『MAVでなくても手は取れる』第5話『コンニチハオイソギデスカ』「もう自分でも気づいてそうだけど、君はある種の才能を持っているんだ」
クランバトルから戻ってきた翌日の夕方。台詞の内容とは裏腹に、表面の焦げたケーキをつつきながら切り出したエグザベは物憂げに言葉を並べていた。この話をするのに乗り気ではないのだろう。次の言葉に迷っているようだったから、スバルは助け舟を出すことにした。
「ジオンに来いと?」
「そうだ、よくわかったな。……僕がソドンに戻れて、君の記憶が戻らなくて……というか行くあてがなくて、そして中佐が許せばだけど」
前提の多さに思わず笑ってしまう。きっと彼にとっては遠い先のことなのだろう。自分としてはどうだろうか。おそらくかつてもそうしていたように、二手先三手先を読んで考える。ジオンに潜り込むというのは、復讐の事を考えるとそう悪い手段ではないように思う。戦争が終わった今は軍人よりもエンジニアなどの肩書きを得たほうがいいのかもしれないが、どちらにせよ協力的な伝手があるというのは都合がいい。
「考えておこう。それで、なぜ今その話を?状況が変わったか?」
「ああ。ここにもあまり長居はできない」
聞けば、通っていた工事現場近辺でも自分たちを探している者が現れたらしい。ジオンだろうが軍警だろうがややこしい事に関わり合いになりたくないからと遠回しに言われ、そそくさと戻ってきたのだという。つまるところ自分たちの死亡説は撤回されたという事だ。こういう展開もあろうかと『レッド・コメット』の名をエグザベに押し付けた訳だが、思ったより速い。元々死んでいるとは信じていなかったか。
「ならばこのケーキは餞別か」
「ああ。世話になったし、クランバトルの賞金も貰っているから。あいつみたいには綺麗に焼けなかったけど」
聞けば、同期と一緒に何度か焼いたケーキなのだという。なるべく綺麗に焼けたものを世話になった難民に配って、少し焦げた部分を食べているのがエグザベとスバルという訳だ。多少焦げたその素朴な味もその振る舞いも、彼らしくて好ましいなと思った。それこそ『レッド・コメット』という名の誘蛾灯として今なお利用することが少しばかり心苦しくなるくらいには。それでも、スバル──秘したフルネームをキャスバル・レム・ダイクン──は、自分を信用しているらしい他者を躊躇なく利用することが出来てしまえた。
「潜み隠れる日々を終えるなら、むしろ打って出るべきだとは思わんかね」
怪訝そうな顔をするエグザベに思い起こさせる。そもそも彼がイズマの街を駆けまわっていた目的は喪失したモビルスーツの捜索であり、そしてなぜイズマに来たのかと言えば赤いガンダムの捜索だ。そして、今の自分たちは軍人の身では絶対に足を踏み入れる事の出来ない場所に身を置いている。これまでは匿ってくれた人々の事を考えるならあまり危ない事は出来なかったが、今となってはその足枷も消えつつあるわけだ。
「もともとの私は、このような好機をみすみす逃すような男ではなかったと思う。君はどうだ」
目元を隠すべく下ろした髪の向こうから、少しだけ挑発的に見上げてみる。机の上で、彼の手がぎゅっと握られたのが見えた。覚悟を決めた眼をしている。過去の自分も、様々な人間を焚きつけてはこういう眼をさせて来たのだろうかという思いが不意に去来する。そうして利用してきたのだろうかと。
ダイクンの遺児は目的のために他人を使い潰せるし、そうしてきたように思う。スバルには、他人を使い潰すだけの目的がない。そして、そうしたくないという情を自覚できる程度には、時の向こうでさまざまな光景を見てしまっていた。記憶がないというのは嘘ではないが、完全に正確な表現でもない。あらゆるものを見すぎたせいでどれが自分なのかわからないというのが正直なところだった。
ただ一つ確かなもの、記憶の中の暖かな声が「キャスバル」と呼ぶ。かつての自分は、彼のことも利用したのだろうか。自分が彼に何をしたのか、彼が自分に何をしたのかは思い出せない。数多ある可能性のどれをしたのか、というべきか。
