さてトニーは半日のDC散歩を終えて、NYのアベンジャーズタワーへ戻った。
ラボで研究を再開する前にラウンジに寄って手みやげを落としておくか。そう考えて三八階でエレベーターを降りる。
ナターシャやクリント、加えて遊びに来たピーター・パーカーあたりがお茶でも飲みながら賑やかにたむろしているだろうと読んでいたのだが、思惑は外れた。ラウンジはめずらしく閑散としていた。居たのはただひとりキャプテンアメリカだけだ。これもめずらしいと言えばめずらしい。
そのキャプテンアメリカは、こちらに広い背中を向け、キャビネットに据えられた新機種のコーヒーメーカーと格闘していた。かなり集中している様子だ。そっとラウンジに踏み入った足音にも気づいたかどうか。
トニーは右手の紙袋を抱え直した。
そしてキャプテンアメリカの後ろ姿をとくと眺めた。体にフィットしたグレーのトレーニングTシャツと、黒のデニムジーンズといういでたちだ。見事な厚みのある肩が動き、三角筋が盛り上がると、上腕にきわめて抑制された力がこもる。鍛え抜かれた肉体にTシャツがぴったり張り付いているから筋肉の動きがよくわかるのだ。それから非のつけどころなく逞しい背筋から、奇蹟のように細く締まった腰も。――
「……」
第二次世界大戦で北極海に沈み、七〇年の時を経て現代に再び目覚めた英雄。
二〇一二年いまここで起きていることは奇蹟なんだ。そう思い巡らせてトニーは唇を曲げた。
伝説の英雄がラウンジにいて、コーヒーメーカーのサーバーを外してタンクを覗き込み、ボタンを順に全部押してみて、長押しボタンを押し過ぎたりしている、なんてことは。
「豆は入れたのか?」
伝説の兵士の動きが止まった。
「豆を表示の線まで入れないとコーヒーは出てこないぞ。我が国のシンボル、世界のヒーロー、キャプテンアメリカ」
目の前で英雄の肩が落ちた。
ふう、と力の抜けたため息が洩れる。金髪の頭が振り返ってこちらを向いた。
「トニー…スミソニアンに行ったのか」
博物館の吹き抜け天井のはるか高みで、巨大なポスターとなって、天空に透徹したまなざしを投げかけて敬礼していた輝かしい顔、それと同じ顔が、眉をひそめて呆れたような表情をトニーに向けた。
「もちろん行ったさ」
行かない理由がない。
そう、今日は半日を投じてDCへ赴き、スミソニアン博物館で開催中の『キャプテンアメリカ~よみがえる伝説の英雄~』展を観てきたのである。
歴史人物の企画展としては過去最大規模。
華々しいふれ込み通り、平日の午前中といえど展覧会はかなりの盛況だった。あの「アイアンマン」が連れもなく単身で(黒パーカーにキャップを目深にかぶった一応のおしのびスタイルで)歩きまわっていても、混雑にまぎれて誰にも気付かれない程度には。
アイアンマンはエントランスのゲートをくぐり、来館者を迎えるキャプテンアメリカの壮麗なインスタレーションをひとわたり眺めると、さっそく子どもたちの列に混じり、超人血清投与前のスティーブ・ロジャースと背比べをしたり、血清投与後の堂々たる肩幅に改めて感嘆したりした。あとは人の流れに押し流されるまま、フロアに投影されたヨーロッパ戦線の地図を見下ろし、ハウリングコマンドーズのレプリカを仰ぎ、映像室でモノクロのニュース映画を見た。
「キャプテンアメリカの等身大レプリカにも会ったぞ。なかなかよくできていた」
「なぜわざわざ? 実物がここにいるのに」
生きて動く実物がコーヒーメーカーのふたを開けて豆を次ぎ足す。ほとほと呆れ果てた声音だ。ソファに腰を降ろしたトニーがミュージアムショップの紙袋からおみやげを取り出してテーブルに並べるのを目撃すると、スティーブの眉根がさらに寄った。
キャプテンアメリカ展限定チョコレート。限定マシュマロ。キャプテンアメリカスーツ姿のテディベア(かわいい)。星条旗の盾のロゴ入り宇宙食。
「…宇宙食は僕に関係ないだろう…」
「気にするな。NASAの協賛さ」
唸り声を洩らすスティーブの背後でコーヒーメーカーが作動音を立て始める。
