「ッ……く…」
───首からの大量出血。
このまま生きるには、余りにも幸が薄い。
脂汗が身体を伝う。
息も絶え絶えになりながら、クインは力無く路地裏の壁に体を預けた。
「はあ、はぁ…っふ……。やる…じゃないか、」
死ぬ直前に動いたアリウスの手。あれは、死亡時の反射反応などではない。
あれは───彼と、彼の中に眠る悪魔の、最後の契約であった。
「………闇、魔法…。…時差…攻、撃か……」
闇。即ち、光の見えない───どん底。
いずれ死ぬその時まで絶え間なく感じる、痛みと、苦しみと…絶望。
流石はその名を持つ魔法だけの事はある───いくら首元から流れる血がそれを抑える左手を赤く染めようと、命がすり減っていく感覚はしない。
未だハッキリとしているクインの視界に、こちらへと歩いてくる人影が映った。
◆
「ていうか、ティアくん。君……頬の怪我は治して貰えたんだね」
ブラッドとブレッド、そしてイアの応急処置をしている際の事。
3人の容態はだいぶマシになってきており、ブラッドの意識もはっきりしてきていた。
そんなブラッドから突如発せられた言葉に、スティアは困惑の色を浮かべる。
─────頬に怪我なんてした覚えはない。
いや、正確に言えば"わざわざ治してもらう程の怪我"なんて、負っていない。
クインがナイフを飛ばしてきた際に掠った切り傷はあるが、それは変わらずスティアの頬に跡を残している。"治った"とは言えない。
彼が今の自分の顔を見て『怪我を治してもらった』と言うぐらいなのだから、彼の知っている"怪我"とは、そこそこ目立つものだったのだろう。
目の前の彼が嘘をついていないのも事実。同時に、覚えがないことも事実だ。
「それは……何の事だい?ブラッドくん」
質問して返すと、ブラッドも先程の自分と同様に困惑した様子だった。
「え────"さっき来た時"は、左頬に湿布を貼ってたよね?」
その一言で、スティアの覚えた『違和感』はより鮮明となる。
「…何だって?オレが、君たちの所に来た?」
違和感は覚えど、状況は理解できない。情報が少なすぎる。
スティアにできるのは、ブラッドに聞き返すことだけだった。
ここまでの会話を横で聞いていたブレッドは、スティアとブラッドがお互いに混乱しているのを見て口を開く。
「?そうだよ。ボク達のことは二の次で、クインの居場所を聞きに来たじゃん」
きょとんとした表情でそう言うブレッドの口調には、少々怒りの色も混じっていた。
彼がそんな風に言葉を投げかける理由は分かる────二の次、ということは、その人物は負傷している2人の治療そっちのけで自分の目的を遂行したのだろう。
そして、ブレッドはその人物をスティアだと思い込んでいる。
身に覚えは無いが、今こうやって彼が自分に怒り心頭するのも無理はない。
「ブレッド…今思えば、彼の行動がティアくんのそれな訳がない。きっと、別の誰かだったんだよ。今彼に怒るのは、お門違いだ」
何となく状況を飲み込めたのだろうか、ブレッドの行動をブラッドは優しく咎める。
応急処置は終わったが、ブラッドの体力消耗はとても激しかったようで。
「まさか…騙されてたなんて。ぼく達は、清々しい程に完敗したんだね、ブレッド。……ぼく達の完敗に、乾杯…」
そう満足そうに言い気を失ったブラッドを、ブレッドとスティアは冷めた表情で見つめる。
ドリフは唖然としつつも、気絶する直前にギャグを言ってのける彼の心意気に感心したようで、
「元気そうだね」
「だね。いつもの調子だ」
半分呆れを含んだ相槌を打ち、はぁ、とスティアは溜め息を吐く。
目を瞑ったブラッドから彼のゆっくりとした呼吸音しか聞こえなくなると、ブレッドはこれからどう行動するべきか悩む様子を見せた。
彼の拳銃の弾はもう切れている。
「ブレッド。無理はするなと言っておくけど、君は見たところ彼よりは動けそうだ」
そう言われたブレッドは、まだ少々疑いの残った眼差しでスティアの方を見る。
「そうだね。ボクはもう何時でも歩けるよ。せんせが起きてから、その時どうするか考えることにする。」
「だったら俺達も一緒にいるよ」
そうドリフが言うと、ブレッドは少し安心したかのような表情を見せたかと思えば、
「…それで、ずっと気になってたんだけど」
怪訝そうにスティアの着ている、スティックの服を指さした。
「その格好…キミ、遂に変なセイヘキにでも目覚めた?」
突拍子もない発言に、スティアは彼に続いて訝しそうな顔をする。
「…腑抜けたことを言わないでくれ給え。そういう作戦だったんだ」
「そ!じゃあいいよ、キミが変な方向に進んでなくて安心した」
ブレッドに何を言われようと、スティアは"そういう奴"だと思われたのが非常に心外だった様子を見せつつ踵を返した。
そうして休んでいるブレッド達から少し距離を置き、ドリフとスティアは顔を見合わせる。
先に話を切り出したのはドリフだった。
「ねえ、さっき2人がが言っていたこと…」
そう、あの不審な人物についてだ。
スティアも彼の言いたいことは分かっているようで、2人はその頭脳を駆使して分析を始めた。
「今ある情報は、オレに酷似した容姿と、左頬の怪我。それと、クインを探していたということ…」
そして、地形を切り取り、弱っている者にウイルスをけしかけた張本人である可能性が高い。
スティアは顎に手を当てて考え込む。
─────自身に酷似した容姿と、クイン。
この2つの点で真っ先に思い浮かぶのはすているだが…まさかブレッドとブラッドの両方が、彼を自分だと思い込むようなことがあるとは思えない。
そして、今自分に最も容姿が近いのはもちろん自分に扮しているスティックだ。
もし彼だとすれば2人が見間違えるのも頷けるが、ブレッドの言っていたその人物の道徳心の無さがスティックに当てはまる訳が無い。
(やはり、考えるべきは左頬の怪我…)
だが、今までの戦闘で怪我を負っていない方が珍しいだろう。
何か……何かが足りない。
スティアの思考が滞っているのを察したのか、ドリフは彼にこう言った。
「スティアくん───その人物が"頬に怪我をしていなかった"可能性を考えるんだ。傷もないのに頬に何か貼っていたと言うことは、隠したいものがあったと考えるのが自然…」
まるで答えを出してくれと言うように、彼は言葉を続ける。
「君に変装していたのなら、きっと頬にある何かが変装をする上で致命的な欠陥だったんだ。つまり…変装がバレるぐらい、その部位が特徴的すぎるということ」
流石と言うべきか、的確な助言だった。
「君の頭脳には毎回感嘆させられるよ」
そう言いつつも、スティアはその人物についての、もう1つの可能性に気がついていた。