それでも、今のスバルは、あの声を裏切りたくないという感情だけを自分のものとして抱いていた。
***
「コンニチハ、オイソギデスカ」
「別に急いではいませんよ」
エグザベは一人、口元を隠した格好で暗い路地を歩き回っていた。軍人として歩き回っていた時には散々殴られたり蹴られたりしたこの通りは、追われている身分の運び屋としてなら案外溶け込めるものだ。今ならわかる。この場所は、後ろ暗いものに対しては少しだけ温かい。そして今の自分は後ろ暗さがとうに染みついた身分だという事でもあった。
受け取って、運んで、金と交換する。受け取って、運んで、金と交換。やることは実に単純だ。インストーラデバイスを運ぶこともあったし、違法な薬物やそのほか何かわからないものを運ばされることもあった。エグザべはその中で、インストーラデバイスのみを記憶に意識してとどめる。一介の運び屋はそれがどこから供給されるのかはわからないが、どんなところに運ばれるのかは知ることが出来る。それは即ち、未登録の戦闘用MSがどこに隠されているかという情報に等しい。
そうやって顔を伏せて耳をそばだてながら歩き回っているうちに、エグザべは自分だけではなくスバルも捜索対象にされている事を知った。金髪碧眼の人相書きに名前は記されていなかったが、間違いなく彼らは『被検体アルファ』を探しているのだろう。そしてその逃走に手を貸したのがジオンの軍人であるエグザベ・オリベである事も、彼らは既に掴んでいる。あの施設の彼らは、被検体アルファと自分が生きているという確信を得たようだった。
運び屋の顔など、誰も見ない。お互い関わり合いにならないほうがいいからだ。だから、逆にここは彼にとって安全だった。あの難民たちの隠れ場所にはもう戻れない。自分の足元がどんどんと沈んでいくような感覚に襲われて、エグザべはふと天を仰いだ。
頭上のソドンが、おそろしく遠い。
***
「君も偽名を名乗ったほうがいいかもしれないな。今思いついたがシロウズってのはどうだ」
「絶対嫌だ。後でややこしいことになる予感しかしない」
「勘か?」
「そうだよ」
使われなくなったエアロックに身を潜めて、スバルとエグザベは情報を交換していた。彼は彼で、エグザべのいた工事現場のあたりを探っていたのだ。現場のほうでエグザべを追っていたのは残念ながらジオンの手の者ではなかった。そうであれば話が早かったのだが、うまくはいかないものだ。
状況が変わってもスバルは何も調子を変えなかった。相変わらず悠々としていて大胆で、それが今のエグザベには有難い。こちらからも今日得た情報を共有しておくと、彼は表情を変えずに「奪えるMSの候補が増えたな」と答えた。
「一応聞くけど、冗談で言ってるんだよな?」
「もちろん。今のところはな」
強奪したMSでソドンに向かって飛ぶという『最終手段』すら、ある程度の現実味をもって横たわっている。地下で身を寄せ合って眠りながらも、気は休まらなかった。
***
翌日もエグザベは一人で身を潜めてビルの隙間を歩いていた。安全のためにスバルと行動を共にすることも考えなかったわけではないのだが、アセットと連絡が取れるかもしれないという可能性がある以上、なるべくなら一人でいたほうがいいのも確かだ。結局のところこの身分は隠し事が絶えない。
ふと、ここはスバルと出会ったあの交差点の近くだな、と思い出した。懐かしさと、遠くまで来てしまったというそら恐ろしさと、そして一抹の嫌な予感。指定された受け渡し場所は古ぼけたビルの4階だ。エグザべは図らずも最初に調べるつもりでいたビルの内部に入り込む大義名分を得たという事になる。スバルなら、きっと意気揚々と入っていくのだろう。それでもエグザベの足は重かった。ここに踏み込めば何か決定的に変わってしまうのではないかという直感、そして肌をひりつかせるような危機感。
エグザベ・オリベは己の勘を妄信するタイプではない。結論らしきものだけ閃いたところで、それを判断の理由にすることもない。
