午後四時過ぎ。
まだ外は明るい時間だが、既に心は今夜の期待に染まっていた。
スーツに袖を通すだけで、背筋が伸びる気がする。
今日の自分は、彼の隣に立つための「最上真」だ。
一ギルドマスターではなく、水篠旬の隣に立てる誰かでありたくて、鏡の前で髪を整える手が、ほんの少しだけ震えた。
・・・・
時間通りにホテルのロビーへ降りると、すでに車は入口に待機していた。
ドアの向こう、車体に映る薄暮の空が滲んで見えたのは、照明のせいなのか、自分の視界の揺れのせいなのか。
ガチャリと車のドアが開いて、彼が現れた。その容姿に僕は目を疑う。整えられた髪、完璧に仕立てられたスーツ、一瞬、本当に水篠旬かと疑ったほどだ。そしていつもとは違うオーラは、彼を一層遠い存在のように見せていた。
「…お待たせしました、水篠ハンター」
「大丈夫ですよ、俺も来たばかりなので」
少し緊張していたからだろうか、優しさが混じった声に安らぎを感じた。
「……似合ってますか?」
ふと、そんな言葉がこぼれた。今日のパーティーのために、滅多にやらないような支度をしてきたが、彼にはどのように写っているのだろう。
(……きっと"いつも通りです"って言われるんでしょうけど)
そう思って彼の顔色を伺うと、水篠ハンターはふ、と少し笑った。
「とても似合ってます」
「………え…?」
予想とは全然違う返答に唖然とした。時が止まり、周りの音も耳に入らない中でじんわりと熱が込み上げてくる。水篠ハンターは動揺している自分をよそに、車のドアを開けた。
「ほら、早く乗りましょう。遅れますよ」
「……え?あぁ、すみません。そうでしたね…」
彼の隣に腰を下ろすと、ドアが閉まり、車が静かに走り出した。
途端に、わずかに響くエンジン音と、隣から伝わる体温に意識が引っ張られる。
車内は思っていたよりも静かだった。
目の前には渋滞もなく、道は順調に進んでいるのに、妙に時間がゆっくりと感じられる。
彼の横顔を、ちらと盗み見てしまう。
先ほどの「似合ってます」という言葉が、まだ耳の奥で響いていた。
「……緊張してますか?」
「えっ…えぇ、多少は」
「……俺もです。なにせこういったパーティーなんて、初めてですから」
水篠ハンターはあまり感情を表に出さないので彼なりの気遣いなのか、はたまた本当なのかはわからないが、普段よりもずっと優しい声に僕は少し微笑みながら
「そうは見えませんけどね」
と言って窓の外に目をやった。この時、彼が少し顔を赤らめていたことに気づかないまま。
・・・・
会場前、広場につくと、少し先にある建物から煌びやかか光がのぞいているのを見て僕は胸が躍った。なによりも、水篠ハンターと参加できたことに密かな喜びを感じる。
普段彼はこのような行事には滅多に参加しないため、諦め半分で誘ってみたところ、まさかのOKサインにかなり驚いた。自身も会食やパーティーはあまり好まない方だが、彼が来てくれるだけでこんなにも気持ちが変わるのか、と少し意外に思った。
「最上ハンター、今日いつもより機嫌いいですね」
不意に横から聞こえてきた声にはっと我に帰る。
「別に、そんなことないですよ?」
悟られないよう笑顔で返した。そもそも水篠ハンターは自分よりも一回りも二回りも年下なのだ。僕が子供のように浮かれていたら、年上としての示しがつかないだろう。
水篠ハンターはふーん、と含みのあるように言い、また前を向いて会場に向かっていった。
(僕もしゃんとしなければ…)
そう思いながら水篠ハンターを追うように会場へと入っていった。
・・・・
会場に入ると、すでに数十人ほど入っており、豪華な食事を嗜みながら談笑を交わしていた。華美な照明に優美なピアノ、この煌びやかな雰囲気には慣れているが、水篠ハンターは