(オレと見間違えるほどそっくりな容姿という点だけど、何も元の容姿がオレに近い人物に絞る必要は無い。知能の高いウイルスが、姿を変えているだけという可能性も……)
そこまで考えたところで、唐突に脳内に電流が走った。
「─────姿を…変える?」
特徴のある左頬。自在に変化する姿。
スティアの脳裏に、ある人物の顔が浮かぶ。
…が、仮にその人物だとして、その一連の行動の目的が分からないのだ。
しかしその人物以外、あの特徴に当てはまる者もいない。
新たに不明な点が現れつつも、スティアはその結論に確信を持つことにした。
その様子を見たドリフはふっと笑うと、
「何か、分かったみたいだね」
「オレが知る限り、その人物に当てはまる者は1人だけだ」
◆
「やっ、ぱり……君か」
自分の眼前で立ち止まった人影にクインはふっと笑う。
その影は徐に、頬に付いていたガーゼと湿布を取った。
下にあるのは、見覚えのあるハート模様。
「──────千陽子さん」
スティアと瓜二つの姿をした男…否、千陽子は、ポケットに入っていたマッチ箱の中身を全て取り出し、一気に摩擦で火をつける。
薄暗かった路地裏が橙に照らされ、彼女の左頬の模様がより鮮明に映った。
千陽子が火のついた大量のマッチを口に入れ、ごくりと飲み込むと、途端に彼女の姿は原型を留めなくなる。
炎の熱が彼女の身体を溶かし、気がついた頃には───。
「全く…。華奢な男の姿は基本パーツが少なくて化けるのに適してるが、この姿に戻る時の材料不足には悩まされるねぇ」
顔の横に長く伸びた髪にオッドアイという見慣れた姿に、クインは目を向けた。
「……君のその姿、そういう…メカニズムだったのか、」
「今のはやむを得ない状況だったからさ。派手にやっちまったから、もう自分じゃ姿は変えられない」
血塗れのクインを見て、千陽子は顔色ひとつ変えない。
「というより、アンタはまだ話せるのかい?」
「…あぁ。そうだね……どうやら、まだ…死なせてくれないみたいだ」
「死なせてくれない、か。そりゃ死にたくなるのも当然だ」
「────その手で、アリウスを殺したんだろう?」
クインはその言葉にハッとする。
「待て、……君は……この一連の事件の間、何処で、何を…していた?」
ウイルスは既に街の大部分へと繰り出しているはずだ。
見る限り、眼前の彼女は全くの無傷。
───有り得ない。
「さあね。でもまあ…アンタらには申し訳ないと思ってるよ」
「……」
何か言葉を発そうとするクインを静止し、千陽子は話を続ける。
「長話はよさないかい、クイン。アタシはアンタに謝りに来ただけで、アンタの最期の記憶になろうとは思ってない」
「…謝罪………?はッ……僕に、何も真実を知らぬまま、ここで独り…死ねと?」
「そうだ。」
彼女の残酷な肯定の言葉に対して、クインの反論は無かった。
返事をする以前に、クインは咳き込み、血を吐き出し、痛みに苦悶の表情を浮かべている。
「それにアンタも気付いていないわけじゃないだろう?武器を握る、その手の震えに」
腕組みをして壁に寄りかかりながら、顎でクインの右手を示した。
「アンタ、自分の行動に違和感があることを自覚しているだろ」
「逆に、何故僕が自覚できないと思うのか…聞きたいぐらいだ」
挑発するようなクインの口調と、彼の置かれている状況は全く釣り合わない。
「アンタの一連の行動…ドリフを異空間に閉じ込めた事。アリウムに疑惑を抱かせ、自分と戦わせた事……全てが、自分が誰かを傷つけないための布石だったんだろう?」
図星だった。もはや目の前の彼女が、今までに何が起こってきたのかを把握している事に疑問を抱く余裕もない。
クインは苦しそうに呼吸をしながらも、腹を割って話し始めた。
「察しが、いいね…。そう、そうさ……君の、言う通りだ。ドリフを閉じ込めたのは、まだ正気を保っているうちに、安全な場所に彼を留まらせたかったから。彼は…、戦えない。けれど、僕は……彼が、確実に脱出できると…そして、真相を暴いてくれると……信じていた。」
───頭脳じゃ、君でも俺には敵わない。
彼がクインにした、宣戦布告。それが芽生えさせたのはクインの闘争心では無く…彼への強い信頼だった。
「アリウムくんと戦ったのは、彼が僕を───誰も殺さないうちに…殺してくれると、踏んだからだ」
───『魔法を打つんだ、アリウムくん。其れで全て、終わる』
スティアがアリウムに言っていたことだ。
クインは自分の思考に違和感を感じ始めてから、彼のその言葉を何度も反芻していた。
傍から見ればスティアもクインも、自分の生死を他人に託すだなんて馬鹿らしいと。そう思われても仕方がないのだろう。…生憎、その解釈は間違っている。
クインが託したのは"自分"の生死ではなく───"自分の意思で動かない魂"の生死だ。
「見事な判断だったが…アンタは自分の力量を見誤った。アンタが正気を失い、一度アタシの思い通りになれば、たとえどれだけ相手が格上でも、ソイツはアンタに勝てない」
淡々とそう語る千陽子を睨みつけながら、クインは口元の血液を乱暴に拭く。
「………僕に何をした?」
「誰かを恨む事と、誰かに好意を抱くことは紙一重だと…そう言ったのはアンタ自身じゃないか。だから、アンタの想いを上書きさせてもらった。彼──アリウスへの親愛を、恨みに。」
言い終わった刹那、クインの口角が上がり、
「ふ、ふふっ……」
続いて耳に入ってきた笑い声で、千陽子の表情が初めて変わる。
「…今の内容に、アンタにとって何か面白い部分があったのかい?」
「ああ。滑稽だよ……」
「…僕を完全に駒として扱えたと思い込んで、わざわざ謝罪しに来た……君がね」
そう言って拳銃を掴み、今の彼にとって1番楽な姿勢で構える。
「立ち去るなら今のうちだよ、千陽子さん。見ての通り、僕は…正気を取り戻してる。僕が君をどうできるかなんて、分かってるだろう」
震えの無い、しっかりとした手で銃口を向けられた千陽子はやれやれという風に肩を竦めてみせる。
「それは無意味な脅しかい?生憎アタシは、アンタが利き手をやってる事なんて知っているよ」
丸腰なのにも関わらず、クインに拳銃を向けられても一切動じない彼女の余裕。
その様子から、クインは諦めたかのように拳銃を下ろすと、ふっと笑った。
「あっ、そう…。さっきから君は、なんでも知っているような口ぶり、だけど……」
諦めたような切ない笑顔から打って変わって、彼は不敵な笑みを浮かべる。
余裕そうに見えて、何処か虚勢を張っているかのような雰囲気だった。
「僕がアリウムくんと戦って、処刑場跡までもつれ込ませたこと……。それが本当に…彼に自分を確実に殺させるためだけの行動だと、本気で思う?」
