あなたは春の花久しぶりに会った日だまりみたいな男の口から出てきた第一声が「へ?」である。急な来客、シャムスが苦笑するのも不思議なことではなかった。どこからか、朝咲きのフリージアの香りが漂ってくる。
天と地のように互いの住む場所は違えど、上の塵が下に溜まっていくように、ニューミリオンの情報はロストガーデンにもそれなりに届く仕組みになっている。
「ふぅん。コイツ今日バースデーなんだってなァ」
今日とはいつなのか。常夜のように薄暗いロストガーデンでは日付の感覚も曖昧である。
毛先を指で弄りながら、明らかにどうでもよさそうな声色でシンが呟くのを、ゲーム途中のシャムスもまた興味なさげに聞いていた。他人の産まれた日なんて知ったからといってどうということもない。
シリウスなら自分や隣の男の誕生日を祝いたがる。律儀に覚えてくれているのはありがたいし、悪い気はしない。だから祝い返すこともある。けれどその他の人間に思い入れなどないのだから、シャムスはこの小さく歪な地下のなか、別の誰かと関わらずこれからも生きていく。つもりだった。
結構コメント付いてんじゃん。草食系のくせに。邪魔になるくらいすらりと長い足を組んで怠そうに座るシンが、腑に落ちないといった様子でぶつくさ言うから、さすがに誰に対して妬みを吐いているのか気になる。つい出来心で、シャムスは彼のスマートフォンをちらり盗み見た。途端心臓が小さく爆ぜる。
ミルクに蜂蜜を溶かしたような跳ね髪。優しい色のパーカー。照れたようにはにかんだ、穏やかな表情。頭に戴いた冠も霞むほど、どちらが花か分からない具合で、ウィル・スプラウトは盛大に祝福されていた。
「あ?人の画面見てんじゃねえよ」
「それ」
「なに、気になんの?俺もあんま詳しくねぇけど、前にオジサンもやってたぜ。ヒーローって狡いよなァ。やたら祝われて、こーんな綺麗な写真まで撮ってもらえてさ」
「……シリウスにでも撮ってもらえや」
「分かってねえなァ。プロがいいの。てか誰が見んだよって話」
会話自体は続いているが、とっくに上の空だ。シャムスの頭はもう名も知らぬカラフルな花でいっぱいだった。
ゲームに集中すると言い残してその場を辞し、普段ろくに見ないエリオスチャンネルなんかを開く。花とプレゼントに囲まれ、祝いと励ましのコメントが増えては流れていった。
ふわふわと甘い笑顔だ。こんな腑抜けた面で、組織を裏切るような真似をしてまで己を匿った。
かつて会ったことがある、ただそれだけの縁でウィルはなにかと心を砕いてくれた。そのせいで本来不必要な感情が芽吹いてしまったのを、シャムスはもうずっと持て余している。
一瞬、ウィルと共に生きる道を夢見たことがあった。力を求めるシャムスに、力を手放すよう訴えかけたウィル。嘘のない心からの説得は、失うものの代わりに得られるものがあると信じてもいいのだと、そう思わせてくれた。
柔らかなつくりの顔に似合わず強情で、存外に我を通すタイプのウィルに手を引かれて、陽のもとを行く。そんな生き方もあるのかもしれないと分不相応にも焦がれたせいで、彼はシリウスに倒された。シャムスが後ろ髪引かれず、情のひとつも見せず、とっととウィルから離れていればよかったのだと今でも後悔する。
まあ結果として彼は生きているし、こうして写真など撮られたりして、健やかにヒーローとしての日々を送っているのだからいいのだが。
「……おかしいんだよ。ヒーローの平和ボケしたツラ見て、安心するなんて」
言いながら、シャムスはじっと画像を眺めている。両の指先を合わせて、細められた双眼。まるで秘め事を話すようなゆかしさ。見ているだけで口のなかが甘くなるような、花が香ってくるような、そういった。
「アイツに似合いの……良い写真だ」