「…おぉ、すごい……」
と、あたりを見回していた。目に宿るほのかな輝きを見つけ、その初々しい反応に思わず可愛いと思ってしまい少し笑みが溢れた。水篠ハンターにジト目で睨まれる。
「からかわないでくださいよ…本当に初めてなんです」
「ふふ。ごめんなさい、つい」
少し言葉を交わしていると、ふと、会場の方から声がかかった。
「あ!最上ハンターじゃないですか!お、水篠ハンターまで!」
彼の声で会場がざわつく。そこかしこから僕たち二人の名前が呟かれた。
いち早く僕たちに気づいた彼は確か有名会社の社長…名は高木だっただろうか。ハンタースギルドのさらなる支援をと、ことあるごとに声をかけてくる会社だ。あまり好ましくない印象だが、かなりの支援をもらっていることも事実。ギルドの印象のためにも高木さんの方へと足を運んだ。
「ご無沙汰しております、高木さん」
「いやはや、またこうしてお会いできるとは光栄です」
どうせまた裏でコソコソと調べたのだろうという気持ちをグッと押し込み、にこやかな表情で他愛のない会話を交わす。
他会社の社長も加わり、しばらくして、僕は水篠ハンターの姿を探した。本来ならば二人で軽くシャンパンをあおりながら談笑したいところだが、会場に来るや否や僕も彼も別の人に捕まってしまい、ろくに話せていない。
もやもやする気持ちを抱えて会場を見回すと向こうのほうに彼の姿を見つけた。横には煌びやかでタイトなドレスを纏った女性が立っていた。
(あの方は…)
心にかすかな靄がかかる。どうしても目が離せず
、意識を彼の方に向けた。昔から周囲の音には敏感だったからか、会話がかすかに聞こえる。
"水篠ハンター、今夜一緒にどうですか…"
目を見開いた。はっきりではないがそう聞こえた気がしたのだ。一瞬思考が停止する。胸の奥底がずき、と音を立てた。
「…最上ハンター?」
そう声をかけられてはっとする。
「あぁ…すみません、少しぼーっとしてました」
苦笑をしながら軽く謝った。しかし僕としたことが、年下相手に嫉妬してしまうなんて。しゃんとしなければと意気込んでいった割には振り回され、動揺している自分に呆れる。
(僕も中々、カッコ悪いですね…)
内心そう思いながら、手に持っている炭酸の抜けたシャンパンに視線を落としていると、
「最上ハンター…あの、もしよければなんですが……」
高杉さんに声をかけられた。じり、と距離を詰めてくる。
「向こうで少し…二人でお話ししませんか?人がいないところで…」
そう小声で囁かれた瞬間、背中にぞわりとした感覚を覚え、血の気が引いていくのを感じた。
後から腰に手を回されて徐々に下の方へと伸びていってることに気づく。いつもなら触れられる前に気づけるのだが、彼のことを考えていたからか、反応に遅れてしまい、すぐに解けなかった。
「ッ……そういうのは「最上ハンター」
手を振り払おうとしたその時、後ろから聞き慣れた声が聞こえた。水篠ハンターだ。
「少しお話があるので、着いてきてもらってもいいですか」
「…え、えぇ。大丈夫ですよ」
気のせいだろうか、一見柔らかい声色に聞こえたがその奥にかすかに暗さを感じた。表情を見やるとその目は暗く、いつもより格段と冷たい視線で高杉さんを見据えていた。
「え、あ、あの…」
「すみません、呼ばれてしまったのでこれで」
苦笑しながらそう言うと、水篠ハンターは僕の手を少し強く引きながら会場外の人気のない廊下に向かった。
・・・・
薄暗い廊下、会場の部屋からは少し離れたところなので人の声はほとんど聞こえない。僕は壁際に追い詰められていた。
「……どうしました?」
そう問うと、彼が静かに口を開いた。