「…何?─────ああ、そうか」
聞き返すより先に何かを理解した千陽子は、その言葉を皮切りにゆっくりとクインに向かって足を進める。
彼女はそのままクインのすぐ目の前に立つと、
「"貴方"ってば…頭は冴えてるくせして、無駄なことはするのね」
一閃。
先刻と比べてどうにも様子がおかしい千陽子を視界に入れようとしたクインだが、彼の視界は瞬時に右半分が赤に染まる。
「ッ、!!……ぁ………ぐ…!」
右目を刺された激痛を叫び声で誤魔化したいのに、首を切られているせいか、それすらも彼には許されない。
「痛い?そりゃあ痛いわよね。でも仕方ないのよ。この、役立たず」
彼女は変わらず痛みに悶えているクインに毒を吐く。
先程クインが千陽子にした、煽るような問いかけ。
それが意味する事は、即ち───
「─────貴方、結局誰も殺してないじゃない」
千陽子の中にいる誰かがそう言った次の瞬間、突風と共にその身体は幾つもの断片と化した。
「…それ、以上は……っ、言わせないよ」
利き手が使えないのなら、使わなければいい。
「君も見ていたはずだ、僕がどうやって…人を傷つけるのかを」
そう…クインの風魔法が、千陽子の身体をバラバラにしたのだ。
先程まで彼女が立っていた所には、一面に焦げ茶色の絨毯が散っている。
「僕が、誰も…殺していない……?はは、そりゃあ……そうだろうね。だって、誰も殺したくなんて無かった……」
クインはそっと、地面に付着した焦げ茶色の液体を指でなぞる。
「千陽子──────君の事も、ね」
想いを上書きされ、あたかも殺しが『自分の意思』という風に操られても。
心のどこかでは、それを咎め、抵抗しようとする自分がいた。
それでも…ダメだった。自分の意思は、いとも容易く操られるほどに弱かった。
大事な存在を永遠に眠りにつかせたのは、他ならぬ自分で。
自分が手を汚すように仕向けたのは、他ならぬ"友人"だったはずの人物で。
もう、限界だった。
右目を刺された痛みはだんだん鈍くなってきている。
石畳に、何処か無機質な暖かさを覚えた。
「ああ、僕も……こんな事で、死にたくなかったよ……姉さん」
その言葉を最後に、クインの目は完全に閉じられた。
◆
処刑場跡は嵐が過ぎたかのように静まりかえっていた。
死体はもう動けるはずもない。
辛うじて止血されていた、アリウムの身体に刻み込まれた斬撃の跡からは血が止めどなく流れ始め、もはや止血の意味を成していない。
アリウスを助けることも、スティアに託された事を完遂するのもままならず。
結局自分は、何も出来なかった。
彼がその身体から流れ出す血と共に希望をも捨てた、その時。
「──────おい、そこの童」
何処からか、聞き覚えのある声が聞こえた。
アリウムは項垂れていた顔を少し上げると、
「……あんた、まだ────"いる"のか、そこに」
「でなければ、この私が貴様のような死に損ないに声をかけれる筈が無いだろう」
こんな時まで相手を見下す姿勢を崩さないその存在…あくまさんに、アリウムは一抹の希望を抱いてしまう。
「アリウスは…死んでるのか」
「見てわからぬか。」
全くその通りだ。
アリウスが食らったのは恐らく自分が食らったのと同じ魔法。
その魔法による斬撃がどれ程のものなのか、アリウムは分かっている。
もろにその攻撃を心臓部分に食らっているのだから、彼…アリウスが、生きているはずがないのだ。
もし瀕死であったとして、アリウムにその傷を治す治癒の能力はない。
しかし、確実に死んでいるとしたらどうだろうか。アリウムが抱いた希望はそこにある。
死亡。その場合は、治癒ではなく───
「あんたは────蘇生魔法のやり方を、知ってるか」
その質問に一瞬、声が途切れる。
「もし私が知らないと言ったら…貴様の絶望する姿をもう少し堪能できるか?」
「頼むから、黙ってくれ。もしもの話は、してない…。知っているのか否かだけ教えろ」
再び声は沈黙する。
アリウムはその間にもう一度止血をしようとしたが、身体から流れ出ている血の量を見てそれさえも諦める。
「早く応えてくれ、神もどき…!俺は、死ぬまでに残された時間で、何ができる…」
「蘇生の方法は…知らなくはない。だが、この状況では詰みだ。何も出来ない」
そう言い切ってしまったあくまさんに、アリウムは反論する。
「何でだ?確かに俺は…治癒の才がない。でも治癒と蘇生は、似て…非なるものだ」
「才がどうこうの話ではないのだ、童よ。単に人数、あるいは魔力不足と言っていい」
魔力。魔力なら、嫌という程この場にあるではないか。
あくまさんは、これでも神の眷属だと自称している。そして自分は生まれつき魔力が多い体質だ。
「…俺達、2人の魔力じゃ……ダメか」
「ははあ、そこまでして此奴を助けたいか。貴様がそこまで情に厚いとは、意外なものだな」
事ある毎に論点をずらして自分を揶揄うあくまさんに、そろそろアリウムも諦め始めていた。
その感情を見て取ったのか、あくまさんは仕方無く"言い訳"という名の言葉を紡ぐ。
「まずそもそもの話だが、此奴の身体を借りていた時も、此奴の身体が壊れてしまうからと私は自分の魔力の4割程度しか発揮できていなかったのだ。貴様らが慣れ親しんでいるあの姿も、そこら辺にいた見知らぬ童に私の魂が宿っただけのもの。あの体でも、所詮2割程度しか使えない」
つまり、その膨大な魔力を使うには、その魔力に耐えられる屈強な器が無いといけないのだろう。
しかし足りない物はそれだけでは無かった。
「加えて彼奴は此奴の未来と同時に、私の意思が宿っていた魔晶石をも砕いたのだ」
あくまさんの言う彼奴とは、クインのことだろう。
魔晶石は、契約をする上で必要不可欠。
契約者のアリウスが死んだ今、その石に宿る契約は白紙となった。
別の者と再び契約を結ぶことは不可能では無い。
ただし───魔晶石が残っていれば、の話だ。
「それが砕かれた以上、実質私もここで消える運命だ」
実を言えば、欠片から魔晶石を復元するのも不可能ではないのだ。
しかし、それは魔晶石を生物由来の無機物へ埋込む必要がある。
恐らく、今できることでは無いだろう。
「……そう、か」
完全に希望は失われた。
きっと、神の存在を認識するのをやめ、同じ屋根の下にいた仲間たちの死から目を背けたあの日から決まっていた運命なのだろう。
自分は、失意のうちに世を去らねばならない。
嘗て暮らしていた、過去に見捨てた、この滅びた地で。
アリウムは深呼吸をした。
「─────やっぱり、神様は…いねえよ」
彼のその言葉に、あくまさんは応えなかった。