呟くことのない、見るためだけのシャムスのアカウント。名前もIDもアイコンも、全てが初期設定のままだ。
ペンのマークをタップして、何百とあるコメントに紛れ込ませるように、たった五文字を書いて送った。自己満足だから読まなくていい。早く流れて埋まってくれ。願って、シャムスはSNSからログアウトした。
明くる日のウィルはオフだったから、実家の手伝いをしていた。誕生日に出勤することは祝ってくれる市民へのサービスになる。なので次の日は親しい者と穏やかに過ごせるようにという勤務体制になっていた。そういった融通をよく利かせてくれる、ブラッドはとても良い上司だった。
じょうろを傾けて土を湿らせていく。ひとつひとつに声をかけて、葉や茎の具合を裏から表から観察して、また次の鉢へ水をやる。軽く見回したかぎりでも三十以上はある植物たちのどれもを雑に扱うことなく、ウィルは時間をかけて彼らとの対話を繰り返した。
平日の昼過ぎはしばらく人が途切れる。招待主への礼に捧げるには遅く、記念日の家人に贈るには早い、はざまの時間だ。
花の知識も豊富で物腰柔らかなウィルは接客もそつなくこなす。しかしどちらかといえば今のように、花の世話をしている方が好きだった。
「花冠なんて何年ぶりに乗せたかな……ふふ」
水やりが一段落して、すみっこの椅子に腰掛ける。先日もらったデータを眺めながら、ウィルはちょっぴり面映ゆい気持ちになった。
ヒーローのバースデー企画にはいくつかの企業が噛んでいて、例の撮影もその一環だった。セクターのイメージカラーに、レトロな電飾とプレゼントボックスを散りばめた背景。元気なビタミンカラーの衣装に身を包んだら、誰もが知っている春の花の輪っかを被せられた。
カメラマンの腕が良かったのだろう。緊張しまくった自覚のあるウィルであったが、キミはそういう顔がいい!いいよ!いい!と興奮気味にばしゃばしゃと撮られ、審査を通った一枚があれだ。自分の写真が商品になることに恥ずかしさはあるけれど、同時にお気に入りにもなった。
スマートフォン越しの花冠を、人差し指でぴたとなぞる。チューリップの花言葉はそれぞれの色で異なるが、愛に関わるものが多い。愛の告白、誠実な愛、照れ屋、正直。
「……失われた、愛」
白い花を撫でれば、画面の冷たさがウィルの指に伝わった。同じ色の髪を思い出して、蓋をした悔しさがまたじわじわとせり上がってくる。
力が足りなかったし、手段もきっと間違えた。ウィルにはその自覚がある。アキラやガストまで不用意に巻き込んだというのに、シャムスをあちら側へ行かせてしまった。振り向いた彼の赤い瞳に浮かんだ揺らぎ、それがなんだったのかも掴めぬまま、二人の道は分かたれた。
愛、と反芻する。
シャムスに対しての感情がどういったものなのか、答えに至るにはあまりにも過ごした時間が短かった。けれど路地裏の初めての邂逅から、ずっとウィルの心の内に彼の存在はあったのだ。それならばきっと長らく横たわっていたものは確かに愛であり、情である。
「……うん」
触られずしばらく経ったスマートフォンは勝手に画面を暗転させる。椅子から腰を上げて、ウィルはひとつ背伸びした。深く息をすれば、朝開いたばかりの花の匂いが鼻腔に届く。澄むような気持ちになって、ウィルは誰に向けるでもなく自分のために頷いた。
心を切り替えようとした矢先に蛍光灯が一本ちかちかと明滅し始める。花の世話に戻る前に交換するか、とウィルは蛍光灯の換えと、壁に立て掛けてあった脚立を片脇に抱えた。背の高い彼は天板にまで乗らなくてもよい。上へ手を伸ばしたあたりで、店の入り口に人の気配を感じた。
「あ、すみません!少し待っててもらえますか?」
客に背を向ける格好で申し訳ないと思ったが、手早く交換してから接客に当たろうと、ウィルは大きめに声を出した。しかし外すのは楽だったが付けるのには些か手間取る。なかなか片方の穴が嵌まらない。人を待たせていることがなおウィルを焦らせた。
