なんと、人には腕が二つもあるコモリ・ハーコートは激怒した。必ずかの赤い彗星を上官の寝床から除かねばならぬと決意した。コモリには政治が(同僚のエグザベに比べれば)わかる。飄々とした上官が世を渡っていくその背中を見ながら過ごしてきた。けれども、いかなる駆け引きを持ち掛けられたとしても、病床にある敬愛すべき上官に言い寄る男を看過することは出来なかった。そもそも、体調が悪いという上官を見舞いに行ったらこのよくわからない金髪の男まで隣で寝込んでいたという時点でコモリには理解しがたいのだ。なぜ病人が増えているんだ。風邪を伝染させてしまったと中佐は言っていたが、どうしてそうなったのかは二人とも口を閉ざしていた。中佐の秘密主義はいまに始まったことではないが、それにしたって、である。
「病室の中に病人がふたり。ベッドに入れて叩いたらさらに増えでもするんですかね」
ビスケットじゃないんだから、という応酬を予期しながら叩いた軽口は、中佐の小さな呻き声によって遮られた。見ればもともと上気していた顔はさらに赤くなって、「あまりそういうことは」「さすがに同じベッドはちょっと」とか何とかもごもごと呟いている。いつもの涼やかな表情はどこへやら、どうしようもなく視線がうろうろと彷徨っていて、「うげ」と思わず声を漏らしてしまったのはコモリだけの失態ではないはずだ。だというのに、隣で聞いていたエグザベくんには「それはセクシャルハラスメントってやつなんじゃないか」などと言われてしまう始末である。同じベッドどうこうは中佐の言い出したことなのに。
「ちょっと、どこがハラスメントだって言うの!」
「ふむ、そうだな、同じベッドに入れて人数が増えるというのは繁殖を連想させて」
コモリの抗議に応えたのはエグザベではなかった。横からひょいと顔を出した金髪の男─中佐の態度からしてどう考えても赤い彗星であるが、とりあえず本人の希望に従って見え透いた偽名ことシロウズと呼んでおく──が口を挟んできたのである。最悪のマナー講師をやめろ。というかそれはあんたのほうがハラスメントだろ。というか病人はおとなしく黙って寝ていろ。どれを言うべきか迷った結果、コモリは無言でシロウズをジトリと睨みつけた。だいたい意図は伝わったらしく、彼は無言で肩をすくめる。こういう時、ニュータイプとかいうのは便利だ。
ともかく、こいつらを同じ部屋に置いておくわけにはいかなかった。どこか熱で輪郭の蕩けたような声でぽつぽつと交わされるやり取りなんぞ聞かされ続けた日にはこちら側が平熱でいられなくなる。熱を帯びたどこか柔らかな眼差しなんぞ、自分の上司が向けているのも向けられているのもあまり見たくはない光景だった。とはいえここで二人きりにしてしまえば何が起きるかわかったものではない。だから言いくるめて連中を隔離したのだが、その判断がどこまで正しかったのかコモリは今なおちょっと判断をつけかねている。
なんせ、口を開けば互いの心配をしているのだ。寝込んでいるとはいえ成人男性だ、水分と栄養分の差し入れをしたら充分であろうと思っていたのだ。それでも、「彼が寂しがらないだろうか」なんて、ぼんやりとした口調で呟いているのを聞いてしまえば、そのまま暗い部屋に放置もしづらくなろうというものだ。自分自身も相当に苦しかろうに。
「寂しがるって言ったってね。5年も放置しておいた人が言うことじゃないですよ」
隔離した隣の部屋で至極まっとうな事を迷いなく言い放つエグザベくんに、シロウズが「ぐ」と怯む声。彼を監視につけておいたのは正解だった。頑張れ、と内心で応援しながらコモリは壁越しに耳をそばだてる。
「それを言われると手痛いな。……だが、だからこそでもあるんだ」
「だからこそ?」
「ああ。自分の存在を夢として処理されそうになってね。それが嫌だったから手を握ったら、なんとも嬉しそうな顔をしていたんだ……だから、その、なんだ。今更だが、放っておきたくないと思った。これ以上寂しくなってほしくないと。愚かしい男だと君は思うかね」
「いや……そんなことは……」
マズい。エグザベくんがほだされかけている気がする。赤い彗星の人心掌握スキルをちょっと舐めていたかもしれない。あまりにも厄介。中佐に気を揉ませ続けるだけのことはある。何なら目の前の中佐もちょっと身を起しかけていることだし。
「なんかあんなこと言ってますけど。握ってほしいとかあるんですか?」
なかば牽制を込めて声に出したコモリの質問に、中佐は苦笑しながら首を横に振った。そりゃそうだろう。この上司は赤い彗星のことになるとこちらが驚くほどの強情さを見せる事がある。それが「寂しいから手を握ってほしい」なんていう訳がないのだ。部下の前なら猶更の事。部屋の向こうに聞こえるように、「違いましたかぁ」と返事する。
「はい。……まあ、熱も出てることですし、大佐がそうされたいって言うのなら、頂いたものを返すのも悪くはないかと思いますが」
「ウワァめんどくさっ(ははっ、素直じゃないですね)」
「少尉。逆です」
「どうせ両方わかるんだからいいじゃないですか」
嫌な予感がして、コモリは適当に返事をしながら壁の向こうの気配を探る。向こうは静まり返っていた。まずい。内心で「ゴメン」と念じてからコモリは明るく声をはりあげた。
「ま、まあ大佐の心配はいらないですよ! 必要ならエグザベくんが大佐の手を握ってくれますって!」
「んー……まあエグザベ少尉なら良しとしましょう」
「なら」って何だよと思う間もなく、壁の向こうから「コモリ!?」という抗議の声と「それでは彼はどうなるんだ」という声。面倒になったコモリはもう壁越しに直接返事することにした。
「必要があったら中佐の手もエグザベ君が握ってくれますよ! ほら、彼の手は二つあるから」
「……ならいいか」
「よくないですよ! ちょっとコモリ!!」
抗議の声が上がっているが、黙殺している。あんたが軽々しくほだされかけるのがいけないのである。
同僚に差し出されてなお、エグザベは激怒できなかった。彼は人がよく、そして政治ができない。