力が抜けたように、アリウムは仰向けに横たわる。
夜空が綺麗だと思った。
無数の星は死んだ者の魂で、いずれこの身に宿るそれも天に昇るのだろうと考える。
月の光は丁度、雲に隠されていて見えない。
いや、確実に雲ではないだろう。…軽く、幻覚を見ていたのだ。
明かりを隠しているのは、こちらを覗き込む────
「あ、やっと焦点が合った」
アリウムがその頭で認識したのは、バツ印とピンク色のハートマーク。
その時点で、目の前の人物が誰なのか、疑う余地もない。
「ね、今困ってるでしょ。助けてあげる」
なんとまあ、簡単な事のように言い切るものだ。
一体、こんなニンゲンもどきに何が出来るというのだろうと、アリウムは返す言葉もない。
「そこにいるのか、我が下僕よ。主人の最期を見届けに来たのか?」
その声を聞いて、すているの表情はぱっと明るくなる。
「あっくん!おれが来たから、もう安心していいよ」
…彼は、あくまさんの言った"最期"という言葉が聞こえてなかったのだろうか。
なんとも自信ありげなすているの様子に、消えかけの魂であっても呆れざるを得ない。
「…ならば言ってみるがいい、貴様に今何が出来る?」
「ふふん、そう言うと思った。だからね…ここで証明してあげるよ」
彼はそう言って踵を返し、すぐ戻ってきたかと思うと、ずるずると何かを引っ張ってくる。
黒く溶けかかった何かで出来た、実体のある……何か。
まさかとは思うが────
「じゃん!連れてきちゃった!」
戦利品を見せるかのようにすているが指差しているのは、紛うことなき…ウイルスそのものだ。
「……あ?」
アリウムは今の自分の視界に映らないその脅威に、薄れていた意識が覚醒するのを感じた。
「だいじょぶだいじょぶ。おれの血を多分…1Lは注いだから、普通はまともに動けないよ」
そうは言っているが、ウイルスは身を捩らせ、こちらに攻撃を仕掛けようとしている。
「あ〜も〜、この子なんか元気なんだよね。まあ別にいいんだけどさぁ」
呑気にそんな事をいいながら、すているは抵抗する様子を見せるウイルスの至近距離までその体を寄せると、
「ほらほら、早く殺って」
あろう事かそれを挑発するようにして、自分を殺すよう言葉をかけたのだ。
誰がどう見ても、愚かで、目的も見えない、命知らずな行為だ。
「おい、…!!止ま……」
異常事態を察し、アリウムはほぼ感覚のない体に鞭打って、すているをウイルスから引き剥がそうとその手を伸ばす。
だが、死にかけの体では間に合うはずもなかった。
「ッ、あ………」
目の前で、無惨にもすているの体は胴体から真っ二つになる。
その光景の酷さに、アリウムはそんな掠れた声しか出せなかった。
飛んでいった彼の胴体が地面に落ちる音を聞いて、呆然としていたのが我に返る。
「…は………?」
2つになってしまった彼は一体、何がしたかったのか。
今になっては手遅れだと思われたその疑問に応えるかのように、アリウムの鼓膜が震える。
「痛った─────思ったより派手にやられちゃった、いけるかなあこれ」
聞こえるはずのない声にハッとする。
見れば、すているの…上の方が、ほふく前進で落ちている彼の下半身の方へと向かっている。
「よい、しょっと……」
アリウムがその状況に唖然としているうちに、すているは下半身と上半身を繋げ終わっていた。
「どう?今の、見たでしょ」
─────膨大な魔力に耐えられる、屈強な器。
今の様子から見るに、すているは…不死身。
その事に気がついたのは勿論、アリウムだけではないだろう。
「ふっ…はははははは!そうだったな、貴様は殺されても死なん…私と出会った時もそんなことがあった。実に面白い…!」
路頭に迷っていたすているがアリウス邸を訪問した時の話だ。
あくまさんはドアの前に立つ訪問者を問答無用で切り裂き…それでも尚生きているすているを気に入り、彼が同居することを認めるようアリウスに強制したのだ。
当時の自分の判断は間違っていなかったと、今は断言出来るだろう。
すているを斬ったウイルスはまだ生きている。
動きが鈍くなっているのは確かだが、未だ脅威としてそこに存在していることに変わりはない。
それに────他のウイルスがここに引き寄せられているのも、事実だ。
早急に戦闘態勢へ移る必要がある。
アリウムは、体内に分散していた魔力を一点に集めようとした。
「その必要は無い、童よ。貴様が今、魔力を消費するのは無駄でしかない」
今尚体を張ろうとするアリウムに、あくまさんはそう言い切った。
「我が下僕……いや、すている。私という神は、貴様を認めた。よって…」
「ちょっと、今までおれの事認めてなかったの?!」
「ええいやかましい!まだ私が話しているだろう!この私が!!」
一瞬掻き乱された声色は再び落ち着きを取り戻す。
こうなればもう、後には退けないのだと。
あくまさんは既に、心を決めていた。
粉々になった魔晶石の欠片の1つが光を放ち、すているの方へその輝きを広げる。
「こほん。…今此処に─────盈月の下、無慈悲な偶像に誓って…貴公と契を交わそう。」
「私の血と力の全てを得る代償だ……貴様は何を差し出す?」
「これから生きてく時間を全部───おれと一緒に過ごす権利。」
土壇場での、契約成立。
「ふん…くだらない」
発せられた素っ気ない返事と共に、すているは輝く欠片を掴むと、自分の胸元へとそれを埋め込む。
一連の様子を、アリウムは何か神聖なものを見るかのような表情で見つめていた。
「いい?アリウムくん。おれの心臓は……所詮ただの、躍動しない石ころ同然なんだ」
そう言ってこちらを振り返ったすているの左目には、まるで血の通っている心臓のような真紅の赤いハートが浮かんでいる。
既に、敵の軍勢は目の前に立ち塞がっていた。
臆すること無く堂々とした佇まいで、すているは左手の掌を奴等の方へと向ける。
「全部出しちゃっていいよ、あっくん」
「貴様のしぶとさを信じた上で─────6割だ!」
その刹那、アリウムには暗闇に溶け込んだその一閃を認識することが出来なかった。
黒い軍勢は彼等よりもずっとずっと暗い"暗黒"に穿かれ───その動きを止めていたのだ。
「何を呆然としている、童。貴様の出番はここからだ、死んではならん!」
すているの腰から生えている2本の腕が、高揚したあくまさんの発する言葉に連動するかのようにわちゃわちゃと動いている。
アリウムはそれを、ぼんやりとしている頭で単純に気色悪いと感じた。
「あぁ……そう、だな」
彼はずる、とその身体を引き摺り、アリウスの死体の方へ寄る。
「素材が揃えばあとは至って単純だ。此奴が目覚めるまで、ありったけの魔力を注げばいい…」