観念して、一旦中断した方がいいのかもしれない。そう諦めかけたとき、脚立に力の加わった感覚がした。誰かに支えられたような。
「……焦ることねえからやり終えちまえよ」
もう一度、聞きたかった声だ。
「へ?」
久しぶりに会った日だまりみたいな男の口から出てきた第一声は随分とまぬけなもので、シャムスが苦笑するのも不思議なことではなかった。どこからか漂ってくる花の香は瑞々しく生に溢れている。二人の、こんな気取らない再会に添える芳香としては、些か大仰なほど。
「振り向こうとすんなバカ。危ねぇ」
早く姿を、顔を見たくて、ウィルはもっと焦ってしまう。
そうしてがちゃがちゃと手こずりつつもなんとか作業を完了させ、脚立を降りてようやくシャムスの顔を見れば、どんくせえ奴、と呆れ笑われるのだ。んもう。
「花束ってやつ。作ってほしい」
元気だったかとか今どうしてるだとか世間話もさして挟ませず、シャムスはウィルに仕事を依頼した。意外なオーダーに目を白黒とさせるウィルであったが、今日のシャムスはどうやらお客さんらしい。本当はいろいろ話したいことがたくさんあったけれど、ウィルもまた今日は店員なのだ。承らぬ選択肢はない。
「わかったよ。予算はある?」
「相場知らねえけど……あんま高えのは」
「了解。入れたい花はあるかな?」
「………………べつに」
「………………ほんとに?」
「…………………………カスミソウ」
優しい小花だ。たった一つだけ願われた白い花。なんだか胸があたたかくなって、思わず笑みが漏れた。シャムスがじとりと見てくるので慌てて表情を引き締める。
他の大輪に添えることで調和を成す、そういう使い方の多いカスミソウは、主役として扱われることは少ない。この花を選んだシャムスにはきっとなにか意図がある。ならばウィルは持てる力で花を寄せあい束ねるのみだ。
イメージを尋ねれば、春、と一言だけ返される。充分だった。
「任せて、絶対素敵に仕上げてみせるから」
椅子を引っ張ってきたウィルにわりと強引に座らされる。シャムスはただ、うきうきと花を選び始めるすらりと長い背中をじっと眺めていた。
小窓から注がれる陽光に照らされて淡く黄色がかる後ろ姿は、シルエットまで柔らかい。似合いの空間に似合いの人間がいる安心感。この場に違和感をもたらすのはシャムス自身のみだった。
インターネットで調べればヒーローの実家くらい容易に分かる。プライバシーの欠片もないなと思いながらも、そんな情報を漁って頼りにしているのだから、シャムスに憂う権利はない。マップアプリで調べながら辿り着いた店前で、シャムスは悩んだ。
このドアを開けること。ウィルと再び接点を作ること。現状のまま分かたれた道が交わらないのが互いにとって一番良いと、シャムスは知っている。けれど脚立に乗る危なげな後ろ姿をドア越しに見かけてしまえば、迷いよりも欲が勝った。
ウィルの手に取られた花は皆誇らしそうにしている。水から離された身では早く命尽きるだろうに、優しい指先に選ばれ華やかに飾られるのを、僕が私がと待っているようだ。
そんな罪な男はときどき、ぼうっと待つだけのシャムスに話しかける。
「元気してた?」
「……してた」
「ちゃんとごはん食べてる?お菓子ばっかりじゃダメだからね」
「食ってる。親かよ」
「ちょっと髪伸びたね。切ってあげようか?」
「鋏ちらつかせんなよ。それ花いじくる用だろうが」
「あはは、さすがにこれでは切らないよ」
他愛ない話を交わす間にもウィルの手はてきぱきと動いている。ロールになったいくつかの不織布から淡い桜色を選び、適した長さで切る。余分な水気を拭き取ってから、茎を切って丈を整えていく。よく店を任されているのだろう。段取りが良く、無駄のない慣れた手つきだ。