確かに――現実のキャプテンアメリカはさすがに宇宙には行っていない。彼が北極海で消息を絶ったのは第二次世界大戦中の一九四三年。一九六九年にアポロ十一号でニール・アームストロングが月面に降り立つより四半世紀も前だ。
けれどそんなことはどうでもいいのだろう。
伝説の英雄キャプテンアメリカはいつの時代も人々の想像力のなかで神話化され、コミックやノベルを舞台に、月面着陸しエイリアンと戦い、銀河を超えて壮大なスペースオデッセイを旅している。
「それで感想は?トニー」
コーヒーの香りが漂い始める。
そういえば限定ロゴ入りペアマグカップも買ったのだった。ちょうど良いとばかりに並べてみせると、スティーブがまたいやな顔をした。
「興味深かったよ。ミュージアムショップでオリジナルフィギュアセットを買った」
紙袋の容量の大半を占めていたものを取り出す。これはおもちゃを積み上げた塔に群がる子供たちに遠慮しいしい、大人が物理的に背伸びしてゲットした人気商品だ。
軍用ジープを模した紙箱を開くと、プラスティックケースのなかに、大きさ一〇センチほどの樹脂製の人形が二〇体セットされている。
星条旗のスーツのキャプテンアメリカ。軍服の上官フィリップ大佐、瞳麗しきペギー・カーター。ハウリングコマンドーズにはもちろんバッキー・バーンズもいるが際立って美男の造型なのが癪に障る。それから宿敵のレッドスカル、バロンとヘルムート・ジーモ親子。ヒドラ戦闘員部隊。一般市民とおぼしき女の子と男の子もいた。
「これでいつでもヒーロー大決戦ごっこで遊べる」
「…勘弁してくれトニー」
右腕に盾を構えた勇壮なキャプテンアメリカをテーブルのガラス面に立たせてみた。それから彼の後ろに忠実なハウリングコマンドーズを。
はるか彼方ではレッドスカルがマントをたなびかせて仁王立ちしている。
「実は昔子どもの頃に持ってたんだ。塩ビのキャプテンアメリカ人形」
ヒドラ軍団の隊列を塩梅しながらトニーが打ち明けた。
「子供部屋のヒーローさ。随分遊んだよ」
塩化ビニールでできたキャプテンアメリカは翼をあしらったヘルメットをかぶり、やはり同じような勇ましいポーズで盾を構えていた。顔はアルカイックでもっとごつかった。
幼いトニーはそのキャプテンアメリカ人形で無数の宇宙怪獣を倒し、数え切れないほど何度も世界を救ったのだ。
「でもいつの間にかどこかへ行ってしまって」
「……」
「これは往時とはデザインも材質も違うけどね。また買い直せてよかった」
キャプテンは黙って聞いていた。
幼かった頃と同じように。トニーが目線を低く見渡せばテーブルがバトルフィールドになる。
そしてコーヒーの香り漂う暗い地平線の彼方から。真っ黒なヒドラ軍団が恐ろしい姿を現すのだ。
この際マシュマロやチョコレートはつい先刻まで平和だった街並みの家々である。突如現れたヒドラ軍団がレーザーガンを撃ちまくると、街の住民は慌てふためいて逃げ出した。
「たすけてー」
と甲高い声。
敵が攻めてくる。トニーはマグカップを動かして保塁を築き、男の子と女の子を隠れさせた。二人は物陰から果敢に応戦する。しかし多勢に無勢だ。
レッドスカルは刻一刻と迫ってくる。スカルが腕をハイルヒドラ風に一振りして合図を送れば機銃掃射でマグカップは蜂の巣だ。少年少女の命は風前の灯だった。
「たすけてキャプテンアメリカー」
救いを求める声は届くのだろうか。
…ミュージアムショップを出た後、トニーは展覧会の最後に、出口付近の壁の前で立ち止まった。
壁一面を覆う黒いパネルに『キャプテンアメリカ~よみがえる伝説の英雄~』展の協賛とスポンサーが名を連ねている。リストにして数十行分に及ぶ文字列を上から下まで目を動かして読んだ。
国防総省、国家安全保障局、国防情報局、国土安全保安省。司法省、メディア各局、主要企業各社。
『私たちはキャプテンアメリカ展を応援しています』
誇らしげな文字とロゴマークが果てしなく続く隊列はそれだけで充分威圧的だった。
――国家あげての一大プロジェクトってか?