「……すみません。どうしても、我慢できなくて」
「…なんのことです?」
「最上ハンター…あの人に腰、手を回されてたでしょう。俺、それ見たら居ても立っても居られなくて」
思いもよらない言葉に思わず固まる。確かに声をかけられたのはまさにその時だったが、まさか本当に…そのために呼び出したのか。
僕は驚きの中に少しだけ期待している自分に気づいた。体の奥にじんわりとした熱を覚える。
「み、水篠ハンター…?」
「……本当はもっとちゃんとしたところで言うべきなんでしょうけど……我慢できない」
「好きです、最上さん」
声が出なかった。叶うことはないと思っていた。再審査の時、初めて出会ったあの時からずっと僕は…。
顔が急激に熱くなっていき、静まり返る空間で、心臓の音だけが脳に直接響く。
「それは…ほんと……なんですか?」
「こんなときに、嘘ついてどうするんですか」
「いや…でも……僕はもう、40ですし…君とは一回りも二回りも…」
「俺は最上真が好きなんです。年齢なんて関係ありません」
彼の表情がより繊細に感じる。真っ直ぐに僕を見つめる目は一点の曇りもなく、それが本当のことだと訴えかけていた。
しかし、どうしてもこの状況を信じられなくて目を逸らしてしまう。ありえない、水篠ハンターが、僕と同じ気持ちだったなんて。そんな感情が僕の気持ちにストップをかける。
「………どうしても、信じてもらえませんか?」
彼の顔を見ることができない。
せっかく気持ちを伝えてくれたのに、どうして僕は否定的に捉えてしまうのだろう。
こういう時に限って、自分の性格が心底嫌になる。
胸の内がじわじわと重くなり、視界が霞む。
それでも、胸の奥にある小さな「信じたい」が、沈黙の奥で確かに灯っていた。
無意識に視線を逸らして、ただ黙り込んでいると
…ひやりとした感触が頬に触れた。
驚く暇もなく、その手がぐっと僕の顔を水篠ハンターの方へと向ける。
指先の温度に、心のざわめきが一瞬、すっと引いていった。
「…なら、証明します」
刹那、唇に感触を覚え、目を見開く。数秒経ってからやっと、キスをされたことに気づいた。
少ししてから、静かに唇が離れていく。
「これでわかりましたか…」
唇が離れたあとも、距離は戻らなかった。
互いの吐息が混じり合うほどの近さで、しばし見つめ合っていた。
「……わかりました」
ようやくの声に、水篠ハンターが目を見開く。
「……信じます、あなたの気持ち」
「……ほんとに……?」
小さくうなずくと、水篠ハンターは思わず最上を抱きしめた。
その腕の中、胸にぽっと火が灯る。
「嬉しいです……っ」
次の瞬間、勢いに任せたように、再び唇が重ねられる。
先ほどとは違い、今度は深く、ゆっくりと口付けされる。
「んっ……ふっ…」
声がかすかに漏れ、舌を重ねる音だけが静かな廊下に響く。
「…っは……はぁっ、はぁっ…」
唇が名残惜しそうに離れると、視界が揺れ、彼の顔が色めいて見えた。
僕の表情に、彼の理性が軋む音を立てる。
「…最上、ハンター……」
ふるえる声と共に、手がそっと最上の腰に触れそうになる
しかし、
「……ん、ストップ」
最上がゆっくり、旬の唇に指を当てた。
「……水篠ハンター」
少しだけ掠れた声で、彼の耳元で囁く。
「続きは……僕のベッドじゃ、だめですか?」
ぱち、とまばたきをしたあと、彼の顔が一気に真っ赤に染まる。
「ッ!…はぁぁぁぁ…」
耳まで真っ赤にして、旬はぶるぶると震えた指で顔を覆った。
「……あなたって人は……」
その言葉に、最上はふっと微笑む。
ほんのりと火照った頬のまま、彼の困ったような顔を見つめながら、
胸の奥に満ちていく熱を、もう止めようとは思わなかった。