ヒーローなんかより花屋をやりゃあいいのに、なんて勝手なことをシャムスは思う。一般人の営むなんでもない店であれば、シャムスだって気楽に訪ねられる。
花なんかやたらめったら買うたちではないからほとんどひやかしになるだろう。でもこんなふうに他の客がいない時間に来れば邪魔にならぬはずだ。
などと。柄でもない夢想ばかり頭に燻らせていれば、ウィルがにこにことこちらを見ているのに気づき、シャムスは顔を上げた。
「ここをね、リボンで結ぶんだけど。どの色がいい?」
外側にナイロンを巻き、仕上げを残すのみとなった花束を見て純粋に、綺麗だ、とシャムスは思った。
明るい色と淡い色、大輪のものと小ぶりなもの。差のあるそれらを上手く纏めているのが、ぽんぽんと可憐に咲くカスミソウだった。本当にポピュラーなもの以外、花の名もろくに知らない素人のシャムスにでも分かる、絶妙な束ね方だ。やはりヒーローなんか辞めて花屋になったほうがいい。
不織布と同様にロール状になって吊られているカラフルなリボンの端を一本一本引っぱり出して、シャムスに分かるよう見せてくれるウィル。こんなファンシーなものにとんと縁などないものだから、シャムスはしばし悩んだ。
ピンクに白いドット、赤のチェック。きっと人はそれらを可愛らしいと思い選ぶのだろう。悪くないが、シャムスの描いていたイメージよりは派手だ。
あれがいい。彼が指で示したのは一番端っこのシンプルな黄色のリボンであった。仕上げに結ぶには少し柔らかすぎる色合いかもしれない。でも優しいくらいがよかった。だってそういう人間に贈るのだから。
ウィルはほわほわと笑みを浮かべて黄色のリボンを切り、花束の下部に器用に結んだ。これで完成らしく、どこか誇らしげに手渡される。
「いくらだ?」
「んん……お金も、そりゃあ奢るよとは言えないけど……出来れば感想も欲しいなあって……」
目に見えてしょんぼりと困り眉のウィルに、シャムスはぐうと呻く。
そわそわと落ち着きなく視線を泳がせ、腕の中の可愛らしい花束を見て、もう一度見て、怪獣みたいな唸り声を喉から漏らし、それでようやくシャムスは観念した。
「……すげえと思う。立派なモンだ。お前ならこんなパッと作れちまうんだな。オレには一生真似できねえ」
「ふふ、ありがとう……頑張った甲斐があったよ」
シャムスが店にやってきてからというもの、ウィルはずっと微笑みを絶やさない。きっと自分だけに向けられる顔ではないのだと、短い縁のなかでもよく分かっている。けれど、慈しみの心を溢れんばかりに持つこの男にシャムスは、もう少し特別に笑ってほしかった。
「ロストガーデンの人に渡すの?だったら遠いかな。袋に入れた方がよさそうだね」
「いらねえよ」
「え?このまま?」
「おー」
隣駅みたいな気軽さでロストガーデンの名を口にするウィルでも、剥き出しの花束を抱えて帰るシャムスを想像すれば流石に戸惑った。絶対可愛いのでウィル的にはやぶさかではないのだが、現状イクリプス側であるシャムスが街の人々の好奇の目に晒されることは、あまり良くない。誰かが軽い気持ちで投稿したSNSの文章で居所が判明してしまうおそれがある。「全身真っ白で赤い目のウサギみたいな男が花束持って歩いてた。プロポーズかな?」今日び、たったそれだけで足がつく情報社会なのだ。
これは説得した方がいい、そうウィルが口を開こうとした瞬間。
「ん」
「ん?」
渡した花束を返される。褒めてくれたものを理由なく突っ返す男でもない。しかし、ん、だけではまったく意図が伝わらなかった。
「お前に渡すんだから、このままでいいっつったんだよ」