「蘇生魔法、名は──────"リーヴ・レナセール"」
◆
随分と長い間、夢を見ていた。
自分とは似ても似つかない両親の事。
親戚の集まりで、初めて自分以外の子供とぬいぐるみで遊んだ事。
遊んだ子供の姉の方が、重い病気だった事。
自分の親が、彼女を過酷な儀式の末、殺した事。
裁判での争点が、悪魔の存在の有無だった事。
彼女の家族と、自分の家族が両方有罪になった事。
後ろ手に縛られながら、家族が焼かれるのを、もう1人の生き残りと2人で眺めた事。
彼が黙って炎を見つめている横で、自分は泣き叫んでいた事。
彼の名が─────クインだった事。
ああ、自分は…こんなにも多くの事を忘れていたのかと。
これらの現実から意識を遠ざけ、今まで生きていた時間。
それは全て、夢だった。都合のいい幻想だった。
唯一信じていた神の存在までもが、まやかしだった。
今現実を見ないで、これからどう生きていくのだろうか。
『───スくん』
水面を揺蕩う木の葉、それを彷彿とさせる感覚。
数多の思い出と後悔が泡のように現れては消えていく中で、ふと、名を呼ばれた気がした。
『───アリウスくん』
鈴の音のようなその声は、何処か懐かしい。
直接、その主を目視はできなかった。
そっと、頬がそよ風に撫でられるような感触を覚える。
『弟を───クインを、よろしくね』
段々と意識が覚醒していく寸前、彼女のその言葉だけが哀しげに響いた。
アリウスはゆっくりと、その目を開ける。
ぼやけている視界に映るのは、倒れて動かなくなっているアリウムの姿と、こちらを見下ろすすている。
「あ……アリウムさん!!」
大慌てで立ち上がり、すているの事はそっちのけでアリウムの容態を観察する。
身体からの酷い出血と、鼻血。
彼の着ている紫色の服は、大部分が赤く染まっていた。
「…そんな……どうして…!」
「いや、寝てるだけだよ。」
すているのその言葉にアリウスがもう一度アリウムの方をよく見ると、微かに胸元が動いているのが分かった。
「キミの蘇生に、魔力?を全部使っちゃったんだ。それに、身体もそう安心出来る状態じゃない」
それもそのはず、寝ているとはいえ確認できたのは胸元の微かな動きだけ。
いつそれが止まっても、おかしくないのだ。
「アリウム、さん……」
漸くアリウスは、自身の服も大きく赤で染まっている事に気が付く。
目の前に倒れている彼は…自分をこんな状態から救ってくれたのだ。
「僕が、すぐ…治します!他に怪我をしている人も、全員……僕が、生かします」
頼もしい彼の言葉に、すているは嬉しそうな笑みを浮かべた。
アリウスはアリウムの傷に手を当て、治癒魔法を唱える。
「─────セレシア・ヴィヴァーチェ」
辺りはふわりと、暖かい木漏れ日のような光に包まれた。
すているは治癒に集中しているアリウスの邪魔になるかもしれない事を承知で、彼に声をかける。
「アリウス、キミって…本当に優しいコだよね」
案の定、彼からの返事はない。
「だからさ…もう少しだけ、力になってよ」
そうやって、すているは静かに言葉を続けた。
「…僕にできる事なら、なんでも」
呟かれたその返答に、すているは何処か申し訳なさそうに微笑む。
「その人は…キミが、今1番助けたくない人かもしれない。おれにだって分かる…」
「でもこれは───勿論、キミにしかできない事なんだ」
アリウスは治癒を終え、何処か穏やかな顔で気を失っているアリウムを見つめていた。
「どうか、頼まれてくれるかな?」
彼にしては珍しく、いや…いつもの彼らしい、何処かの誰かのための、彼本位の頼み事である。
アリウスが断る様な事があっても、それは想定内だった。
ふぅ…と1つ息を吐く音が聞こえ、すているは気を紛らわすように頬を掻く。
アリウスの返答もまた、今までの彼からは考えられないような…彼らしいものであった。
「神に……いえ、」
「貴方の───信頼に誓って」
◆
石畳を蹴る音の二重奏がふと、中断される。
「───」
アリウスが一連の治癒を終え、熟睡しているアリウムを脇に抱えたすているが先導した───その先にあった光景。
夜闇が、そこにより一層深い影を落としているかのような錯覚を起こす。
希望の欠片も見えない様子に、アリウスは戦慄した。
「あちゃ〜、薄々勘づいてはいたけど……まさか、ね」
すているは他人事のような口調で呟く。
アリウスの元へと向かった際に道中で見た血溜まりと、落ちていたチョーカーで、彼の深手には察しがついていた。
「クイン、さん……?…クインさん……!」
うわ言のようにその名前を呼んだかと思えば、アリウスはふらふらと引き寄せられるように駆け出していた。
それを追わず、すているは徐に服のポケットへ手を突っ込む。
取り出されたのは、赤黒く染まったクインのチョーカー。
ほのかに漂う鉄の香り。
普段の彼であれば恍惚とした表情をしていただろうが、今だけは一切の興味を示さなかった。
「これ、あっくんがやったの?」
そう背中に問いかけると、一瞬の間の後、
「首は私だ。目は知らぬ…もしかしなくても、アレの持ち主だろうが」
先のアリウスの動揺を目にした事で何か思う事が出来たのか、何処か気まずそうに声が帰ってくる。
何もおれが咎める事ではない、とすているは顔を顰めた。
「うげ、よりにもよって致命傷の方かあ。こりゃ修羅場になるよお」
呑気にそう言うと、あくまさんの言っていた"アレ"の方へと足を進める。
ひっそりと影で存在感を放っていた───マッチ箱を、彼は構わず拾い上げ、まじまじと眺めると、
「すごいね。新品の箱なのに中身空っぽだ」
面白みがないと速攻で判断し、適当な感想を言うとぽいっと後ろへ放る。
辺りの散策ついでに、あの2人の舞台を邪魔する野次馬でも狩りに行こうかと思い立ったすているの耳へ、アリウスの哀哭が響いた。
「こんなの、嫌だよ…お願い、目を…開いて…!開いてってば…!」
その様子を見て、あくまさんの脳裏にある事が浮かんだ。
───先の童と状況が逆だ、と。
治癒の才がないアリウムは、彼の膨大な魔力を使用することで蘇生を試みる他ない。よって、対象の死亡こそが希望へと繋がる。
対して、生まれつき治癒の才に恵まれた代わりに、魔力は微々たる量しか持ち合わせていないアリウス。
彼にとって、対象の死亡は即ち───何も出来ない事を表す。
「僕はまだ、貴方に───何も、言えてないのに……!!!」
再び空に消えるかと思われたその叫びは暫しの余韻を残した後に、掠れた声によって拾われる。
「…聞こえ…て、るよ。…アリ、ス……」
聴覚が拾ったその音に、アリウスはハッと顔を上げた。