そもそも状況は既に著しく悪い。今いる拠点だっていつ見つけ出されるかもわからないのだ。だから、エグザべは最大の警戒を行いながら、そのビルへと踏み込んだ。こんな時、スバルがいてくれたらと思いながら。
「……コンニチハ、オイソギデスカ」
かつかつと、自分の足音だけが暗いビルに響く。閉ざされた4階の扉の前で合言葉を呟けば、静かに扉が開かれた。
その先に足を踏み入れた瞬間、四方八方から視線が突き刺さる。敵意や殺意ではないように思うが、探られていることは間違いない。それでもすぐに事を仕掛けてくるつもりではなさそうだと判断して、エグザべはさらに進む。どのみちここで逃げ帰るという選択肢は彼に存在しない。
一歩。二歩。
背後の扉が十分遠くなった時、一気に背後の気配が動いた。反射的に身を翻して駆け出す。掴みかかろうと伸ばされた腕を躱して、搔い潜って、走って。その目と鼻の先で重い扉が音を立てて閉ざされた。足を止めたエグザベの身体を、いくつもの腕が掴んで冷たい床に押し倒す。抵抗を試みる間もなく、濡れた布が口元を塞いだ。染みこんでいた薬品の匂いが鼻をついて、視界がぐるりと回って体から力が抜けていく。
意識が暗転する直前に思ったのは、「やっぱり一人で来てよかったな」だった。少なくとも、スバルは巻き込まずに済んだから。
***
ソドンの一角、シャリア中佐の私室。そこで先日の『レッドコメット』達に関する裏ルートの情報を報告をコモリから一通り聞いた中佐は唐突に切り出した。
「コモリ少尉。下に用が出来たのですが、良ければ付き合って貰えますか」
「……良ければ?」
コモリは怪訝そうに問い返す。上官としての命令ではないのか。
「ええ。あなたには選択肢があります。ここで何も聞かずに引き返すか、下までついてきて私の監視を続けるか。……まあ、しばらくの間はあなたもまた私に監視される事になりますが。機密があるのでね」
「……どうして私にその選択肢を?日頃なら、何も言わずに行くでしょうに」
「あなたは最初から、真っ先にエグザベ少尉の身を案じていましたから」
数秒かけて、天秤にかける。監視されるという事は、誰にも連絡を取れなくなるという事だ。それを呑んで近くに居続けるかどうか。決断にはさほど時間は要らなかった。
「ご一緒しましょう。それで、何をするのか話を聞かせて貰えますか」
「彼を迎えに行きます。あの『レッドコメット』がエグザベ少尉である事には、あなたも気づいていたのでしょう?」
「……そんな気はしていましたが、しかしどうして彼が」
赤い彗星を騙るバカはこれまでにも沢山いて、その動機なぞコモリは興味を持っていなかった。だが自分の同僚となれば話は別だ。功名心に駆られるタイプでもなしに、行方不明になった今どうしてそんなことをするというのだ?
「そうすれば私が目に留めると思ったのでしょう。私としては、別に彼自身の名前で出場しても見たのですがねえ」
「それはそれで軍警が気づくんじゃないですか、一度逮捕した名前なんだし。……あれ、じゃあ、もう片方の赤い彗星は?」
「そう、それが問題でした。あれはおそらくサイコミュ搭載機で、あの機体に意識を向ける者の感応を検知しようとしていたのでしょう。そして、おそらく彼の狙いは私にあり、だからあの名前でクランバトルに出た。全く、揃いも揃って私を何だと思っているのか」
「赤い彗星のMAVでは?」
思いつきそうになったものを全て頭の外に追い出して、コモリは一番当たり障りのない答えを返す。中佐はちょっとだけまんざらでもなさそうにしていた。面倒な男だなあという感想を抱きそうになったのでこれも頭から追い出して、別の事を考える。そうか、あのクランバトルを見て目を逸らしたいような顔をしていたのはそういう理由だったのか。
……いや、ちょっと待った。中佐にあのクランバトルを見せたのは私じゃないか。そして自分がそれを知ったのは、情報の裏ルートのうちの一つが自分に対して「赤い彗星が出るらしいぞ」と雑談のように話を振ってきていたからだ。灰色の幽霊はどんな顔をするかな、と言っていた。まさか、何かの計画に自分は使われたのか? 中佐はそれを知って自分にこの話をしている? いや、でも機密は何も晒していない。単にクランバトルを見せただけで何か起きるなんてニュータイプ懐疑派としては思うはずもない。