予想もしなかった言葉と無理矢理上を向かされる手のひら。ウィルのなにもかもの動きが止まる。腕に抱かされた花束とシャムスを上へ下へと交互に見て、それでも半開きの口は仕事をしてくれなくて、ようやく出せた声は空気みたいな「へ?」だった。またその呆けた声、とシャムスだっておかしそうに笑いもする。
「え、え、なん、なんで……」
「昨日誕生日だったってネットで見た」
「あ、ありがと……え、それで花束を……?」
「……嫌かよ」
「嫌なわけないよ!」
大声を出してしまってお互いにびっくりしてしまう。慌てて謝ってからウィルは、改めて自分が束ねた花をまじまじと見つめた。シャムスから春のイメージでと指定を受けて作ったそれは今、ウィルの手にある。
淡いピンクの綻ぶスイートピーと緑のリシアンサスをメインに。花弁のかたちと薄い色合いで儚げな印象を持たせる二種を守るように、イエローフリージアが隣り合う。それらの色の強弱を補正するのはオレンジのカーネーション。
そして全体を整える白い花。主張性のある他の花達に添えることで調和を成し、可憐さと清らかさを持たせられる、なくてはならないただひとつの望まれた花だ。
「……」
すん、と香りを鼻に通す。果実みたいな爽やかな香りはフリージアだろう。今朝咲いたばかりの瑞々しさ。選んで正解だったと、ウィルは小さく頷いた。
「良い匂いだよ。嗅いでみる?」
「いーよ別に」
「そっか……」
「……………………こっち向けろよ」
「ふふっ。はいどうぞ」
シャムスが鼻を近づける。くどく甘ったるいのを覚悟していたがそうでもない。香りも含めて選んだのかと感心した。紛れもなく、春だ。
「シャムスは花言葉って知ってる?」
「花言葉ァ?……知らねぇよ。オレがそんなロマンチックな人間に見えるか?」
「誕生日祝いに花をくれる人がロマンチックじゃないわけないと思うんだけどな……ありがとう。本当に、本当に嬉しい」
ふわふわと白く咲くカスミソウを優しく指で撫でて、ウィルもまたふわふわと花みたいにはにかむ。心臓が、どっ、と深く跳ねるのを、シャムスは胸に手を当てて落ち着かせた。
花言葉の知識を尋ねられ、愛しげに花を撫でるのなら、ウィルだけが理解し、胸にしまった解釈がカスミソウにはあるのだろう。
ただ白く清廉で、ウィルに似合いだと思って選んだだけのシャムスはそれを知らないし、知ろうとは思わない。知って、否定するのも肯定するのも野暮だ。嬉しそうに笑うウィルがもたらす日だまりの今を、片足の先分だけでも浴びていられる。ならばそれだけで良かった。
「そんで、いくらだよ結局」
「それなんだけど……その、俺がもらう物に値段付けるのって、なんというか……」
「……ここキャッシュレス使えんのか?」
「え?あ、ああうん使えるよ。ミリペイと、サウスPとあと」
「ミリペイ」
「待って」
「もう払った」
「待って待って!多いよ!こんなにしない!」
小銭の落下音を模した決済音が流れ、慌てて画面を覗き見れば充分すぎる金額が支払われていた。こんなことならちゃんと適正価格を提示していればよかったと、なあなあだった先程の自分を悔やむウィルであった。
返金処理をさせてくれと懇願するウィルに、シャムスは手間賃と技術料だと告げる。格好良すぎやしないか。
些か賑やかなやりとりを終えると、沈黙がやってきて二人の間にひっそり留まる。
互いがこの時間の終わりを感じていた。終わらせなければいけない。その表現のひとつとして、シャムスは一歩、足を下がらせた。
名を呼ぶ声がして顔を上げる。物腰は柔らかなくせに一丁前に自分より背の高い男が、引き留める意図なくシャムスを見ていた。引き留める術を持たないと言うべきだろうか。同じだけ、シャムスもこの場にずっといられる理由を持ち合わせてはいなかった。
ウィルといると、力を手放しても構わない、そういう気分になってしまうから、会えない。シャムスに学はないが、愚かでもないので知っている。この人と共に生きていくにはなおのこと力が必要なのだと。