「!クイン、さ…」
意識がある。生きている。息をしている。話せている。
首を、切られているにも関わらず…だ。
アリウスに、その理屈は分からない。
けれど、疑問を抱くよりも、奇跡に歓喜するよりも先にやる事がある。
「セレシア……ヴィヴァーチェ」
治癒魔法の詠唱、傷口に手を当て、魔力を一点に集中させる。
未だ状況を飲み込めていないクインは、そんな必死なアリウスの姿を見るや否や、ぽつりと呟く。
「何故……僕を」
単純な疑問のようにも、そんな事しなくていいと咎めるようにも取れる言葉に、アリウスの集中が一瞬、乱される。
「ッ、この期に及んで…まだそんなことを」
この人は何も分かっていないと、アリウスはその事にどうしようも無く怒りを覚えた。
自分がこうして涙を流している理由も、知らないのだろう。
すているに頼まれなかったとしても、アリウスの意思はずっと前から固まっている。
彼と出会い、過ごしてきたあの頃から…今まで、ずっと。
「僕の勝手です。貴方に、生きていて欲しいから。悪いですか?!」
何度拭えども零れ落ちる涙が示す激情のままに荒げられた声。
何処か凛々しい響きを纏ったそれをぶつけられたクインは、思わず唖然とする。
同時に、ああ、そうかと納得した、彼の記憶。
誰かの手が加えられた事象だったとはいえ、一度殺された相手に対する信頼を欠さず、自らの全力を尽くして救おうとする程、
アリウスは…どうしようもなく、優しい子なのだ。
その優しさが存分に込められた魔法にあてられ、傷口から気持ち悪い異物感と生ぬるさが消え、指先から徐々に体全体へと体温が行き渡っていく。
暗転していた視界の半分がぼやけ、ゆっくりと光を取り戻す。
「……あ、やっとお目覚め?」
端に映ったのは、寸刻前ぶりの色彩とするには少々刺激の強いピンク色と、辺りの薄暗さに溶け込む漆黒の斬撃。
「安心して〜。おれ、サイキョーになったから」
気の抜けた彼の声へと呼応するかのように、もう1つの声が空気を震わせた。
「貴様、あまり調子に乗るなよ」
その人物は、影───ウイルスが数体、残滓となって消えていくのを見届ける。
聞こえた声色は2人分。しかしアリウスを除けば、クインに見えたのはすているただ1人のみ。
「…その感じ、……再契約には、成功したようだね。」
ただその状況は、クインの安堵の種となる。
彼の悪足掻きが、奇跡へと変わった瞬間だった。
そんな真意を欠片も覗かせず、あくまで全て計算し尽くしていた、と言うかのような彼の口ぶり。
すているはにへらと笑い、契約したその存在をからかうようにして答える。
「うん。普段からあっくんの血飲んでたから、適応?が早かったのかも」
「そんな仕組みなど無い。知らん。私が合わせてやっているのだ、貴様に!」
思った通り、挑発にまんまと煽られたあくまさんは、すているの発言が響かせる余韻すらも弾き飛ばす勢いで皆の鼓膜を揺らす。
「はぁいはい。じゃ、ごゆっくり〜」
さも当たり前かのように進められた会話。
着いていけなかったのは、アリウスただ1人であった。
「再…契約」
いつの間にそんな事が。
いや、よく考えれば夜間であるこの時間帯に自分が治癒魔法を扱えているのはおかしい。
「───これで、君の寿命が削られる事も無くなる。」
頭の上に疑問符が浮かんでいるアリウスを見て、クインはそう弁解する。
あの時クインがアリウスに言ったことは、感情の部分は仮初だとしても…出来事や理論などに偽りはない。
彼が自分の行動に制止が効かない事を悟り、であれば何とかそれを利用しようとした結果だった。
「…嫌、だったかな?」
ただし、その行動はアリウス自身の選択を尊重した訳では無い。
クインの自己判断、或いは身勝手なもの。
「……そんなわけ、ないじゃないですか」
そんな彼の懸念を、アリウスは揺るがない感情で払拭する。
「分かってたんです。貴方が、あんな事するはずないと……けれど、貴方の口から語られる想いを、恨みを…疑うことが、できなかった。何も、理解していなかった。神も、契約も、貴方の事も……」
なのに、目の前の彼は正気を失っても尚自分を気遣う事を忘れていなかった。
あまりに、釣り合わない。
そんな彼を、家族を、あの悍ましい事件を、闇に葬っていた自分とは、とても。
「貴方が、僕が、ここにいる。ただ、それだけで…良かったんです。生きて、貴方の傍に居たかった。それだけ、だったのに…っ」
何処で間違ってしまったのか。
後悔。1歩間違っていれば、彼が本当に心から望んであんな事を言い、行う未来があったかと思うと…そもそも自分が彼と出会っていなければ、という考えにまで至ってしまう。
最初から、全て間違っていたのかもしれない、と。
「貴方は───僕の事が…嫌いですか?」
アリウスには力無く、縋るようにそう問いかける他なかった。
何か悪い考えに辿り着いたのだろうと、クインは彼へ慈しみの目を向ける。
「そんな訳ない、と言えば……君は、僕を信じてくれるかな」
明瞭でない物言い、けれども確かに優しく響いたその返答の解釈に迷った。
赤くなった目元を拭い、アリウスは仕方なく口元を緩ませる。
「本当に……意地が悪いですね」
「ふふ」
つられて微笑を浮かべる。
何時ぶりの会話だろうか、覚えた感情全てが心地良い。
「…僕達の罪を、贖おう。アリウムくんも入れた、3人で……生きていくんだ。それしかない…姉さん達は、あの街にいた人々は、もう…居ない」
生き残りである彼らが背負った罪。
それは、彼らが無意識に"生き延びたこと"に対し、自戒の念を覚えていること。
生きてしまった、のではない。
死んでしまった仲間の分まで、生きねばならない。
その義務を───自ら掴みに行ったのだ。
「そして…僕は皆に、謝らないとね」
再び、歯車が動き出した瞬間であった。
「…もう1つ、質問させてください」
クインの傷が塞がったのを念入りに確かめた後、アリウスは再び話を切り出す。
「一体あの傷は……誰にやられたんですか」
スッ、と零度を帯びるアリウスの声色。
すているがちらりと自身の背に視線を送った。
あくまさんは蛇に睨まれた蛙のように押し黙る。
クインはというと、彼らの一連の様子を見て苦笑し、
「おや、それは……僕の為に怒ってくれてるのかな?」
「当たり前です。少なくとも、許しはしません。貴方を利用した人物の事は…絶対に」
静かに燃え滾る怒りを抑え、拳を固く握りしめる。
アリウスは一つ息を吐くと、行きましょう、と皆に声をかけた。
クインは、すているの腕の中に抱え込まれたアリウムへと目を向ける。
彼の身体に刻まれた切創が跡形もなく消え去っているのは、やはりアリウスの魔法によるものだろう。