トニーはひとり目を細めた。
腕組みをしたままじっと動かないトニーのすぐそばを、ミュージアムショップでおもちゃを買い与えられた子どもたちが興奮ぎみに走り抜けていった。はるか昔に一度死んだはずの英雄の人形を抱えて。
組織名を目で追っていると幾人か知った人間の顔も思い浮かんだ。軍隊のお歴々、世論操作に長けた報道記者、スパイに半分以上足を突っ込んでいる官僚たち。だが彼らの顔はすぐに闇に飲み込まれて輪郭を失い、不気味にうごめくのっぺらぼうの黒い波になった。
禍々しいエネルギーを振りまく見えない黒い波を、押し返すようにトニーはじっと見つめる。
――現代によみがえった英雄の奇蹟を利用して、こいつらは今度はどんな神話をぶち上げようと企んでるんだ?
別に正義漢をきどってキャプテンアメリカのメディア消費を批判したいわけじゃない。同僚に対してそんな義理もない。ただ黒地に白く浮かび上がる不気味な文字列が、皮膚の表面を撫でるように不快に感じられた。
「やめろ、レッドスカル。トニー坊やを傷つけるな」
ぎょっとして顔をあげると、すぐそこに灰色のTシャツを着た腕があった。距離は三〇センチと離れていない。がっしりした肩の向こうに彼がいた。ヒーローの顔、ヒーローの声をした男が。
トニーは茫然と口を開けた。何事が起きているのか判断できなかった。
キャプテンアメリカが腕を伸ばして、彼に似せて作られた人形をつかんで持ち上げる。それから盾と足を使ってレッドスカルとヒドラ軍団を一挙に倒した。
一瞬の出来事だった、と思う。トニーが思わず言葉を失っていたのは。我に返るとヒーローがこっちを見て目を丸くしていた。
「なんて顔してるんだ、トニー」
それでやっと口をぱくぱくさせて、凝固した間抜け面をさらしていたことに気づいた次第だ。
「そういうごっこ遊びなんじゃないのか」
「いや…まさかあんたが乗ってくれるとは思わなくて…」
かすれた声をかろうじて絞り出す。あまりの驚きに反応を返すのもやっとだった。
トニー、悪ふざけはよせ、と。てっきり不機嫌な声に叱られるものと予期していたのだ。だが頭上から降ってきた一声は違った。全然違った。
「トニー坊やを助けなきゃな」
ヒロイックな微笑みを見せているなんて。
キャプテンアメリカが昔よりずいぶん造型の良くなった自分の人形を掌の中でひっくり返した。ヒーロースーツが、背中のバックストラップまで精巧に再現されていることに感心している。
それから黄色い服の男の子が隠れているマグカップの近くに自分を置いた。
「それ?が?僕なのか?」
トニーの返答はほとんど命からがらの喘ぎだった。今初めて呼吸を継げた気がする。スティーブが短く笑い声を洩らした。
「だって勇敢に戦ってたじゃないか」
「ハワードが居ただろ」
スミソニアン博物館に。スティーブが呟いた。
ああ、とトニーは心ここにあらず頷く。
「…フィルムに映ってた」
それでようやく落ち着いて思い出せた。粒子の荒いモノクロの記録映像に映っていた父ハワード・スターク。彼がいたのは突貫工事でこしらえた基地の研究室だったり、異国の山中を進んでいくジープの荷台だったりした。
トニーは息を深く吸う。
時間の流れの向こう岸にいる父は若く、戦地でも洒落た身なりをして口ひげを整えていた。白いシャツにツイードのベスト、幅の狭い伊達者のネクタイ。シャツは時を経たモノクロフィルムの中でもはっとするような白さだった。そのシャツの袖を、型崩れも構わず折り返してまくり上げているのがいかにもやんちゃな少年じみていた。
設計図を広げて隣のキャプテンアメリカを覗き込んでいる。スティーブ、スティーブ、と父もその名を呼んだのか。音のないはずのサイレントの映像から快活に弾ける笑い声が聞こえてきそうだった。
若い日の父と若い英雄。
スティーブの唇の端に微笑みが滲む。
その柔らかな笑みを、トニーは目に吸い込ませるように見つめ、それから呟いた。
「若かった。今が青春って顔をしてたよ」
(end)