持てば共存できず、持たねば守れない。ならばシャムスは、ウィルの傍にいられなくてよかった。
拐って、地下で暮らしたいなんて思ったことすら本当に一度だってない。地上の明るい世界で光合成していないと死にそうな男だ。こんな春夏の良いところだけ大事に取っておいたような出で立ちの人間は、陽の射さない下の世界でなど生きていけやしない。
「じゃあな。もう来ねえよ」
「うん、また会おうな」
「おう…………いやなんて?」
「またねって」
言葉分かんねえのかと呆れるシャムスを相手に、ウィルの表情は穏やかなものだった。明日明後日にでもまたシャムスがここを訪ねるのを信じているみたいな言い草。人の気もしらないで楽観的なものだとクリムゾンの瞳が睨んでも、ゆったりと構えたオーカーはその棘すらも包み込んだ。
「だって俺、諦める気全然ないから。諦めなくっていいんだって、今日改めてそう思ったから」
「……お前マジで我強えな」
「ふふ、実はそうなんだ」
「……約束はしねえ。でもたまたまどっかで会ったら……そりゃ不可抗力ってやつだろうな」
無愛想に言い残して、シャムスはウィルに背を向け歩きだした。諦めないと言ってもらえた嬉しさと、分不相応にも抱いてしまった未練のような感情。ここに全部置いていけるほどシャムスは強くはないし、逆に弱くもない。
「花、ありがとう!大切にする!……元気で!」
だからウィルの言葉も笑顔もすべて持って帰って、心にしまっておくのだ。どうしようもなくなって、いつか手放さなければいけなくなる日まで。あるいは。
「…………お前もな」
贅沢にも、報われる日まで。
「オエッ!くっさ!オマエなに、生ゴミでも漁ってたのかよ……」
「るせーな。大袈裟にえずいてんじゃねーよ。ガタガタ言われなくてもすぐ風呂入る」
ロストガーデンに戻る道のなかで、一番汚いルートをシャムスは選んできた。黒い下水に不法投棄の家電。地上の法の目から逃げるべく放り捨てられた大きなごみ袋からは腐臭がした。汁も垂れていたからおおかた死体だろう。畜生か人間の。なんら珍しいものじゃない。
お気楽なニューミリオンの人々に、お前たちの高水準な生活の裏側はこんな有り様になってるんだぜと、曝して見せてやりたくなる。
シャムスはただ妄想するだけだ。実行することはない。こんな糞みたいな場所を目に映してほしくない人がいるから。
花の匂いなんかさせて帰っては勘繰られる。だからシャムスは自分に似合いの汚れた場所の、壁やらなにやらをべたべたと触りながら戻ってきた。少々度を越えた臭気になってしまった気がするが、やりすぎなくらいでいい。
くさいくさいと顔をしかめるシンはもう無視して、シャムスはシャワールームへ向かう。その途中の廊下で、シリウスと出くわした。
「おや?なんだか可愛らしい匂いがするね」
「……ドブ臭え匂いの間違いだろ。これ以上その鼻が馬鹿にならねえよう、とっとと洗ってくる」
ポーカーフェイスを装うが、少し背に汗が滲む。長居すればぼろが出そうなので、シャムスは足早にその場をあとにした。
だから彼は、シリウスの優しげに浮かべられた笑みを目にすることはなかった。
「シャムス。君は僕のことを少し誤解しているみたいだ」
自身に人間らしい感情が欠如していることを、シリウスはとうに自覚していた。一方シャムスもシンも地上の法に反する破壊衝動はあれど、喜怒哀楽はまっとうに表せる部類だ。
己にとって必要にしろ不要にしろ、欠けているものは彼らのように持つ者を観察することで、一度間接的に理解してみたかった。
「君の心が輝きを増すのを僕は喜んでいるよ。恋慕の情はひときわ美しいと言うだろう」
他者を想うとはなにか。科学や数式で示すのは困難だというそれを、是非に。
「だからゆっくり育んでおいで」
当面、摘むことはないから。