ふと、完璧に治癒された自身の身体をまじまじと眺めてみる。
血塗れたコート、咄嗟に傷口を抑えた左手。
「……!」
そして気付く。
紅く染められた部分に混じる…あるはずの色が足りない事に。
「…彼女は、」
死に際を悟る前、直前で切り刻んだ千陽子の体躯。
目の前に飛び散った焦げ茶色。
彼女との思い出を辿るような想いで、クインはその絨毯をそっと"指先でなぞったはず"だ。
その行動を記した色が、跡形も無くなっている。
擦れて消えた、という訳でもなく…ただ、そこには自身の紅のみが染み付いている。
クインは、彼女との会話を反芻した。
───『もう自分じゃ姿は変えられない。』
「そうか……また、僕は…してやられたわけだ」
誰に見られているかも分からない状況下で、新品のマッチ全てに火をつけ、飲み込むという大胆な所業。
どろりと溶けた彼女が、瞬く間に見慣れた姿へと変貌した様子。
高温で溶ける、焦げ茶色の物質───チョコレート。
調理時にチョコレートを湯煎する際、溶けやすくする為の下処理として、切り刻むという過程を踏む。
そして…熱で溶かした後のチョコレートは、暫しの間高温を保つ。
千陽子とクインが会話をした時間はせいぜい数分程度。
実に彼女らしいトリックだと、クインは苦笑する。
彼女はクインの利き手が機能しないのを知っていた。
故に、風魔法という斬撃しか扱えないという事も分かっていた。
以上の推論から出た答えは、単調で、不甲斐ないものだ。
クインは彼女を魔法で刻み、殺した気でいたが…彼女が再び姿を変え、その場から立ち去る手伝いをしただけ。
但し、導かれた結論はそれだけではない。
クインにとどめを刺さず、彼をただの変貌の道具として扱った行動。
「…急ごう。話すべきことが…増えた」
─────彼女は、何かから逃げている。
◆
「……ずっと、引っかかってることがある。」
手当をされてから暫く沈黙を貫いていたイアが徐に口を開く。
「軍警についてだ。…お前の推理で、奴等は脱出できずに餓死したと……そこに異議はない。けど…」
「そもそも───なんで、脱出できなかったんだ?」
暫し目をぱちぱちさせていたドリフは、その疑問が示す意味を理解すると途端に顔色を変えた。
「…イアちゃんの言う通りだ。あの場には、異空間に閉じ込める際に介したカガミの他にも、多数のカガミがあった」
割られていたものも複数あるが、当時は全てが機能していたはず。
「俺は戦えないから、確実にルインタウン内に繋がるカガミを探し出す必要があった。けど…軍警は違う。」
───装填が出来なかった、という状況。
魔法という強力な武器を持つ民を抑え込むには、手薄すぎる装備。
そこまで考えると、ドリフはある可能性に気づき、眉をひそめた。
「……いや、俺達は…最初から思い違いをしているかもしれない。」
「…具体的には?」
一瞬の間を空け、その短時間で確証を得たドリフは言う。
「あの部屋に軍警が乗り込んだのは…ルインタウンが制圧された日より前の事かも、ってことだよ」
イアの一言から次々と湧き出てきた、複数の疑問点。
ドリフはそれら1つ1つに、確信した前提を当て嵌めていく。
「彼らの遺体から分かる、当時の装備を見るに…装填する弾を一切持ち合わせてなかったのは事実。異空間に閉じ込められ、フル装填された銃で脱出を試みたのも事実。」
「けれど…"ルインタウンを制圧しに来た"のなら、幽閉されてから初めて銃を使用するという彼らの行動は…素人目から見ても不自然だ。結末から見ても、あの被害者数で誰も殺していない軍警が、7人も存在するはずがないんだよ」
仮にも集落として存在していたにも関わらず、生き残りは3人しかいないのだ。
軍警も軍警で、組織自体の人数は50にも満たなかった。
しかし、これはまだ序盤。到底まだイアの疑問の答えには辿り着かない。
「ここから先は推理というより…推測に近くなってくるだろうね」
「だから後で、本人に事実確認をする」
顎に手を当て、ドリフは意味深にそう宣言した。
彼の言う"本人"とは誰か。イアは今までの会話を振り返る。
「…!そうか、オーナー…」
「正解。俺はあの時濁したけど、薄々気づいてたでしょ」
ドリフは指をぱちんと鳴らし、流石だねと彼を賞賛する。
「俺からすれば、お前の方がすげーけどな」
イアの口から出た感嘆の言葉に、ドリフはその瞬間まで保っていた真剣な顔つきを和らげた。
「ウイルスの波がまた来たら、俺は役に立てない。だから今度こそ…今だけは、カッコつけさせてよ。いいでしょ?」
誰もダメだなんて言ってない、むしろ───カッコなんてつけなくても、ずっと惚れ惚れする程カッコいい…なんて言葉を飲み込む。
イアは言われずとも知っていた。クインの猛攻により意識を失った後、最初に自身を助けてくれたのはドリフだった事を。
彼の身体能力は成人男性の平均程度。
他の仲間と比べた際にはきっと、戦闘能力が最底辺に載るレベル。
けれど、だからと言って…彼が頭脳以外で役立てないなんて事はないのだと。
彼の精神力、勇気、何もかもがイアにとっての希望…ずっと昔からの、憧れだ。
イアはだからこそ知っている。普段からどうしようも無くだらしない幼馴染の、真面目になった時のカッコよさを。
故に、驚きなど覚えない。むしろ誇らしいのだ。
「続けよう。…軍警が何故、ルインタウン制圧前にクイン邸へ嗾けられたのか……その理由も、概ね想像ができる」
クイン───彼の持つ、異空間転送という能力は特殊だ。
同じルインタウン出身のアリウムやアリウスが、同じような能力を操っている様子はない。
魔法とはまた別の、特殊能力の類…なのだろう。
そしてその脅威は、ドリフが身をもって経験し、目撃している。
「ここで、イアちゃんが最初に言ったことに繋がっていくんだ」
そう。軍警が、カガミから外へ出ようとしなかった理由である。
「でもね…まずおかしいのは、旧政府の方だよ」
ドリフはまず、彼らを先導したであろう組織へと焦点を当てた。
「送った人が帰ってこなかったら、普通変だって思うよね。けど、あの部屋には荒らされた形跡が無かった。その場にあった何もかもが、"その瞬間"の状態に保たれていた…。」
普通に歩いていれば無意識に踏みつけるであろうガラスの破片でさえも、ドリフがその場に降り立つまでそのままだったのだ。
「旧政府は軍警をそこに仕向けた後、彼らの安否の確認すらしていない。」
最初から7人の軍警が生きて帰ることなど、旧政府側の予定になかったとすれば。
いや…軍警が帰ってこない事こそが、旧政府の思惑だとしたら。
彼らは一体、何のためにその場所へ向かったのだろうか。