「そういう訳で、私も動向が見張られている可能性がありましてね。しばらくは
彼が動きやすいように死亡説の補強をするに留めていたのですが、少々事情が変わりました。もう大人しくしている必要はないということです」
「あ……私は……」
「ええ、解っています。そちらの対処も概ね済んだので」
その情報を自分に流した者とは、もう連絡がついていない。この上官がそれをやったのか。そして彼は今、ソドンから自分を連れ出そうとしている。
「基本的に軍服でいてもらうつもりですが、私服の準備もしておいてください。君はまだ顔がさほど割れていませんからね」
「はい。……あの、中佐」
「何でしょう、少尉」
「あの、エグザベ君と組んでいた『グレイ・ファントム』が何者か、見当はついているのですか?」
振り返った中佐はわずかに微笑んでいた。今にも壊れそうな、あるいは泣きだしそうな、どうしようもなく儚い笑い方。
「どうでしょうね。本当にいなくなったはずの幽霊だったのかもしれません」
コモリは今度こそ何も言えず、中佐に付き従うしかなかった。
***
頬に走る衝撃によってエグザベは目を覚ました。首を振って、ぼんやりとした意識をはっきりさせようと試みる。どれほど眠っていたのだろうか。まだ薬の影響が残っているらしく、重力が増えた時みたいに頭が重い。どうにか顔を上げれば自分はパイプ椅子に縛り付けられていて、何人もの人間に取り囲まれていることがわかった。その中には研究者らしいのもいれば用心棒らしいのもいた。暗い部屋に窓はなく、自分がどこにいて今がコロニーの何時にあたるのかはよくわからない。取調室に似た印象を受けたが、これが公式の取調室などでははない事をエグザベは知っている。なんせ、少し前に本物で取り調べを受けているので。じゃあここはどこなんだろうと考えていると、一人が口を開いた。
「お前が赤い彗星だな?」
「違うが!?!?」
いくらなんでも濡れ衣が過ぎる。仮面をつけているとはいえ髪色も年齢も一致しないじゃないか。
「いや、戦争の英雄のほうじゃない。だが先日のクランバトルでその名を使ったのはお前だろう」
「……何のことだか」
露骨に勢いを落とした返答に、問いかけた男は鼻で笑った。
「しらを切るのが下手だな。まあいい、お前が被検体アルファの逃亡に手を貸しているのはわかっているんだ。あいつはどこにいる?」
「……」
黙っていると椅子を蹴られた。次は自分の身体だろう。黙りつづけて何とかなる相手ではない。少し考え、エグザベは口を開く。
「彼なら今頃ソドンにいる筈だよ」
「何だと?」
彼らの間に動揺が走る。なるべく余裕に見えるように、エグザベは口の端を持ち上げて答える。レッド・コメットの名を使う時に、借りられる威は借りておけとスバルは言っていた。自分を振り回してばかりのあの上官の威を借りるなら今だ。
「僕が何もせずにここに来たと思っているのか? 彼を保護してもらってから僕はここに潜入したんだ。そちらだって、ジオンを相手にするのはきついんじゃないのか」
「戯言を。ソドンはお前が死んだものとして動いているのは確認済みだ。お前がここで──」
爆音が轟いて、その先は聞こえなかった。下のほうから悲鳴と怒号が響いてきてそれどころではなかったともいえるだろう。切れ切れに、「閃光弾」だの「赤いザク」だのといった不穏な言葉が叫ばれている。
「まさか。レッド・コメットはここにいるんだぞ」
誰かが、低く呟いた。全員が不気味そうに視線をエグザベに向ける。
何一つ事情を知らないエグザベ・オリベはその渦中にあってただ余裕そうな笑みを浮かべるしかない。「虚勢でも張り続ければ他者は信じる」というスバルの言葉こそがエグザベの信じるものだった。
何人かの研究者は、その笑みの向こうにあの飄々とした『灰色の幽霊』の面影を見ていた。それもまた、エグザベの知らない事のうちの一つであった。