ドリフはただ只管に考える。
ただし、殆どが憶測だ。
推理で導き出した訳でもないその内容を、彼は口にするか躊躇する。
「旧政府は、多分…軍警を囮にして、クインの能力とカガミの関連性を確かめたかったんだ」
今なら分かる。クインが何故、態々あの空間へと自分を飛ばしたのか。
彼はきっと、ルインタウンの。旧政府の。世界の───
全ての真実が、知りたいのだ。
その期待に応えたい。これは、ドリフ自身の意思だ。
憶測を仮定とし、他の情報と繋ぎ合わせ、継ぎ接ぎの結論とする。
今は、それで良い。
「総括的信教禁止令は、ルインタウンを滅ぼす建前だって言われてる。そして、魔法を本当に恐れていたのなら…生き残りを必ず消し去ろうとするはず。だから旧政府がこの地を廃墟にした理由は、他にある」
そこで一度言葉を切ったのはやはり、自信が持てないからだろうか。
珍しく悩んでいるその様子に、イアは無言で続きを促す。
「民の思想統制でも、危険因子の排除でもない───カガミの密集する、この地そのものじゃないか…ってね」
しかし、もしそうであれば…軍警がカガミを知らないという状況はおかしい。
そう反論しようとした矢先、イアはまた別の可能性がある事に気づく。
「旧政府が把握していたカガミの存在を、軍警は…知らされてなかった?」
ドリフからの返答はなかった。
本当の目的が、この廃墟に散らばるカガミ…それらに関することだとしたら。
軍警にその事を…何一つ把握させていなかったとしたら。
であれば、旧政府のしたことは───
「───ただの、殺人教唆だ」
1つの結論に纏まった彼らの推理に反して、その場に流れる空気の温度差は凄まじいものである。
「…」
───気味が悪い。
無言で2人の会話を聴いていたスティアはふと、そう感じた。
(彼らは、あの2人は……なんなんだ)
1周目を経験し、2周目に至った今になっても、分からないこと。
それは…イアとドリフ、2人についての全貌。
一方は、約40万回にも及ぶ殺し合いを経験した自分と並ぶ、異様に高い戦闘力。
一方は、閉じ込められた空間にあった遺体と、その付近の情報から史実の齟齬に辿り着く、異様に高い知力。
…そう、"異様"なのだ。どう考えても。
(オレはこの世界について詳しくない。けれど、決して短い時間を過ごしてきた訳でもない。だから直感で分かる)
(あの2人の、此処での扱いは…"ただの一般人"だったと)
スティアがそこまで思考を巡らせたところで、遠くから激しい息遣いと、不規則に石畳を蹴る音が聞こえてきた。
「どわっ……み、見つけた…やっと、さ、探してた…」
息も絶え絶えに此方へと駆けてきたスティックは、漸く仲間の顔を見れたことに対する安堵も程々に、切羽詰まった様子で先程目撃したものを告げる。
「はぁっ、は……お…オレが、2人…!」
既に体力の限界を迎えていた彼は上手く言葉を紡げないでいた。
断片的に情報を受け取ったスティアは、スティックが作戦を忘れ、彼に扮している自身の姿を見て混乱しているのだと解釈し、それを宥めるように返答する。
「落ち着き給え。オレ達は今お互いの変装をしているだろう」
「違う…、さっき、カガミに……オレが!」
そこまで言うと、その場に居た全員が彼の言いたい事を理解した。
カガミに姿見の役割は務まらない。周知の事実である。
「それは、一体どこで」
「わかん、ねえ……キレーな建物、そん中の……部屋だ」
その言葉を聞いたドリフは、間髪入れずにこう問いかける。
「ねえ、その部屋…特徴的な帽子とか置いてなかった?」
スティックは無言で頷いた。
確証を得たドリフは、スティアの方へ言葉を流す。
「スティックが言っているのは、きっと…俺が出てきたカガミの事だ」
スティックの使っていた、"オレが2人"という表現。
疑いようもない、正しい表現だ。彼の見間違えでないのなら、同じ姿の者が2人居ないと成り立たない。
そしてその存在は、既に前の会話で導き出している。
"スティアに扮したスティック"に最も容姿が近いのは…"スティアに扮した千陽子"他ならない。
───『俺が出てきたカガミだけど…既に1度割られていた可能性がある』
同時に、ドリフの言っていた事が脳裏に浮かぶ。
…千陽子は破壊されたカガミを修復し、その後の移動手段にした。
スティアの推理はその結論に辿り着く。
何故───何のために、そこまでの事を。
「そんで、…そこから、湧き出した、ウイルスが……追ってきてる。オレ、を……」
全てを共有し追えると、スティックはその場にへたりこむ。
そんな彼の容態を気遣う裏で、スティアは酷く動揺していた。
ウイルスが"スティア"を襲わない性質。それを利用すれば、スティックの体を休める為の時間稼ぎができるはずだった。
1周目でも、2周目に入った今までも、性質の例外となる個体は存在しなかった。
そもそもその性質は、スティアが知るはずの黒幕…その人物の動機に起因する。
今のこの状況。
主導している人物。
何もかも、彼の記憶に焼き付いたそれとは───
「明らかに……違う」
視界の端を段々と占領していく、黒い影。
追手はすぐそこまで来ていた。
空気は一瞬にして張り詰め、その場にいた全員が警戒態勢へ移る。
「…ドリフ。前に、話した事を……訂正させてくれ。」
───1度災厄を経験した彼には、何をすべきかが分かっている。
世界の終末をその身に記した、黙示録。
それは、新たな火によって燃やされてしまった。
「…オレには、もう───何が起きているのか、分からない」
本当の黒幕は誰なのか。
彼のやっていることは、積み重ねてきたことは、正しいのか。
もう、手遅れなのだろうか。
また全てが…失われるのか。
「教えてくれ。君達が…戦っている理由を。ここに居る理由を。……オレは、何も知らない」
浮かぶ疑問は、行き場のない焦りへ。
そして、彼が今まで保っていた思考の余裕を瓦解させる。
1度も目を向けてこなかった、"この世界"の根幹。
騙られてきた史実に紛れた、嘘。隠された真相。
知りたい事。知っておかねばならなかった事。
「教えてくれ─────この世界が…何なのかを。」
たかが2周目。
この世界に来る以前に経験したそれには、遠く及ばない回数。
されど、2周目。
あの頃の再演をする必要は無い。
彼の手に、嘗て取り零した命が戻ってくる事も無い。
───何のために、自分はここにいる?
定められた未来ありきか、それとも変わる事の無い過去が由縁か。
結局は、その何れでもない。
彼らの"現在"は、誰もが求めるべき結末…不確定な希望、その存在のために。
見つめ直すべきは先の失敗ではなく、この瞬間の選択だ。